沖縄県慰霊の日
6月23日は慰霊の日、沖縄県が制定している記念日です。
概要
1945年6月23日に沖縄戦の組織的戦闘が終結したことにちなんで、琉球政府及び沖縄県が定めた記念日である。
復帰前は、住民の祝祭日に関する立法(1961年立法第85号)に基づく公休日とされ、
現在でも沖縄県内では公休日である(ただし地方限定の公休日であるため、
当該日が日曜日にあたっても翌日が振替休日にはならないが、
過去には学校などによって翌日も休日になることもあった)。
そのため、国の機関以外の役所・学校等は休日となる。
なお、国立大学法人である琉球大学は、1999年までは通常通り授業を行っていたが、
2000年より授業は休講としている。
なお、教職員などは国家公務員扱いのため休日とはならない。
毎年、この日には糸満市摩文仁の平和祈念公園で沖縄全戦没者慰霊祭が行なわれる。
経緯
1945年4月1日にアメリカ軍の沖縄本島上陸によって本格的に開始された沖縄戦は、第32軍司令官牛島満大将(当時は中将)をはじめとする司令部が自決した日をもって組織的戦闘が終結したとされている。
この自決がいつあったのかについては、6月22日説と6月23日説があり、現在、沖縄県では6月23日説を採用している。
どちらが本当に自決があった日であるかについては議論があり、1961年に当時の琉球政府が慰霊の日を定めた際にも、当初は6月22日としていたものを、1965年に6月23日に改めた経緯もある。
現在は1974年に制定された「沖縄県慰霊の日を定める条例」により、「我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実にかんがみ、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため(条例第1条)」、6月23日を「慰霊の日」と定めている。
一方で、司令部が壊滅してもそれを知らされなかった兵士たちが抵抗を続けたため、散発的な戦闘は司令部自決の日以降も続いた。
このため、慰霊の日を司令官自決の日と定めることに対して疑問を投げかける立場もある。
たとえば沖縄市では、慰霊の日を休日とする一方で、同年9月7日に降伏文書への調印が行なわれたことから、同日を「市民平和の日」と定めている。
1962年から、この日には沖縄県が主催する沖縄全戦没者慰霊祭が行なわれ、沖縄戦犠牲者の遺族やその子孫などが集まり、式典中の正午には黙祷が捧げられる。
また、この日は沖縄県平和祈念資料館が入場無料となる。
1980年代末に国の機関が本格的に週休2日制(土曜閉庁)導入することにあたり、慰霊の日を休日として廃止することが浮上した(直接には、地方自治体独自の休日制定を許さない地方自治法改正による)が、沖縄県の歴史的経緯などの地域事情により見送られた
(再度の地方自治法改正による。その際、法解釈が定まっていなかった慰霊の日が日曜日にあたる場合も、翌日でも休日としないことが明確になった)。
沖縄県
日本列島の南、南西諸島の内琉球諸島を占める地域である。
気候は大部分の地域で亜熱帯に属し、多良間島・石垣島・西表島・与那国島・波照間島・沖大東島などでは最寒月平均気温が18℃以上の熱帯に属する。
歴史的には、明治時代の琉球処分まで、日清両属の琉球王国であった。
その為、他の都道府県とは異なる文化・習俗が根付いており、これらを生かした観光産業が盛んである。
また、国内有数の長寿地域としても知られ、その食生活等が注目を浴びる反面、戦後のアメリカ統治時代に根付いた食文化が深く浸透しているため、沖縄県の平均寿命は変動しており、男子では全国長寿県ランキングが落ちてきている。
太平洋戦争では地上戦(沖縄戦)の末米軍が占拠したことから、1972年まで一貫してアメリカ軍の施政権下に置かれた。
復帰後の現在でも多くの米軍基地が存在しており、重要な政治問題となっている。
沖縄県は49の有人島と多数の無人島からなる。
0.01km²以上の面積を持つ島は160島ある。
最東端から最西端までは約1,000km、最北端から最南端までは約400kmと、広大な県域を持つ。
最北端 硫黄鳥島(久米島町)
有人島に限れば伊平屋島(伊平屋村)
最南端 波照間島(竹富町)
最東端 北大東島(北大東村)
最西端 与那国島(与那国町)
全国で唯一、一級河川のない都道府県である。
