昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

ジセイ(自省/自制)のキモチ

2006-07-11 19:16:33 | ものおもい
「中西準子のホームページ」から引用。

B. 損害賠償請求事件(松井三郎さんによる):研究者の自己認識
松井さんが06年4月14日に出した(甲)準備書面(3)に、以下のような文章がある。
“こうした状況下にあって、「環境ホルモン問題は大した問題ではない」という意見から、「未解明なことは数多くあるが、人間や野生生物にとって看過できない重大な課題である」という意見まで、専門家の間でも大きく意見が対立している。
(中略:tokiによる)原告をはじめ環境ホルモン研究者の多くは、むしろ後者の立場に立っている。”
環境ホルモン研究者の多くは、環境ホルモンが重要だと思っているという文章を読んで、私は呆れかえってしまった。
何て、自己認識の欠如した文章だろうと。しかし、待てよと、次に思ったのは、松井さんだけではなく、かなりの日本人研究者が、このような内容の文章が説得力を持つと思っているのではないか、つまり、自己認識ができていないのではないかということだった。
“「環境ホルモン研究者の多く」が、環境ホルモン問題が重大だと思っている”ということが、自己の正当性を主張する根拠になると考えることが、おかしいのである。
何故なら、重大だと思うから研究しているのであり、また、重大だと主張することが自己の研究費の獲得にもつながるから、環境ホルモン研究者だけが集まれば、「重大だ」と主張しがちなのである。環境ホルモン研究者だけが集まればそうなりやすいということを自覚し(つまり、それで利益を受ける集団であることを自覚し)、どのように他の専門家や国民に分かって貰えるか考え、できるだけ客観的に説明できる材料を揃え、最終的には外部の人の判断に従うしかない。
(中略:tokiによる)最近、一般の人が研究者と研究費の関係を知るようになってきた。「研究者は、研究したければできるのではなく、研究費を獲得しなければ研究ができないのですね。」と感じ入ったように言った人がいた。学者が自己認識を獲得するより前に、周囲の人の方がからくりを理解してしまいそうである。
(引用ここまで)

要するに、自省し、自制せよということですな。このへん、下の「尊属殺/昼行灯の犯罪」にも、あてはまりそう。

尊属殺/昼行灯の犯罪

2006-07-11 19:14:39 | ものおもい
いや、私の話ではありません。先週報道された、「阪大生の三男が母親を撲殺」という事件です。
愛読しているブログ「事象の地平線-Event Horizon-」で、コメント欄がプチ祭状態になっています。
この事件、一浪して阪大に入ったはいいがスロ三昧で二留しているダメ人間が、口うるさく注意する母親にたまりかねて殺したというもので、なんとも救いのない話ですが、apjさんの意見が、「母親がむしろ悪い」と言っている様にも見えるため、家族問題を抱えた(?)諸氏がコメント欄で侃々諤々、諸説紛々となっております。
ブログ主のapjさんの意見は、「子に共感する」というショッキングなものですが、さくっと要約すると「親が子に干渉しすぎると、子は主観的には『殺すしかない』という状態に追い込まれる場合がありうる。親の干渉が愛情だという固定観念に囚われ、自己反省がないと、こういった悲劇のタネになる。『愛情という物語』に支えられた『家族』という関係でも、もっと『利害関係』的にモノを見たほうがよい。事実、この親子では、『(二人の兄のように)よい息子にしよう』と頑張った母親は死に、息子は犯罪者となったではないか。これは意図した利益(子供の更正)の真逆ではないか」というもの。
(以上、コメント欄も含めたものすごい超訳:さくっとしなかったスマソ)

