アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

考えてプレーするということ

2012年09月24日 02時34分34秒 | サッカーの謎
考えてプレーする・・・
考えてプレーすべき・・・
実際の現場ではよく言われ、
また、よく耳にする言葉だと思う。

元日本代表監督であるイビチャ・オシム氏が
『考えて走れ』と言っていたのは
記憶に新しい。



何をもって「考える」というのか?
その定義も解釈も人によって異なるものなのかもしれない。

「考える」という行為は
当然の前提のようでもあり、
また、特別な行為でもある。

こうして文字にすると奇妙な感じさえしてしまうが、
サッカーを経験している方なら
この感覚はわかるとは思う。

机の上で熟考する・・というのは
試合中のプレーとして当てはまらないとは思うが
直感的にプレーしているという選手は
少なくないはず。

直感的にプレーして
何も問題がないのなら
考える・・という作業は
まったく必要ない。

感覚だけで
ゴールを奪えて
パスも出せ、ボールを奪えるなら
それだけでもいいのかもしれない。

ただ、サッカーにおいては
それでうまくいかない場合も
また、少なくない。



実際に監督として選手たちのプレーを見ていると
走れる走れない、ということとは別の次元で
「この選手は考えてプレーしているのだろうか?」
と感じる瞬間は、正直ある。

客観的に見て明らかに、
効果的にプレーできていないし、
チームの中でも機能的にプレーできていない・・・
という瞬間や時間帯はどの選手にもあるのかもしれないが
その時間が長すぎる選手達に対しては
「考えているのだろうか?」
という疑問を抱かざるを得ない。

仮に、足が動かなかったとしても考えることは
できるはず。

個人的には
目が動かない選手に対しては
「考えていないのでは?」という推測が働くことが多い。

そして、実際、「目が動いていない」選手は
効果的なプレーも、機能的なプレーもできてはいないし、
試合の中での修正などあるはずもない。



でも、サッカーの指導者は評論家ではない。
指導者として、チームの監督として大切なのは
効果的なプレーや機能的なプレーができない選手に対して、
どうしたら、その選手のプレーを変えていけるのか?・・
ということであるはず。

だとしたら、
その選手に目を動かすことを促すべきであるし、
何の為に「目を動かすのか?」ということも
練習や試合を通して伝えていくべき。

そもそも、何の為に「目を動かす」のか?
何の為に「見る」のか?

こう考えていくと
やはり「考えてプレーする」ことの意味とは?
といった大きな問題にぶち当たってしまう。



あくまでも、個人的な解釈ではあるが、
「考えてプレーする」ということは
「自ら“問いを立て”、自らで“答えを出す”」
ことだと思っている。

言葉にすると簡単なものになってしまうが、
その“問い”は無限に近いものがあるとは思うし、
その“答え”もまた、数限りない。

たとえば、DFやGKが
「失点という現象(結果)」に対して、
どういう“問い”を立てなければならないのか?
選手によっては
「どうしてフリーでシュートを打たせてしまったのか?」
という“問い”を立てるかもしれないし、
また、別の選手は
「なぜ、マークにつけていなかったのか?」
という“問い”を立てるかもしれない。
さらには、「アシストさせてしまったことに問題があったのでは?」
と考える選手もいるかもしれない。

そういった“問い”を自らの判断で立て、
自らの責任で“答え”を出すこと。
これこそが「考えてプレーすること」だと思っている。



ただ、サッカーにおいて、厄介なのは
この「考える」という作業を
同時に行わなければならない・・・ということ。

マッチアップすべき選手や目の前にいる相手選手に対する対応といった
「一人で“考え”なければならない事柄」、
DFの3人もしくは4人+GKといった
「グループで“考え”なければならない事柄」、
グランドに立っている
「11人全員で“考え”なければならない事柄」
1試合という時間の幅を前提に
「“考え”なければならない事柄」も
もちろんある。

最低限、上の4種類の「事柄」に対して、
同時進行で“問い”を立て、“答え”を出していかなければならない。

さらには、自ら立てた1つの“問い”に対して、
“答え”を出したとしても、
サッカーにおいては
ボールが動く度に状況が変わってしまうので
その度に“問い”を立て直さなければならない。

