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建国期アメリカの防衛思想 民兵と正規軍

『アメリカを探る』建国期アメリカの防衛思想 より

民兵優位の思想的伝統

 アメリカにおいて、民兵こそ防衛の主たる担い手であり、正規軍は一つの必要悪であるという考え方が、早くから確立していたことは事実であり、それはほとんど建国の精神の一部とすらなっている。いち早く、独立諸邦の憲法が、多かれ少なかれその趣旨の条項をもっていることは、しばしば指摘される通りである。たとえば、一七七六年のヴァージニア邦憲法は次のごとく規定している。「軍事に訓練された人民の団体よりなる規律正しい民兵は、自由国家の適当なる、自然かつ安全なる護りである。平時における常備軍は、自由にとり危険なものとして忌避するべきものである」(権利の章典第一三条)。

 独立戦争遂行にさいしても、基本的には民兵の力に依存することが前提とされた。現実には戦争の遂行は、後に述べるように民兵によってのみはなしえず、大陸軍(Continental Army)という正規軍の編成を試みざるをえなかったが、思想的にはそれはあくまでも例外的なものであった。したがって、独立戦争の終了とともに、大陸軍は実質的には解散されることになる。その解散を求めて、連合会議(Congress)の代表の一員ゲリーが、「平時における常備軍は共和政体の原理と相容れないものであり、自由な人民の自由にとって危険であり、また一般に専制政治の確立を助ける破壊的な力に変化する」と述べるとき、それは当時のアメリカ人一般の常識を表現したものであろう。

 この「常識」は、その後繰り返し、公の声明として表現される。みずから大陸軍総司令官であったワシントンが、大統領の職を去るにあたってなしたあの有名な告別演説の中で、やはり「肥大化した軍備というものは、いかなる形態の政府のもとでも自由にとって不吉なものであり、共和主義的自由にとってはことに敵対的なものとみなされる」と語っている。また、ワシントン以降、南北戦争のグラント将軍にいたるまでの間で、もっとも国民的人気のあった将軍ジャクソンが、大統領に当選して、就任演説を行なったときにも、やはり「常備軍というものは、平時における自由な政府にとって危険であることにかんがみて、私としては、現在の軍備をこれ以上拡大することを求めるつもりはない」と述べている。

 こうして、平時における常備軍は自由にとって危険であるという観念は、アメリカ人の間にほとんど固定化していたといってよいであろう。

 この民兵優位、正規軍敵視の背景には、もちろん自由主義的伝統があろう。むしろ、そうした思想的原因を主として考えるのが普通である。たとえば、ハンティントンは、自由主義がアメリカ人の支配的な考えであり、「自由主義は軍事制度や軍事機能について理解せず、またそれに敵対的である」という前提に立って論旨を展開している。しかしこの自由主義的伝統に関する限り、それはけっして特殊アメリカ的なものではなく、むしろイギリスから継受されたものであることはいうまでもない。それは、遠くマグナーカルタまでさかのぼり、一六八九年の権利章典の中で「平時において、国会の承認なくして国内で常備軍を徴集してこれを維持することは、法に反する」とうたわれている。このイギリス憲法に則して、独立宣言は、「イギリス国王は、平時において、わが植民地議会の同意なしに、常備軍をわれわれの間に常駐せしめた」と非難したのである。

 しかし、このイギリス的伝統の継受か、アメリカにおいて風土化されたのは、やはりたんなる思想上の継受だけではなく、アメリカ的環境の強いインパクトがあったはずである。私が、ここでとくに問題としたいのは、まさしくそうしたアメリカ的環境の所産としての民兵優位の思想なのである。

アメリカ的環境と民兵制度

 アメリカにおいて、思想的伝統を別として、民兵優位の思想ないし制度が発達したまず第一の理由は、端的にいえば人的資源の不足という冷厳な事実があげられよう。アメリカは、植民地創設以来、極端にいえば一九二四年の移民制限にいたるまで、つねに労働力の不足を経験してきた。広大な空間と豊富な資源という自然を背景に、その自然を開拓すべき労働力は、少数の、しかもマイナス要因としてのインディアンを除けば、すべて移民労働力に依存しなければならなかった。また、まさしくそれゆえに、アメリカにおける労働賃銀は相対的に高額であり、それが移民渡来の誘因となっていたわけである。

 ところが、ヨーロッパにおいて、がんらい軍隊とは非勤労的な二階級、つまり貴族と浮浪者のグループから構成されるのを通常としていた。ちょうど、一六〇七年以来アメリカのイギリス領植民地が発達し、独立にいたる一七、一八世紀は、ヨーロッパにおける正規軍、常備軍制度が確立される時期であるが、常備軍は、貴族的な士官としばしば浮浪者たちより調達された兵士からなっていたのである。そして、このグループは暴力の専門家として、一般市民から区別され、生産的な仕事には従事しない存在であった。

