アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

自信と徹底の関係

2012年06月11日 02時17分24秒 | メンタルの謎
先日の練習時に
備品や道具の手入れがされていない状態が目に付いた。

道具の管理や手入れは
下級生がすることになっているが、
明らかに備品や道具の手入れが
なされていない状態だった。

今回が初めてのことではなかったので
下級生達には厳しく伝えた。

併せて、今後このような状態が続いたとしたら
下級生だけ走らせる、
とも伝えた。

新しい下級生も入ってきて
新しい選手達にとっては
いきなりの冷や水のようだったかもしれないが、
今後このようなことが続けば、
選手達には厳しさをもって対応するつもりでいる。



たかが、備品や道具の手入れであって
直接プレーには関係ないのだから
厳しく考える必要はない・・・
ましてや、走らせる必要などない・・・
そういう考えもあるかもしれない。

でも、20年以上やってきて感じるのは、
強いチームと弱いチームの差は
こういうところにある・・・ということ。

強いチームは
とにかく“徹底”できる。

なかなか負けないチームには
“徹底”が必ず存在する。

個人の能力で勝ったとしても
“徹底”の存在しないチームの成績は安定しない。

“徹底”の存在しないチームの戦いに
安定などない。

特に、守備で“徹底”できないチームは
脆さを簡単に見せてしまう。

もちろん、チームによって
“徹底”できるもの・・
“徹底”するもの・・
は異なる。

それでも、強いチーム、なかなか負けないチームに
“徹底”が必ず存在するのは
間違いない。

相手の選手や戦術、グランド状況や試合環境など
試合によって取り巻く条件は常に異なる。

でも、それでも強いチームには
“徹底”が存在する。
負けないチームには
“徹底”がある。



「強い」から“徹底”があるのか?
“徹底”があるから、「強い」のか?

個人的には
後者だと思っている。

何があっても
どんな条件下であっても
言い訳せずに「1つのこと」をやりきる・・
それが「自信」になっていく。

「俺達はいつでもどんな時でもやりきった・・」
そう思えることが
「自信」につながっていく。

「自信」とは
「自らを信じる」ということであり、
「自らを信じられる」ということ。

どんなに苦しくても
どんなに辛くても
「俺達は逃げなかった」
「俺達はやりきろうとしてきた」
「実際にやってきたのだ」
もし、試合前にそう思えたとしたら
そのチームが簡単に負けることなどない。

たとえ「小さなこと」であったとしても
その「1つのこと」を“徹底”できた・・
という経験が「自信」となり、
選手一人一人やチームを前に進めていく力になる。

“徹底”してきた・・という経験が
選手個人とチームを支える背骨になる。

不安定なチームに
“徹底”という体験は存在しない。
脆いチームに
「自信」という背骨はない。

守備や攻撃のチーム戦術だったり、
チームとしての考え方や信念みたいな部分を
“徹底”できるのがベストだが、
それでなくても
挨拶や声、指示、
道具の管理や約束事の遵守・・
こういった部分において
“徹底”することができれば
それだけでも「自信」になっていく。

監督である自分の至らなさが原因なのだが、
悲しいかな今のチームは
単純なことさえも“徹底”できていない。

道具の管理や備品の清掃
挨拶やプレー中の意思表示、コミュニケーションすら
“徹底”できないチームが
強くなれるはずもない。

何人か個人技に優れた選手がいたとしても
少し疲れてきたり
ちょっとチームにとっての状況が悪くなると
途端に崩れ始めてしまう・・・
それが今のチームの現状。

今のままでは
これから夏場にかけて余計に
脆くなっていくはず。

最後はまとまりきれず
やり切れず、
“徹底”しきれず
自分達を信じきれない・・・
そんな夏になってしまう。



過去は未来を創る。
過去は現在を創り、現在は未来を創る。
過去の体験が現在の行動につながり、
未来を形作っていく。

小さな体験が現在に繋がり、
未来を創っていく。

たった一つの小さな体験であっても
「“徹底”できた」という経験が
現在の「自信」に繋がっていく。
そして、現在の「自信」が
未来においても「自分達を信じる力」に繋がっていく。

「俺達は絶対に逃げなかった・・・」
「俺達は絶対に言い訳しなかった・・・」
「俺達はどんな時でもやりきった・・・」
「俺達はこれからもやり切れるはず・・・」
「俺達なら、諦めなければなんとかなるはず・・・」

“徹底”するいった体験や経験が
「自らを信じる力」になり、
先の見えない未来においてこそ、
自分達の“灯り”になるはず。

“徹底”という経験を通して得られた「自信」は
自分達の足元を照らし、
自分達の進むべき道を照らす
“灯り”になるはず。

今、チームはまだ“灯り”を持ちきれない状態だが、
小さな“徹底”という体験を通して
チームとしてまずは
小さな“灯り”をもてるようになっていきたいと思う。




「焦り」には、原因がある・・・?

2010年10月18日 12時58分24秒 | メンタルの謎
今はテスト期間中だが、
試験明けすぐに新人戦兼関東大会予選があるので
トップチームだけ練習を重ねている。

正直、今のチームは
メンタルが強い・・というわけではない。
以前に比べると、メンタル面は確実に改善されてきているのは間違いないが、
それでも、他のチームと比較してメンタルの強さがチームの武器である・・
と言えるようなレベルには達していない。

選手達へのメンタリティーへの働きかけは
継続的に続けていく予定だが、
同時に今は大会を想定して
ゲームを中心にトレーニングしている。

具体的には
「流れが悪い時にどうプレーするか?」

ただ焦るだけでなく、
“流れの悪さ”や“自分達の弱点や苦手なパターン”を
どう自覚し、チーム全体として認識できるか?

さらに、その上で、
その“悪い流れ”をどうすれば、
自分達にとって、いい流れに持っていけるのか?



「なぜ、悪い流れになってしまっているのか?」
「なぜ、今、上手くいかないのか?」
ということを自分なりに分析できていれば、
比較的冷静でいれると思う。

「上手くいかない」時に
その“原因”を分析できないと
気持ちが焦り、酷い時はパニックに陥ってしまう。

もちろん、いくら冷静な分析が出来たとしても、
グランド上で全てを解決できるとは限らないが、
冷静な視点が局面打開の一手に繋がることは
少なくない。

グランドに立っている11人やベンチにいる選手、
応援してくれている選手達の
閃きや声が
悪い流れを変える一手に繋がってくる。

そのためにも、
まずは自分達の弱点を認識すること。
自分達が、悪い流れだったと認識したのは
今までの試合で、どんな場面だったのか・・
ということを自覚的に分析すること。



サッカーノートを通じて
チームや自分のプレーを
冷静に分析出来ている選手は
このような趣旨で練習していても
“悪い流れ”の認識・原因の分析・修正が速い。

自分のプレーやチームのプレー、試合の流れといったものを
客観視できない、そのような習慣がない選手ほど
“悪い流れ”に簡単に飲み込まれてしまう。

しかも、自分を振り返る習慣のない選手ほど、
“悪い流れ”に簡単に飲み込まれた挙句、
我を忘れて、自分自身の感情にも
簡単に飲み込まれてしまう。

仮に、自分自身の感情に飲み込まれないとしても、
【自己の客観視】という辛くて地味な作業を
継続的に続けていない選手は
ただ、“悪い流れ”を傍観するのみで
自らアクションを起こさない。
自分が『傍観している』ことにすら気づかない・・・。



「焦る」場合には、
他にも原因がある。

単純に言えば、
「相手をバカにしている」ような場合。

サッカーという不確実でロースコアなスポーツで
「相手をバカにする」
「相手を見下す」
「勝って当然と思い込む」
こういったメンタリティーは極めて危険な状態。

ただ、これは
サッカーの試合に限らず、
人生でも同じなのだと思う。

人をバカにする、人を見下す、まじめにやっている人間を小馬鹿にする、
または、何かにつけてすぐに「面倒くさい」「うぜぇ」と言う。

こういった言動をする選手ほど、
試合中に走らないし、
疲れてくると何もしない。
球際でも戦わず、抜かれてもボールを追わない。

「馬鹿にする」「頑張ることを面倒くさがる」言動やメンタリティーは
静かに、しかも確実に自分自身の心と身体を蝕んでいく。
あたかも、癌細胞のように。

その“癌細胞”をどう無くしていくか?
厄介なことに、人間は
その“癌細胞”を皆、持ってしまっている。

そもそも、その“癌細胞”を無くしていくことができるのか?
無くしていくことが出来ないとしても、
小さくしていくことは出来るのか?

