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2013春学生体験記inザンビア 熊本大学  原 聖さん     

2013年04月01日 | 未分類
2013年3月、IFMSA(国際医療保健連盟)に所属する学生がTICOが活動しているザンビアのモンボシの村で、
2泊3日のビレッジステイを行いました。
熊本大学医学部 原 聖さんから感想が届きましたので、ご紹介させていただきます




首都ルサカから車で3時間走って村の入り口まで行き、そこからはCHWのDavisさんと一緒に2時間半かけて畑と草むらに囲まれた畦道を歩きました。道すがら、裸足で小川を渡ったり、蟻の大群を飛び越えたりする合間に、Davisさんとは様々な話をすることができました。翌日の予定のことから始まり、農村の衛生状態、教育環境、農業や牧畜について、日本とルサカの生活の違い、倫理観や美意識、果ては宗教について。Davisさんは30代前半ですが、穏やかで、外国から来た年下の人間に対しても礼儀正しく接し、物知りで、物事を深く考え理性的に行動する、一言で言えば僕にとって非常に尊敬できる方でした。午後6時ぐらいに家に着き、奥さんや友人の方々への紹介や荷物の片付けが済んだあと、電灯がない真っ暗な家の中で、懐中電灯で食事を照らしながら夕食をご馳走になりました。

僕は1986年生まれです。生まれたときから身の回りにはモノが溢れ、物心つくころには自分の体の一部のようにモノを使いこなしていました。ザンビアの農村には電気や道路も含めて圧倒的にモノが足りず、日本の生活に慣れた僕からするとおそろしく不便でした。人間は、新たに何かを得ることを望むよりも、既に持っているものを失うことを恐れる気持ちのほうが強いと言います。それはおそらく、人間が、自分の身体を基本にして世界を捉えているからでしょう。腕がもう一本あれば便利だろうな、と考える人はいなくても、小指の爪の一枚ですら、それを失うような事態は誰もが必死に避けようとするということです。僕にとっては、電気がない生活は、電気を「失う」ことだったのです。

しかし、そこに住む方々と(ほんの二晩ですが)暮らしを共にした限りでは、普段の生活の中でモノの不足に特段苦しめられている様子はありません。常に時間に追われるような生活を強いられている日本人としてはむしろ、彼らのスローライフが羨ましく思える瞬間もありました。Davisさんに、日々の生活の中でどんなものを美しいと思うのかを聞いたところ、こう答えてくれました。“something new to my eyes...” たとえば、昨日生まれたばかりの子山羊を見たとき、あるいは、外部から来た君のような人と話す瞬間…
農村に泊まったあとは、モンボシの高校を訪れました。帰り際に、日本人に対して聞きたいことはないか尋ねたところ、生徒から出た質問の一つ目は、「日本人は神に祈るのか」、もう一つは「日本人はどうやってリッチになったのか」でした。一つ目に対しては、先祖の命日に墓の前に行って祈り、彼らの魂とその在り処について思いを巡らすのだ、と答え、一部の生徒からは拍手も出るほど納得してもらうことができました。しかし、二つ目の質問に対しては、朝7時に家を出て夜22時に家に帰るまで日本人全員がまるで兵士のように猛烈に働くのだ、などという適当なことしか答えられませんでした。なぜ猛烈に働くのか、なぜ働く場所があるのか(失業率が低いのか)、ということについては考えたことがなかったからです。

日本の田舎と比べたとき、まずザンビアの農村には舗装された道路がないので、外部との関わりが非常に限られています。ザンビアでは部族は解体されつつあり、その代わりにザンビア人としての国民意識はそれなりに根付いているように見受けられますが、農村には外国人が滅多にいません。有り体に言えば、ジープで乗り付けて子どもたちにチョコレートを配るような外国の軍隊や、同じ村で共に育った女性の春をはした金で買っていくような外国人がいません。さらには外国人を映し出すテレビすらありません。今までモノを所有したことがなく、さらに、強烈な羨望や憎悪を抱かせるような他者が目に映る範囲に存在しなければ、欲望自体が生まれず、結果として不満を感じることも少ないのかもしれないと僕は考えました。だとすれば、過剰に情報化された社会に住む我々の目に、ザンビアの農民の無欲さと、それゆえの精神的に豊かな生活が羨ましく映るのは、ある意味では当たり前のことです。

ただし一点、彼らは現状に対するある大きな不満を抱えています。乱暴にまとめるならば、それは医療と教育の不備に対する不満です。モノの不足と違って医療と教育は生死や住む(働く)場所を左右するものです。さらに、それらを享受する機会が少ないことによって、自分だけではなく、身近な他人が苦しむ姿を目の当たりにすることになります。たとえば日本の病院で、小児科におけるクレームの件数が他科に抜きん出て圧倒的に多いことからも分かるように、人間は、自分自身のためよりも、大切な他人のためにこそ感情を揺り動かされ、強烈な意志を持続させるものです。満足な医療を施せないために家族が日に日に弱って死んでいく姿、向学心に燃える息子の目が絶望に曇り、光が失われていく様。それら以上に無力感と自己嫌悪をかき立てるものは他には存在しません。農村及びルサカのスラム街の状況と、ルサカの富裕層の人々を比べて僕が最初に思ったことは、単純に、あまりにもフェアではない事態が生じている、ということです。経済が存在する以上、富める者と貧しい者がいるのは当然ですが、ここまでの苦しい生活を強いるのは、なにか正義に反しているのではないか、ということを感じました。

では、彼らには何が与えられるべきなのでしょうか。金でしょうか。インフラでしょうか。現金収入を増やすための技術?無料の医療と教育?農業を奨励する政策?それとも希望でしょうか。あるいは宗教的な救済?残念ながら、何をどう与えるべきかということについては僕はまだ考えが及びません。また、そういうことは、将来、医師として関わる中で考えていくしかないようにも思います。
ただし、9年生の1つのクラス102人のうち100人が、将来は都会で働いてたくさん金を稼ぎたい、と答えるような状況下では、ザンビアの農村が自力で成長して様々な問題を発展的に解消していくなどということは、しばらくの間は不可能です。彼らの問題は彼ら自身の力のみでは解決できず、見ようによっては問題ですらなく、それゆえに解決の試みすら為されることはありません。彼らの問題が問題であるとするならば、彼らには、無償で何かが与えられるべきです。カネだけ渡すその場限りのものか、自立と発展を促す持続的なものか、などのように与え方には様々な方法が考えられますが、何らかの方法で何かを「与える」べきなのは間違いありません。親が子どもに無償の愛を注ぎ育てるように、ギブアンドテイクではない関係こそが、国によって程度の差はあれど、社会の根幹を支えており、また、救うことによって救われる、という形での他人との関わりは、個人として生きていくうえでも欠かせないものだと思います。

最後に、今回このように貴重な経験をする機会を与えてくださったTICOのスタッフの方々に深くお礼を申し上げます。


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