apjさん自身、親御さんの過干渉から絶縁状態となったという事で、ご自身の体験からは、「親も悪い」という見解が潜むのは否めないところかと思います。事実、「親になるなら子供に『頼んで生み育ててもらった訳じゃない』って言われることくらい覚悟してからなってほしいです。」といったような攻撃的な発言も目立ちます。
他方、こんだけダメな息子を立派なヒトにしたいという親の努力に非難されるべき点はない、とか、愛情とは、みたいな話から、コメ欄は次第に自分語りに話が拡散しており、apjさんが指摘した核の部分が見えにくくなっている気がします。
私なりにapjさんの指摘を整理すると、
・親が取るべき最適な戦略には「自分の意に沿わせる」以外の選択肢もあるはず
・世間的な「いい子」といった固定観念に囚われ、自分を疑わないことが逆効果となることもある
というものでしょう。
私がこれに付け加えたいのは、
・「愛情」だというなら、ダメな子を一旦は受け入れることだって出来るのでは?
ということです。
私見ですが、お母さんは、二人の息子を立派に育てたという自負があったことと推測します。同じ環境で育て、いい大学にも入れたのに、上二人のようにならない三男はもどかしく、かつ世間的に恥ずかしくもあったのではないでしょうか。だから、典型たる「上二人」のようにしようと「努力」してしまった。「私ならそう出来るはず」と信じて。
ここで、一歩退いて、自分を客観的に見ることができたら、こんなことにはならなかったのではないかと、私も思う。
apjさんのブログでも、息子が24歳という年齢であることから、「母が子を放り出す」とか「子のほうが出て行く」とか、選択肢はそれぞれあったろう、と、再三指摘されています。そのとおりです。
そして、コメ欄でapjさんが
>社会通念上、親としては、まあ子供には、犯罪者なんかになってほしくないと考えているでしょう。
>ところが、どこかで処理を間違えて、自分が殺された上息子は殺人犯という結末になりました。
>パチンコにはまって学校に行かず留年というのは、誉められた生活態度でないにしても、犯罪ではないですから、
>何かをきっかけにまた真面目になれば、少々遅れてもその後普通の人生を過ごすことはさほど困難ではないでしょう。
>しかし、殺人犯になってしまうと、普通の人生を過ごすことは相当困難になるわけです。
>これは明らかに親の指導の結果としては大失敗でしょう。
と書かれている様に、本件は「意図したのと真逆の結末」になったことこそが重要なのです。「家族」という、神話的な枠組みではなく、つまり「母」ではなく、「私」であるなら、本来取られるべき戦略はそうではなかった。少なくとも生き延びられなければ意味はない。
そういう選択をしていれば、それに付随して、「心ならずも息子を犯罪者にする」ことも、結果的に無かったわけです。
皮肉としかいいようがない。
だから、とりあえず疑いをもちましょうと。どこかカガク的態度にも通じるハナシですが。

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そしてそして、さらに付言するならば、この結末は最悪のバッドエンドでもないのかも知れない。
たとえば、ダメ息子を放り出すとする。いずれ生活に困る。犯罪を起こして他人様に迷惑をかける。母としてはこちらの方がよほど辛いかもしれない。そうはならなかった、まだマシではないか、といえなくもない。
こんなダメ息子を擁護する気はさらさらないが、結局、そのくらい柔軟に考えられることが、問題回避のためには重要なのではないか。そして、分かっていたうえであえて問題回避をせず真正面から向かうのだという選択をしたとすれば(つまり「少なくとも他人には迷惑を及ぼさない」ようにしたとすれば)、それは他人がどうこう言うことではない、そんな気がします。
apjさんは、「自覚のない親が子を追い詰める」ということを想定して書いていましたが、実はそうでもないかもしれない。
「分かっていてあえて」かも知れない。息子は何も考えてないだろうけど、というところまで、考えてみました。

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さんざ既出のように、ウチも崩壊したクチですし、まして自分自身はヒトの親になることを放棄した身ですから、「体験」とか「実感」を留保することも、またそこにどっぷり漬かりながら語ることも出来ない、中途半端なオサーンにすぎません。
訪れるヒトもないブログですが、万が一どなたかの目に留まれば御意見頂戴したいと思います。よろしく。

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追記:本件を「愛情の相対性理論」と名付けましょうか。そのことに気づいているか否かが、功利主義的なキーポイントだということで。

サイエンスエンジェル

2006-07-11 19:10:33 | Weblog
母校がなにやら始めているようです。
(以下「yomiuri online」より引用)

>科学の魅力伝える女性院生「サイエンスエンジェル」
>科学者を目指す少女に科学の魅力を伝えるため、東北大は7月から、同大の理系女性大学院生の希望者を「サイエンスエンジェル」として、仙台市内の小、中、高校に派遣する。
>エンジェルは40人ほどの予定で、現在募集中。今年度は仙台市内の学校で、科学の魅力を伝えるほか、オープンキャンパスで女子高校生らの話し相手になる。来年度以降、エンジェルたちの出身校への派遣も検討している。また、エンジェル間のネットワークも作り、交流を図る計画だ。
>東北大は、旧東北帝大時代の1913年、国内の大学として初めて女子学生3人を入学させた歴史を持つが、現在は自然科学分野の女性教員の割合が6・3%と全国的にも低いレベルという。今回の取り組みを通じ、女子学生の割合を高め、女性科学者のすそ野を広げたいとしている。
>同大女性研究者育成支援推進室副室長の小谷元子・大学院教授は、「15歳の男女を比べると、女性が理系科目に弱いわけではない。研究内容や普段の生活を話してもらい、少女たちのお手本になってもらう」と話している。
>(2006年6月24日 読売新聞)

