昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

形式の反復/実学としての宗教学

2006-08-31 21:42:35 | ものおもい
 神話や伝説などの宗教的な物語には、不可解なストーリー展開となるものが多いが、そこに、ある種の共通する構造を見出したのが、レヴィ=ストロースだった(と思う)。英雄神話についてはキャンベルだっけ?
 また、ユングの「元型」論などもそうで、いずれも、人間文化における「形式」には共通する要素が多く、それを「儀式」として「反復」することも特徴であるとされる。(神話などの物語であれば「繰り返し語られる」ことがそれに当たる)
 一方、人間の認識においても、古くからその「形式」が注目されている。分かっている最古の発言者はプラトンであろうが、より精緻にはカントが『純粋理性批判』で言及した。解剖学等の知見を加えたうえで、同様なことを述べているのが養老孟司である。

 前置きが長くなった。何が言いたいのかというと、無闇に物語が繰り返される。そのことに少々苛立っている。
 たとえば以下のリンク先を見てほしい。
適食情報コラム「ベストセラー『食品の裏側』の裏側」
 食品添加物の使用実態についてセンセーショナルに取り上げた本である(と認識されている(注1))。
 内容はリンク先を見てもらいたいが、要するに「こういうデータがあるから食品添加物は危険だ、或いは危険な使用実態がある」ということは、実は書かれていない。しかし、そうミスリードさせるように書かれている。その結果、ヒトはミスリードされた内容を信ずる。そして、そういう本が売れる。これは「大企業は消費者を食い物にする悪だ」という物語の反復であり、より一般的には「陰謀論」である。ちゃんと批判的に読めば、そういう話でないことは、それだけで分かるのに、ヒトはおそらく「あえて」そうは読まない。そうして「物語」の「形式」を「反復」する。そこで満足してしまう。

 我々ヒトは生命である。生命活動の基礎は「パターンの反復」にある。子を成すことがそうだ。遺伝子の複製もそうだ。ヒトにおける知的活動も、大脳新皮質及び感覚器官がが準備した認識の「形式」に沿ったものしか認識できない(カントが指摘したのはこのこと。赤外線や紫外線は見えない!)。およそ「論理」というものもつまりは準備された「形式」にほかならない。この「形式」にあてはまるか否か。生命活動の本質、逃れられない軛がここにある。

 だからって味噌糞でいいというものでもない。認識とか正しさとかに不可欠な「形式」以外にも、ヒトは多くの「形式」を準備し、無意識に適用してしまう(注2)。仕舞いには「思考停止」に陥る。節約しようとして、そうなってしまう傾向が常にある。このことを常に念頭に置いて、日々を生きる必要があるだろう。
 それで、宗教学が生活に役立つとすれば、こういうふうに考える材料となることだ。しかも、これは結構重要なことなのではないか。

(注1:上記コラムによると著者は巧みにそう言い切ることは避けているらしい。そして、最も言いたいことは「子供の食育の重要性」らしい。どこかで見た構図だと思ったら、矢追純一のUFO本と同じだ。)
(注2:適用できるとなぜか安心する。適用できない事象は「混乱」を招き、ヒトはこれをたいへん怖れる。養老が言う「現代人は脳の中に住む」とはこのこと。)

宗教学(その2)