空中分解するチームほど、
“癌細胞”に支配されてしまっている。

大会でチームが空中分解しないためには
まずは、自らの“癌細胞”の存在を認識すること。

そして、“癌細胞”の活性化を抑える努力を
毎回の練習で続けること。

そのためにこそ、
毎回の練習で手を抜かず、
自分自身と向き合い、
味方とも真摯に向き合うこと。

さらに、
サッカーとも真剣に向き合い、
謙虚な気持ちで
毎回の練習をやりきること。



「焦る気持ち」も“癌細胞”も
無くなることはないかもしれないが、
自己の客観視やサッカーや人間と謙虚に向き合うことで
絶対に抑えることが出来るはず。

そう信じて、
次回の練習も選手達と一緒に
頑張りたい。

チームという名の船

2010年09月21日 22時44分21秒 | メンタルの謎
先日の練習中に、
空気圧が甘いボールが多数存在していたことが発覚した。

ウォームアップの最中、
選手達がボールの空気圧を気にしている様子が
多々見受けられたが、
実際に確認してみると、
本当に多くのボールの空気圧が規定数値以下だった。
しかも、空気圧の数値すらも確認していないようだった。

一度、集合して選手達に確認するも、
実際、誰も空気圧の数値を確認していなかった。
また、空気圧のこと自体、
あたかも他人事のように
誰一人として
気にしていなかった。



たかが、ボールの空気圧かもしれない。
でも、とても大切なこと。

気になるのは、
やるべきことに対して誰も責任感を持とうとしていなかった・・・
ということ。

誰かが気づいたら、
誰かが声を出せばいい。
誰かが気づいたら、
誰かが動けばいい。

でも、この日は誰一人として気づかず、
そして、誰も動かなかった。



チームは一つの船のようなもの。

今のチームは、木造の小さな船・・といったところだろうか。

その小さな船をみんなで大切にしながら
自分達の目標に向かって進んでいく。

穴が開いて、水が入ってきたら、
気づいた人間が塞げばいい。
風が無くなったら、
全員で必死に漕げばいい。



船底が破れて
浸水しても、
誰も気づかない。
仮に、気づいていたとしても、
誰も動かない。

そうしているうちに
船は沈んでしまう。

目標に向かって進むどころか、
静かに、そして確実に
沈んでいく。

動き出した船には
自分達しか乗っていない。
他には誰も乗っていないし、
この船で進むしかない。

傷ついた船、壊れた船は
自分達で直すしかない。
SOSを出しても
誰かが自分達の代わりに
船を直してはくれることはない。
ましてや、代わりの船で航海することなど出来るはずもない。

選手達はそのことに気づいているのだろうか。



チームは船であり、
一人一人は
大切なクルー。

船の傷も
クルーのコンデションや能力も
他人事ではない。

選手達は
チームという船のことだけでなく、
大事な仲間のことさえも
時として冷酷に見ている時がある。

叫ばないし、動こうとも、そして係わろうともしない。
自分達の船なのに・・・。



客観的に物事を見ることは大切だが、
客観的な視点で終わってはいけない。
評論家で終わってはいけないのだ。

評論家のままでは
船の傷は直せない。
仲間のことを批判するだけでは
一緒に漕げるはずもない。

50人以上が乗っている船を
2・3人だけが必死に漕いでも
船が前に進むことはない。



大切なのは
チームという船に
また、大事な仲間に
自らが主体的にどう係わっていけるのか・・・
ということ。

大切な仲間のクルーのことや
自分達が乗っている船のことを
他人事としてしか捉えられないのか、
それとも、
あたかも自分のこととして
考えることができるのか。

船に乗っているクルーの意識によって、
船の強さも目標に向かうスピードも大きく変わってくる。

科学的ではないかもしれないが、
構造や強度、速度だけでなく
乗り心地さえも
クルーの意識によって大きく変わってくる。
それが、サッカーチームという不思議な船。



私自身も
船に乗っている一人の乗組員として
小さな穴に気づいたら、
自らその穴を塞ぎたい。

自分の意志で
船に乗っている以上、
誰かに任せるのではなく、
まず、責任感をもって
自ら行動したい。

どんなに格好悪くても、
船の穴を塞ぐために
もがきたい。

クルーの力を引き出すために
一人一人のクルーと向き合いたいし、
向き合う過程で
面と向かって仲間に怒鳴る勇気も持ち続けたい。

器用でスマートに振舞えなくても、
泥臭くもがき続けたい。

波を感じ、
クルーの声や呼吸を感じ、
風を読み、
クルーの表情を読み、
自分らしく
船と仲間にかかわり続けたい。
船が身の丈にあったスピードで目標に向かって進めるように。

そのためにも
一人一人の漕ぐ力を引き出したい。

今、乗っているこの船と、この航海が
全てのクルーにとって
かけがえのないものになるために。



自分の中で時間軸が揺らいでしまう・・・

2009年11月27日 09時42分04秒 | メンタルの謎
先日、久しぶりに完全なオフがあった。
仕事もサッカーも休み。
平日だったので子供は学校もあり、たまたまカミさんも外出していて、
完全に家で一人で過ごしていた。
時間があったこともあり、
今のチームに移ってからのスコアや指導記録を何年分も振り返っていた。

不思議なもので、スコアや指導記録を見ていると、
その時のことをはっきりと思い出す。
選手達の顔はもちろん、自分が選手達に言った言葉やその時の天気等・・。



心理学を深く勉強していたわけではないので、詳しいことはわからないが、
記憶というのは自分の中の感情と深く結びついているのだろうか?
一般的に、人間の記憶は時間の経過と共に曖昧になっていくような印象があるが、
感情が時間軸を不安定にさせるような気がしてならない。

強く感情的になっていた試合や場面は
どんなに以前のことであっても、驚くほど明確に記憶が蘇る。
ただ、感情的になった試合は、ディテールまではっきりと覚えている半面、
なんだかものすごく遠い記憶のように感じる。

この間終わったばかりの新人戦のことも
試合前や終わった後のことはもちろん、
試合中の選手の表情や自分自身の感覚や感情を明確に思い出せるが、
なんだかもう1年以上の前のことのようにも感じてしまう。

感情的になった試合、特に〝悲しい〟という感情は
自分の中で無意識的に遠ざけたくなってしまうのだろうか。
感傷的な試合を自分の中で受け入れることができないのだろうか。

〝悲しい〟〝辛い〟という記憶や感情が、
自分の中の時間軸を揺らがせている・・
正直、今はそんな気がしている。



今のチームに来て、もう3年以上経つが、
どの年代の試合も、トップチームの試合だけでなく、
バックアップの試合も、チャレンジャーズチームの試合も、
しっかりと覚えている。

「選手の素晴らしいゴール」や「成長した姿」も覚えているが、
忘れられないのは「大切な試合で勝てなかった・・」という記憶。
悲しいかなその記憶にはいつも大きな傷跡が伴ってしまう。

特に「負けたら、選手達がクラブを卒業してしまう・・」という試合で、
采配や監督として自分の行動には、
後悔の念が常に付きまとう。
「なんでこうしなかったんだろう・・」
「こうすべきだったかもしれない・・」

その時なりに、自分の感覚を信じ、自分の責任で判断してきたとはいえ、
選手達の涙を思い出す度に、どうしても自分自身を責めてしまう。
特に、試合に出れなかった選手達の涙は自分の胸に突き刺さる。
必死に応援してくれた選手達のやりきれない表情を見る度に
自分の未熟さが歯がゆく、そして、情けない。

サッカーでも、人生でも
「・・してたら・・」「・・していれば・・」ということを
考えることが無意味であるというのは自分でもわかってはいる。
わかりきっていることではあるのだが、
自分が弱い人間のせいなのか、
どうしてもあり得もしない状況に思いを廻らせてしまう。

「同じようなミスや過ちをしない為に、自分自身がどうしていくべきか?」
ということが大切なのだ!ということは
それこそ〝頭〟ではわかってはいる。

自分から辞めない限り、また何らかの事情で突然終わりが来ない限りは
サッカーも人生も続いていくもの。

楽しいこと、悲しいこと、辛いこと、嬉しいこと・・
サッカーでも人生でも、人は全てを背負いながら、前に進んでいくしかない。

当たり前の真実が、弱い自分には時として、とてつもなく重い。



自分自身が
「指導者として成長したい・・」
「一人の人間として強くなりたい・・」
と思い続けることができているとしたら、
それは間違いなく、選手達の涙によっても支えられている。

