未唯への手紙
未唯への手紙
葬式仏教 死者のための仏教か!?
『日本仏教史』より 檀家制度
この檀家制度の基礎になるものは「宗門人別改帳」です。寛文十一年(一六七一)、幕府は諸代官に命じて宗門人別改帳をつくらせました。以後、これが制度化されて、江戸時代の全期間を通じて実施されます。日本に一人も切支丹がいなくなってからも、宗門人別改帳の作成が檀那寺に義務づけられたのです。
この宗門人別改帳は、原則として一戸単位に作成されます。まず戸主と全家族、それに奉公人の名前と性別、年齢が記載され、さらにその家の宗旨と檀那寺名が付され、そこに檀那寺と村役人の請印が加えられます。これが寺請証文になるわけです。それ故、結婚や死亡等による異動があれば、その都度、檀那寺が寺請証文を発行することになっていました。
かくて、仏教寺院は、市役所・区役所の戸籍係になってしまったのです。
いや、仏教寺院はもっと阿漕でした。寺側は檀家を、
「いいかい、おまえさん、あんまりお寺を粗末に扱っていると、来年の宗門人別改帳には請印を捺さないからね。それでいいのかい……」
と恫喝する始末。そういう例があちこちで見つかっています。石田瑞麿著『日本仏教史』(岩波書店)によると、寺院側はのちには、徳川家康が慶長十八年(一六一三)に出したとい
--「御条目宗門檀那請合之掟」--
なる法令を偽作したとあります。それには、檀家は、
--寺の行事への参加。寺の雑役・修理・建立につとめること。葬式には檀那寺の差図を受けること。中陰・年忌・命日、あるいは先祖の仏事法要を怠らないこと--
などが義務づけられています。こうした「掟」が寺々に張り出されていました。檀家を嚇して寺にお布施を持って来させようとする魂胆が読み取れます。
その結果、日本の仏教は「葬式仏教」になってしまいました。
そりゃあ、そうでしょう。檀家から金を搾り取るには、葬式や年間法要をやらせるのが手っ取り早い方法です。もしも寺で葬式をやるのを拒めば、その人は切支丹にされてしまいますから、寺で葬式をやるよりほかないのです。おかしなことになりました。
苑如を論じた章でも言いましたが、浄上真宗の開祖の親鸞は、
《「某、閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」》
と遺言しています。また、時宗の開祖の一遍は、
《わが門弟子におきては、葬礼の儀式をとゝのふべからず。野に捨て獣にほどこすべし。但在家の者、結縁のこゝろざしをいたさんをば、いろふにおよばず》(『一遍上人語録』巻下)
と言っています。出家した弟子は、わたしの葬儀にたずさわってはならぬ。遺体は野山に捨てて獣に与えよ。しかし、在家の者がそれをやるのは干渉しない、というのです。
本来、僧が葬儀に関与するのは、特殊な場合を除いてなかったことです。ところが江戸時代になって、切支丹弾圧のために(といった名目で)仏教の僧が葬儀をやらねばならなくなりました。さて、そうなると、今度はお坊さんが戸惑ってしまいます。檀家の葬式をやるにも、やり方が分からないのです。
なぜなら、葬式は習俗です。習俗というものは、それぞれの地方の風習に従って、民衆が勝手にやるものです。ですから「仏教的葬儀」なんてものはありません。
なのに、突然、仏教的葬儀をお坊さんが執行せざるを得なくなって、お坊さん自身が戸惑ったわけです。
そこで、僧侶の葬式のやり方でやることにしました。
在家の人間の葬式は在家の人間、具体的には本家の家長だとか、村の長がやってくれます。けれども、出家者には家がありません。それで、出家者の葬儀は、仲間である出家者がやるよりほかない。その仲間どうしの葬儀のやり方がとられたのです。
で、まず死者を出家させます。死者の頭を剃って丸坊主にします。実際には剃らずに、まねごとをする地方もあります。昨今はほとんどがまねごとです。
死者を出家させるなんて、まるで漫画ですね。
死者が出家すれば僧になり、僧になれば僧名がいります。それが戒名です。しかし浄土真宗と日蓮宗では、戒名といわずに法名・法号と呼びます。