2006-08-29 23:26:02 | Weblog
 さて、宗教感情が、大脳生理学的には、言語化以前の反応により親和性が高いということは、とりもなおさず、同様のものが他の生物にもあるのではないか、との疑問を想起させます。
 しかし、このことについては、「複雑、明瞭かつ抽象的な言語体系を有する」我々人類という種の特殊性が、宗教を宗教たらしめているもうひとつの要素である可能性について指摘することが出来ます。
 人間は、自己の活動を客観的に認識することが出来ます。通常、メタ意識と言われますが、これには通常、言語が用いられます(むろん、言語化できないものについても認識する場合はあります)。しかし、宗教感情はその強烈さにもかかわらず、言語化しがたい。この「言語化しがたい」ことが、客観的にこの感情を捉えることを妨げ、それが故に「至高」という価値を有さざるを得ないということが考えられます。
 というのは、より低次に属する感情は、どちらかというと、生存に直接関与する行動を支配するものである可能性が高いからです。人間以外であれば、そのような強烈な感情を反省することなく、即、その感情に従った行動を取ればよいが、人間はそうはいかない。「自分がなぜそのような行動をとるのか」自分で納得したがる。しかし、それをやっていては生命の危険がある。だから、そのような感情には「至高」の価値をとりあえず与えてしまい、有無を言わさず行動に結びつけるよう進化していった、とは考えられないか。その方が生存に有利であったからこそ、ヒトの脳や、ヒトという種の行動様式は、そのように進化した、と。
 この着想のもとになったのは、「供犠の起源は肉食動物による補食圧である」とする主張です。(『人はなぜ神を作りだすのか』青土社)
 私には、この説は、一見無関係な「生命を奪う行為」と、「自らの生存」との間に、明確な相関関係を結ぶことが出来る、非常に魅力的なものと思えました。すなわち、ヒトは捕食者に有無を言わさぬ戦慄を覚え、逃げ出すようにプログラムされている。それを理性で捉えようとしても、実はうまくいかない。なぜなら、ヒトは肉食獣の脅威以外にも、その知能でさまざまな生存の危機を予測できるようになり、この感情と行動への動機付けとが、一対一の対応でなくなったからである。
 こう考えれば、「生存」のためというごく基本的なレベルの、「低次」な脳活動が、「至高」の価値を有する理由がよく説明できるように思えます。
 また、『脳はいかにして<神>を見るか』(PHP研究所)という本では、ヒトの神秘体験に焦点をあて、そこで観察される脳活動から、自分の体に関する位置情報の混乱が、こういった体験を特徴づける一つの要素であること(「自己と他者の区別の消失」(孤独感の解消につながる)や「時間超越の感覚」等)を明らかにします。これも、宗教活動の根拠を大脳生理学に見出すと言う点で、私の関心と全く同じものであり、非常に興味深く思いました(さらに著者らは、大脳における観念操作の基本的構造と宗教活動との関連に言及します。これは現代的なカント哲学といってもよいと思います)。
 そして、著者らは、一見奇妙なことですが、「ヒトの感情が宗教体験に重きを置くと言うことは、それに見合った実体があるとしてもおかしくはない」つまり、「神が実在する可能性もある」という主張も行います。
 西洋の宗教学研究では、しばしばこのように、宗教的伝統への率直な回帰が見られることがあり、その意味でも面白い本です。
 まとめると、私の関心のひとつは「宗教現象の生物学的根拠」であり、それは「ヒトに特有の脳活動から見出されるはずである」という仮説を伴います。そして、「生物学的根拠」である以上、それは「生存に有利でなければならない」と考えます。上記の議論は、これらの仮定にうまく適合するように思えます。
 そして、しばしば宗教が、信者に対して言語化をことさら拒否するような仕方で語られる理由も分かります(禅の公案など)。すなわち「曰く言いがたいが、それゆえ、これに従う」ことこそが、初期人類の生存率を高める行動戦略であったからに他なりません。神秘主義もそうです。これは、恍惚の体験という特殊な感情の状態に入ることを目的としますが、そのようにす
ることで、明晰な論理を超えた動機や理解を得ること、感情の指示にただ従うことが、訓練されます。それは、脳内ではある種の強烈な快感を伴う反応で、それゆえに論理を超えた強い動機となりうるものだと考えられます。
 では、これが強烈な忌避感情とならないのは何故か。それは、被食者が捕食者に捕まったとき、しばしば「観念した」ようにおとなしくなることと関係しているかもしれません。すなわち、一旦、自らが犠牲になることが決まれば、それに従うほうが、全体での生存確率は増すからではないか(数が増えすぎない等)・・・というようなところまで、考えているところです。

