Tomotubby’s Travel Blog

Tomotubby と Pet の奇妙な旅 Blog。
でもホントに旅 Blog なんだろうか?

大阪という街

2008-05-31 | Japan 非日常生活 遠征篇
「スピードは"力"だと思う。速くなることで人と触れあう面積がふえる。」
川上未映子(大阪市城東区京橋出身)


大阪人は世界一歩くのが速い。という話は昔よく聞かされましたが、真偽は定かではありません。信号待ちが嫌いなのは間違いないと思います。日本人とドイツ人は赤信号を渡らない。という話もよく聞きますが、大阪人は車が走っていなければすかさず渡ります。信号が青になりかけたら、一秒を待ちきれずに渡り出します。こういうのを大阪では「いらち」といいますが、「いらち」の大阪人は既に日本人ではないのかもしれません。

ムービングウォーク、「動く歩道」があると、大阪人は立ち止まることなく、その上を歩き出します。どちらかというと、いつもより速く歩きたくなります。このような「動く歩道」が日本で初めてお目見えしたのは、1970年の大阪万国博だったらしいですが、大阪人にとっての「動く歩道」はやはり「歩く歩道」で、博覧会会期中には案の定、将棋倒しの大事故が起こっています。合掌。

果たして大阪人の価値基準は何なのか?カネという説がありますが、ホントは時間なのではないか。と思います。時はカネなり。というじゃありませんか。大阪人は待たされたりして無駄な時間を過ごすのがただただイヤなのです。それで、露悪的なまでに、時間を金銭換算して損失額を嘆いたりするのです。

大阪・キタの中心街に、無秩序にはりめぐらされた地下街。あの蟻の巣を思わせる迷路のような複雑構造は他所者泣かせですが、実は地上における信号待ちをできるだけ減らし、雨に濡れずに長距離(例えば堂島から茶屋町まで)を移動したいがために作られた合理性の産物だったのです。ただ当の大阪人ですら地下街の地図を描くことは難しく、合理性の総和は極めて観念的な空想都市のような存在を現出させているのです。それは、大阪がまたアジア都市である所為でしょうか?

詩を書いた

2008-05-29 | Japan 日常生活の冒険
(まだ時間は 5/24日の正午過ぎだったりする) お正月以来の大阪で、さあ、久しぶりに Travel Blog っぽくなるかな。と思ったけど、さにあらず。着いたら大阪は雨でした。いつも思うんですが、雨の大阪は、緑が少ないせいか、東京より都会というか、コンクリージャングー♪に見えます。ひとまず実家に帰って、二階に引篭って詩のようなものを書いてみたりしました。それでもって Blog に載せてみたりするのです。いきなり「携帯詩篇」とか「エウレカセブン」みたいな題名をつけたので、何だこりゃ。と思われたかもしれません。作風は高校時代とさして変わっておらず、まったくもって進歩がないです。(関係ないけど「エウレカ」と「ユリイカ」は同じ言葉だそうです)

携帯詩篇 (M)

2008-05-28 | 夢日記
知っていた
隠し果せない額の広さも
透けた頬の血脈も
肩胛骨のかたさ具合も
すべて知っていたつもり

柔らかい髪が
行き場のない場所に
掻き上げられる
おそらくはもう
母の仕草など忘れてしまったのかもしれない

白いものが乱れる
もう踏み留まらなければ
ならないと思う
知らない国の歴史が
言葉にならない家族愛が
束の間の横暴に干渉する

携帯詩篇 (A)

2008-05-27 | 夢日記
眼を開ければ
七曲りの廊下の先
教室の薄暗がりにも
初夏を感じる一条の光が注ぐ

かろうじてそこには
現実があり
皮膚の上にも
感覚がある

喩えれば

アスパラガスの緑色の似合う女
誇らしい七頭身の巫女よ

臆することなく
時間の束を解き
本質を語れ
本質はどこも変わらない

四方田犬彦「ハイスクール1968」第一章

2008-05-24 | Japan 日常生活の冒険
アサー。今日もいい天気。最近のお気に入り Jason MrazMake It Mine」を聞きながら身支度。これから帰阪します。バッグには、一昨日から読み始めた新潮文庫版の四方田犬彦「ハイスクール1968」を入れて、のぞみの車内で読むつもり。誰にもみんなせつない高校時代があるんだぁ。と当たり前のことを思ったり。四方田さん、池袋でお話を聞いたことがあります。本も10冊くらいは読んでるはず。で、この名前はありえないけどなんとなく本名かもしれない。と思ってましたが、ハズレ。ペンネーム(その由来たるや、四方田丈彦の誤植)でした。本名は谷岡泰男小林剛己って言うんだー。谷岡ヤスジみたい。で、アサー。

