昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第三部~ (四百二十一)

2024-04-30 08:00:28 | 物語り

 回復しつつあるかに見える武蔵だったが、まだ危険な状態にあることが、小夜子ではなく五平に伝えられた。
小夜子には耐えられないことだから、と武蔵が医師に頼みこんだのだが、じつのところは外部にもれることを恐れたのだ。
感情の起伏がはげしい小夜子では、どうしても隠しきれないと思ったのだ。
「時期をみてわたしから話します」と、医師に念を押した。
本来ならば家族である小夜子に告げるべきことなのだが、武蔵の社会的立場を考えればやむを得ないことかと、納得した。

それに小夜子には赤児がいる。まだまだ母乳を必要としている。
なにより母親のこころが安定していなければ、赤児にも影響がでかねない。
「手は尽くします、最新のくすりも手配していますし。
希望を持っていきましょう。なんといっても、御手洗さんの精神力が肝心ですから。
病は気から、このことばが本当のことだったと、笑いましょう」
 しっかりと武蔵の手を握って、大きくうなずきながら励ます医師だった。

 当たり前のように木枯らしが吹く11月に入ってのことだった。
武蔵が入院して、ほぼ2ヶ月が経つ。富士商会に対する風当たりも収まり、武蔵の復帰が取り沙汰されはじめた。
取引先から尋ねられる社員たちも、詳しい病状やら退院の予定を聞かされていないこともあり、尾ひれの付いたうわさ話が飛びかいはじめていた。
 武蔵の病状については悲喜こもごもだったが、富士商会の先行きに関して悲観的なムードが漂いはじめた。
そうなると当然のごとくに、売り先の切り崩しがはじまった。
先頭に立った服部の防戦もむなしく、月を追うごとにじり貧になっていた。
おまけセールで資金繰りが悪化しているらしいという噂を仕入れ先に流され、竹田や五平の元に、毎日のように確認の電話が入った。
中には、個人保証を求める声もあり、五平の荒い声が会社中に響きわたることもあった。

 武蔵の入院がながびくにつれ、富士商会内部につめたい風が吹き込むようになってきた。五平の怒鳴り声が毎日のようにひびき、若手社員たちのあいだにすこしずつ不満がたまりはじめた。
武蔵もミスをした社員には容赦なくしかりつけた。
場合によっては手を上げることもあった。しかしかならず付け加えることばがあった。
「罪を犯したから罰せられるんじゃない。己をあざむくからおのれに罰せられるんだ。いいか! 俺が叱っているんじゃない。自分に言い訳をするから、代わりに俺が叱っているんだ。
けどな、これだけは覚えておけ。自分を守るやわらかい鎧をこころにまとえ」

 そのあとに竹田なり服部なり、そして女子社員には徳子がよりそって、
「きょうは自分を責めても、あしたはじぶんを褒めるんだぞ(のよ)」と慰めていた。
 武蔵に言われている。
「叱ったり責めたりばかりじゃ、萎縮してしまう。
おまえたちが、気持ちを解放させてやってくれ」
 しかしいま、もう余裕がない。皆がみな、こころではなくからだに硬い鎧をまといはじめた。
ギスギスした空気が会社内に充満し、からだを縮こませながら眉間にしわをつくりはじめた。

「おはよう! みんな」と、小夜子が顔をだす。とびっきりの笑顔をみせる。
一斉に「おはようございます、姫!」と、返ってくる。
いっきに空気が和らぎ、寒風がおさまり春風が入りこんでくる。
「社長はいかがですか?」
「元気よ。近いうちに、会社に顔をだすかもよ」
と、嬉しいたよりを、とどけてくれる。それが嘘であることは、社員全員が知っている。しかしそれでも、小夜子に対して「待ってまーす!」と声を返した。いまはとにかく辛抱のときだと、みなが互いを叱咤する。そしてその輪の中に、中心に小夜子がいた。



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