 他方、植民地時代のアメリカ社会では、身分制に基づく有閑階級がまったくなかったとはいえないにせよ、労働力の不足は、文字通り働かざるものは食うべからずという状況を現出し、軍事のみを専門とする階層の存在を許す余裕はなかったのである。職業軍人という階層の存在は、アメリカ人にとって、何よりも非生産的な存在であり、そのうえ貴族的な、あるいは封建的な、ヨーロッパ的な、したがって非アメリカ的なものとみなされたのである。「まだまだ多くことが成しとげられなければならない国においては、兵隊は怠けものとして取り扱われた」のである。つまり、アメリカの環境が、正規軍、常備軍というものを保持する人的余裕がなかったこと、この冷厳な事実が、アメリカにおける正規軍、常備軍否定ないし敵視の意識されざる基本的要因であったといえよ

 しかし、アメリカ的環境が正規軍ないし常備軍を常時保持する余裕がなかったということは、アメリカ的環境が平穏であり、防衛を必要としなかったということではけっしてない。アメリカは独立して以降も、われわれが想像するよりはるかに多くの国際戦争に従事してきているが、独立以前、植民地時代においても、実は多くの国際戦争にまきこまれている。イギリス領アメリカ諸植民地は、当時のイギリス対フランスの世界大帝国建設の争いの一環として、大きいものでも四度の戦争を経験している。一六八九-九七年のアウグスブルグ同盟戦争(アメリカにおける King William's War)'一七〇二-一三年のスペイン王位継承戦争(アメリカにおける Queen Ann's War)’四〇-四八年のオーストリア王位継承戦争(King George's War)’五四-六三年の七年戦争(The French and Indean War)と、国際戦争を体験し、そのたびに植民地人は動員されているのである。そして、実は独立そのものが、独立宣言の前に、七五年四月コンコードで始まるイギリス本国との武力衝突によって開始され、さらにフランスを同盟国とする国際戦争によって達成されたわけである。まことに「合衆国は暴力行為によって生まれた」のである。

 だが、植民地人にとって、もっとも切実であったのは、日常的なインディアンとの戦いであろう。インディアンとの戦いは、ほとんど間断なくつづけられ、そこでは戦争状態は、例外ではなく、むしろ平常の状態であったとすらいえる。したがって、当然に常時防衛の必要が存在していたわけである。

 この常時防衛の必要と労働力の不足(つまり、防衛専門家の不在)という矛盾を、現実に解決するものが民兵制度であったといってよい。いいかえれば、成年男子が実質的に全員防衛義務を負担するという制度である。一六一二年ヴァージニアで制度化されたのをはじめとし、植民地において多少の制度的相違こそあれ、ほぼ全植民地において採用された。ただし、植民地が発展・拡大し、インディアンの脅威が必ずしも日常的現実ではなくなった地帯では、つまり東部沿岸地方では、民兵制度は形骸化していった。それに対し、インディアンとの戦争が依然日常的であり、また他国の、ことにフランスの植民地と国境を接し、国際戦争の直接的影響を受けやすい地方では、民兵制度は実際上の意味をもちつづけた。しかし、上の記述からも明白なように、これらの防衛は、あくまでアメリカ植民地人、各個人、各家族、各コミュニティ、各植民地にとっての防衛なのであり、植民地人に関する限り、防衛とは、当然に彼ら自身を守ることにほかならなかった。

イギリス帝国の防衛組織

 しかし、他方、これらの植民地を領有するイギリス本国にとって、また別個の防衛観があったのも当然であろう。すなわち、各植民地を越えたイギリス帝国の防衛の問題である。イギリス帝国を、フランスその他の他国との関係において防衛するという考えは、植民地人の防衛観と必ずしもつねに矛盾するとはいえないが、第一義的には、イギリス本国のためにする、イギリス帝国の防衛を目的とするものであった。その点、個々の植民地を犠牲にしても、イギリス帝国全体を確保、防衛することを目的とし、場合によっては、イギリス帝国を脅かす個々の植民地に対する制圧の可能性をも含む防衛であった。つまり、外敵の存在が個々の植民地社会にとっても明白な危険であり、かつイギリス帝国全体にとっても危険であるときには、個々の植民地の防衛とイギリス帝国の防衛とはその目的において一致する。しかし、個々の植民地がイギリス帝国全体の防衛に反する行動をとるような場合(極端には、植民地が反乱した場合)には、両者の防衛は、まったくその目的を異にし、正面から対立する関係に陥ることになる。