戒名は、受戒したときに師から授かる僧名です。死者は師僧の弟子となったのです。そこで次に師僧は、この弟子を教育せねばなりません。そのためにお経を読んで聞かせるのです。葬儀のおりにお経が読まれるのは、あれは弟子(死者)に聞かせているのです。葬儀に参列した人が、「あんな漢文のお経なんて、われわれにはちっとも分からない」とぼやきますが、別段会葬者に分からせる必要はありません。死者が分かれば、それでいいのです。
でも、この葬儀だけで終わってしまっては、寺院は「商売」になりません。そこで葬儀のあと、追善供養の法事をすることを檀家に義務づけました。それも、時代が下がるとだんだん法要の必要回数が増えてきます。それで江戸時代の後期には、
--初七日・二七日・三七日・四七日・五七日こ(七日∵七七日(四十九日、満中陰)・百箇日・一周忌・三回忌・七回忌・十三回忌・十七回忌・二十三回忌・二十七回忌・三十三回忌 といった法要を営まねばならなくなりました。場合によっては五十回忌までやらされます。
「そんなこと、やりたくない」と言えば、宗門人別改帳から名前を削られる心配があります。庶民は泣く泣くお布施を出さねばなりません。
ともかく、江戸時代になって、仏教は「葬式仏教」になりました。
そして寺院は葬儀・法要といった「商売」によって経営が安定します。そのため僧侶は安逸に流れ、堕落しました。結局は仏教が死んでしまったのです。
その原因は檀家制度にあります。先祖供養を骨駱とした檀家制度は、生きている人間のための宗教ではありません。わたしは、寺院が先祖供養をやめるよりほか、日本の仏教の再興はないと思います。
「でも、お葬式や先祖供養をやめると、わたしたちは生きてゆけなくなります」
現代においてそう言われるお坊さんがいます。それじゃあ、仏教はお坊さんを養うためにあるのですか!? そう訊きたくなります。
仏教は生きている人間のためにあるのです。そのことを忘れてもらっては困ります。
この檀家制度の基礎になるものは「宗門人別改帳」です。寛文十一年(一六七一)、幕府は諸代官に命じて宗門人別改帳をつくらせました。以後、これが制度化されて、江戸時代の全期間を通じて実施されます。日本に一人も切支丹がいなくなってからも、宗門人別改帳の作成が檀那寺に義務づけられたのです。
この宗門人別改帳は、原則として一戸単位に作成されます。まず戸主と全家族、それに奉公人の名前と性別、年齢が記載され、さらにその家の宗旨と檀那寺名が付され、そこに檀那寺と村役人の請印が加えられます。これが寺請証文になるわけです。それ故、結婚や死亡等による異動があれば、その都度、檀那寺が寺請証文を発行することになっていました。
かくて、仏教寺院は、市役所・区役所の戸籍係になってしまったのです。
いや、仏教寺院はもっと阿漕でした。寺側は檀家を、
「いいかい、おまえさん、あんまりお寺を粗末に扱っていると、来年の宗門人別改帳には請印を捺さないからね。それでいいのかい……」
と恫喝する始末。そういう例があちこちで見つかっています。石田瑞麿著『日本仏教史』(岩波書店)によると、寺院側はのちには、徳川家康が慶長十八年(一六一三)に出したとい
--「御条目宗門檀那請合之掟」--
なる法令を偽作したとあります。それには、檀家は、
--寺の行事への参加。寺の雑役・修理・建立につとめること。葬式には檀那寺の差図を受けること。中陰・年忌・命日、あるいは先祖の仏事法要を怠らないこと--
などが義務づけられています。こうした「掟」が寺々に張り出されていました。檀家を嚇して寺にお布施を持って来させようとする魂胆が読み取れます。
その結果、日本の仏教は「葬式仏教」になってしまいました。
そりゃあ、そうでしょう。檀家から金を搾り取るには、葬式や年間法要をやらせるのが手っ取り早い方法です。もしも寺で葬式をやるのを拒めば、その人は切支丹にされてしまいますから、寺で葬式をやるよりほかないのです。おかしなことになりました。