「選手には笑ってクラブを卒業させたい」
「選手を泣き顔でクラブを卒業させてはいけない」
20年近く、そう思い続けている。

それでも、自分の理想にはまるで届かない。
自分自身の悔しさと情けなさと選手達への申し訳なさが
自分自身の背中を押し続けている。

体力的に、無理するのは、厳しい年齢になってきているし、
夏休みのほとんどを3時間位の睡眠で過ごすのは
無理を通り越して、無茶とすら言えるのかもしれない。

ただ、楽して指導しようとすることを目指すのは
自分には出来ないし、したくもない。

もし、自分が楽したいと思ってしまったら、
泣いてクラブを卒業していった選手達に顔向けできないし、
彼らの涙を踏みにじってしまうような気さえしてしまう。

「もう無理は出来ない・・」と考えてしまったら、
その時はグランドを去る時、
そう思っている。

人間は「楽をしたい・・」と思った時から、
どんどん〝坂を落ちていく〟ような気がする。
自分のような弱くてだらしない人間は、特にそうだと思っている。



指導するチームや指導環境は今後変わるかもしれないが、
指導者でいる限りは、
泣きながらクラブを卒業していった選手達に
「あの時の悔しさは忘れていないよ」
「同じ悔しさを味わないように、俺は今も頑張っているよ」
胸を張って堂々と言えるように、
これからも、今、目の前にいる選手達と頑張っていきたい。

貫くこと・・・

2009年09月28日 20時13分58秒 | メンタルの謎
昨日、リーグ戦で自分達のチームに退場者があった。
一発レッドなので、最低1試合の出場停止はもちろん、
通常であれば、2~3試合の出場停止。
チーム内の得点王だっただけに、チームとしても痛いが、
一番辛いのは本人だと思う。
その選手はこの日の試合でも、鋭い動きからチャンスを作り、
ゴールを決めていた。

皮肉なもので、FWというポジションは活躍すればするほど、
マークは厳しくなり、当たりも激しくされてしまう。
レフリーによっては、ファールと見えたとしても、
まだまだ戦える・・と判断した場合にはファールをとらずに
プレーを続行させることは少なくない。

その選手も簡単に倒れてファールをアピールする選手ではなく、
相手のチャージに対しても頑張って堪えてプレーを続行しようとするタイプ。
その選手の処分がどうなるかわからないが、
これから出されるリーグ内の規律委員会の決定を
彼は厳粛に受け止めなければならない。

ただ、彼のプレーには感情があり、自己主張がある。
感情もコントロール出来ないと、自らの首を絞めることもあるが、
感情がないプレーよりもよっぽどいい。
自己主張のない受身のプレーよりも、
ミスがあったとしても自己主張のあるプレーの方がよっぽどいい。

レッドカードという処分は受けたとしても、
彼には彼のサッカーを貫いてほしい。
人間だから感情がある。
感情に溺れたり、感情に流されてしまうこともあるかもしれないが、
感情をなくしたロボットみたいな選手になるよりはよっぽどいい。

残りのリーグ戦には出られないかもしれないが、
退場処分となった選手には、彼のスタイルを貫いて欲しい。
心からそう思っている。



貫く・・・ということは、
選手だけでなく、指導者にも当てはまる。
指導者として、結果が出ない・・という状態は
ある意味レッドカードを突きつけられているようなもの。
また、選手が育たない・・もしくは育っていない・・という状態は
イエローが出されているような状態といえるのかもしれない。

プロの指導者であれば、一方的に解雇されるが、
アマチュアの指導者が一方的に解雇されることはあまりない。
ただ、個人的にはアマチュアの指導者であっても、
プロと同じような意識を持つべきだと考えている。
試合で結果が出ない・・、選手が育たない・・という状態なら、
チームを去るべきだと思っているし、
アマチュアだからこそ、自分でけじめをつけることが大切だとも思う。

指導者に引き受けた責任と自分でチームを去るけじめをつけられる覚悟があれば、
指導の方法はその指導者のやり方や方法でいい。

自分が納得できる指導をするために、
自己を客観視することは必要だが、
大切なのは自分で考えることであり、
自分自身で自分の可能性を信じ続けること。
自分の感覚を信じ、自分らしいコーチングを貫くこと。

誰かに批判されたくないとか、誰かに褒められたいとか、
自分自身と選手以外の第3者の評価を気にしていたら指導など続けられない。

誰かの評価でしか満足できないとしたら、
誰かに認められなければ自分のコーチングに自信が持てないとしたら、
指導する資格もない。
誰かに評価されたいと思っている指導者ほど、
上手くいかない時ほど、愚痴や厭味、皮肉を言ってしまうし、
理想すらも語れない。

諦めないで現実と目の前の選手達と向き合っている高体連の先生方は多いし、
そのような先生方を自分は尊敬している。
強いチームでなくても、歯を食いしばって指導していらっしゃる先生方を見ると
自分がまだまだ未熟なことに気づかされる。
自分も謙虚さを忘れずに、そういった先生方の背中を追いかけていきたい。

ただ、「謙虚さを持つ」ということは、
「他人の価値観で生きる」ということではない。

どんなチームにいても、
自分らしく指導を続けたいと思うし、自分のやり方を貫きたい。
たとえ、誰かに評価されなくても、
自分らしくやり切れればいい。
自分の言葉で選手に何か伝わればいい。
誰かの受け売りではなく、
上手い表現でなくても、
自分の言葉で選手には自分の言いたいことを伝えたい。

アーセン・ベンゲルは言う
『サッカーをするということは人生とどう取り組むか?ということに他ならない』
自分の現役時代は下手で、ただ激しいだけのプレーヤーだった。
そんなプレーヤーだった人間が監督になったからといって、
急にスマートにできるはずもない。

しかし、不器用でも、頑固でもいい。
どんな時でも、自分らしくいたいと思う。
どんなに曲がっていても、自分の背骨は自分だけのもの。
自分なりの筋は通したい。

どんなに遅くても、自分の足で歩きたい。
どんなに細くて曲がった道でも自分の信じた道を歩きたい。
誰かの指示で道を決めてしまうと、
道に迷った時に誰かのせいにしてしまう。
自分の生き方も自分の指導の方法も、最後は自分で決める。
自分の道は自分で選ぶ。
そもそも、自分の意思のないところに、
自分の道などない。
自分の選んだ道がどんなに荒れていても、
自分の意思で選んだ道が自分の道。

そして、自分の選んだ道を自分の足で歩き、自分の足で走る。
どんな状況でも、他人の評価や他人の価値観にはしがみつかない。
どんなに汚れていても、自分の靴で歩きたい。
どんなに綺麗な靴でも、誰かの靴では歩かない。
どんなに遅くても、自分の足で走りたい。
ペースメーカーなど要らないし、
誰かに背中を押してもらってまで、速く走りたくもない。
絶対に誰かの足では走らない。
いつでも、自分の足で自分のスピードで歩き、そして走る。

躓くこともあるかもしれない。
道の先には、どんでもない崖があるかもしれない。
それでもいい。
胸を張って、顔を上げて、自分の信じた道を悠々と進みたい。

何がチームを変えていくのか・・・

2009年09月25日 12時48分05秒 | メンタルの謎
今は所属しているリバーサイドユースリーグ、後期リーグ戦の真っ最中。
リーグ全体を通して見ると、雨天等のグランドコンディション不良や
所属選手のインフルエンザ感染による試合延期等もあり、
順調にリーグ戦の日程を消化できている・・・という感じではない。
そんな中でも、各チームの先生方やスタッフの方々は
『選手達にリーグ戦を経験させてやりたい』という思いだけで
懸命に調整してくれている。

まだ、地区リーグが東京都サッカー協会のリーグ(いわゆるTリーグ)に
完全に繋がっているわけでもないが、
各チームの先生方は試合消化とリーグの維持に必死に努力してくれている。
先生方の努力もあって、うちのチームも順調に試合をこなすことができている。



力負けした試合もあったが、
リーグ戦でしぶとく戦うことが少しずつ出来るようになっている。
勝ちきった試合でも、
相手チームに先制されたり、
シュートを何本打ってもなかなか決まらない・・ということも多く、
やもすると自分達で空中分解しそうになるが、
なんとかギリギリのところで踏みとどまり、
我慢強く戦えるチームになってきている。

選手権地区予選の完敗から、練習中の様子も少しずつ変わり始めてきている。
以前は、隙の多い印象は拭えなかった練習中の光景が
少しずつではあるが、緊張感のあるものに変わり始めてきている。

選手達の様子を見ていると
「練習時の意識こそ、自分達を成長させる最大の鍵なのだ」
ということに改めて気づかされる。

練習をどれ位、試合と同じような緊張感で出来るのか・・
それは指導者の意識でもあり、また選手の意識でもある。
チームにかかわる人間の意識が練習時の緊張感や雰囲気を決める。
緩い意識は緩い雰囲気を作り出し、高い意識はいい緊張感を作り出す。

