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社会学の必要性はどこにあるのか?

『社会学講義』より 理論社会学 社会学に標準テキストがないのは、なぜか? ⇒ 大学での講義みたいに体系だったものと捉えます。

まず、われわれにとってどういう意味で社会学という知の在り方の必要性が出てくるか、について見ていきましょう。

社会学の入門者がまず気がつかなければいけないのは、「実践」「認識」がもっている社会的な被規定性です。つまり実践や認識の内容はもちろんのこと、その方法そのものの多くの部分が--一般に素朴に信じられているよりもはるかに多くの部分が--、特定の型の社会構造を背景にして、社会化・共同(主観)化されている、ということを前提として押さえていなければいけません。

ちょうど音声言語が、その言語を母語としている人としていない人では別様に分節されて聞こえるように、物理的には同じ刺激でも、その人がどのような社会構造・社会関係の内にあるかによってまったく異なったものとして現れます。たとえば食欲は、人間がそれぞれ特定の社会に属しているということから独立した、生理的な欲求だと信じられています。しかし、食欲の大部分は社会的に形成されたものです。構造人類学者レヴィ=ストロースは、ひとつの文化に属するさまざまな料理が、相互にシステマティックな差異・関係を保っており、その差異・関係のシステムのなかで規定された記号的こ象徴的な意味を担っていることを示しています。つまり、人は食物の摂取を通じて、生理的な要求を満たすと同時に、文化的・社会的に規定された意味的欲望を充足させているのです。同じことは、性欲に関して、もっとはっきりと言うことができます。

行為とは何か?

 行為や意識の社会的な被規定性とは別に、行為が社会的なものとしてのみ成立しうるのだということ、つまり行為がまさに行為として成立するために「他者」の存在が不可欠の条件となっているのだ、ということを話しましざっ。常識的に言えば行為には私的な行為と社会的な行為があり、そのうちの後者のみが、他者の存在を前提にしているということになります。しかし行為は、ぴどく私的な営みに見えるものも含めてすべて、他者の存在を前提にしているのです。だから行為についての考察は、必然的に社会学とならざるを得ないのです。

 では、行為とは、そもそも何でしょうか。行為(Action)とは、何らかの意味で規則、規範に従っていると解することができるパフォーマンスのすべてを指します。行為に、それが生起する情況に相関して、正しいもの(適合的なもの)/正しくないもの(非適合的なもの)という区別を与える情報を、規範あるいは規則と言います。逆に言うと、そういう解釈を許されないものは行為と呼びません。飛んできたボールに対して反射的に目をつぶってしまったといった生理的な反応は行為ではありません。私たちは、べつに規範的に正しいから(妥当だから)目をつぶるわけではありませんから。

 行為を可能にする中核的な要素は規則、規範です。先に、「社会秩序がいかにして可能か」という問いは、規則、規範がいかにして可能かを問うことにつながっていくと説明しましたが、規則、規範の成り立ち方は社会学にとって中核的な問題になってきます。

 規範・規則の特徴として、ここではふたつのことを押さえておきましざっ。

 まず、どんな規則も行為の無限集合を標的にしています。有限の集合を対象にする規則は、論理的に存在しません。規則は、行為の無限の可能性に対処できなくてはなりませんから。

 もうひとつは、これは非常に自明ですが、どんな規則もその行為より先に決まっているということ、つまり行為に対してプライオリティ(先行性)をもっているということです。行為のあとに決まる規則など、規則ではあり得ません。ある行為が規則に従っていると言われるためには、規則はその行為よりも先に決まっていなければいけません。

規則は行為を決定できない

 どんな行為も規範・規則とセッ卜になっているということから、「意味」への志向性を伴うことになります。行為が規範・規則に従うということは、その行為が、「正しい」とか「妥当だ」とかといった性格づけを伴っていることです。妥当な行為は、対象を自らにとって適合的なものとして認識し、志向します。その対象の適合的なあり方が、その対象の行為にとっての「意味」です。

 ところで、社会学の基礎論にあたるようなことを結果的にやってしまった有名な哲学者にヴィトゲンシュタインがいますが、彼は規則に従うことについての有名なパラドクスを『哲学探究』という本の中で提出しています。原文を訳せば、

 〈規則は行為を決定できない。なぜならば、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられるからだ〉となります。

 先に述べたとおり、規則は正しい行為とそうではない行為、あるいは妥当な行為とそうではない行為とを区別できなければいけません。ところがヴィトゲンシュタインは、常識的にはそう映るかもしれないが、それは錯覚である、と言っているのです。つまり、ある規則を採ってきたとき、どんな行為も、その規則と一致していると言いくるめることができるというのです。そうなると、規則は正しい行為とそうでない行為とを区別できないことになる。それは規則が存在しないに等しいことになります。

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