短いお別れ

勝手に思う事を、徒然なるままに…

彼の好きな音

2008年01月19日 20時33分43秒 | Weblog

『チョキチョキ、チョキチョキ。家に帰ると、お父さんがお客さんの髪の毛を切るハサミの音が聞こえる。僕のお父さんは床屋さんをやっている。チョキチョキ。僕はこの音が大好きだ。』


小学校の4年生ぐらいだったと思う。『親』というテーマで、作文の宿題が出た。

上記の文章は、僕の友人がその時に書いた作文の書き出しだ。

良い文章という事で、当時の担任が彼の作文をプリントし、クラスに配った。僕はこの文章を鮮明に記憶している。

確か、彼は、作文の最後を小学生らしくこう締めた。

『お父さんは、チョキチョキとたくさんの人の髪の毛をきれいにする。将来、僕もお父さんみたいになりたいと思います。』

それから、10年程の月日が流れ、彼は床屋さんではなく、美容師になった。10余年後には専門学校時代の友人と東京近郊に小さいけれど、自分達の店を持った。

そして2年前、いくつもの美容院が並ぶ、その街のメインストリートに20人程は座れる大きな店を出した。スタッフも増えた。

僕は忙しくなければ、月に一度、彼に髪の毛を切ってもらっている。

ただ、この1年ぐらいは、店に予約の電話をしても彼が店に出ていない事が増えた。事情は聞いていないけれど、一緒に店を始めた彼の友人も辞めてしまって、最近は初めて見るスタイリストに髪を切ってもらう事が多かった。

彼等に僕の友人について聞くと、決まってこう言う。"社長は忙しいみたいです"

彼は、床屋さんではなく、美容師さんでもなく、社長さんになった。

以前は、特に小さい店の時は、閉店間際に髪の毛を切ってもらい、そのまま店を閉めて二人でよく飲みに行った。ビール党の彼のジョッキを空けるペースが上がってくるのが、サインだった。彼は夢を語り始める。素敵な夢だった。

最近はそんな機会はなかった。だから僕は、今の彼の夢を知らない。

そんな彼から、先日メールが届いた。プライベートなメールではない。お店から会員の携帯電話に届くメルマガみたいなものだ。

店舗移転のお知らせと題されたそのメールはこんな文章だった。

『最初の店舗で4年、次の店舗で2年、長い間、ご愛顧頂きありがとうございました。当店は移転するはこびとなりました。1日も早く、新しい店舗をご紹介できるよう、頑張りたいと思います。』


何処にいつ移転するのかは、まったくの未定との事だった。

彼から個人的な連絡はない。僕も連絡をしようとは思っていない。だから、事の詳細は確かではないけれど、少なくともハッピーな状態ではない事は推察できる。そして、僕は髪の毛を切れない日々を過ごしているのだけれど…

お正月に実家に帰らなかった僕は、この間の三連休に、家に顔を出した。その日は電車で帰った。

地元の駅から、我が家へ歩く途中に友人の実家の床屋さんがある。

その前を通りすぎた時、見慣れたウィンドウの奥で、60歳を越えた彼のお父さんが、必死でハサミを動かしていた。

僕が中学生になり色気づいて美容院に行くようになるまで、毎月僕の髪の毛を切ってくれていたおじさんだ。とにかく優しいおじさんだった。

僕は今、安心している。友人は、家に帰れば、彼が大好きだったチョキチョキというあの音を今でも聞く事ができるのだ。それは、あの頃よりも重みある音に聞こえる事だろう。

彼がこれから再び、自分の手でお客さんのヘアスタイルをきれいにしたいと思えるならば、自らが握るハサミで大好きだったあの音を鳴らしたいと思えるならば、彼は生涯、美容師であり続ける事が出来るはずだ。

あれから20年余りが過ぎたけれど、理容師と美容師の違いはあるけれど、何しろ彼の夢は、お父さんのような人になる事だったのだから。

僕の襟足は少し煩くなった…

でも、オーケーだ。しばらく、髪の毛を伸ばしてみよう。