『医食同源』という言葉があるが、
「試合と練習」も同じような関係にあると思う。
試合中のプレーの質は、試合中の意識によってのみ決まる訳ではない。
普段の練習の意識こそが、試合中のパフォーマンスを決定付ける。
普段の練習で焦点のぼやけた意識で練習できない選手が
相手のプレッシャーのある状況下で狙いのあるプレーなど出来るはずもない。
普段の練習で緊張感のないチームが
緊張感のある試合でまともなプレーなど出来るはずもない。



チームの全体練習以外の時間でも、
選手達は変わり始めている。
練習に遅刻した、試合に遅刻した、サッカーノートの提出を忘れた・・・
以前なら、そういった状態にあっても、
こちらが何も言わなければ、
『言われてなけりゃ別にいいか・・』という感じで
何事もなかったかのように緩い意識で練習していた・・・。

しかし、今はキャプテンの積極的な働きかけもあって、
今は少しずつ自分達でけじめをつけられるようになり始めている。

「自分でけじめをつける」ということは
「自分で緊張感をつけられる」ということでもあり、
「自分で自分自身を追い込める」ということでもある。

意識の低い選手からすると、
「少しだけ連絡が遅れただけじゃん・・」
「練習にちょっと遅れただけじゃん・・」
「ついうっかりノートを忘れてしまった・・」
ということなのかもしれないが、
その積み重ねが練習中の意識を低下させていく・・。
その甘い考えや自分でけじめをつけられない緩い意識が
チーム全体の空気を悪くしてしまう。
静かに、そして確実に・・・。



でも今は変わりつつある。
自分で自分自身の甘さにけじめをつけられる選手が出てきている。
そういった選手の意識の高さがチームの雰囲気を練習中の空気を変え始めている。
サッカーの試合において、同点の場面こそ、
そのチームのメンタリティーや普段の練習中の意識が如実に表れる・・・
そう思っている。

チームがリーグ戦でしぶとく戦えるようになり始めているのは
選手達が自分達自身の甘さを自覚し、自分達でけじめをつけ始めたことが
大きく影響していることは間違いない。

まだまだ自分でけじめをつけられない選手や自分で追い込めない選手もいるが、
少しでもいい緊張感で練習ができるように
監督という立場で最大限の努力をしてきたい。

「普段の練習中の意識こそが自分達を変えていくのだ」
ということを忘れずに、私自身も監督として緊張感をもって
練習に取り組み続けたい。

サッカーにおいて責任感は必要か?

2009年06月12日 08時51分00秒 | メンタルの謎
最近は学校外の区の施設をお借りして練習していることが多い。
学校から走って15分位の場所だが、車の通りも多く、
道具を持ってグランドに来る選手は大変だとは思う。
ただ、学校の狭い環境で練習するよりは選手にとってプラスになるのでは・・と
考えて、あえて学校外の区の施設で練習している。

使えるスペース等、練習環境は区の施設を利用した方がいいとしても、
道具の準備をする下級生は準備自体で一仕事・・・という感じかもしれない。
『道具の準備を下級生がする』というのが、
今のチームのやり方・・と言ってしまえばそれまでだが、
下級生のうちに道具の準備を集中してやる、
というのは悪いことではない、と考えている。

「チームの為に何ができるのか?」
ということを常に意識し、考え続けることは
一人一人の選手にとって、マイナスになることはひとつもない、
指導者として個人的にそう考えている。

私自身はこのような考え方を【チームに対する責任感】と呼んでいるが、
【チームに対する責任感】こそ、育成年代の選手達が
サッカーというスポーツを通じて学ぶべきもの。
指導者として心からそう思うし、
最近は私自身が指導を通じて常に意識していることでもある。



先日、練習開始時に
「チームとしてグランドに持ってきたボールの数を把握できていない」
ということがあった。
ある選手は『30個用意してます』と言う一方で、
ある選手は数すら把握していないという状況の中、
実際にボールの数を数えたら19個しかない・・という状態。

下級生の準備が簡単ではないことは承知した上で
「【チームに対する責任感】が足りないのではないか!」
「【チームに対する責任感】というものを意識しているのか?」
「お前らにとって【責任感】って言うのは何なんだ!」
厳しい言い方だったかもしれないが、
【チームに対する責任感】ということを考えてほしくて、
下級生全体にあえて厳しく叱責した。

指導者として、
試合に負けた時に負けたことの戦犯探しのようなことは
絶対にしてはならないと思っているが、
同時に負けたことに対してはチーム全体で反省すべきだとも思う。
そして、このことは練習や試合における〝準備や片付け〟にも当てはまる。



どんな選手でもサッカーを始めたのは
『やっていて楽しいから』という気持ちが動機としてあったから。
しかし、この動機に自己中心的な気持ちが重なってしまうと、
『自分さえよければ・・』という考えに陥ってしまう。
自己中心的な気持ちがエスカレートしていくと、
『自分にとって直接プラスにならないこと』に対して
『面倒くさい』と思うようになってしまう。

もちろん、自分自身が『楽しい』と思う気持ちや
その選手のプレー上における『やりがい』を感じる気持ちを
否定するつもりは全くない。
ただ、そのような『純粋にサッカーを楽しみたい』という気持ちと同時に
「チームに為に何ができるのか?」という意識も持って欲しい。

滅私奉公というような盲目的な自己犠牲ではなく、
「一人一人が自分のことだけでなく、仲間のことも考える」ことで
試合に勝った時や上手くプレーできた時の喜びを仲間と分かち合える。
「お互いに励ましあう」ことで
みんなで頑張れる。
そう思っている。

勝てないことや上手くいかないことも当然あるが、
「チームで悔しさを共有する」ことができれば、
次の試合へのモチベーションになる。
次の試合に向けて、みんなで頑張れる。



一人一人は自分自身が納得するために生きている。
これはある意味、人間の本質といえるかもしれない。

でも、一人一人でできることは限られているし、
一人で生きている訳でもない。
この点で人生とサッカーは重なっている。

自分自身が納得できるプレーをするためにも
「チームの為にもプレーする」という意識を持つべき。
そのような気持ちも持ちながらプレーすることが
巡り巡って自分自身の納得にも繋がるはず。

一人一人が自分のことしか考えない世の中は住みやすいのだろうか?
一人一人が自分のことしか考えないサッカーで全員が納得できるのだろうか?

世の中のことをどうのこうの言える立場にもできる立場にもないが、
少なくとも今自分が指導しているチームでは
自分のことだけでなく、
味方のこと、チームのこと、関わる人達のことも考えることのできるような
チームに少しでもなっていければ、と思う。



そのためには、毎回の練習で少しずつでもいいから
一人一人が「チームのために自分自身が何ができるのか?」ということを
考え続けること。

実際に「チームの為にできることをし続ける」こと。
道具の準備ことや声を出すこと、味方の為に必死に走ることも
「チームの為に動く」ことだと思う。

また、奪われたボールを取り返すことや
練習から常に自分の全てを出し切ることも
「チームの為に動く」ことに繋がっていく。

一人一人が自分自身の納得と同時に、
チームを強くするために何をできるのか?
ということを考え行動し続けるという
【チームに対する責任感】こそ、
いいチームになっていく為だけでなく、
いいプレーヤーになってく為の必要条件。

自分のことしか考えない・・
自分さえよければいい・・
そんなサッカーに未来や希望などない。

一人一人の【チームに対する責任感】こそ、
チームを支えていく〝背骨〟になるはず。

これからも、指導者として【チームに対する責任感】にこだわっていきたい。



過去とどのように向き合うべきか?

2009年05月02日 14時02分09秒 | メンタルの謎
インターハイの地区予選は2回戦でPK戦で敗退した。
後半立ち上がりに先制され、
後半ロスタイムに同点に追いつくも、
結局、PK戦で敗退した。

負けてはしまったが、
戦う姿勢をチームとして、個人として一人一人が
持てていたゲームだった。

最後まで諦めない気持ち、戦う気持ちがあったからこそ、
ロスタイムに同点に追いつけた。

ただ、PK戦の前になかなかキッカーが決まらない状態が続いた。
過去のPK失敗の経験が
何人かの選手の気持ちに影を落としているようだった。



もし、自分のPKで勝負が負けが決まってしまったら、
特に若い内は少なからず心の傷みたいなものが残ってしまうのは
理解できる。

自分もあの1対1を決めていればとか、
なんであの時に・・・という後悔の念は
現役を引退してかなり時間の経った今でも時々思い出す。

もちろん、サッカー以外でも
「なんであんなことをしてしまったのか?」
「なんであんなことを言ってしまったのか?」
という思いは少なくない。

法律的に罪を犯したことはないが、
結果的に人を裏切ったり、
自己中心的な考えや行動で
人を近くにいた人を傷つけてしまったことは何度かある。

それを思い出す度に
気持ちがざわつくし、傷が疼く。

傷つけてしまった人や迷惑をかけてしまった人に
直接謝りたいという気持ちは今でも持っている。



今、自分ができることは
同じ失敗をしないこと。
同じ過ちを繰り返さないこと。

過去の経験から、
「これをやってしまったら、自己嫌悪に陥ってしまう」
ということは絶対にやらないと決めている。
反対に「これをやらないと、絶対に後悔する」
ということは絶対にやるようにしている。

