All photos by Chishima,J.
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ゼニガタアザラシのメス成獣 以下すべて 2006年7月 北海道東部)
「グオー、ガアー、ゴルルル!」。7月下旬の午前7時、北海道東部の無人島にあるゼニガタアザラシ上陸場の上には、アザラシ達の喧騒が伝わってくるものの、乳白色の濃霧のベールに包まれた崖下を見ることはできない。同10時、漸く沖に去り始めた霧の中から、アザラシの集団が徐々に輪郭を見せてきた。いるいる、総勢70頭ほどが所狭しとひしめき合っている。文頭の咆哮は、集団で上陸しながらも互いの体が触れることを嫌う彼らの、小喧嘩である。
ゼニガタアザラシの上陸場
下側の岩礁と中央部の岩棚に上陸している。
年に一度の換毛の時期を迎えた今、この場所では一年で一番沢山のアザラシが上陸場に姿を現す。見れば既に換毛をほぼ終了して銀黒色の新毛に白い穴あき銭模様が鮮やかな個体から、まだ換毛が始まっておらず一年間岩場で磨り減って茶色く褪色した毛色の個体まで様々だ。一般に換毛は若い個体ほど、またメスほど早い傾向があるので、褪色した汚い毛色の個体には大型のオス成獣が多い。
換毛中のゼニガタアザラシ
全身が移っている3頭のうち、手前はほぼ換毛済みで黒く、中央が未換毛のため茶色い。奥は換毛中で、褐色の旧毛と黒色の新毛が混在している。
換毛期の上陸場は、繁殖期にくらべて華が無い。親子の微笑ましい成長やオス間の激しい喧嘩といったドラマが無いからだろう。あるのは伸びや欠伸、たまに新しい個体が現れたり、隣同士が触れた時の小競り合い、それに波打ち際の個体が波の来襲に合わせて体を反らすくらいのものである。
換毛期の上陸集団(ゼニガタアザラシ)
右手前のメスが伸びをしている以外、ほとんど動きが無い。
上陸の瞬間(ゼニガタアザラシ)
干潮時は岩が高くなっているため、波に乗じて勢いをつけて上がってくる。
この島に通い始めた頃、繁殖期には10~20頭程度(当時)のアザラシしかいないのに、換毛期になると40~50頭(当時)まで増えるのを不思議に思ったものだ。他の地域の研究では、換毛期に数が増えるのは、毛替わりのため各個体の上陸頻度が高くなり、一同に帰すからだと説明されていた。どこか腑に落ちないものを感じた。幸い、ゼニガタアザラシは個体ごとに一生変わらない特徴的な斑紋を持っており、それを用いて個体識別が可能である。50頭程度の集団ならそう労せずとも識別・追跡できるだろう。彼らとの10年以上にわたる付き合いが始まった。勿論、その時はそんな長い付き合いになるとは思ってもみなかった。
シンメトリー?(ゼニガタアザラシ)
このように斑紋の配列や密度には個体差が大きいため、個体識別が可能となる。1970年代に新妻昭夫氏の編み出した名手法。
簡単に追跡できるだろうというのは、まったくの誤算だった。写真を撮って個体を台帳に登録する作業が一向に終わらないのである。確かに毎年出現する個体も何十頭かはいる。しかし、その倍以上の個体が短期間だけ現れたり、何年か経って忘れた頃にふらっと現れたりする個体が後を絶たないのだ。また、毎年出現する個体も7割以上が繁殖期には出現せず、繁殖期が終わるとどこからともなく姿を現すことがわかった。さらに齢クラスや性比といった集団の構成を調べることによって、この島では繁殖期の後に上陸する成獣の7割近くがメスであることも明らかになった。すなわち、繁殖期が終わった後にメスの成獣が大挙して押し寄せ、その中には一時的にしか姿を現さない個体も多いというのが、この島のゼニガタアザラシの特徴である。
メス成獣の卓越する集団(ゼニガタアザラシ)
写真中も、左上に下半身の写っている未換毛のオス成獣を除くとメス成獣か、その可能性の高い個体。
これは不可解なことだった。ゼニガタアザラシのメス成獣の妊娠率は高く、6歳以上では90%を超える。多少の流産等はあるにしても、これだけの数のメス成獣がどこかで繁殖していなければおかしい。早速、北海道内の隣接した上陸場の繁殖メスを同様の手法で調べた。しかし、繁殖期後にこの島にやって来るメスの繁殖例は皆無だった。