 イギリス本国としては、イギリス帝国の防衛を第一義的に考える場合に、アメリカにおける諸植民地を一つの防衛組織に統合することを、防衛の効率上も望ましいと考えてきた。ことに、一七五四年、フランスとの抗争が避け難くなったとき、植民地管理の掌にある商務院は、アメリカにおけるイギリス領植民地の防衛を一括統合して行なう組織を提案している。この案は、現実にフランスとの戦端が開かれるにおよんで、まがりなりにも、全アメリカ植民地を通じて、国王任命の一人の最高司令官を置くということで実現された。フランスとの開戦とともに五四年ブラトック将軍が最高司令官として任命される。ここに、軍事に関する限りは、アメリカ各植民地は、一つの防衛組織体に統合されることになるわけである。

 そして、フランスという共同の敵が存在する限り、イギリス本国のイギリス帝国防衛の目的と、アメリカ植民地人のアメリカ植民地社会防衛の目的とは一致しえた。英仏の世界的抗争である七年戦争は、それがアメリカにおいては、まさしくフランス人とインディアンとに対する戦争という言葉をもって呼ばれたことに象徴されるように、植民地人自身の防衛の戦争でもありえたのである。「もしニューイングランドが安全であらんとするならば、かつてローマがカルタゴを抹殺したように、フランス領カナダは掃討されなければならない」のである。しかし、そのためには、イギリス本国の軍事力に依存しなければならない。その点では、植民地人は、アメリカ大陸に関する限り、イギリス領アメリカ植民地人の膨張主義のために、イギリスの軍事力を利用しようとしたとすらいえる。そして、イギリス本国も、宿敵フランス打倒と、イギリス帝国の完成を目指し、その限りでは植民地人を利用し、その点両者の利害が二致するものと思われた。

 しかし、植民地人にとって、フランスがアメリカ大陸から追放されるときは、もはやイギリスの軍事力に依存する必要がなくなるときでもあったのである。

植民地防衛と帝国防衛との対立

 七年戦争に勝利を収めて、イギリスは、広大なフランス領北アメリカをイギリス帝国の範囲に加えることに成功した。そのことは、この広大な新領土の統治と防衛の負担が増大したことをも意味する。より効果的な統治と防衛のために、イギリス本国は、これらの新領土を直轄領となし、また軍隊を常駐させることにした。それが二万名の正規軍をアメリカに駐屯せしめるという一七六三年のグレンヴィル内閣の決定である。そして、全アメリカの防衛のために、平時においても、イギリス領北アメリカを通じての総司令官を常駐せしめるという決定がなされた。そして、六三年一一月ゲイジ将軍が、総司令官としてニューヨークに着任する。ちなみに、当時、アメリカ大陸には八万五〇〇〇名の正規軍がいた。

 しかし、植民地人側にとっては、もはやフランスという強敵の存在がなくなった以上、こうした防衛組織の強化の必要性は認められなかった。戦時状態が去り、平時に復帰した現在、正規軍が本国から派遣される必要はなく、植民地の民兵によって防衛の責が果たせるはずであった。つまり、この正規軍の派遣は、たんに植民地人に財政的負担を与えるのみならず、また実は植民地に対する軍事力ともみなされ、その点まさしく植民地人の防衛と矛盾するものとみなされるにいたったのである。そして、広大な権限をもった総司令官は、アメリカ諸植民地を統轄統治する総総督とみなされ、事実ゲイジ将軍は、結果としてそうした役割を引き受けることになった。

 かくして、七年戦争の終了は、帝国防衛と植民地社会防衛との分裂をもたらし、またそれは正規軍と民兵との対立という形で象徴化され、現実化されることになる。植民地人の本国に対する抗議は、かの有名な「代表なければ、課税なし」のスローガンとともに、「平時における、植民地議会の同意なくして、常備軍を駐屯せしめたこと」に向けられたのである。正規軍は、ここでは、たんにイデオロギー的にではなく、現実に、海の彼方の本国政府から派遣された潜在的な「敵」とみなされたのである。そして、事実、その後本国側と植民地側との対立が激しくなるにつれ、本国側は、植民地側を制圧するために、すなわち植民地人統治の暴力装置として(植民地人防衛の暴力装置としてではなく)、正規軍を派遣することとなる。

 事実、関税吏の保護という目的で、一七六八年九月にイギリス正規軍二連隊、つづいてまた五連隊がカナダのハリファックスからボストンに派遣されてきた。そして、七〇年三月、ついにボストン市民とイギリス正規軍が、税関の前で衝突し、三人の市民が死亡するという「ボストン殺戮事件」が起こるのである。かくして、平時における正規軍は危険であるという論理は、実感をもって体得されることになる。本国と植民地との対立がますます悪化し、ついに七五年四月、コンコード、レキシントンで植民地の民兵と本国側の正規軍との間で、武力衝突が行なわれ、ここにイギリスは帝国防衛(植民地確保)のために、武力制圧にで、植民地側は、植民地社会の自治防衛のために、武力抗争にでるという状況に入る。つまり、戦争が始まる。
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