これらによって、心の傷が無くなるとも思えないが、
私自身の行動や言動によって、
自分以外の誰かが、また自分自身が、
「人は信じられる存在」だと思えたり、
「みんな可能性を持っているんだ」と思える瞬間が持てたとしたら、
多少の贖罪になるような気がしている。

過去の失敗や苦い思いは超えるためにある。
最近は、心からそう思う。



もちろん、過去と向き合い、過去を越える作業は簡単ではない。
世の中には自分の犯した罪の重さに押しつぶされたり、
自暴自棄になったり、他人や自分自身を信じられなくなってしまう人もいる。

反対に、自己防衛の本能から、自分の過去を封印してしまう人もいる。

気持ちの強さがないと、
そもそも自分の過去と向き合うことすらできないかもしれない。

初めから、強い人間などいないことを考えると、
自分の過去や自分の弱さと向き合う覚悟こそ、
一番必要な要素なのだと思う。



ただ、サッカーというスポーツが
今自分が指導している選手だけでなく、
サッカーに関わる人達全てが
可能性を信じられる気持ちを持ち続けられるような存在であってほしい。
心から思う。

希望を感じ続けられるスポーツとして、
サッカーがこれからも存在し続けてほしい。
本当にそう思う。

アーセン・ヴェンゲルは言う。
『サッカーは、プレーする者にとっては喜びであり、
 社会的な修練の場所であってほしい。
 また、それを見る者にとては幸福の一瞬であってほしい。』



サッカーが自分自身や人間の、
可能性を否定するものであってはならないし、
絶望に導く架け橋になってはならない。

そのためには、
プレーヤーや指導者など、サッカーに関わる人々全てが
可能性を信じなければいけない。
希望を信じなければいけない。

自分の失敗や後悔を乗り越えられると信じ、
勇気と覚悟をもって、
自分の弱さや過去向き合わなければならない。

過去は自分の可能性や人間への信頼を否定するものにならないように
まず、私自身が監督として選手の可能性を信じたい。
同時に、監督としての自分自身の可能性も信じていたい。

今回の敗戦を乗り越えて、
チームで喜べる日が来ると信じたい。
そのために、毎回の練習で少しでも前に進み続けたい。

チームはどのようにして、チームになっていくのか?

2009年04月24日 14時50分41秒 | メンタルの謎
最近は区のグランドを借りて練習している。
校庭よりも、使える面積が広いので、
チームとしてはとても助かっている。
ただ、タバコの吸殻や飲み物の容器が散乱しているのだけが
非常に気になっている。
この点については、また機会を改めて、
ブログで書きたいと思う。



チームはこの時期、運動会という学校行事があるために
練習開始時には半分も揃わない。
前回の練習において、
ある程度人数が揃うまで、
選手と一緒にゴミ拾いをしていた。

遅れてきた選手の一部が
各自の練習開始準備が終わっているにもかかわらず、
何もせずに談笑。
上級生やスタッフがゴミ拾いや水分補給用のボトルを準備していても
特に気にすることもなく、
談笑を続けている。

指示を出さずに、何も言わずに、
どんな対応をするのか?
何に気づくのか?
様子を見ていたが、
5分近く何もする気配も動く気配もなし。
個人的にある結論に達し、
該当選手達に、大声でゴミ拾いを指示した。

ゴミ拾いや準備が一段落したタイミングで
「全員集合!」
挨拶をした後、
選手達に問いかける。
「チームはどうやって作られる?」
「単なる人の集まりが、どうやったらチームになる?」



「監督はなんでこんなことを聞くのだろうか?」
「あんまり考えたこともないし、監督はどんな答を求めているのだろうか?」
選手達の戸惑った表情からはそんな気持ちが読み取れた。

人間の行動は意識無意識に関わらず、
何らかの動機や目的に支配されていると考えている。
〝何かをする〟という行為は
「何かをしたい」「何かをしなければならない」
という目的や動機(時には義務といった意識かもしれないが)が
根底にあるはず。

反対に、〝何もしないという行為(不作為)〟は
「したくない」「する必要がない」「あえてしない」
といった意識を表している。



選手達は今まで「チーム」ということについて
深く考えたことなどないのかもしれない。
今まで自分が監督として
「チームのために・・・」と言っても
選手達はピンとこなかったのかもしれない。

自分が考える「チーム」とは
助け合い、励ましあい、競い合える〝人の集まり〟。

もちろん、選手達もそのような漠然としたイメージを持っていたとは思う。
では、どうしたら、そのようなチームになれるのか?
ある選手は「規律を守る」と答えた。
確かに、それも「チーム」になるためも1つの方法かもしれない。



でも、自分が考える「チーム」の大前提は
一人一人の〝チーム〟になろうとする意識。

一人一人が、
この集まりを「チーム」にしていこうと考え、行動し続けることで、
単なる人の集まりが、少しずつ「チーム」になっていく。

その「チーム」に入れば、だれでもチームの一員になる訳ではない。
チームを支える意識、お互いに励ましあい、助け合う意識があってこそ、
選手は「チーム」の一員になっていく。

ただ居るだけで、自分のことしか考えない、
自分のことしかやらない、チームの為に何もせずにいる選手を
チームの一員と認めることは絶対にできない。

プレーにおいても、プレー以外の場面においても、
「チーム」のために、何ができるのか?を常に考え、
実際に行動し、声を出す、味方と言葉を交わす。

その積み重ねこそが、より強い「チーム」を作っていく。

世の中には「いいチーム」は少なくないが、
世界中の「いいチーム」は関わる人々の
積極的な意識と行動に支えられている。

「チーム」に関わる一人一人が受身だったら、
その「チーム」は自然に消滅する。



これはサッカーチームだけの話ではない。

親子にしても、家族にしても、友達にしても、恋人にしても、
お互いを大切に思い、この関係を維持したいと思い、
その努力を続けることで少しずついい関係になっていく。

初めから何もせずに、いい関係になるはずがない。

家族になろうとして、親子になろうとして、
友達になろうとして、恋人になろうとして、初めて
家族になれる、親子になれる。
友達になれる、恋人になれる。



関係を築こうとすれば、声を掛けるし、
一緒に何かをしようとする。
時には、それによって衝突することもあるかもしれない。
でも、それを怖がって近づかない、何もしない、
というのでは、関係は何も変わらないし、
関係が良くなることもない。

どんな人の集まりも関わる人達の
良くしていこうという意識と行動、努力に支えられていることを
忘れてはいけないし、
いい「チーム」ほど、一人一人の
日々の意識と努力に支えられている。

正直、今自分が指導している高校サッカー部は
まだまだ本当の意味で「チーム」になりきれていない。

悲しいがそれが現実。

それでも諦めずに、
自分も監督として高校サッカー部が
「いいチーム」に少しでも近づけるように、
日々、選手達と共に努力していきたい。

監督として、
どうしたら、高校サッカー部が「いいチーム」になれるのかを考え、
失敗を恐れずに行動し続けたい。

衝突を恐れずに、選手に言葉を投げかけたい。

なぜ、声が出ないのか?

2009年02月28日 13時56分08秒 | メンタルの謎
先日、練習開始前に
選手達に対して、声の無さを強く指摘した。



5分近くは声の必要性を選手達に話していただろうか?
寒い中、長々と声の必要性を聞かされる選手達には
辛い時間だったかもしれない。



ただ、
選手達に「声の必要性」を
なんとしてでも伝えたかったし、
「声の大切さ」を伝えなければいけないような
何か義務感のようなものに駆られていた。



その日の練習が終わって、
仕事の休憩中に
「なぜ、あれほど〝声の必要性〟を説くことにこだわったのか?」
選手達に説教した動機を
自分なりに振り返っていた。



〝下級生を中心に、声が出ていない〟という現象があるのは
間違いない事実だが、
人間、急に変われるはずもない。



なんだかんだいって変わらない人も少なくないし、
変わるにしても、少しずつしか変われないのが人間、
ということをわかっているはずなのに、
なぜ、あれほど選手達の声の無さに憤ってしまったのだろうか。



選手達のサッカーノートを読んでも、
『声の必要性』は一人一人は感じている。
ただ、実際はなかなか声がグランド上で出てこない。
その矛盾がが許せなかったというわけではない、とは思うが・・・。



怒鳴ったり、選手に何かをキツく指摘した時は
練習後一人になると、選手に発した言葉が
自分自身に突き刺さる。
そこでいつも自問自答する。
「何が伝えたかったのか?」
「何に対して感情的になったのか?」