宗教学

2006-08-29 23:00:34 | Weblog
 さて、結果オーライとはいえ、かなりよこしまな動機で専攻を選んだわけですが、自分なりに、この学問を学ぶに足ると考える理由はありました。
 それは、「宗教は人間が生きるのに必須とは思えない」のに「宗教的活動が観察されない人間社会は存在しない」こと、また、「ヒトという種がもつ動機として、最も強力であると思える」ことです。
 こういった特徴から、ヒトという生物にとっての宗教(あるいは宗教行動)は、日本における「日陰者」のイメージとは裏腹に、しばしば、個人又は社会にとって、極めて決定的な影響を及ぼしているに違いない、これは学ぶ価値があるぞ、と思ったわけです。
 より具体的な問題意識としては、戦争です。
 当時も今もそうですが、中東における戦争に代表されるように、宗教戦争といった場面では、ヒトは死を厭わない行動に出ます。生物として観察すると、これは非常に特異な行動です。
他者の生命も、自分の生命も尊重しない、という行動を選択する際の動機として、なぜか宗教が関与することが多い。というよりも、少なくとも、生物として通常の価値観を否定する、より上位の価値観として宗教が登場する。その諸相を学ぶことで、ごく単純ですが、戦争の多くを回避する手立てが見つかるのではないか、という思いがありました。
 そして、上で述べた「ヒトにおける宗教が生物としての価値体系の上位に位置する」こと、それはなぜか、という問題意識がありました。このことは、自己言及のメタ構造を含んだ疑問で、パラドックスと大いに関連します。ヒトであり、何がしかの社会に属している限り、何らかの価値体系の枠組みの「中で」、その価値体系について問わざるをえません。数学的にいうと、こういった体系内で矛盾のない答えに到ることは困難です。おそらく宗教もそうであり、だから面白そうだ、と思っていました。
 これについては、逆に「そのように価値を与えられたモノが宗教だ」という言い方も可能です。しかし、私が関心を持ったのは「宗教現象が人類普遍に見られることから、このことには生物学的根拠があるのではないか」ということです。よって、大脳生理学の研究成果等から、宗教現象を考えられないか、その中で、「ヒトが宗教に至高の価値を与えるしくみ」や、その「生物学的意味」(すなわち、生存に有利な形質のひとつとして進化・定着したはずであるという仮定を証明するもの)を見出せないか、というのが、内心、私が抱えていた研究テーマになりました。
 とはいえ、宗教学は極めて文系的な学問です。その端緒は、キリスト教世界における、周辺世界の文献学でしたし、いまでもこの伝統は根強いものです。古代の神話といったテキストの解読、あるいは先人の残した文化・習俗に関する文献、はたまた、宗教家の言説や行動の記録(お経や新約聖書がそう)、あるいは自ら著したもの、それらが、この学問で研究されたものでした。
 その後、文化人類学の登場により、フィールドワークの手法が加わることになります。いまでも、文献学とフィールドワークが、この学問では二大手法となっています。
 また、対象への接近方法としては、特定の宗教の価値体系の中で、ある宗教家なりの言説を理解する、「神学」的研究方法と、その価値体系に属さない立場から、しかし決して攻撃的でなく「客観的に」研究する立場とがあります。そして、後者はしばしば、複数の宗教現象を比較しながら進める「比較宗教学」の立場を取ります。
 しかし、いずれにせよ、研究方法は文系的なものです。当時は、先行研究の中に、私の関心に沿ったものはなかなか見出せませんでした。(「宗教心理学」というジャンルがありますが、一世紀近く前の古典的研究に属するものが多く、その後、あまり発展していませんでした)
 このため、内心の研究テーマについては、2年間の勉強では十分に考察できませんでした。そして、それ故、卒業後も、宗教学については、折に触れ自分なりに学習していこうと思っていました。(仕事が多忙で諦めましたが。)
 しかし、卒業後10年経って、かつて学んだことを振り返ってみると、学生時代に学んだ「文系的」研究者の著書や論文、そこで用いられる術語においても、実は、当時、自分に理解できなかっただけで、テーマに繋がる糸口がいくらでも転がっていたのだ、ということに気づかされました。
 特に、宗教を感情の面から規定したR.Ottoの業績は、再考する価値があると考えています。
 これについては、現時点で詳細に述べるほど考えがまとまっているわけではありませんが、宗教感情は「曰く言いがたい、戦慄と誘引力とを併せ持つ感情」として語られます。この「曰く言いがたい」ということが、至高の価値感情に関する特徴とされていますが、これは、大脳生理学的には、言語や視覚といった明晰な大脳活動に比して、より明晰度の低い、嗅覚、聴覚や音楽といった活動に類似すると指摘されてます(養老孟司など)。「言分け」以前の「低次な」活動が、それゆえ「至高」と認識される不思議、ここにヒントがあるような気がしています。

