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図書館は表現の自由を享受しているか

『図書館と表現の自由』より 図書等の収集、管理ないし廃棄及び利用と表現の自由

表現の自由は、一般に個人が人格を形成し、自己実現を図るために不可欠な権利であるだけではなく、民主主義政府においては、国民が政治について知り、政治について自由に議論し、政治について自由な批判を行うことを可能にする点で、不可欠な権利だと考えられている。そのため、表現の自由にっいては、特別に強い保護が必要だと考えられている。最高裁判所も、北方ジャーナル事件判決でこのことを認め、「主権が国民に属する民主制国家は、その構成員である国民がおよそ一切の主義主張等を表明するとともにこれらの情報を相互に受領することができ、その中から自由な意思をもって自己が正当と信ずるものを採用することにより多数意見が形成され、かかる過程を通じて国政が決定されることをその存立の基礎としているのであるから、表現の自由、とりわけ、公共的事項に関する表現の自由は、特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならないものであり、憲法二一条一項の規定は、その核心においてかかる趣旨を含むものと解される」と述べている。

この点、表現の自由は、積極的な表現行為の自由を保障しているが、表現の自由が保障されても、その表現を受け取り、表現に接する自由が保障されていなければ、表現の自由の保障の意味はない。そのため現在では、表現の自由の保障には、表現を受け取る自由の保障も含まれることが認められるにいたっている。国民は、一般に入手できる表現や情報へのアクセスを妨げられない自由を有しているのである。最高裁判所も、このことを認めている。「およそ各人が、自由に、さまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会をもつことは、その者が個人として自己の思想及び人格を形成・発展させ、社会生活の中にこれを反映させていくうえにおいて欠くことのできないものであり、また、民主主義社会における思想及び情報の自由な伝達、交流の確保という基本的原理を真に実効あるものたらしめるためにも、必要なところである。それゆえ、これらの意見、知識、情報の伝達の媒体である新聞紙、図書等の閲読の自由が憲法上保障されるべきことは、思想及び良心の自由の不可侵を定めた憲法一九条の規定や、表現の自由を保障した憲法二一条の規定の趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところであり、また、すべて国民は個人として尊重される旨を定めた憲法一三条の規定の趣旨に沿うゆえんでもあると考えられる」というのである。それゆえ、市民が入手することができる情報を制限されたりした場合、表現者の表現の自由だけではなく、表現の受け取り手の情報を受け取る権利の侵害の主張が可能である。

図書館自体を表現の自由を享受する主体と捉えて、図書館における図書等の収集、管理、利用に対する法律や条例による制約を、図書館の持つ表現の自由の侵害と捉える考え方も可能である。実際、アメリカでも、後述する、連邦の補助金を受ける図書館のすべてのインターネット端末にフィルタリング・ソフトを義務づけた連邦法の合憲性が争われた事例では、この義務づけは図書館の表現の自由を侵害すると争われており、合衆国最高裁判所の裁判官の中にも、この主張を受け入れている裁判官もいる。しかし、合衆国最高裁判所の相対多数意見は意識的にこの問題についての決定を見送っている(判例法の国アメリカでは、裁判所の結論とそれを導いた法的判断のうち過半数の裁判官が賛同している部分が先例拘束性を持ち、後の合衆国最高裁判所および下級審・州裁判所はそれに拘束される。合衆国最高裁判所の裁判官の意見がわかれ、結論については過半数の支持があるが、それを導く法的判断については過半数の支持がない場合がある。そのとき、通例裁判所の結論とそれを支持する裁判官のなかで過半数に満たないが相対的に多数を占めた意見を裁判官が述べることがある。これが相対多数意見と呼ばれ、その先例拘束性については議論がある)。それゆえ、合衆国最高裁判所の立場はなお定かとはいえない。

日本では、まだ十分検討がなされていないが、おそらく政府による規制に対しては、図書館にも限定的に表現の自由の享受を認めるべきであろう。このことは、例えば日本放送協会や国立大学法人の場合と同じである。いずれも公的な組織であり、市民との関係では公権力行使の主体として現れるが、それぞれ表現・報道行為ないし学問・研究のため自治権を認められており、それゆえその自治権の範囲内では、表現の自由ないし学問の自由が認められるべきだと思われるからである。これらと同じように、国立国会図書館や公立図書館は公的な組織であり、利用者および受け入れる図書の著者ないし出版社など市民との関係では、権力主体として現れるが、法律ないし条例によるその活動の制約については、すべての市民に情報に接する場を提供する主体として、憲法二一条によって保障された表現の自由の保護を受け、その侵害を主張しうると考えるべきであろう。あるいは、少なくとも、図書館及びその職員は、国民の情報を受け取る自由とその制約について専門的立場において調整を図るべき専門家集団として、市民の情報を受け取る権利の代行者として一定の保護を認めるという考え方もありうるかもしれない。
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