完璧な自己分析はできてはいないのかもしれないが、
この作業はいつも行うようにしている。



行うようにしている・・・というよりも、
行わざる得ない・・・というのが素直な感覚だろうか。



「〝声が出ない〟という現象には、
 何らかの理由があるのかもしれない・・・」



その漠然とした感覚を少しずつ紐解いていくというか、
原因の分析を進めていき、
自分なりに、ある結論に辿り着いた。



自分の分析が正しいとは限らないし、
自分の分析が正しい部分があったとしても、
全ての選手に当てはまるとは限らないが、
その次の練習前に
「〝声が出ない〟という現象に対する自分なりの分析」を
選手達に伝えた。



私自身はカウンセラーでも何でもないし、
臨床心理の勉強をしたこともないので
自分の分析に自信などはない。



ただ、
たとえ自分の分析や仮説が間違っていたとしても、
自分の分析や考えを正直に伝えることが
選手に対する誠実さに繋がると思い、
練習開始時に選手達に自分の考えを伝えた。



「声の有無は、他人と関わろうとする気持ちの有無」

「関わりたくない人とは話などしない、声など掛けない」

「その人と関わりたい、という気持ちが声になる」



聖人君子など居ない。
人間の心の中には
キレイな部分もあれば、汚い部分もある。
固い部分もあれば、柔らかい部分もある。



そういった人間同士が関わり合えば、
衝突もするし、喧嘩もする。
時にはイジメなど陰湿な弱者に対する暴力になることさえもある。



そういった経験が人間を、選手達を、子供達を
人間関係に対して臆病にさせてしまうのだろうか。



無意識的にそういった煩わしさを避けるために、
選手達は声を出さなくなっていくのかもしれない・・・。



自分なりの平静を保つために、
適度に他人と距離を置き、
基本的に自分からは声を掛けなくなっていく・・・。



それが、たどり着いた自分なりの結論だった。



その私なりの分析を言った後で
「それでも、人との関係を怖がらないでほしい」
「サッカーで人と関わりあってほしい」
「味方と対戦相手と向き合ってほしい」
「できれば、人との関係を楽しんで」
と選手達には続けて伝えた。



人間一人でできることなど限られている。
もちろん、サッカーなど一人でできるはずもない。
一人で出来なかったことが、
味方となら出来る。



対戦相手と真剣な駆け引きができれば、
熱い試合になる。
自分達だけでは、
熱い試合にはならない。



試合では、時として、
自分の限界を知り、
己の無力さを知り、
他人に対して絶望的な気持ちを持つことさえある。



私自身の経験から考えても
味方があまりにも自己中心的なプレーをしていたり、
相手に思いっきり削られた時などは
他人に対して絶望的になることは正直あった。



でも、
今考えると
その時のプレーヤーとしての自分こそが
最も自己中心的だった・・・。



今は指導者として、一人のサッカー好きの大人としていつも思う。

「サッカーが絶望であってはいけない」と。

むしろ

「サッカーこそ、全てのプレーヤーにとって、
 ポジティブなものであってほしい」



他人との関係や声を出すことについても、
サッカー部の活動の中で
ポジティブに捉えらてほしい、
と心から思っている。



選手達の短いサッカー経験の中でも
時として人の言葉に傷つき、
己の未熟さに絶望したとしても、
自分に対して諦めないでほしいし、
他人に対しても絶望しないでほしい。



たとえ、
時にぶつかり合ったとしても、
それは他人との関係を近づけるための
いいきっかけになるはず。



「人間に対して、他人に対して絶望しないでほしい」
というメッセージは
もしかしたら自分自身に対するメッセージでもあるのかもしれない。



「選手に対して、諦めてはいけない」
「チームに対して、諦めてはいけない」
「指導者としての自分自身に諦めてはいけない」



人間の可能性を信じていれば、
他人に対して、
自分自身に対して、
声に対して、
サッカーに対して、
もっと前向きになれるはず。



時として、
辛い思いや苦い経験もあるかもしれないが、
前向きや気持ちやポジティブな気持ちで
サッカーを通じて、自分以外の人間と向き合えば、
必ず何かが残るはず。



選手にそういったメッセージを伝えるには
まず、自分自身がそう信じたい。
「もっといい指導者になれる」
「もっといいチームになれる」



サッカーが
他人に対して絶望的な気持ちを生むものではなく、
他人を信じられる、
他人を信じたくなるようなものであってほしい。



選手達が心からそう思えるように、
まずはチーム内でお互いにそう思えるように、
これからもまず自分自身から、
声を出し続けたい。
選手達に声を掛け続けたい。

成長するために必要なのは何か?

2009年01月31日 12時57分35秒 | メンタルの謎
最近、
上級生のFWの選手達のサッカーノートの質が
少しずつ上がってきている。



ノートから、その選手の悩みが伝わってくる。



ノートから悩みが伝わってくる時は
プレーの質が変わり始めるサイン。



どんなレベルの選手でも、
悩みの見えない選手は成長し続けているとは言えない。



悩むからこそ、成長する。



自分なりのイメージが出来つつも、
自分のプレーを客観視することできる選手こそ、
その2つのギャップに悩んでしまう。



でも、それでいい。



悩むからこそ、
そのギャップを必死で埋めようとする過程で、
選手は成長する。



『もっとこういうプレーができたら・・・』
『こういうプレーがしたい・・・』
『ゴールを決めたい・・・』



自分の内なる欲求や
心の叫びに似た衝動が強ければ強いほど、
悩むことになる。



その悩みを無くすことはできないが、
練習によって、
その悩みを小さくすることはできる。



でも、ある悩みを小さくすることは
時として、別の悩みを生み出すことになる。



『もっと、こういうプレーもしたい』
『こういうプレーもできるのではないか?』
サッカーを好きでやっている限りは
悩みは常に存在し、
無くなることはない。



悩みと成長はコインの裏表。
悩みの存在は、
同時に成長の可能性の存在。



練習するのは、
悩みから逃げるためではない。



悩みながら練習を重ねることで
自分の成長を実感できる。
そのために、練習する。



できることなら、
悩みを持ちながら練習しつつも、
瞬間瞬間を楽しめればいい。
プレーを、ゲームを楽しめればいい。



理想や悩みと上手く付き合いながら、
その日の練習や試合、
相手との駆け引き、
味方とのコンビネーション、
ボールとの関係を楽しめればいい。



アマチュアに引退はない。
プレーに完成はない。



だからこそ、
悩みは常に存在するものだが、
それは、常に成長できる可能性がある、ということ。



何時からでも、何歳からでも、
成長することはできる。



FWというポジションで勝負したい、
と選手が思うのであれば、
FWとして求められる役割の中で、
自分なりの答の出し方を
いかにすることが出来るか?



誰かの真似でなくていい。
自分の武器で、
自分の感性で、
勝負すればいい。



自分なりの色の付け方でいい。
自分なりの意味付けでいい。
自分なりの解釈でいい。



特に、
シュートやゴールに関しては
タブーはない。
やってはいけないことなんてない。



最後は自分自身の感性を信じればいい。
自分の感覚だけを頼りにすればいい。



フィニッシュに至る過程で
自分自身の感性を信じるためにも、
どんなに悩んでも、
選手達には自分自身の可能性を信じていてほしい。



また、
シュートの瞬間に自分自身の感覚を信じるためにも、
常に試合でのシュートをイメージしながら
練習を重ねてほしい。



自分も監督として
選手の悩みも失敗も受け止めながら、
選手が自らの可能性を信じられるような言葉を
掛けていきたい。

向き合うこと・・・

2008年11月23日 10時25分32秒 | メンタルの謎
昨日、新人戦の3回戦があり、
先制されたが、後半逆転し、
なんとか勝つことができた。
ただ、試合の途中、ハーフタイムに
気になることがあった。



ハーフタイムに
選手を集合させて、
「先制はされたが、あせらずに冷静にプレーすること」と
「やってきたことはしっかりと全員で意識すること」の
2点は確認し、全員で声を出して、
ハーフタイムの指示は終了した。



この後、後半のキックオフまでの間に、
選手達で自主的に細かい部分の修正をすると思い、
ハーフタイムの指示も短めにしたつもりだったが、
選手達は何もせず、
次の試合のアップを漠然と見ているだけだった。



選手達のその姿に愕然として、
「これでは負けて当然か・・・」
「この様子じゃ、負けても仕方ない」
と思いながら、
自分も選手達の様子を見ていたが、
自分の中で何か衝動のようなものを感じ、
次の瞬間に選手達に怒鳴っていた。



