モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

フランネル・フラワー‘エンジェルスター’(Actinotus helianthi ‘Angel Star’)の花

2017-05-02 19:23:08 | その他のハーブ
(写真)アクティノータス・ヘリアンティ‘エンジェルスター’


アクティノータス・ヘリアンティ(Actinotus helianthi)は、葉や茎に細かい毛が密生し、手触りが優しくフランネルの生地のような感触があるということで「フランネル・フラワー(flannel flower)」と呼ばれる。

同様な手触りが優しい葉の感触から「フランネルソウ」と呼ばれるモノがあるが、これは南欧原産で日本には1850年頃中国から入ってきたスイセンノウ(Lychnis coronaria/酔仙翁)で別種となる。

アクティノータス・ヘリアンティ(Actinotus helianthi)は、オーストラリア、シドニー市があるニューサウスウェールズ州沿岸の砂岩等がある荒野が原産地で、
こんな荒野・ヒースランドに草丈30~50cm、細かい毛が密生していて切れ込みがある灰緑色の葉、そして7~12㎝の大柄な白色の花が咲き乱れている光景を想像するに、さぞや美しいだろうな~と思う。
その美しさは、原色の鮮やかさではなく、艶消しされた下の写真のような光景なのだろう。

(写真)ニューサウスウェールズ州のヒースランド光景

(出典)オーストラリア政府観光局

この花を最初に発見し採取した人間がいるはずだが良く分からない。
学名は、フランスの生物学者でオーストラリアの植物の権威、ラビラディエレ(Labillardière, Jacques Julien Houtou de 1755-1834)が1805年命名している。

ということはこれ以前に発見・採取していることになる。
ひょっとしたら命名者ラビラディエレ本人が採取していないかどうかを確認したら、面白いドラマが開幕した。

ラビラディエレは、フランネル・フラワーを採取する機会・可能性があったか?

(1)ラビラディエレは、1805年以前にオーストラリアに行くチャンスがあったか?
ラビラディエレ(Labillardière)は、1791年にアントワーヌ・ ブリュニー・ダントルカストー(Antoine Raymond Joseph de Bruni d'Entrecasteaux 1737 – 1793)の南太平洋探検隊のナチュラリストに任命された。

(地図)ラ・ペルーズ探検隊のコース(ボタニー湾を後に消息を絶つ)

(出典L'EXPÉDITION DE LA PÉROUSE

ダントルカストー探検隊の目的は、1788年3月に現在のオーストラリア、シドニー市ボタニー湾から音信不通となっていたフランスの海軍士官及び探検家ラ・ペルーズ伯爵及びその探検隊の生存確認と救出というフランス国民の熱望を実現することで、1791年9月にフランス革命政府立憲議会で決議された。

ということで、ラビラディエレは、フランネル・フラワーの原産地オーストラリアに行くチャンスはあった。ということになる。

但し、この立憲議会の意思決定は、投資・リターンを追求することなく人道的な目的での探検隊の派遣であり、世界史の中でも初めてに近い稀有なことのようだ。

最も、この時期のフランスは、フランス革命の革命支持派、反革命派の妥協でフランス初の憲法(1791年憲法)が制定され立憲君主制(つまり国王の権力は神から与えられたという王権神授説が否定され、王は国民の代表として法律に基づき歳費と役割が規定される立憲君主制)に移行するという重要な局面であり、国民に人気がある政策を必要としていた時期でもある。

どうも、この人気取り政策が3年前に行方不明となっていたラ・ペルーズ探検隊の救出劇のようだ。
結果はどうであれ、スタートすることが重要な政策の実行当事者は、成果が定義されないためにこの成果を計る物差しがなく、モチベーションを維持することが難しく悲惨な結末を迎えることが多い。

(2)ラビラディエレ(Labillardière)は、オーストラリアで植物採取したのだろうか?
ダントルカストー探検隊は、オーストラリア・南太平洋に派遣すると決議した年の1791年9月28日にフランス第二の軍港ブレストを出航した。
1792年1月17日、南アフリカ・ケープタウンに到着し、そこでフランスの軍服とベルトをした人間がパプアニューギニアのアドミラルティ諸島(the Admiralty Islands)でカヌーを漕いでいたという話を聞いた。
ダントルカストー隊長は、このアドミラルティ諸島に直行するために、オーストラリア南方海上にある現在のタスマニア島にあたるヴアン・ディーメンズランド(Van Diemen's Land:この島を発見したオランダ人のアベル・タスマンが当時のオランダ東インド会社の総裁の名前を付ける。)に向かい、1792年4月23日に湾に碇を下ろした。