メス成獣(ゼニガタアザラシ)
手前の個体は、10年以上観察されているにも関わらず、この場所での繁殖は未確認。
解釈に行き詰っていた頃、調査で南千島を訪れる機会があった。いわゆる北方領土である。ロシア側の調査で2000頭ものゼニガタが生息することは聞き知っていたが、実際に自分の目で見る大量のアザラシは新鮮だった。地図を見ると、私のフィールドからは数十~100km程度と目と鼻の先にあることに、改めて気が付いた。すべては繋がった。南千島で繁殖したアザラシたちが、繁殖期の後に道東までやってくるのではないだろうか。繁殖期に南千島にいる理由は、おそらく人間による撹乱がほとんど無いため安心して子育てできるからだろう。しかし、繁殖が終わり食事や休息に精を出そうとしても、あまりに過密であると同種または近縁種(生態的地位の近いゴマフアザラシやトドも、南千島には生息している)との競合が生じ、その結果一部の個体は回遊もしくは分散という形で道東にやってくるのではなかろうか。
仮説としては魅力的だが、そこまでであった。現在、日本人が南千島で自由な調査活動を行なうことは、政治的な事情により困難だからである。昨年の札幌での国際哺乳類学会で、上記の内容をまとめた私のポスター発表を熱心に読んでくれたカナダ人の鰭脚類研究者が最後に言った、「南千島で同じ研究ができれば、君の研究は完璧なものになる」の一言が忘れがたい。私が「そうしたいのはやまやまだが、政治的な理由で日本人には困難だ」と言うと、その辺の事情は知っているらしく、「そうだったね」と苦笑していた。
しかし、ただ手をこまねいているのは癪である。できることから取り組むしかない。20~30km離れた、道内の隣接した地域との移動・交流を調べだしたところ、思いのほか手応えがあった。しかも、2地域間で確認された移動の大部分は、私がフィールドとしている無人島へ、繁殖期の後に姿を現すメスの成獣が、秋から早春にかけて隣接地域に出現したものである。想像を逞しくすると、繁殖期に南千島にいたメスが、その後道東沿岸にやってきて秋から早春にかけて更に広範囲に分散してゆく様が目に浮かんでくる。秋から早春にかけての、隣接地域の上陸場での個体数変動も、その時期の増加を示唆している。
メス成獣パート2(ゼニガタアザラシ)
本個体は、隣接地域との季節的な移動が確認されている。
こうなると、単に南千島と道東の無人島の往復ということではなく、アザラシたちに代々使われている海の中の道みたいなものがあって、そのルート上に道東各地の上陸場が点在しているように思えてならない。その道を伝って、毎年多数のゼニガタが道東にやって来る。その一部はこちらに定着して個体群を補うかもしれないし、別の一部は繁殖期だけは南千島に帰るかもしれないし、また別のものは一回きりの旅行なのかもしれない。
そんなことを考えていた矢先、南千島でロシアが標識した幼獣のゼニガタアザラシが、道東で相次いで確認された。また、遺伝学的な研究からも道東と南千島のゼニガタがきわめて近いことが実証された。古くは80年代に定置網での混獲パターンから南千島―道東の移動が提案されているし、最近では個体群動態の研究結果もそれを示唆している。まさしく様々な状況証拠が「海中の道」の存在を支持していることになる。
排便(ゼニガタアザラシ)
オス成獣の傍らには新鮮なウンコ。換毛中でも採餌はしており、糞中には餌生物の硬質部分が含まれる。
ゼニガタの個体識別は従来、個人ベースで細々と行なわれてきた。しかし、今年関係者間で情報の共有と照合を効率的に行なうことのできるシステムが立ち上がった。いずれは南千島を巻き込んだ「海中の道」の詳細が明らかにできる時が来るかもしれない。それが私の生きている内かどうかは皆目分からないが、その日の来ることを信じて識別用の写真を撮り続けたい。
満潮近し(ゼニガタアザラシ)
こうなったらじき波に流されるか、自発的に海に出てゆくだろう。
(2006年8月10日 千嶋 淳)