「次に試合のアップを見て、勝てるのか?」
「もう諦めたのか?」
「やることがあるんじゃねぇのか?」
「自分達で後半に向けて、話し合ったりできんだろ!」



監督が怒鳴ったから、
逆転できたなどと言うつもりはない。
逆転できたのは選手達の頑張りであり、
応援してくれていた選手や保護者、
クラブを卒業した高3の選手達の
応援があったからこそだと思う。



正直な印象として
ハーフタイムに
次の試合のアップを
ただ黙って見ている選手達の様子は
なんだか現実逃避しているように見えた。



もちろん、
選手達自身は
現実逃避していたわけではないとは思う。



ただ、
何もせずに黙って一人一人が
次の試合のアップを見ている様子は
ひどく消極的に見えた。
自分には受身にしか見えなかった。
このまま、負けを受け入れる・・
そのためにただ、静かにしている・・
選手達があたかも
『このまま負けても仕方なのかもしれない・・』
そんな独り言を言っているように見えた。



選手達は
『後半に向けて、気持ちを集中してました・・』と
本当は言いたかったのかもしれない。



ただ、
何もしないこと、
何も言わないことは
何も考えていないのと
同じような意味を持つことがある。



自分は監督として、
また一人の大人として、
今、目の前の対戦相手と向き合ってほしかった。
向き合うべきは目の前の対戦相手であって、
次の試合に向けてアップチームではない。



劣勢の状況の中でこそ、
勝つ為にもがき、
勝つ為に何かできることを必死で探す。



そのために、
味方と向き合い、
味方と話し、
対戦相手と正面から向き合って、
試合をしてほしかった。



劣勢の状況で、
また、
たとえ劣勢ではなかったとしても、
目の前の相手と向き合ってほしい。



目の前の相手と
真剣なプレーを通じた駆け引きをしてほしい。



相手と真剣なやり取りやいい試合をするために
味方と向き合ってほしい。
味方と話してほしい。
味方と真剣に言葉を交わしてほしい。
心から、そう思っている。



また、
相手と味方と向き合うことにより、
プレーしている選手には
何かが残るはず。
応援してくれている選手や
見てくれている人達にも
何かが伝わる試合になるはず。



一人一人が自分の世界観を持つことは
否定しない。
また、
その必要性もあるとは思う。



ただ、
自分の世界に入るのは
一人でいる時にすればいい。



誰かと一緒にいる時は
人との関係を愉しんでほしい。
人と話し、
人と一緒に何かをし、
考えが異なっていたとしても
意見を交わしていく。



たとえ、
自己主張がぶつかり合いになったとしても
人との関係を
怖がらずに、面倒くさがらずに、
いてほしい。



削りあうような試合の中でも
相手との駆け引きを楽しんでほしい。



限界の中でも、
味方と話し、
味方と助け合いながら、
一緒にプレーする喜びを見出してほしい。



人は人と向き合い、
人と話し、
人と何かをすることで
何かを感じ、
何かを学んでいく。
成長していく。



戦術や技術、フィジカル云々よりも、
人と向き合うこと、
味方や相手、支えてくれている人達と
真剣に向き合うことの大切さを
選手達には伝えたい。



また、
好きで始めたサッカーなら
サッカーと真剣に向き合い、
サッカーと真剣に向き合う中で
自分自身と向き合ってほしい。



自分の本当の気持ちや
自分の中にある強さや弱さと
向き合ってほしい。



高校生だからこそ、
相手と仲間と自分と
真剣に向き合うべき。



真剣に向き合うことで
傷つくこともあるかもしれない。



でも、
真剣に向き合うからこそ、
相手も真剣に応えてくれる。



真剣に言葉を投げるからこそ、
相手も真剣に返してくれる。



斜に構えていても、
何も届かない。



正面から向き合わないと
誰にも響かない。



怖がらず、
自分の世界に閉じこもらずに、
人と向き合う。



試合をする相手はもちろん、
大切なチームメイトや友達であれば
なおさら・・・。



サッカーの指導者としては
落第かもしれないが、
一人の大人として、
自分自身と向き合うことや
それと同じくらい、
自分以外の誰かと向き合うことの大切さを
これからも伝えていきたい。



すぐに都大会進出をかけた決勝リーグが始まるが、
決勝リーグの中でも
勝つ為にこそ、
相手と、味方と向き合ってほしい。



もし、
勝てなかったとしても
真剣に向き合うことで
何かが残り、何かが伝わる試合になるはず。



完璧な準備はできないかもしれないが、
悔いが残らないような試合を少しでもするために、
できること、やれることをやっていきたい、
と思う。

変わらないもの・・・に、どう向き合うのか?

2008年11月07日 12時58分40秒 | メンタルの謎
先日、
練習中に若いアシスタントコーチから
練習終了時に
こんな発言があった。



『たとえ、レフリーのジャッジと
 自分の判断が違っても
 プレーを止めないように・・・』



アシスタントコーチは続けて
『それができれば、
 もっといいチームになる・・・』
と言って言葉を締めくくった。



自分の言葉を上手く伝えきれないもどかしさと
選手に対する愛情が伝わってきた。



今まで練習終了時に発言することのなかった
アシスタントコーチが
不器用でも
自分の言葉で選手に気持ちを伝えようとした
若いアシスタントコーチに
指導者としての成長を感じた。



若いアシスタントコーチの言いたいことは
痛いほどわかる。



指導者になると
どんな指導者でも感じることではあるし、
前のチームでも、今のチームでも、
常々感じていることではある。



好きでやっているサッカーだからこそ、
サッカーは人を感情的にする。



特に、疲れてきたり、
思うような展開にならないと
自分の感情をコントロールできないこともある。



もちろん、感情の伴わないプレーは
やっている選手本人も
見ている人達も熱くはしない。



ただ、感情に飲み込まれてしまっては
自分で自分の首を絞めることになってしまう。



正直、レフリーのジャッジは変わらない。
一度下されたジャッジは変わらない。



〝変わらないもの〟に対して
どう対応すべきか?
どう向き合うべきか?



自分で判断することも、
常識を疑うことも
時には大切だと思う。



ただ、同時に
〝変わらないもの〟にどう向き合うか?
ということも大切だと思う。



レフリーのジャッジは
選手が向き合わなければならないものであり、
また、絶対に変わらないもの。



時として、ジャッジは選手に厳しく、
また、ジャッジに納得できないこともあるはず。



そこで、キレてしまうのか?
それとも、
そのジャッジを受け入れることができるのか?



指導者として、
また一人の大人として、
選手はジャッジを受け入れるべきだと思う。



もしかしたら、
ミスジャッジもあるかもしれない。
でも、
ミスジャッジはレフリングに内在するもの。
それは、
チャンピオンズリーグでも
ワールドカップでも変わらない。



どんな審判も自身の信念をもって
笛を吹いている。



審判は一緒にゲームを作る大切な存在であって、
侮辱されたり、批判されるべき存在ではない。
少なくとも、高校生が
レフリーのジャッジに文句を言うべきではない。



〝変わらない〟ジャッジに
『違うだろう!』
『何で!』
といくら叫んでも
結果は何も変わらない。
ジャッジは絶対に変わらない。



だったら、選手が変わるべき。
〝変わらないもの〟に対して
『何でなんだよ・・・』
とふてくされているのは
小さな子供と変わらない。



〝変わるべき〟は
選手であって、
レフリーのジャッジではない。



時には、
我慢すること。
時には、
他の解決方法を考えること。



相手を認め、
自分の考えを
時には〝変える〟・・・。



それが〝変わる〟ということ。



信念を〝変える〟のではない。
信念は変える必要なないが、
相手を認め、
相手の考えを受け入れる。
その上でどう対応すべきか?を考える。



信念を変えずに、
考え方を変える。
物事を違った面から考える。



当たり前のことではあるが
簡単なことではない。
時には
正論を受け入れられないこともある。



それでも、
相手の考えが自分の考えと違うからといって、
相手を拒絶したり、
ふてくされたり、
自分の世界に閉じこもるべきではない。



完全な人間などいない。
若い人ほど欠点も課題も多い。
失敗して、当たり前。
上手くいかなくて、当たり前。



時には、
傷ついてもいい。
むしろ、
傷ついた方がいい場合もある。



だからこそ、
指導者は一人の大人として
選手達に厳しいことを言うべき。
間違っている時は
「間違っている」と言うべき。



一時、
選手が傷ついたとしても
大切なことは
しっかりと伝えるべき。



言うべきことを
言うべき時に
言わなくて、
何が指導者だと思う。



大人として、
言うべきことから逃げてはいけない。



厳しい言い方になったとしても
伝えるべきことは
しっかりと言葉にして伝えるべき。



大会前であろうが、
大会期間中であろうが、
普段の練習中であろうが、
どんな時でも
大人としての役割は
忘れないでいたい。

不作為という甘え

2008年10月14日 16時27分49秒 | メンタルの謎
先日、キャプテンと上級生の2人から
「話があるんですが・・・」と言われ、
練習をトレーナーの方と若いコーチにお願いして、
選手2人といろいろと話をした。