学生時代

2006-08-29 22:54:30 | Weblog
嫌々ながら入った大学とはいえ、4年間、それなりに充実した学生生活を過ごせました。
といっても、生来の人嫌いですから、バイトやサークル活動に精を出すといったことはなく、専ら「4年で卒業すること」のみを目標にしていました。
そもそも、東北大学に入ったのも、できるだけ学費及び関連経費(通学費等)のかからない大学で学びたかったからに過ぎません。
そのため、履修単位は最低限とし、極力自分の知識が活かせる分野を選択し、労力を減らす、という方針で過ごしました。正直、今になって、「もう少しこの分野を学習しておけば良かった」と思う部分もあります。とはいえ、当時の私の能力からすれば、2つもある外国語対策だけで精一杯で、そこまでの余力はなかったというのも事実。
さて、大学では哲学系を学ぶことにしていた訳ですが、哲学系の必修科目を見てみると、予想外に外国語履修をしなければならない。特に、西洋哲学をやろうとすれば、古代ギリシャ語やラテン語が必須でしたし、インド哲学をやろうとすれば、サンスクリット語やパーリ語が必須。中国哲学なら漢文、というわけで、語学を大変苦手とする私としては、この時点で半ばあきらめざるを得ませんでした。
そこで、次善の策を講じることとなりますが、「宗教学」というのは、毎年選択する学生も5名以下が相場で、競争が激しくなさそうなこと、また、マイナーかつマニアック、もっと言えば「怪しげ」な印象であることが、逆に魅力的でした。
募集定員がいっぱいになることはまずないだろう、との打算で、結局、事前見学はここだけしか行きませんでした。しかし、蓋を開けてみると、男4、女4の合計8名が専攻という意外な結果に。
ちなみに、我々の1学年上と、下2学年は、それぞれ3名。きっちり伝統を守っておりました。
その後は宗教学研究室が哲学系から社会科学系に鞍替えし、大講座制に改組されたため、文化人類学系と併せて1学年20数名が所属する形となったようです。
大講座制になる前は、第2希望以下で回される学生が大半で、同学年でも横の連絡があまりなく、うち何人かは講義に出てこなくなりそのまま退学・・・といったことが多かったようですが、我々世代は人数が多かったので、講義の履修準備や卒論、就職準備等でも、お互いに情報交換しながら、それなりの連帯感を持って取り組める雰囲気がありました。
私自身、同期の友人を大いに頼りにしましたし、、研究テーマのみならず、様々なことを語り合いながら過ごすことで、学生生活から脱落しないで済みました。このことは、大変幸運だったと思っています。

スローライフの一歩先

2006-08-23 21:34:28 | 農業
社団法人農山漁村文化協会で出している『現代農業増刊 山・川・海の「遊び仕事」』が面白い。古くからの集落の共同作業に
焦点を当て、「遊び」と「仕事」の区別が付かない活動、楽しい仕事、という側面をあぶりだしたものだ。書き手も巧みなのだろうが、読むだけでもワクワクする。テレビのバラエティでは、「ビンボーさん」と銘打った半自給的生活を楽しく営んでいるヒトを面白おかしく紹介しているが、これも元々は都市部に住むほんとうの「ビンボーさん」のヒサンな生活を紹介する番組だった。現在のように「スローライフ紹介番組」と化したのには、ネタ不足と、視聴率の実績が関係しているのだろう。
いずれにせよ、本書ではにわか「ビンボーさん」達よりもずっと魅力的な、地域と伝統に根ざした「スローライフ」が紹介されている。ここでの価値を計るモノサシは、金銭ではない。そのことがはっきり分かる。ヒトにとって「自然の恵み」と向き合う喜びはやはり格別なのだろうと思う。
何度も書いているが、私自身は、今後の農業のキーパーソンは団塊退職世代だと思う。彼らは「農を楽しむ」ことに飢えている。そして、従来の農家が苦手な経営・経理の経験を持ったヒトがいる。都会での経験を農業経営に還元し、彼ら自身は農業から元気と活力、いくばくかの収入を得る。そうして、自然と向き合う喜びと、経営とがうまく結びつけば、「会社的農業」をやる部門と、「自然体験・集落管理」をやる部門に分かれてもいい。好き好きでいい方にかかわればよい。食べ物に困らないのなら、少ない年金や貯蓄といった現金だって他のことに回せる。そうして、彼らが現在のお年寄りから地域の生活を学び、身に付け、十分に楽しみ、かつ働いたら、次の退職者世代にその地位を譲る。それでよいのではないか。
そう考えるにつけ、やはり「農地の所有権」が大きな問題なのだろうと思う。もっとも、経営的には赤字の農家もなんだかんだと言ってなかなか農地・農業を手放そうとはしない。その理由は、農業がやはりどこかの点では「楽しい」からなのではないか、とも感じる。(多くのヒトが指摘していることだが)
で、オマエはどうするのか?リタイアしたら帰農するのか?
うーん、ウチは、ムシ嫌いなおヨメさまの理解が得られそうにないです。ワタシ自身も濃密なコミュニティは苦手ですし。
とはいえ、定年後の生活の糧をどうするかは至極重要な問題。現在の家屋は心ならずもランニングコストが高いタイプ。
うまく工夫して、機器更新時にローコスト化できるといいのだが・・・。