このアイデアとネーミング、やはり愛読している「大隈典子の仙台通信」の書き手、大隈先生が提案者の一人とか。(7月6日の記事参照)
そして、予想通りというか、各所では既に萌えキャラとして認知されているらしい。(各所の萌え反応及び萌えを前提とした意見等へのリンクはめんどいので省略)
偏見を承知で言うのですが、理系女子はその希少性ゆえ、黙っていてもいずれ萌えキャラとして見られゆくのは周知の事実。そこにこのネーミングですから、「チャーリーズエンジェル」のような格好良いイメージと言われても、正直「ホンマかいな?狙ったんでないの?」としか思えない。
要するに、「女子狙い」のプロジェクトが、むしろ理系オタ男子にど真ん中ストライクだった、という話、に見える。見えてしょうがない。
まあ、なんと言うか、そのビミョーさ加減が、やはり母校だな、と思ってみたり。

重力ピエロ、読了。

2006-07-09 09:55:17 | 読書
昨日、読み終わりました。
今回は、非常にストレートな話。いちおうは連続放火事件の謎解きミステリになるのかもしれないけれど、それは全然、本題ではない。どちらかというと、「伊坂幸太郎の倫理観」を全面に出した作品。
全二作と比べると、今回は「教祖的存在」がほとんど出て来ない(一ヶ所出てくるが、突き放される)。その分、非日常性が薄らいでいる。そして、これまでは「絶対悪」への決着が、非日常性の象徴のような出来事で締めくくられていたのに対し、今回は、どちらかと言うと、「日常的な」ほうの人々により決着が図られる。そして、それはそのまま、作者の考える「こういう場合の正解」を示しているのだろう。
むろん、創作だから可能なことであって、現実的ではない。本作は「ほかにどうしろと言うのか」という絶叫なのだと、私は解釈した。
ところで、また本筋とは関係ない部分にこだわるが、本作では、父親が入院している。仕舞いには亡くなる。父親が焼かれる間、主人公達は外に出て、火葬場の煙を見上げる。
「煙」に、父の実体を見る、というのは、あとから指摘されるとよく分かる感情だ。自分のときは、そういう発想がなかった。冬だったこともあるし、煙が見えない設備だった(はず)こともある。ただ、暖かい控室で待っていた。
父が天に昇るのを見たかった、と、今更言っても仕方が無いが。

ヒトを見殺しにする/昼行灯の悪

2006-07-06 23:32:57 | ものおもい
父が入院する前の数ヶ月、梅雨~盛夏~晩夏の時期にもかかわらず、実家ではストーブが出しっぱなしであった。
そして、父の寝室では、ガスストーブが点けられていた。
その時点で、父の体調が相当悪いであろうことには予想出来た。事実、気づいていた。

本来なら、そこで強制的にでも病院へ連れて行き、自分が立会いのもとで検査を受けさせ、医者から結果を聞く、ということをすべきであったろう。
しかし、前回の入院以降、父は肝機能検査と糖尿病の検査のため、月1回通院しており(少なくとも最初の2年は)、検査では問題がないと言う報告を父から受けていた。そのことを根拠に、それ以上は考えるのを止めていた。
頭の片隅では、父が都合の悪いことは隠す性格であることに気づいていながら。
思えば、その頃はすでに、検査結果について父から証拠書類を見せられることもなくなっていたように思う。
父が禁酒を解いていたのは知っていたから、体調の悪化がそのことに起因するのは自明であった。
要は、私は当時、父にまつわる様々なトラブルに巻き込まれ、自分達の時間が削られることを嫌っていたに過ぎない。

結果、父は入院し、死んだ。

だから、私は父を見殺しにしたのだ。

*****

かつて、飼っていたペットの尿の色が以前に比べ黄色味が強くなっていることに気づいた時、疑問に思いながらも、具体的な行動には移さなかった。
その後、ペットは咳き込むようになり、吐しゃもするようになった。慌てて、県外の専門医へと連れて行った。
そして、投薬を指示されて帰宅した翌朝、彼女は激しく咳き込み、そのまま息を引き取った。
病理解剖の結果、死因は肝機能障害による内臓の癒着・炎症と、その結果としての肺水腫であった。
彼女が吐いていたのは、肺に溜まった水だった。

後日、手元の飼育書を見ると、便の黄変は肝臓障害を疑うべし、と、ちゃんと書いてあった。
異変に気づいてすぐに飼育書を見直し、肝臓病の疑いありと告げた上で専門医の診察を受けさせていれば、と、今でも悔やむときがある。
もっとも、所見によれば、内臓の炎症は相当長期のものであったそうだから、それで余命が延ばせたかどうかは、わからない。