そして、次にボールが動くまでに“答え”を出し、
また直ぐに“問い”を立てる・・・
その繰り返し。

最低でも、4種類の“問い”を試合終了まで立て続け、
それに対して“答え”を出し続ける。

ボールが動いても結果的に
同じ“問い”でいい場合もあるし、
同じ“答え”でいい場合もある。

一見、相手がまるで動いていなければ
“問い”を立て直さなくてもいいのでは?・・
そう感じてしまう瞬間は確かにある。

でも、ようく観察してみると
相手選手の目が動いていたり、
身体の向きが微妙に変わっていたり、
ボールの持ち方が変わっている・・・
ということは多い。

そこで、
「相手も動いていないのだから、“問いの建て直し”は必要ない」
と安易に判断してしまうと大きなツケを払わされることになる。

だからこそ、注意深く相手を「見る」ことが必要になってくる。

自分が走っている時は冷静に「見る」ことができないので
そこは「予測」で補うことになる。



一人で“問いを立て直す”ことや
“答え”を出せない時には
仲間の声に助けられることもあるはず。

そういった問題解決でも
もちろん構わない。

むしろ、現場のアドリブや瞬間的な判断で
仲間と同じ“問い”を立て、
同じ“答え”を出せたなら
それは最高の瞬間。

でも、そういった最高の瞬間を試合の中で生み出す為にも
まずは一人ひとりが「考えて」プレーすべき。

自らの判断で“問い”を立て、
自らの責任で“答え”を出すべき。

仲間の判断に助けられることと
自らの“問い”と“答え”を放棄することとは
同義ではない。
むしろ、相反するもの。



「考える」「考えてプレーする」ということを
このような形で文字として表現すると
本当にしんどい作業になってしまうように感じる選手も
いるかもしれない。

特に、技術に自信のない選手や経験のない選手は
「考えよう」としても
結果的にうまくできずに
「考えること」=「悩むこと」
になってしまうことも多いかもしれない。

でも、サッカーにおいて、
「考え」続け、「悩み」続け、
終わりのない“問い”を立て続け、
終わりのない“問い”に
“答え”を出し続けた苦行のような時間は
高校を卒業した後、
一人の人間として、一人の社会人として
前に進んで行こうとする時に
必ず自分自身を支える力になるはず。
背中を押す力になるはず。

そして、そのような“力”が
周りにいる大切な人たちを守る力にもなるはず。



人生の転機において
自らの生きる意味を考えるのと同じように
サッカーにおいても
戦術や技術といった具体的なものだけでなく
時として「なぜサッカーをやるのか?」
指導者であれば「なぜ指導するのか?」
こういった大きな“問い”を立てなければならない時もある。

でも、そういった“問い”から逃げずに
“答え”を探し続けたいし、
選手たちだけに「考え」続けることを求めるのではなく、
“問い”を立て続けることから逃げない勇気を
持ち続けたい。



アフリカのダンスとサッカーの関係

2012年09月03日 02時48分47秒 | 指導記録
先日、お正月に全国大会が行われる選手権予選の地区予選があった。
結果は残念ながら、地区予選の決勝戦で敗退。

1回戦、2回戦、3回戦となんとか勝ち進むことができたし、
地区予選の決勝戦も先制することができたが、
残念ながら逆転負けしてしまった。

都大会に出場して、なんとか1つ勝つことを目標にやってきたが、
今回もその目標の手前で敗退してしまった。

高体連の次の大会は11月半ばから行われる新人戦。
試験期間や文化祭の期間を挟むと
実際に練習できる時間が多いとはいえないので
地区予選終了後、短いオフだけ入れて、
トレーニングやリーグ戦をこなす日々が続いている。

次の目標に向かいながらも
チームの監督として選手権予選の戦いを振り返っている。

偶然の勝利はあるのかもしれないが、
偶然の負けはない。

たぶん、チームとして
都大会に出場するクォリティーも
都大会で勝つだけの実力も
なかったのだと思う。

でも、その足りない部分が何なのか?
足りない部分をどのような優先順位で改善していくべきなのか?
それとも、足りない部分を改善し積み重ねていくよりも、
長所を伸ばすべきなのか?

自分の中で、新人戦に向けて一定の方向性は出来つつあるが、
2学期が始まるまでは、継続していろいろな角度から
新人戦に向けてどのような積み重ねをしていくべきか?
考え続けたい。



そんなことを考えながら
オフの日にぼんやりとテレビを見ていた。

テレビを見る時間があるときは
NHKを見ることが多い。

この日もNHKのEテレを見ていた。

見ていたのは、
子供たちにダンスを通じて大切なものを感じてもらおう
という内容の番組だった。

人気ダンスボーカルユニットのメンバーが司会をしていた。

番組の中のコーナーのひとつに
海外のダンスを紹介するコーナーがあった。

その海外のダンスはセネガルあたりのアフリカのダンスだった。

アフリカのダンサーのダンスはとても情熱的だったが、
少しびっくりしたのは
そのアフリカのダンスそのもの。

ダンスのことをまったく知らない自分にとって、
ダンスというのは、スピーカーから流れてくる曲に合わせて踊る・・・
というものだった。

多少のアドリブはそのダンサーの感性によって表現されることはあっても
それはスピーカーから流れてくる音楽や曲という大前提の下でなされる・・・
そう思っていた。

でも、この日、見たアフリカのダンスは
その大前提が従来のものとはまったく違っていた。

そのダンスには、ダンサーの他に
パーカッションを中心に演奏者がいるのだが、
ダンサーは演奏される曲に合わせて踊るのではなく、
ダンサーがイニシアチブをとって
演奏そのものをコントロールしながら踊る・・・というものだった。

ハンドサインを中心に
ダンサーがその時々の感性やパッションで
演奏者に対して合図を出し、
自分の踊りを表現していく。



サッカーとこのアフリカのダンスを同列に論じることは出来ないかもしれないが、
とても考えさせられるものがあった。

サッカーにおいては
ボールを持っている選手が「ダンサー」なのだろうか?
それとも、ボールを持っていない選手が「ダンサー」なのだろうか?

どちらにしても、
お互いがお互いに、
自分の感性やパッションに基づき自分の意思を仲間に伝え、
お互いの意思を受け止めながら、
自分の意思をさらに伝えていく。

感性が感性に反応し、
パッションがパッションに呼応する。

一定の戦術から出発しながらも、
味方だけでなく、相手も感じながら、
さらには、試合の展開や状況も感じながら、
臨機応変にプレーしていく。

もちろん、そのためには
技術が必要になってくるし、
なによりも自分の意思でグランドに立ち、
自分の判断でプレーする・・・という覚悟や決意が
必要になってくる。

その上で、
自分の判断や意思を仲間にちゃんと伝える・・・。
お互いに、ちゃんと伝え、しっかりと受け止める。



もしかしたら、今、チームに欠けているのは
こういう部分かもしれない。

そんなことを感じさせてくれる番組だった。



新人戦までの時間を悔いのないように
選手たちと一緒に走り続けたい。