考えてプレーする・・・
考えてプレーすべき・・・
実際の現場ではよく言われ、
また、よく耳にする言葉だと思う。
元日本代表監督であるイビチャ・オシム氏が
『考えて走れ』と言っていたのは
記憶に新しい。
何をもって「考える」というのか?
その定義も解釈も人によって異なるものなのかもしれない。
「考える」という行為は
当然の前提のようでもあり、
また、特別な行為でもある。
こうして文字にすると奇妙な感じさえしてしまうが、
サッカーを経験している方なら
この感覚はわかるとは思う。
机の上で熟考する・・というのは
試合中のプレーとして当てはまらないとは思うが
直感的にプレーしているという選手は
少なくないはず。
直感的にプレーして
何も問題がないのなら
考える・・という作業は
まったく必要ない。
感覚だけで
ゴールを奪えて
パスも出せ、ボールを奪えるなら
それだけでもいいのかもしれない。
ただ、サッカーにおいては
それでうまくいかない場合も
また、少なくない。
実際に監督として選手たちのプレーを見ていると
走れる走れない、ということとは別の次元で
「この選手は考えてプレーしているのだろうか?」
と感じる瞬間は、正直ある。
客観的に見て明らかに、
効果的にプレーできていないし、
チームの中でも機能的にプレーできていない・・・
という瞬間や時間帯はどの選手にもあるのかもしれないが
その時間が長すぎる選手達に対しては
「考えているのだろうか?」
という疑問を抱かざるを得ない。
仮に、足が動かなかったとしても考えることは
できるはず。
個人的には
目が動かない選手に対しては
「考えていないのでは?」という推測が働くことが多い。
そして、実際、「目が動いていない」選手は
効果的なプレーも、機能的なプレーもできてはいないし、
試合の中での修正などあるはずもない。
でも、サッカーの指導者は評論家ではない。
指導者として、チームの監督として大切なのは
効果的なプレーや機能的なプレーができない選手に対して、
どうしたら、その選手のプレーを変えていけるのか?・・
ということであるはず。
だとしたら、
その選手に目を動かすことを促すべきであるし、
何の為に「目を動かすのか?」ということも
練習や試合を通して伝えていくべき。
そもそも、何の為に「目を動かす」のか?
何の為に「見る」のか?
こう考えていくと
やはり「考えてプレーする」ことの意味とは?
といった大きな問題にぶち当たってしまう。
あくまでも、個人的な解釈ではあるが、
「考えてプレーする」ということは
「自ら“問いを立て”、自らで“答えを出す”」
ことだと思っている。
言葉にすると簡単なものになってしまうが、
その“問い”は無限に近いものがあるとは思うし、
その“答え”もまた、数限りない。
たとえば、DFやGKが
「失点という現象(結果)」に対して、
どういう“問い”を立てなければならないのか?
選手によっては
「どうしてフリーでシュートを打たせてしまったのか?」
という“問い”を立てるかもしれないし、
また、別の選手は
「なぜ、マークにつけていなかったのか?」
という“問い”を立てるかもしれない。
さらには、「アシストさせてしまったことに問題があったのでは?」
と考える選手もいるかもしれない。
そういった“問い”を自らの判断で立て、
自らの責任で“答え”を出すこと。
これこそが「考えてプレーすること」だと思っている。
ただ、サッカーにおいて、厄介なのは
この「考える」という作業を
同時に行わなければならない・・・ということ。
マッチアップすべき選手や目の前にいる相手選手に対する対応といった
「一人で“考え”なければならない事柄」、
DFの3人もしくは4人+GKといった
「グループで“考え”なければならない事柄」、
グランドに立っている
「11人全員で“考え”なければならない事柄」
1試合という時間の幅を前提に
「“考え”なければならない事柄」も
もちろんある。
最低限、上の4種類の「事柄」に対して、
同時進行で“問い”を立て、“答え”を出していかなければならない。
さらには、自ら立てた1つの“問い”に対して、
“答え”を出したとしても、
サッカーにおいては
ボールが動く度に状況が変わってしまうので
その度に“問い”を立て直さなければならない。
そして、次にボールが動くまでに“答え”を出し、
また直ぐに“問い”を立てる・・・
その繰り返し。
最低でも、4種類の“問い”を試合終了まで立て続け、
それに対して“答え”を出し続ける。
ボールが動いても結果的に
同じ“問い”でいい場合もあるし、
同じ“答え”でいい場合もある。
一見、相手がまるで動いていなければ
“問い”を立て直さなくてもいいのでは?・・
そう感じてしまう瞬間は確かにある。
でも、ようく観察してみると