生来の昼行灯が、こういう時には悪いほうに作用する。
慢性的に進む危機にはえてして鈍感である。
それでも、また、きっと、同じような過ちをしてしまうのだろう。

あるいは、今度は、自分の身に降りかかるかもしれない。何せ、体重が増えて仕方が無い。
気をつけねば。

伊坂作品と故郷の風景

2006-07-06 23:28:50 | 読書
10年ほど前、広島に行く用事があり、ついでに寄り道をした。翌日の新幹線で帰るところを、岡山で下車し、そこで一泊。翌朝、後楽園を見物し、また新幹線に乗って、西に逆戻り。降りたのは尾道。
大林宣彦監督作品を始め、様々な映画の舞台となった町だ。
短い滞在だったので、駆け足でこの坂の町を駆け巡った。おもに、映画のロケ地を見て回った。「転校生」の神社の階段、「ふたり」のトラック事故現場(トラックの出てきた道は実は民家の玄関先へ繋がる私道であり、大型車が飛び出して来るような状況には無かった)。高台からは「さびしんぼう」の船着場を見下ろした。
要するに、富田靖子と石田ひかりのファンだった。それだけのことだ。

*****

伊坂作品で故郷の風景が描写されているのをを目にすると、上記の体験を連想する。ただし、順序が逆だ。物語で見た景色を実際に見るのではなく、実際に見知っている景色が出てくる。小説だから、映画よりも場面の具体性に乏しい。にもかかわらず、おそらくその光景を他者よりもリアルに観念できている。ある種眩暈にも似た感覚。

『ラッシュライフ』では、河原崎と塚本が、泉ヶ岳の山腹、スキー場のゲレンデ用地から街を見下ろす描写がある。
5年ほど前、仕事で泉ヶ岳の北に広がる国有林の調査に同行した折、初夏の泉ヶ岳の山腹から、小説と同じように市街地を見下ろしたことがある。その下、泉ヶ岳に繋がる市道からも、東南に広がる街並みはよく見える。
実は、現在居を構えているのは、その道路と住宅地が接する辺り。だから、この光景は、今の私にとっては「地元」と言ってもいい。車で15分も移動すれば、河原崎の視線になれる。それだけ、馴染み深い。

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いま、文庫版「重力ピエロ」を読んでいる。仙台市内の落書きについて描写がある。作者と私は、同じ落書きを目にし、同じように憤っているのだろう。ところが、彼は、小説の中で落書きを消してみせる。私はというと、憤ることしか出来ない。

*****

「砂漠」が直木賞候補となった。大学生活を描いた作品と聞いている。基本的に「青春」と呼べる様な時期とは無縁の生活をしてきた自信があるが、もし、そういう時期があったとしたなら、大学生活を含む数年がそれに該当する。読めば、やはり、作品の筋とは異なる部分に反応してしまうことになるのだろう。小説を読むことにおいて、それが幸福な事か否かは、わからない。

ヒトはかくも偏見から逃れられない動物である。

2006-07-03 22:30:48 | 裁判
詳しい経緯は「環境ホルモン濫訴事件:中西応援団」を参照してください。
そろそろ裁判も終盤のようで、ちょっとした感想を。

「被告の記事は環境ホルモンを重大事と考える者の社会的地位を低下させるためである」
という偏見を念頭に読めば、なるほど件の記事はそう見えなくもない。
だから、原告側がこのような主張をするのはよくわかる。
しかし、それは畢竟、原告側自身の意識を映し出す鏡にすぎない。
つまり、

「被告は環境ホルモン重大派を不当にも攻撃している」
「その方法はリスク論によってである」
「リスクコミュニケーションというテーマは、そもそも攻撃のために設定された」
「『環境ホルモンが重大事』は『宗旨』のごとく堅持すべきである」
「その『宗旨』を変える者は糾弾されて然るべきである」

という意識である。

言葉は悪いが「陰謀論」と言う単語が浮かぶ。

付言すれば、原告側はおそらく「被告を貶める作戦」として上記の主張をしたのではない。
本気で上記のように思っており、だからそのように書いた。
なぜなら、裁判での勝訴を目指すなら、こんなことは書かない。
それにしても、準備書面を書きながら「無理がある」とは思わなかったのだろうか?
(ときには「無理がある」と思っても、あえて書くのが裁判ではあると承知はしているが)

追記:先日放送された「ためしてガッテン」の、環境ホルモン(通称をあえてそのまま使用)に関する内容は、酷かったようで。
興味のある方は、中西応援団の掲示板をごらん下さいませ。