離島が多いものの、離島の医療は人材的・経済的理由から不足気味であり、病院がなく診療所のみという島も多い。
その為、離島で治療できない急患患者の沖縄本島への空輸を陸上自衛隊や海上保安庁が行っている。
なお、宮古島、石垣島には県立の総合病院が設置されているため、それらの島の周辺離島での急患は沖縄本島ではなく宮古島や石垣島に搬送される場合もある。
県庁所在地である那覇市の1,000Km圏内には台北、福岡、上海、福州、1,500Km圏内には大阪、ソウル、マニラ、香港等があり、東アジア・東南アジアと日本との接点とも言える位置にある。
沖縄本島の中部・南部は那覇市・沖縄市を中心として都市化・人口集中が進んでおり、全面積の約5分の1に110万人以上が居住している。
本島南端の糸満市周辺は沖縄戦の激戦地であり、ひめゆりの塔等を含む地域が沖縄戦跡国定公園に指定されている。
亜熱帯で生物に好適な気候に恵まれ、貴重な動植物が多い。
沖縄本島北部には山原(やんばる)と呼ばれる森林が広がっており、ノグチゲラ、ヤンバルクイナ、ヤンバルテナガコガネといった天然記念物等貴重な生物が生息している。
山原と沖縄本島の海岸線の一部、慶良間諸島等が沖縄海岸国定公園に指定されている。
西表島一帯および石垣島の一部が西表石垣国立公園に指定されており、マングローブ林が広がる他、イリオモテヤマネコ等の貴重な生物が生息している。
なお、日本の環境省が指定する日本の重要湿地500のうち、54ヶ所が沖縄県内にある。
これは、北海道(61ヶ所)に次いで全国で2番目に多い。
2005年 - 2007年の6月に梅雨前線の影響で大雨と雷が沖縄本島を襲い、各地で冠水、土砂崩れ、崖崩れ等が相次いだ。
平年値では年間を通じて降水量が多いが、梅雨と台風による降雨が多いこと、年による変動が大きいこと、大きな河川がなくすぐに海に流れてしまうことなどから、気候・地形的に水不足に陥り易い。
また、1946年に約51万人だった人口が、本土復帰の1972年に約96万人と増加し、需給関係から1990年代前半までしばしば水不足による断水が行われた。
特に1981-1982年の渇水では日本最長の326日間にわたって給水制限が実施された。
その為、屋根の上などに給水タンクを設置している家が多い。
しかし、沖縄本島北部から南部への導水が進み、2005年に県人口が約136万人と増加したものの、断水に見舞われることは減った。
「地震大国」と言われる日本において、九州などと同じく一年あたりの(有感)地震回数が少なく、また気候や人口密度などの面から最も地震に関するリスクが少ない地域のひとつとされていた。
しかし、損害保険料率算出機構の最新の統計集では2等地となっており、特段リスクが低い地域と見なされなくなった。
人口密度は全国で第9位で、三大都市圏の都府県を除くと福岡県に次いで2番目に多い。
通常は九州地方とは独立して扱われるが、官公庁や企業の管轄地域などで九州地方に含まれる場合もある。
気候は多良間島・石垣島・西表島・与那国島・波照間島・沖大東島などでは熱帯性気候で熱帯雨林気候に属し、それ以外の地域では亜熱帯性で温帯に属する。
沖縄県各地方共高温多湿で年間降水量は2,000ミリメートル以上。
年間平均気温は摂氏約22度前後。
また沖縄地方は台風銀座と呼ばれており、毎年多くの台風が接近する。
1977年(昭和52年)2月17日に、久米島にある測候所で初めて雪が観測された。(実際にはみぞれであったが、分類上は雪と同じ扱いとして記録される。)
これは、沖縄県で唯一、気象庁が公式に発表した降雪記録であると同時に、日本における降雪の南限記録となった。
沖縄戦(おきなわせん)とは、大東亜戦争(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸した米軍と日本軍との間で行われた地上戦。
これは民間人を巻き込んだ日本国内での最大規模の地上戦であり、また日米最後の大規模戦闘となった。
沖縄戦は1945年3月26日から始まり、組織的な戦闘は6月23日で終了したとなっている。
アメリカ軍の作戦名はアイスバーグ作戦(英:Operation Iceberg、氷山作戦)。
大規模な戦闘は沖縄島で行われた。米軍の作戦目的は本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であり、日本軍のそれは当時想定されていた本土決戦への流れの中に位置づけられる。