本は四方田さんの自伝みたいなものですが、私たちがメディアを通して追体験した、追体験するしかなかったあの熱い時代の、空気というか、疾走感というか、そういうのを感じさせてくれます。

もっと私的なことになりますが、彼が教育大附属駒場高校に入って最初に数学に熱中する下りがあります。自分の場合も十代、大学に入ってからなんですが、数学の、特に微積分学の魔力に憑かれて、珍しくしっかり授業に出てたことを懐かしく思い出してしまいました。偏微分とか重積分とか、実社会で役に立ったことなど一度たりともない。きっぱり。と断言しますが、自分なりには、理学部の授業に入れて貰えてルベグ積分まで習ったりして、現実世界を超えたところにある真理みたいなものをちょこっと垣間見ることができたかも。と思います。今じゃ何にも覚えてないけど。これは四方田さんも同じみたい。理学部の皆様、部外者を優しく迎え入れて頂いてどぅもありがとぅ。感謝します。

附属駒場って、当時、個性的な先生が多くいたみたいで、これは羨ましい限り。現代詩を授業で教えてくれる先生なんて全くもって、いいなぁ。自分も高校時代にこっそり「ユリイカ」とか読み始めてたので、これはモノ凄く羨ましいです。国語の好き嫌いは、やっぱり教師に因ります。自分は予備校時代の一年間に素晴らしい漢文の先生にあたったことで、中国世界への扉が一気に開かれたような気がします。喉が弱くていつものど飴舐めながら授業されていましたが、先生の使った出典がセンター試験にまんま出ていたことにはホント吃驚でした。

わたしの高校時代には「現代詩手帖」はとうの昔に「既に死んで」いて、「ユリイカ」がかっこよかったです。大学に入ってからも特集が面白そうなのは買ってたんですが、ある日、高校時代のクラスメートで某女子大にいったYさんの投稿した詩が「ユリイカ」の巻末に載っているのを見つけて、うわー。やられたー。と驚いたのを覚えています。彼女とはあまりというか殆んど話さなかったんですが、あの教室内に秘かにこのような赤裸々な内面世界が存在していたことが驚愕でした。自分なら匿名にするよな。という、ちと恥い内容でありました。

薬師桜 (置賜桜回廊2)

2008-05-23 | Japan 非日常生活 遠征篇
小春日和。「釜の越桜」の前の出店で甘酒と桜餅を買ってきて、桜を見ながら頂きました。時折強い風が吹き、桜の花びらが舞います。風情です。ただ桜餅の餡が「ずんだ豆」なのは如何なものか?奇抜さに惹かれて選んだものの小豆餡にすればよかったと後悔しきり。

次に目指す桜は、すぐ近くにある樹齢1200年の老木、エドヒガンサクラの「薬師桜」。この桜を何故「薬師桜」と呼ぶのかは定かではありません。



既に木の老衰は著しく、幹の根元が透けてしまっていて、樹脂のようなもので保護されていました。



桜は老体に鞭打ち体力を振り絞って見事な花を咲かせているのかもしれません。根の部分が踏み荒らされないように足元にウッドデッキが設えてあり、熱帯雨林でのネーチャーウォークを思い出しました。平安時代生まれの「薬師桜」にはこれからも長生きしてもらいたいです。

つづく

「ペネロピ」 レモンの気持ち

2008-05-21 | 映画・ロケ地訪問
映画「ペネロピ」のことをもう少し。

魔女の呪いが解けると、ペネロピの豚鼻はクリスティーナ・リッチのふつうの鼻に戻ってしまいます。豚鼻は即ち、フィクション、絵空事だからこそ起こり得た、いわば「治る畸形」だったのです。