ここで乗組員に休息と新鮮な水等を補給するために5月28日までの5週間滞在した。
もちろん調査探検も行ったので、オーストラリア南部タスマニアの植物採取なども行った。
探検隊には、ラビラディエレ(Labillardière)の他に、植物学者のヴェンテナット(Étienne Pierre Ventenat 1757 – 1808)、探検帰国後にナポレオンの前妻ジョセフィーヌが運営するマルメゾン庭園の主任庭師となるフェリク・デラヘイ(Félix Delahaye 1767‐1829)が乗っていて植物採取の役割を担っていた。

(地図)ダントルカストー探検隊の足跡(橙ピン:実績、黄ピン:予定)

オレンジのピンが立っているところがダントルカストー探検隊が寄航したところで、赤の楕円形で囲われたオーストリア東岸がフランネルフラワーの生息地を示す。

このプロットを見ると、最初で最後のチャンスはオーストラリア本土の南海上にあるタスマニア島にあった。
しかしフランネルフラワーの生息地はオーストラリア東海岸沿いのクイーンズランド州及びニューサウスウェールズ州(赤線で囲った辺り)なのでタスマニア島に生息していたかどうか分からない。

仮に、タスマニア島でフランネルフラワーを採取出来たとした場合、採取者はラビラディエレ(Labillardière)の他に、植物学者のヴェンテナット、庭師のフェリク・デラヘイという3人が候補となり、プラントハンターの役割を持つ庭師のフェリク・デラヘイの可能性が高まる。

フランス革命の余波 と 命名者ラビラディエレ(Labillardière)の意地

仮に、庭師フェリク・デラヘイが1792年5月頃にタスマニア島でフランネルフラワーを採取したとすると、ラビラディエレは1805年に命名しているので、この時間的には問題がなかったか?
ということを検証してみると意外な出来事があった。

(地図)ジャワ(赤丸のところ)でオランダ当局に拘束


1793年7月21日にダントルカストー探検隊の隊長が壊血病で死亡した。
この辺りから本国フランス革命の影響が南太平洋上の探検隊にも出始め、勤皇派(=王室支持、高級船員)、佐幕派(=共和制支持、下級船員)に分かれて覇権争いが始まった。

現在のジャワ(Surabaya)に入港したダントルカストー隊長の後任(勤皇派)は、フランス本国が王政から共和制(1792年9月21日)に代わったことを知り、1794年2月18日に船・探検の成果物等全てをジャワのオランダ当局に手渡し、共和国の利益とならないようにした。
というからよく理解できない行動を取った。敵(フランスの共和党派)の敵(オランダ)は味方(フランス王党派)ということなのだろうか?

さらに驚くことは、この船をジャワからヨーロッパに回航中、1795年4月、南アフリカ・テーブル湾で停泊中に共和党派支持の下士官が船を乗っ取り出航したが、今度は英国に拿捕され戦利品として探検の成果物が英国にわたってしまった。

まるで絵に描いたような“おばかちゃん”をしているようで、教訓一杯のストーリで呆れてしまう。

たまらないのは、ラビラディエレを初めとした科学者達で、3年以上にわたる成果が無になってしまった。

しかし、英国にはサー・ジョゼフ・バンクス(Sir Joseph Banks 1743− 1820)という強力なコネをラビラディエレが持っていて、科学的な成果物をフランスに返還するというロビー活動をしてもらい、ラビラディエレのコレクションは1796年に返還された。

これらを元に1804~1807年の間に出版されたのがニューオランダ(=オーストラリア)の植物相を初めて紹介した「Novae Hollandiae Plantarum Specimen, the first general description of the flora of Australia」(ニューオランダの植物採取とオーストラリアの植物相の初めての一般的な説明)だった。