沖縄戦での全戦没者は20~24万人とされ、その内、沖縄県の一般住民の戦没者は公式には9万4千人とされているが、研究者による15万人以上という推計もある。
太平洋戦争では、1944年(昭和19)10月10日に本土空襲に先駆けた激しい空襲によって那覇市の90%が壊滅し(十・十空襲)、上陸戦開始まえに知事の努力で行なわれた本土疎開でも、学童疎開の対馬丸の被雷喪失など、被害が発生していた。
1945年(昭和20年)3月26日、慶良間諸島にアメリカ海軍艦隊が集結し、3月29日にこれを占領した。
4月1日に米軍は55万人の兵力で沖縄本島の読谷村(沖縄本島中部)から上陸し、すさまじい砲撃と空襲を加え進攻してきた。
圧倒的なアメリカ軍の火力の前に、首里城地下を本部にした日本軍との間で壮絶な地上戦が行われ、沖縄県民も沖縄防衛隊に配置され多くの一般人も戦闘に参加し、日本軍と共に亡くなった。
この後も残存兵力による散発的な戦闘は本島各地で続いた。
この戦闘継続の原因は、牛島中将の最後の命令が「最後の一兵まで戦え」として降伏を許さないものであったことや、指揮系統の崩壊により司令官自決の事実や大本営発表が明確に伝わらなかった為とされる。
しかし、摩文仁の司令部ですら混乱状態であり、劣悪な通信状況を考えれば牛島中将の命令が沖縄本島全体に伝わったとは考えにくく、戦闘継続は牛島中将の命令ではなく、個々の判断で行われたのだとする意見もある。
いずれにせよ、この指揮系統無き戦闘継続は、民間人を含め死者数を増やすこととなった。
第32軍司令官牛島満が自殺した6月23日に組織的戦闘は終結、実質的な戦闘は7月4日に終了し、9月7日に降伏文書が取り交わされた。
また、戦争に伴って行われたマラリア発生地域への住民の強制疎開や、物資の移動、栄養状態の悪化、マラリアの集団罹患が発生した。
戦争終結後、アメリカ政府は沖縄県は独自の国で、日本に同化された異民族としてアメリカ軍政下に置いた。
しかし、朝鮮戦争の勃発によってアメリカ政府の琉球に対する見方は「東アジアの要石」へと次第に変化し最前線の基地とされると、アメリカ本土からの駐留アメリカ軍が飛躍的に増加した。
旧日本軍の施設以外に、米軍は軍事力に物を言わせ、住民の土地を強制的に接収した。
いわゆる「銃剣とブルドーザーによる土地接収」である。
1952年(昭和27年)4月28日発効の日本国との平和条約で、潜在的な日本の主権は認めながら、正式にアメリカ軍の管理下に置かれるようになった。
アメリカは琉球政府を創設して軍政下に置き、各地にアメリカ軍基地・施設を建設した。
アメリカ兵による事故・事件が頻発し、住民の死亡者も相次いだ。
この状況に対し、県民有志は「島ぐるみ闘争」と呼ぶ抵抗運動を起こし、また、このころから県民は日本復帰を目指して活発な祖国復帰運動を行い、1960年(昭和35)に沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を結成した。
なお、このころの米大統領アイゼンハワーは、返還する気は全く無かったようである。
1960年代のベトナム戦争によって沖縄が最前線基地とされると、駐留米軍が飛躍的に増加し、これに伴って事件・事故も増加した。
また爆撃機が沖縄から直接戦地へ向かうことに対し、復帰運動は反米・反戦色を強めた。
一方、米軍による需要がある土木建築業、飲食業、風俗業などに携わる勢力は、復帰反対や米軍駐留賛成の運動を展開し、彼等の支援された議員が復帰賛成派の議員と衝突した。
1968年(昭和43年)11月には琉球政府の行政主席選挙が行われ、90パーセント近い投票率を記録した。
この選挙によって復帰協の屋良朝苗が当選、「即時無条件全面返還」を訴えた。
日本の佐藤栄作政権は、1970年(昭和45年)に予定される安保延長と共に、沖縄県の本土復帰を緊急の外交課題とした。
このため、70年安保延長反対を唱える日本社会党や日本共産党は、安保と同列の沖縄返還論に反発し、新左翼や学生運動、各種労働組合までも反安保、反返還の一大運動を日本国内で繰り広げた。
しかし、これらは沖縄県民の運動とはほとんど結びつかず、県民の真意を汲み取ることにはならなかった。
1970年(昭和45年)12月20日未明、沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)で、米軍兵士が連続して起こした2件の交通事故を契機にコザ暴動が発生した。