苑如を論じた章でも言いましたが、浄上真宗の開祖の親鸞は、
《「某、閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」》
と遺言しています。また、時宗の開祖の一遍は、
《わが門弟子におきては、葬礼の儀式をとゝのふべからず。野に捨て獣にほどこすべし。但在家の者、結縁のこゝろざしをいたさんをば、いろふにおよばず》(『一遍上人語録』巻下)
と言っています。出家した弟子は、わたしの葬儀にたずさわってはならぬ。遺体は野山に捨てて獣に与えよ。しかし、在家の者がそれをやるのは干渉しない、というのです。
本来、僧が葬儀に関与するのは、特殊な場合を除いてなかったことです。ところが江戸時代になって、切支丹弾圧のために(といった名目で)仏教の僧が葬儀をやらねばならなくなりました。さて、そうなると、今度はお坊さんが戸惑ってしまいます。檀家の葬式をやるにも、やり方が分からないのです。
なぜなら、葬式は習俗です。習俗というものは、それぞれの地方の風習に従って、民衆が勝手にやるものです。ですから「仏教的葬儀」なんてものはありません。
なのに、突然、仏教的葬儀をお坊さんが執行せざるを得なくなって、お坊さん自身が戸惑ったわけです。
そこで、僧侶の葬式のやり方でやることにしました。
在家の人間の葬式は在家の人間、具体的には本家の家長だとか、村の長がやってくれます。けれども、出家者には家がありません。それで、出家者の葬儀は、仲間である出家者がやるよりほかない。その仲間どうしの葬儀のやり方がとられたのです。
で、まず死者を出家させます。死者の頭を剃って丸坊主にします。実際には剃らずに、まねごとをする地方もあります。昨今はほとんどがまねごとです。
死者を出家させるなんて、まるで漫画ですね。
死者が出家すれば僧になり、僧になれば僧名がいります。それが戒名です。しかし浄土真宗と日蓮宗では、戒名といわずに法名・法号と呼びます。
戒名は、受戒したときに師から授かる僧名です。死者は師僧の弟子となったのです。そこで次に師僧は、この弟子を教育せねばなりません。そのためにお経を読んで聞かせるのです。葬儀のおりにお経が読まれるのは、あれは弟子(死者)に聞かせているのです。葬儀に参列した人が、「あんな漢文のお経なんて、われわれにはちっとも分からない」とぼやきますが、別段会葬者に分からせる必要はありません。死者が分かれば、それでいいのです。
でも、この葬儀だけで終わってしまっては、寺院は「商売」になりません。そこで葬儀のあと、追善供養の法事をすることを檀家に義務づけました。それも、時代が下がるとだんだん法要の必要回数が増えてきます。それで江戸時代の後期には、
--初七日・二七日・三七日・四七日・五七日こ(七日∵七七日(四十九日、満中陰)・百箇日・一周忌・三回忌・七回忌・十三回忌・十七回忌・二十三回忌・二十七回忌・三十三回忌 といった法要を営まねばならなくなりました。場合によっては五十回忌までやらされます。
「そんなこと、やりたくない」と言えば、宗門人別改帳から名前を削られる心配があります。庶民は泣く泣くお布施を出さねばなりません。
ともかく、江戸時代になって、仏教は「葬式仏教」になりました。
そして寺院は葬儀・法要といった「商売」によって経営が安定します。そのため僧侶は安逸に流れ、堕落しました。結局は仏教が死んでしまったのです。
その原因は檀家制度にあります。先祖供養を骨駱とした檀家制度は、生きている人間のための宗教ではありません。わたしは、寺院が先祖供養をやめるよりほか、日本の仏教の再興はないと思います。
「でも、お葬式や先祖供養をやめると、わたしたちは生きてゆけなくなります」
現代においてそう言われるお坊さんがいます。それじゃあ、仏教はお坊さんを養うためにあるのですか!? そう訊きたくなります。
仏教は生きている人間のためにあるのです。そのことを忘れてもらっては困ります。
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