日本農業のバッドエンド

2006-08-23 21:32:18 | 農業
縁起でもない。が、とりあえず考えておくことは必要。
現在、農業政策は来年度から始まる「品目横断的経営所得安定対策」と、農地及び農用地施設等の多面的機能(耕作・水利等の機能のほか、洪水調節、景観形成、生物生息環境提供等の機能を含む)の維持のために非農家も含めた維持管理活動を行う団体へ助成する「農地・水・環境保全向上対策(仮称)」に向けて動いている。そしてこの2つの施策は「車の両輪」に例えられている。
極めて大雑把にいうと、前者は助成対象を大規模経営農家(又は集落営農組織)に絞り込むことで、「効率化」を推し進めるもので、後者は、農家の減少・高齢化に伴い、水路の清掃ややあぜ道の補修といった農地・農業用施設の維持管理ががままならなくなってきたことに対する対策である。
そして、後者はさらに、「田んぼの生き物調査」といった「農地のもつ生態系維持機能・学習機能」に着目した試みの成功を受けて、農地の農業以外の機能に関心を持つ人々を取り込んで、人手不足を補おうとするものである。
(その方法は、生き物調査のような機能維持管理以外の活動にも助成することによる。また、こういった活動に参加する人の多くが、「農地・農村」に高い価値を見出してくれており、その維持管理活動への参加にも理解が得られるだろうといった期待がある)
何が言いたいのか。すなわち、「品目横断的経営所得安定対策」は、原則、農業者に離農を促す施策である。他方、「農地・水・環境保全向上対策(仮称)」は、非農家を営農に参加させようとする施策である。両者は、ヒトの流れが逆だ。これは本当に両輪なのか。
たとえば、「品目」が、農業経営体を大規模農家に絞り込む。勿論、独自の販路を持ち、高付加価値農業経営を行っているような農家は、小規模でも存続するだろうが、そのことは措く。ところで、数少ない大規模経営農家が利用する農業用水路やあぜ道は、これまで、いわゆる「農村」の共同作業として、伝統的にボランティアで整備されていた。農家が少なくなれば人手は減るので、いままで通りの維持管理ができるかどうかは分からない。(離農した元農家の人手を期待する向きもあろうが、自己の利益にならないことを「慣習だから」と無理強いさせるというシナリオは続かないと感じる)
そこで、「農地・水・環境」によって誕生した活動団体が、足りなくなった人手を補う・・・となるのだろうが、この団体は、非農家の参加も前提にしているとは言え、その主体はやはり「減らされた後の農家」である。核となる部分の人は減らし、その周辺の、直接利害関係のない人を増やして維持管理してもらうというのは、虫がよいのではないか?しかもそれらの増やされた人は、言ってみればレクリエーション活動に関心があるのであって、農業そのものには関心がない層だと思われる。いつか、「ていのよいただ働きをさせられている」と思うようにならないだろうか?
私の考えるバッドエンドの一つがここにある。すなわち、施設整備が追いつかなくなり、生産機能が低下する。あるいは、施設の維持管理にかかるコストが増大し、大規模農家の経営を圧迫する。結果、従来型のボランティア頼みのインフラ維持管理を前提とした農業は立ち行かなくなる。
もう一つは、自給率だ。現在、中国からの農産物輸入が多い。しかし、今後は、中国でも国内向けの需要が増し、輸出に回される分は減るだろうと予想される。そうなれば、日本国内の農業に光が当たるのか?
個人的には厳しいと思う。まず、農業者数を絞ってしまえば、生産量を急増させることも難しくなるだろう。加えて、上記の維持管理の問題がある。生産量を拡大するにはそれなりの施設が必要であり、それなりの従事者が必要だが、農業はだれでもすぐに始められるようなものでもない。
つまり、今回の政策転換で、安定的な農業経営体が育ちきる前に、食糧危機が起きたらどうなるか。農業は破壊されないかもしれないが、国民生活そのものがダメになる。これがもう一つのバッドエンド。
まあ、そうなったら、政策も何もかなぐり捨てて、農地開墾、食糧増産にいそしむしかないのだろうけれど。