常日頃から米軍兵士が優遇され沖縄県民が不当に差別されたことに対するコザ市民の怒りが表面化したもので、これ以上アメリカ軍政下に置くことは適当でないと内外に知らしめた。
アメリカ政府にとっては、日頃温厚と見ていた人々が暴動をおこした事に強い衝撃を受けた。
1969年(昭和44年)の日米首脳会談では、アメリカ大統領ニクソンが沖縄返還を約束した。
屋良朝苗や復帰賛成派の県民は日本復帰と同時に米軍基地の全面返還を望んだが、米軍基地を維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還とされ、佐藤はニクソンとの取り決めで、非核三原則の拡大解釈や核兵器持ち込みに関する秘密協定など、アメリカの利益を最大限尊重した。
1972年(昭和47年)5月15日に琉球政府は沖縄県となり、日本へ復帰した。
また、日本政府は返還協定第7条にもとづき、特別支出金として総額3億2,000万ドルをアメリカに支払った。
特別支出金の内訳は、米軍政下で設置された琉球水道公社・琉球電力公社・琉球開発金融公社のほか、那覇空港施設・琉球政府庁舎、あるいは航空保安施設、航路標識などの民生用資産の引き継ぎの代金1億7,500万ドルが含まれていた。
県民の間からは、「これらの施設・資産は無償譲渡されるべきものであって、アメリカ政府に対価を支払うのはおかしい」といった批判が噴出したが、日本政府は取り決めに従いこの巨額の対価を支払った。
このため一部の沖縄県民には、「沖縄は日本政府によって金で買い取られた」という認識を強く持つ者、琉球独立論を唱える者もいる。
また、この本土復帰を日本による琉球再併合と規定し、沖縄返還ではなく第三次琉球処分と呼ぶ者もいる。
日本への復帰を記念して、1973年(昭和48年)には若夏国体、1975年(昭和50年)には沖縄国際海洋博覧会が開催された。
しかし、観光以外にこれといった大きな産業がなく、日本で一番完全失業率が高い状態が長年続いている。
このため、沖縄県では1998年(平成10年)から「沖縄県マルチメディアアイランド構想」に基づき、海底ケーブルの陸揚げ本数が多いことから IX(Internet Exchange)の語に掛けて IT Exchange 等の呼びかけを行ない、コールセンターやIT企業の優遇策による誘致を活発に行なっている。
その一方で内外から施設は立派であるが内容が伴なわないとして箱物行政といった話題も多い。
また、2000年(平成12年)には主要国首脳会議(サミット)が行われたのをきっかけに、国際会議、コンベンションといったイベント開催地としての体勢作りを進めている。
文化面では、具志堅用高などのボクシング選手が出身地としているほか、1990年代に沖縄アクターズスクールが安室奈美恵をはじめとする多数の歌手を輩出し、全国的な人気を博した。
その後も若手の女優が次々と人気を獲得するなど、芸能面での強さを見せている。
一方、現在も在日米軍の基地が多くあり、日本にある在日米軍基地の75パーセント(面積比)が沖縄県に集中するという歪な構造となっている。
これらの基地の騒音・移転問題が解決されておらず、また米兵による県民への暴行事件などがしばしば起きている。
とくに1995年(平成7年)の少女強姦事件は、治外法権の認められた基地に逃げ込んだ容疑者を沖縄県警が確保できない事態となり、日米地位協定の理不尽さを露呈させた。
強姦事件により県民の間には米軍基地の早期返還を求める声が再度強く挙がり、これを受けて1997年(平成9年)に日米両政府は普天間飛行場の全面返還を発表したが、移転先の選定が難航した。
2004年(平成16年)に普天間飛行場所属のヘリコプターが大学構内に墜落した事故(沖国大米軍ヘリ墜落事件)は、同飛行場の危険性を危惧する世論を再燃させた。
2006年(平成18年)には普天間飛行場の移転や那覇港湾施設の返還を含めた米軍再編が決定したものの、実現には課題が少なくない。
一方、永久に続く超大国は歴史上なく、遠い将来仮に米軍が撤退すれば沖縄県に基地が集中することは、なくなるだろうが、国境地帯という立地にかわりはない。
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