出版の元になった標本を確認すると、ラビラディエレ彼自身が集めた標本、探検隊の仲間で鉱物・鳥類・無脊椎動物を担当したクロード・リッシュ(Claude-Antoine-Gaspard Riche 1762 – 1797)の遺品標本、及び、ラビラディエレとは異なる探検隊ニコラス・ボーダン(Nicolas Thomas Baudin 1754‐1803、)のオーストラリア西海岸及び南部海岸の探検(1800-1803)で集めたこれも遺品となる標本を元に出版している。

こうしてみると、アクティノータス・ヘリアンティ(Actinotus helianthi Labill.1805)は命名者ラビラディエレの周辺にいる人間であることは分かったが、誰が採取したのか決定打がないというのが現時点の結論だ。
オーストラリア西海岸及び南海岸を調査探索したニコラス・ボーダンを除外したいところだが、彼は1802年に英国植民地であったフランネルフラワーの原産地でもあるシドニーに寄航・停泊しているので除外も出来ない。むしろ本命かも分からない。

ルイ16世は、1793年1月21日午前10時22分、革命広場(現コンコルド広場)でギロチンで斬首刑にされた。
彼が断頭台に登るとき『ラ・ペルーズ伯のニュースは何かありますか?』と聞いたという。
ラ・ペルーズ伯とは、1788年3月に現在のオーストラリア、シドニー市ボタニー湾から音信不通となっていたフランスの海軍士官及び探検家ラ・ペルーズ伯爵で、ペルーズ伯の生存確認と救出をフランス国民が熱望しており、1791年9月にフランス革命政府立憲議会で決議されダントルカストー探検隊が派遣された。

ルイ16世は、この探検隊の成果を死に行く身で気にしていたという。
革命の狂気がはびこっていたフランスで、ラ・ペルーズ伯を按じていたのはひょっとするとルイ16世だけだったのかもしれない。

ましてや、探検隊のその後の船の中というコップの中での嵐の顛末を聞かないで死んでいったことは幸いだったかもしれない。

<参考>
アレクサンドル・デュマ( Alexandre Dumas, 1802‐1870)は、ルイ16世処刑当日の様子を次のように記述する。
『朝、二重の人垣を作る通りの中を国王を乗せた馬車が進んだ。革命広場を2万人の群集が埋めたが、声を発する者はなかった。10時に王は断頭台の下にたどり着いた。王は自ら上衣を脱ぎ、手を縛られた後、ゆっくり階段を上った。王は群集の方に振り向き叫んだ。「人民よ、私は無実のうちに死ぬ」。太鼓の音がその声を閉ざす。王は傍らの人々にこう言った。「私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい』。

(写真)フランネルフラワーの花と葉


フランネルフラワー(Actinotus helianthi ‘Angel Star’)
・セリ科アクティノータス属の耐寒性が弱い多年草。
・原産地はオーストラリア、ニューサウスウェールズ沿岸とクイーンズランドの砂岩荒野で生育する。
・学名、アクティノータス・ヘリアンティ(Actinotus helianthi Labill.1805)は、1805年にフランスの生物学者でオーストラリアの植物相の著作で有名なラビラディエレ(Labillardière, Jacques Julien Houtou de 1755-1834)によって命名された。
・属名の“Actinotus”は、ギリシアの茎aktin-/ακτινで、「光線」または「車輪のスポーク」または「太陽光線」に由来し、「光線が備わっている」を意味する。種小名の“helianthi”は、Helianthus(ヒマワリ)との類似点に由来する。
・流通での名称は、細かい毛が密生して手触りがフランネルに似ているのでフランネルフラワー(flannel flower)と呼ばれている。
・草丈30~100cm、切花として適する。日当たりが良いところを好むが耐暑性が弱いので夏場は半日陰が良い。
・開花期は春と秋で、花径7㎝程度の白い花が咲く。白い花びらに見えるモノが苞葉で先端が緑色を帯び、中心のボンボリみたいなところが花になる。これを繖形花序(サンケイハナジョ)という。
・灰白色の葉は白妙菊のような切れ込みがあり、細かい毛が密生している。
・水はけがよい酸性の土を好むので、酸度無調整のピートモスと鹿沼土を半量ずつ混ぜた用土が適する。
・根が繊細なので植え替えのときは鉢底の土を崩さないように植え替える。又、極端な乾燥に弱いので水切れさせないよう注意する。
・鉢の場合は、風通しの良い雨の当たらないところで管理し、冬場は室内に取り込む。


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