そのためには、むしろ、「農地・水~」のような集落管理型のインフラシステムではなく、たとえば、国内需要が高まった時に、新規に企業等が農業に参入し、そのためのインフラをすぐ利用できるようなシステムが必要なのではないか。もしくは、インフラの維持管理機能は、「集落のボランティア」で賄うのではなく、NPOのようなある種の対価を得られる団体が担うほうがよいのではないか。
「そういう団体として土地改良区があるではないか」と言われるかもしれないが、これは、旧来の農業者・農村という社会システムに余りにも縛られ過ぎている様に思う。そこから脱却できるのであれば、母体は土地改良区でもいいが、果たしてどうか。
いずれにせよ、そのようにして、維持管理システムも市場経済化するしかない。そして、そのコストを払えるだけの経営体が農業をやっていく。そして、維持管理コストが高止まりにならないように、あるいは生産コストそのものが高止まりにならないようにするために、
定年帰農者を安い労働力として使う。そのかわり、彼らには「金に換えられない喜び」が与えられる。
もちろん、会社勤めの経験を活かして本格的に経営管理に参加してもよい。そういう人ももちろん、農作業には従事する。
というわけで、結局は「世襲的な農業の解体」こそが鍵だ。そのためには、農地という財産の世襲(相続)を何とかすることだ。

乗り遅れたが靖国

2006-08-23 21:27:41 | ものおもい
わたくし、恥ずかしながら靖国神社の独自な歴史観というのを知りませんでした。
それを知った上で首相の参拝をどう思うかといえば、当該歴史観への賛同を示すと受け取られる行為にほかならず、であれば反対です。
(この点で、靖国参拝中止を求める諸外国に対する「ヒトをわりあい簡単に神として祀る日本の宗教習慣云々」という批判は当たらないと思う)
政教分離については、抵触すると思っています。
ただ、諸外国の要求はあまり根拠があると思えません。(国内向けパフォ&駆け引きでしょう)
それで、私的結論としては、首相たる人物には「内面の良識に従い、靖国への参拝などというパフォーマンスをしない」という選択をして頂きたいと思います。
******
ところで、あと30年くらいすれば、先の戦争の生々しい体験を記憶として持つ、であるが故に往時の戦争が「単なる外国に対する悪さでまったく無意味だった」とは思いたくない、つまりは靖国歴史観で癒されることを望む世代は、多くが鬼籍に入ることでしょう(去年そうなった父は昭和16年生まれの戦中派で、そんな彼でも幼少の空襲体験は記憶として持っていた)から、そうなれば、パフォーマンスで靖国へ参拝(遺族会の票狙い)する必要はなくなるのだろうと思います。ときの為政者が「それでも参拝する!」というなら、それはもう歴史修正主義者呼ばわりしてもよいかと。そうなってしまえば、歴史教育で反日感情を後の世代まで再生産しつづける諸外国と差がなくなって、なんつーか、「目○○鼻○○」というか。