畸形の類型としては「過剰」と「欠如」があり、「過剰」なる畸形が「欠如」に対して優位な位置付けにあるようなことは既に書きました。それは「過剰」なる畸形が「過剰」部位を切除することで健常なる体に「治る」可能性があるからなのかもしれません。生来の「欠如」や、何らかの事故で体の一部を「欠損」した不具は、他者から部位を移植するほかに「治る」可能性はありません。生来「過剰」なる人たちは「過剰」部位の切除を選択する自由があり、「欠如」や「欠損」をしょいこんだ人たちに比べて、ずっと贅沢な立場にあるのかもしれません。もしかすると健常者と比べてすらなお。

「ペネロピ」が豚の鼻を喪い「治って」しまった途端に、何か物足りない気持ちになりました。あの見慣れた豚の鼻が無いものねだりで俄然、魅力的に思えてきたのです。豚の鼻は、切り落とされた「過剰」なる畸形と同様に「聖徴」だったのかもしれません。

この映画で忘れてはならないのは、ピーター・ディンクレイジ演じる、レモンという名の Dwarf の記者の存在です。誰も指摘はしていませんが、この映画の真の主役は、救われずに独り現実世界を生きる彼だったのかもしれません。

レモンの持つ畸形は、①「過剰」でも、②「欠如」でもなく、③「諸部分の転倒もしくは誤れる配置」でもなく、もちろん④「他の生物からの諸部分の引用もしくは他の生物の擬人化」でもありません。あえて類型を追加して⑤「諸部分の不均衡」とでもいいましょうか。体が小さいだけでなく、頭、胴、四肢の均衡が欠けているのです。この類の畸形は、体の一部に過不足があるわけではないので、決して「治る」ことはなく、矯正したり隠蔽することすらもできません。おまけに彼は、ペネロピが赤ん坊(まさに豚児)のとき、アクシデントで片目を「欠損」しているのです。

そんなレモンが、同じく「治る」筈のなかった「似たもの同士」のペネロピの正体を撮影して、特ダネ記事をモノにしようとしたのは、裕福な両親によって邸宅の奥に匿われて姿を現さない彼女に向けられた近親愛の裏返しの、近親憎悪に因ったのかもしれません。凄くアンビバレンツ。

ところが、両親の庇護を振り払って出奔したペネロピは、隠された正体をカミングアウトすべく、自らの豚鼻を写した三分間写真(→「アメリ」にも登場していましたね)をレモンに託します。レモンにとってはまさかの展開で、ここで彼の近親憎悪は一転、近親愛に変わるのです。レモンは二十数年を経て初めて深窓の令嬢ペネロピの真実を知り、彼女が等しく自分の同類であることを知るのです。彼にとっての豚鼻は「聖徴」などではなく、自らの Dwarf の体と同様の「賎徴」だったのです。

レモンはペネロピに恋をしたのかもしれません。



(もう少し、つづくかも)

「ペネロピ」の豚鼻

2008-05-18 | 映画・ロケ地訪問
ここのところずっと気になっていた映画「ペネロピ」を見ました。ロンドンを舞台にしたラブ・ファンタジー。



実は、ここまで長々と書いてきたキツめの展開は「ペネロピ」のことが書きたくて用意したものだったのです。三月に「豚ネタ」を特集するようなことを言っておきながら、二回だけで終わっていたのも、やはり「ペネロピ」のことを書こうと機会を窺っていたからなのでした。↓が、クリスティーナ・リッチが演じる主役ペネロピです。豚鼻です。最初は不気味でしたが、天蓬元帥猪八戒を実写版で経験しているせいか、見慣れてくるとかわいいお鼻です。



平岡正明氏が書いていた十八世紀フランスのビュフォン伯爵の言、「第一は過剰による妖怪。第二は欠如による妖怪。第三は諸部分の転倒もしくは誤れる配置による妖怪。」に加えて、「第四は他の生物からの諸部分の引用もしくは他の生物の擬人化による妖怪。」とでも新類型を定義した方がいいのかもしれません。ただ、このような畸形はファンタジーの世界では造り得ても、現実にはあまり存在せず、存在し得たとしても、第一から第三の分類から逸脱したものではないのでしょう。

ペネロピは名家のお嬢様ですが、先祖の悪業のせいで魔女に「呪い」をかけられて、豚の鼻と耳を持って生まれてきたという設定です。つまり見せ物小屋で語られる「親の因果が子に報い~、生まれた娘は豚の鼻~。可哀相なはペネロピで~」の世界なのです。こういうのは仏教世界の専売特許かと思っていましたが、「ペネロピ」の血にも血族に関わる「因果応報」が潜んでいるのです。

