アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

手順

2016年05月31日 19時41分41秒 | サッカーの謎
最近、手順の意識が薄れてきていると感じるときがある。

サッカーの指導にかかわっているときは常に手順というものを意識していた。特に指導を重ねるにつれてその傾向は強くなっていった気がする。もちろん指導を始めたばかりの頃は自分の経験をコピーするだけのような指導だったとは思う。でも、それだけではうまくいかなくなることが多くなっていったこともあり、少しずつ指導において何をすべきか、何を伝えるべきか、ということを考えるようになっていった。正直、直接的なきっかけは覚えていないが、今、振り返ると「そもそも、指導者というのはどんな存在なのか」ということを自分なりに考えるようになったことがそのきっかけだったのかもしれない。

高校サッカーという、短い時間は選手たち一人ひとりにとってかけがえのない時間。その貴重な時間の中で自分が指導者として何がができるのか、何をすべきなのか。自分が最も伝えたいメッセージは何なのか、どのような形で伝えるべきなのか。戦術や日々の練習メニューの決定の中でそのことを考え続けた。むしろ、そのことを何時間も何日もただただ考えつづけることも多かった。そして、その伝えたいメッセージを前提に戦術や練習メニューを決定するようになっていった。

何かを選ぶということは、そのときは選ばない何かを捨てるということ。選ぶこと、捨てること、それを20年間何度も何度も繰り返したし、その作業を通じて本当に自分が選びたいもの、本当に伝えたいものが見えてきたとしても、そのあとに、それをどうやって伝えるか、という問題がまた出てくる。もちろん、自分自身が本当に大切だと信じられないものは選手には伝わらないし、自分の行動を通じてその大切さを証明できなければ、そのメッセージに説得力はない。

また、最も重要なことを選び伝え続けるということは、それがその時々の瞬間において本当に大切なものなのか、そのときの自分が心から伝えたいものなのか、自分自身で検証し続けることをも意味する。日々の指導記録を書く際に、自分が伝えたいメッセージを実際に文字にしてみる。そして、翌日や一週間後に、客観的にそのメッセージが伝わる指導になっていたのか、そもそもそのメッセージが本当に伝えたかったものなのか、実際に伝わったのか、自分で批判的に検証してみる。日々のそういった作業を繰り返すと、もっとシンプルな内容にすべきではないか、もっとシンプルにした方がより伝わるのではないか、と感じる瞬間があった。そういった作業を日々ただただ繰り返していた。

高校サッカーは1年単位で選手は部分的に入れ替わる。1年ごとにチームは新しくなる。同じ選手たちで戦えるのは1年間だけ。新しいチームになって、選手たちの顔ぶれやチームの雰囲気を把握したら、この1年間で自分が何を伝えたいのか、自分はこの新しいチームに何を伝えるべきなのかを考え始める。同時に、このチームが終わりを迎えるときのことも考えていく。チームが終わりを迎えるとき、自分が伝えたいメッセージを伝えきるためには、どのようなプロセスをとるべきなのか。そのためには、選手たちとどう向き合うべきなのか。どういう戦術と採用すれば、日々どのようなスタンスで指導にかかわれば、自分の伝えたいメッセージをより効果的に伝えられるのか。選手との距離感も含めて指導者としての立ち位置や選手たちとのかかわり方も含めて、すべて伝えたいメッセージから逆算する。批判的な視点も含めて、日々逆算し続ける。日々、削ぎ落とす。よりシンプルに、より伝わるように。

もちろん、1年間の中で大会やリーグ戦は絶え間なく続いていく。その期間に様々なことは起こる。選手たちの心も日々常に揺れる。だからこそ、選手たちとのサッカーノートは睡眠時間を削ってでも続けたし、必要であれば、選手たちや一人ひとりと直接話し合った。また、その中で自分の伝えたいメッセージが本当に伝わっているか、検証した。また同時に、自分が本当に伝えたいメッセージは本当にこれでいいのか、ということも考え続けた。残された時間を考えながら何度も何度も考えた。答が見えないことも少なくなかったし、見えかけてもまた見えなくなることも多かった。実際に、伝えきれなかった、と感じることもあったし、もっと違う伝え方があったのではないか、そう思うことも少なくかった。もっと選手と向き合い、選手一人ひとりともっと話し合うべきだったという反省はいつでも苦い後悔として残っている。

ゴールから逆算して何が大切なのか、どのような優先順位で考えるべきか、そして実際に何を選び続けるのか。これは指導者だけでなく、プレーする選手一人ひとりにも求められる。例えば、1-0で勝っているときに何をすべきなのか。どういうプレーを選ぶべきなのか。答は一つではない。経験と逆算して考える力、そして直観によって、選び続けなければいけない。試合の針が進む度に、ボールが動く度に、選び続けなければならない。状況の変化する度に、選択の妥当性を検証し続けなければならない。もちろん、自分の選択が仲間の選択と異なっている場合も当然ある。でも、それは本質的な問題ではない。その違いはコミュニケーションで埋めればいい。コミュニケーションはその為にある。

ただ、サッカーの指導を卒業した今、日々の生活の中で自分は「手順」を意識できているのだろうか。残りの人生において、何が大切で、何を優先すべきなのか、人生の最期において自分の人生に納得できるためには何をどういう基準で選べばよいのか。最近、「手順」意識が薄まってきているような気がする。一度しかない自分の人生においては、自分の心が動くものを大切にしたい。でも、人生の残り時間が見えるような年齢にあるのもまた事実。何が自分にとっての正解かわからないが、「手順」の意識だけは忘れないようにしたい。