相手選手の目が動いていたり、
身体の向きが微妙に変わっていたり、
ボールの持ち方が変わっている・・・
ということは多い。
そこで、
「相手も動いていないのだから、“問いの建て直し”は必要ない」
と安易に判断してしまうと大きなツケを払わされることになる。
だからこそ、注意深く相手を「見る」ことが必要になってくる。
自分が走っている時は冷静に「見る」ことができないので
そこは「予測」で補うことになる。
一人で“問いを立て直す”ことや
“答え”を出せない時には
仲間の声に助けられることもあるはず。
そういった問題解決でも
もちろん構わない。
むしろ、現場のアドリブや瞬間的な判断で
仲間と同じ“問い”を立て、
同じ“答え”を出せたなら
それは最高の瞬間。
でも、そういった最高の瞬間を試合の中で生み出す為にも
まずは一人ひとりが「考えて」プレーすべき。
自らの判断で“問い”を立て、
自らの責任で“答え”を出すべき。
仲間の判断に助けられることと
自らの“問い”と“答え”を放棄することとは
同義ではない。
むしろ、相反するもの。
「考える」「考えてプレーする」ということを
このような形で文字として表現すると
本当にしんどい作業になってしまうように感じる選手も
いるかもしれない。
特に、技術に自信のない選手や経験のない選手は
「考えよう」としても
結果的にうまくできずに
「考えること」=「悩むこと」
になってしまうことも多いかもしれない。
でも、サッカーにおいて、
「考え」続け、「悩み」続け、
終わりのない“問い”を立て続け、
終わりのない“問い”に
“答え”を出し続けた苦行のような時間は
高校を卒業した後、
一人の人間として、一人の社会人として
前に進んで行こうとする時に
必ず自分自身を支える力になるはず。
背中を押す力になるはず。
そして、そのような“力”が
周りにいる大切な人たちを守る力にもなるはず。
人生の転機において
自らの生きる意味を考えるのと同じように
サッカーにおいても
戦術や技術といった具体的なものだけでなく
時として「なぜサッカーをやるのか?」
指導者であれば「なぜ指導するのか?」
こういった大きな“問い”を立てなければならない時もある。
でも、そういった“問い”から逃げずに
“答え”を探し続けたいし、
選手たちだけに「考え」続けることを求めるのではなく、
“問い”を立て続けることから逃げない勇気を
持ち続けたい。
考えてプレーすべき・・・
実際の現場ではよく言われ、
また、よく耳にする言葉だと思う。
元日本代表監督であるイビチャ・オシム氏が
『考えて走れ』と言っていたのは
記憶に新しい。
何をもって「考える」というのか?
その定義も解釈も人によって異なるものなのかもしれない。
「考える」という行為は
当然の前提のようでもあり、
また、特別な行為でもある。
こうして文字にすると奇妙な感じさえしてしまうが、
サッカーを経験している方なら
この感覚はわかるとは思う。
机の上で熟考する・・というのは
試合中のプレーとして当てはまらないとは思うが
直感的にプレーしているという選手は
少なくないはず。
直感的にプレーして
何も問題がないのなら
考える・・という作業は
まったく必要ない。
感覚だけで
ゴールを奪えて
パスも出せ、ボールを奪えるなら
それだけでもいいのかもしれない。
ただ、サッカーにおいては
それでうまくいかない場合も
また、少なくない。
実際に監督として選手たちのプレーを見ていると
走れる走れない、ということとは別の次元で
「この選手は考えてプレーしているのだろうか?」
と感じる瞬間は、正直ある。
客観的に見て明らかに、
効果的にプレーできていないし、
チームの中でも機能的にプレーできていない・・・
という瞬間や時間帯はどの選手にもあるのかもしれないが
その時間が長すぎる選手達に対しては
「考えているのだろうか?」
という疑問を抱かざるを得ない。
仮に、足が動かなかったとしても考えることは
できるはず。
個人的には
目が動かない選手に対しては
「考えていないのでは?」という推測が働くことが多い。
そして、実際、「目が動いていない」選手は
効果的なプレーも、機能的なプレーもできてはいないし、
試合の中での修正などあるはずもない。
でも、サッカーの指導者は評論家ではない。
指導者として、チームの監督として大切なのは
効果的なプレーや機能的なプレーができない選手に対して、
どうしたら、その選手のプレーを変えていけるのか?・・
ということであるはず。
だとしたら、
その選手に目を動かすことを促すべきであるし、
何の為に「目を動かすのか?」ということも
練習や試合を通して伝えていくべき。
そもそも、何の為に「目を動かす」のか?
何の為に「見る」のか?
こう考えていくと
やはり「考えてプレーする」ことの意味とは?