幼児がシュレッダーで指を切断する事故

2006-08-23 21:26:05 | ものおもい

連続になりますが、今回も「酔うぞの遠めがね」から。

シュレッダーで幼児が指を切断

なんとも痛ましい。
ところで、一件目の事故のほう。シュレッダーの製造元は我が地元企業である。
「メーカーがみずから売る」ことによるコスト・ベネフィットと、消費者ニーズに細かく合わせたアイデアとで、低価格志向の消費者向けに業績を伸ばしてきた会社だ。
そういう会社の商品でこういう事故が起きるのは、正直かなり致命的ではないか、と思う。
他のソースを見ていないので、世間の反応はまったくわからないが、この事故は、当該メーカーのアドバンテージをまるごとつぶすような話だと、個人的には思える。
切断といっても、9本では要するにほぼ壊滅である。しかも、シュレッダーの構造上、切れた指を修復することは不可能と思われる。悲惨としかいいようがない。
うちではペットを飼っていて、飼い主不在の時は絶対安全が確保された部屋(カゴ)の中に入れているが、たまにそこから出して遊ばせる時は細心の注意を払う。電化製品はもちろん、洗剤なども危険だし、遊ばせている間は基本的に調理は行わない。
子育てとは事情が異なるだろうが、もう少しなんとかならなかったのか。

生活者として思う(前の記事の続き)。

2006-08-23 00:08:06 | ものおもい
ところで、「酔うぞの遠めがね」で、日本経団連会長による「偽装請負問題」に関するコメントが批評されていた。
(アドレスはここ)
コメント欄にあるように、企業の考えは、

  人事管理したくない
  人件費は抑えたい
  教育訓練はしたくない
  仕事内容は丸投げ出来ない
  丸投げ出来ない請負になんとか丸投げしたい。

ということなのだろう。
つまり、いまの日本では、人件費は、「なるだけ切り詰めるべきコスト」であり、要は不良債権のようなものでしかない。
だから、公務員も総人件費削減が叫ばれる。ヒトを減らす。あるいは給料の額を減らす。(「あるいは」ではなく「かつ」が正しいか)
ところで、「酔うぞの遠めがね」の後の記事でも触れられているが、フォードは自動車の量産に当たり、社員に高報酬を与え、自社製品の顧客とする戦略を取ったという。
日本は人口減少局面に入った。ということは、モノが売れる為には個人の購買力が増さなければならない。しかし、「人件費がコストでしかなく、ゼロに近づけたい」とすれば、労働者=消費者=顧客の購買力が上がるはずがない。いまの企業は、誰にモノを売ろうとしているのか?(デイトレーダーだけにモノを売って済むはずもなかろう)
いい加減、日本は累進課税の強化と法人税の強化に踏み切るべきだろう。そして、雇用待遇を改善した企業は税制上優遇する。でなければ、カネは回らない。それで、本当にいいのか?いまの日本では、誰が幸せなのだ?

公務員とスト権。

2006-08-22 23:53:07 | ものおもい
読売新聞で、公務員にスト権を与え、代わりにリストラを進めるという記事(中川政調会長の発言をもとにしたものだったか)が掲載されていた。(この記事自体はWebで見当たらなかったので、代わりにgooニュース(朝日新聞から)のURLを貼る。http://news.goo.ne.jp/news/asahi/seiji/20060803/K2006080305200.html)
いまの日本で、公務員にスト権が与えられても、それを行使する事は事実上不可能である。今や民間ですらストは殆ど聞かない。それなのに、生活に直結するサービスを提供している公務員がソレをやったら、感情的なバッシングの嵐だろう。出来るはずもない。
もっとも、上記の政調会長発言も、そのことを見越して言われたことらしい。
つまり、上記が実行されれば、何の事は無い、公務員を堂々と、どしどしリストラできるようになるだけだ。つまり「権利の剥奪」が起きるだけである。
そして、そのことを我が国民は諸手を挙げて歓迎するのだろう。
私が就職したのはバブル崩壊後の就職氷河期だが、当時から、「国民は、究極的には公務員に対し『タダ働きせよ』と思っている」と感じていた。要は、公務員なんて大した仕事もしてないのに、公権力をかさに着て威張っている。気に食わない。まして民間が不況でリストラされているときに、のうのうとしている。そこで下される見解が「公務員なんだから品格ある仕事をしろ」「でも内容はだれでも出来る様な下らないコトだからカネなんぞ払わない」ということになる。
そういった国民の本音が、いよいよ表面化してきた感じだ。