そしてこのヘビーすぎる「呪い」を解き、豚顔を普通の人間に戻す鍵となるのが、魔女が残した言葉「お前達の仲間がペネロピに永遠の愛を誓うこと」でした。実は、この言葉をどう解釈するかが物語の核心なのです。(少しネタバレになりますが)ペネロピが救われるのは、両親から押しつけられた「いつか王子様が」式の他力本願の解決法によらず、彼女の自己愛、自尊心をベースにした自力本願の解決法だったのです。ここが、この映画の素晴らしいところで、現代的なところです。きっと悩める人たちにもカタルシスを与えてくれるでしょう。オススメ。



「アメリ」を観ると、またパリに行きたくなるけど、「ペネロピ」を観たらロンドンに行きたくなりました。Primrose Hill とか Soho とか、いくつか知っている場所が出てきました。(まだ つづくかも)

欠如と過剰に対する極私的な印象

2008-05-17 | Japan 日常生活の冒険
前回「プラネット・テラー」のヒロインの例を挙げ、あるべき体の一部が何らかの事故で欠損してしまっている不具がどこかエロティックに見えると、極私的な印象を書いてみました。ブログでは以前に「身体変工」について書いたことがありますが、このような欠損は、不幸にして起こった「身体変工」と解釈してもよいのかもしれません。「身体変工」に対してもどこか似たような印象を持ったことは隠さないでおきます。(図像は会田誠の「犬」)

ついでに書くと、それらとは別に、遺伝子の先天的な異常によって体の一部が欠損している「奇形」という不幸が存在します。自分は何故かそのような不具に対しては同様のエロティックな感覚(感傷?)を抱きません。

先天性の奇形には「欠如」のほかに、体の一部が「過剰」に存在しているという類型があります。これらの奇形に対しては、明らかに「欠如」の類型に抱くものとは違った別の印象を抱いているように思えます。例えばNさんの赤ん坊は生まれたとき六本指だったそうですが、小指の脇に生えた1本の指を切除したという話を聞かされ、なんだかとても勿体無いような気がしました。そういえば『さらば、わが愛/覇王別姫』の主役で女形の程蝶衣(小豆子)も生来の六本指でしたが、京劇の養成所に入れられるときに、宦官が去勢されるかの如く、余計な指を切断されてしまいました。「過剰」の奇形は切除することで健常な状態に戻ることが可能な場合も多く、治すことのできない「欠如」とは、似て非なるものなのでしょう。

あの平岡正明氏が「官能の武装 -岡庭昇『身体と差別』を読む-」(『官能武装論』所収)で次のようなことを書いています。岡庭昇氏は最近は日本最大の某新興宗教に帰依?してこれを擁護するようなことを書いていますが『身体と差別』は1980年代の著作です。

妖怪に関するもっとも簡潔な定義といわれるのが十八世紀フランスのビュフォン伯爵の言であって、「第一は過剰による妖怪。第二は欠如による妖怪。第三は諸部分の転倒もしくは誤れる配置による妖怪。」というやつだ。「妖怪」という語を「畸形」と置きかえてもほとんどあてはまる。あるいはヨーロッパ18世紀段階の「欠如による妖怪」が他の二つをしりぞけて限りなく細分化されて現在ことあげされたものが「畸形」かもしれない。「不具」「片輪」という語はいずれも「欠如」をあらわしている語であって。「過剰」や「転倒もしくは誤れる配置」ではない。
なるほど、「欠如」「過剰」のほかにもう一つ「転倒もしくは誤れる配置」という類型がでてきます。

一般に心的側向として欠如は劣性であり、賎徴に転化し、過剰は優性であり、聖徴に転化するという傾向はないか。眼が三つ(第三の眼は千里眼)、手が四本(極端なのが千手観音)、頭頂の角(神農)など過剰は聖徴であり、この方面では釈迦がチャンピオンだと「三十二相、八十種好」(相好という語はこれから)を論じたのは上杉清文の「仏教は過剰をめざす」(佐藤重臣編・論集『魅せられてフリークス』所収)である。
これこれ。これです。自分の中でも、「過剰」は聖なる徴で「(生来の)欠如」は賎なる徴として捉えられているような気がします。迷信とは判っていながら「欠如」には因果律が潜んでおり、血族の過去の悪行が因果応報として顕れたような気がするのです。(まだ、つづく)