といった大きな問題にぶち当たってしまう。
あくまでも、個人的な解釈ではあるが、
「考えてプレーする」ということは
「自ら“問いを立て”、自らで“答えを出す”」
ことだと思っている。
言葉にすると簡単なものになってしまうが、
その“問い”は無限に近いものがあるとは思うし、
その“答え”もまた、数限りない。
たとえば、DFやGKが
「失点という現象(結果)」に対して、
どういう“問い”を立てなければならないのか?
選手によっては
「どうしてフリーでシュートを打たせてしまったのか?」
という“問い”を立てるかもしれないし、
また、別の選手は
「なぜ、マークにつけていなかったのか?」
という“問い”を立てるかもしれない。
さらには、「アシストさせてしまったことに問題があったのでは?」
と考える選手もいるかもしれない。
そういった“問い”を自らの判断で立て、
自らの責任で“答え”を出すこと。
これこそが「考えてプレーすること」だと思っている。
ただ、サッカーにおいて、厄介なのは
この「考える」という作業を
同時に行わなければならない・・・ということ。
マッチアップすべき選手や目の前にいる相手選手に対する対応といった
「一人で“考え”なければならない事柄」、
DFの3人もしくは4人+GKといった
「グループで“考え”なければならない事柄」、
グランドに立っている
「11人全員で“考え”なければならない事柄」
1試合という時間の幅を前提に
「“考え”なければならない事柄」も
もちろんある。
最低限、上の4種類の「事柄」に対して、
同時進行で“問い”を立て、“答え”を出していかなければならない。
さらには、自ら立てた1つの“問い”に対して、
“答え”を出したとしても、
サッカーにおいては
ボールが動く度に状況が変わってしまうので
その度に“問い”を立て直さなければならない。
そして、次にボールが動くまでに“答え”を出し、
また直ぐに“問い”を立てる・・・
その繰り返し。
最低でも、4種類の“問い”を試合終了まで立て続け、
それに対して“答え”を出し続ける。
ボールが動いても結果的に
同じ“問い”でいい場合もあるし、
同じ“答え”でいい場合もある。
一見、相手がまるで動いていなければ
“問い”を立て直さなくてもいいのでは?・・
そう感じてしまう瞬間は確かにある。
でも、ようく観察してみると
相手選手の目が動いていたり、
身体の向きが微妙に変わっていたり、
ボールの持ち方が変わっている・・・
ということは多い。
そこで、
「相手も動いていないのだから、“問いの建て直し”は必要ない」
と安易に判断してしまうと大きなツケを払わされることになる。
だからこそ、注意深く相手を「見る」ことが必要になってくる。
自分が走っている時は冷静に「見る」ことができないので
そこは「予測」で補うことになる。
一人で“問いを立て直す”ことや
“答え”を出せない時には
仲間の声に助けられることもあるはず。
そういった問題解決でも
もちろん構わない。
むしろ、現場のアドリブや瞬間的な判断で
仲間と同じ“問い”を立て、
同じ“答え”を出せたなら
それは最高の瞬間。
でも、そういった最高の瞬間を試合の中で生み出す為にも
まずは一人ひとりが「考えて」プレーすべき。
自らの判断で“問い”を立て、
自らの責任で“答え”を出すべき。
仲間の判断に助けられることと
自らの“問い”と“答え”を放棄することとは
同義ではない。
むしろ、相反するもの。
「考える」「考えてプレーする」ということを
このような形で文字として表現すると
本当にしんどい作業になってしまうように感じる選手も
いるかもしれない。
特に、技術に自信のない選手や経験のない選手は
「考えよう」としても
結果的にうまくできずに
「考えること」=「悩むこと」
になってしまうことも多いかもしれない。
でも、サッカーにおいて、
「考え」続け、「悩み」続け、
終わりのない“問い”を立て続け、
終わりのない“問い”に
“答え”を出し続けた苦行のような時間は
高校を卒業した後、
一人の人間として、一人の社会人として
前に進んで行こうとする時に
必ず自分自身を支える力になるはず。
背中を押す力になるはず。
そして、そのような“力”が
周りにいる大切な人たちを守る力にもなるはず。
人生の転機において
自らの生きる意味を考えるのと同じように
サッカーにおいても
戦術や技術といった具体的なものだけでなく
時として「なぜサッカーをやるのか?」
指導者であれば「なぜ指導するのか?」
こういった大きな“問い”を立てなければならない時もある。
でも、そういった“問い”から逃げずに
“答え”を探し続けたいし、
選手たちだけに「考え」続けることを求めるのではなく、
“問い”を立て続けることから逃げない勇気を
持ち続けたい。