選手からの主張の中心は
『新人戦に向けてのメンバーの選考方法』についてだった。
それと関連して、
夏の選手権地区予選の練習内容やメンバー選考、
関連してインターハイ地区予選での闘い方についても
選手からは言いたいことがあったようだった。



選手からのアプローチで話し合いをセッティングするということは
選手側にしてみると言いたいことがかなりある状態か、
かなり切羽詰っている状態であることが多いので、
練習と平行した話し合いだったが、
時間を気にせず、選手と話し合った。



まずは、選手側の意見を聞き、
それに対して、こちら側の意見や考え方を伝える、
という形で話し合いは進行していった。



基本的には、
『なぜ、監督がこういう選手を選ぶのか?』
『なぜ、この選手を使わないのか?』
『なぜ、こういう練習なのか?』
『自分達はこう考えるが、どうか?』
という質問が多かった。



質問の根底には
『監督の真意や意図が見えにくい』
という点にあったようだった。



その話し合いでは
1つ1つの質問に監督としての自分の考えを説明した。



選手からの意図も自分には伝わってきたし、
自分の考えや根拠も選手には伝えた。



最後に選手の1人が
『監督はもっと今回の話し合いのようなことを選手全員に伝えるべきだと思う』
という直球を投げてくれた。



春休みやインターハイの予選前には
戦術的な説明を練習時や練習前に
詳しく説明していた。



その結果かどうかわからないが、
インターハイ予選ではリトリートという守備戦術を中心に
地区予選の決勝までいくことができた。



ただ、インターハイ後のある選手のサッカーノート上で
『話が長すぎる』
『もっと簡潔に話しをしてほしい』
という意見があった。



こちらとしては
できていないからこそ、
何度も話しているつもりだったが、
できていないということは単に今できていないことであって、
頭の中では十分過ぎるほど理解している、
ということなのかもしれない・・・と解釈し、
進学校の選手達は1回もしくは一言いえば、
理解するのかもしれない・・・、
サッカーにおいても一言えば十理解するのかもしれない、
そう考えて、
戦術的なテーマや自分の考えは簡単に一言だけ簡潔に伝え、
繰り返さないようにした。



その結果、
今回のような選手とのコミュニケーションが
機能不全に陥ってしまうような結果になってしまった。



インターハイ後の選手権予選までは
テーマの中心が攻撃の部分にあったこともあり、
チームとして1つの絵を共有しにくかった、
ということもあるのかもしれない。



また、私自身は選手と直接話し合うことを嫌だと感じたことは一度もない。
直接口頭で話し合うのでも、電話やメール等でも。



直接言いにくい場合でもサッカーノートや携帯メールを通じて、
言いたいことを伝えてくれれば、
その都度、自分の考えを伝えるつもりだったし、
悩んでいる選手や言いたいことのある選手の話は
どんな時でも聞きたいと思う。
話し合いたいと思っている。



選手と戦術的な話やサッカーの話をするのは
私自身まったく抵抗がない。



選手とプライベートな話をするつもりはないが、
サッカーの話やチームをもっと良くしていこう
という建設的な話し合いは
時間の許す限りやりたいと考えている。



友人だけでなく、選手やいろいろな人達と
サッカーの話し合いをするのは
本当に愉しい時間。



たとえ、意見が衝突したとしても
お互いに何も言わずに不信感が増幅していくことに比べたら
よっぽどいい。



選手には
「しゃべらなければ、伝わらないだろう!」
「伝えようとしなければ、何も伝わらない!」
と言って、
コミュニケーションの必要性を
何度も何度も伝えてきたつもりだったし、
試合中や練習中にコミュニケーションの取れない選手には
厳しく伝えてきたし、
どんなに実力があってもあえて試合に出さない、
ということも時にはしてきた。



そういった選手に物足りなさも感じてきたし、
何とかコミュニケーションによって
“チーム”として戦ってほしい
チームが本当の意味で“チーム”として機能してほしい、
味方との関係が単なる足し算ではなく、掛け算になるように、
少なくとも引き算にならないように
味方同士でコミュニケーションをとってほしい、
そう思って選手に伝えてきたつもりだった。



それでも選手はなかなか変わらない様子を感じながら、
選手の姿勢を受身に感じ、
苛立つこともあった。



『言わなくてもわかるだろう・・・?』と
言わんばかりの選手達の姿に
自己中心的な甘えを感じ、
希望を失いそうにもなった。



それでも、選手が変わることへの可能性を信じ、
自分なりに我慢してきたつもりだった。



でも、もしかしたら、
一番甘えていたのは自分自身だったのかもしれない。



「言わなくてもわかるだろう・・・」
「一度言えばわかるだろう・・・」
「何度も言っているから伝わっているよな・・・」
「俺は言っている。後は選手が変わるのを待つしかない・・・」



どこかで、選手に期待し過ぎていたのかもしれない。
選手の成長を受身で待っていただけなのかもしれない。



本当に、選手に伝えようとしてきたのか?
選手になんと思われても、伝えるべきことを
しつこく何度でも伝える勇気を持ち続けていたか?
伝えているつもりになっていなかったか?



振り返ると自分自身が一番受身だったのかもしれない。



自分自身の理想のチーム像は
指導者と選手がぶつかり合いながら、少しずつ作られていく・・・。
指導者主導でもなく、選手主導でもない。



お互いが言いたいことを言い合ってこそ、
チームは本当の意味で“チーム”になっていく・・・。



そう思っていたはずなのに・・・
監督である自分自身が
一番壁を作っていたのだろうか?



監督という立場を利用した不作為によって、
選手とチームが
自然といい方向に変わっていくとでも思っていたのだろうか?



やるべきことをやるべき人間がやらなければ、
時として作為によるよりも酷い結果になることも多い。



不作為はやらないのと同じ。
言わないのは、言うつもりがないのと同じ。
そういう場合も少なくない。



もちろん、
選手は監督のロボットではないし、
一から十までを常に伝えるつもりもないが、
伝えるべきことは選手からなんと思われようとも
何度でも伝えたい。



また、サッカーにおいてプレーするのは選手なので、
選手の閃きや柔軟な判断、考えてプレーする習慣を奪うことがないように
選手に何かを伝える時は言葉を選びたいが、
選手に一方的に期待して、
何も言わないでおくということは
できるだけ避けたいと思う。



また、選手からのパスをいつでも受ける、
窓はいつでも開いている、
というメッセージは常に発信していきたい。



選手と適切な距離感は保ちつつも
選手からの話はいつでも聞き、
それに対して監督としての意見を投げ返したい。



選手達とサッカーについての建設的な話をするのは何の問題もない、
というメッセージは伝え続けたい。



今は試験期間中ということもあって、
新人戦(兼関東大会予選)まで話し合いや練習は数える位しかできないが、
少しでも選手と言葉のやり取りや
サッカーについての意見を交わしながら、
スタッフと選手とが少しでも同じ絵を共有した状態で、
新人戦を迎えたいと思う。

練習の先に、どんな景色が見えるのか?

2008年10月13日 21時32分24秒 | メンタルの謎
地上波のNHK総合テレビで
北京オリンピックの柔道(JUDO)で
100キロ超級で優勝した石井慧選手の特集をやっていた。



石井選手が国技ともいえる日本の柔道界に身を置きながらも
ヨーロッパや世界で意識されている「JUDO」を意識しながら
練習と研究を重ねた結果、金メダルを手にした過程が、
本人のインタビューと合わせる内容で、
番組が構成されていた。



石井選手が勝利にこだわり、
負けない柔道を常に意識していたことや
5分という時間の幅で最終的に試合に勝つ為の戦術や作戦というものを
考えていたというのはとても勉強になった。



日本の柔道界においては
礼儀に始まり、
相手としっかり組み合って、
技を競い合う、
というのが通例になっていたようだったが、
世界の「JUDO」は相手に組ませずに
いかにポイントを重ね、
試合に勝利するか、
ということを考えるようになってきているとのこと。



もちろん、日本の「柔道」においても、
勝つ為には守備や作戦も必要だろうし、
そのために真摯なトレーニングを選手の方々は
積み重ねているのだとは思う。



石井選手も自分自身のしっかりとした考えに基づいて
斉藤監督とハードな練習を重ねられていた。



映像の中における石井選手自身の言葉で印象的だったのは
『オーバーワークが奇跡を生む』というフレーズ。



練習の過程で追い込んで、追い込んで、追い込むことでこそ、
試合の中で『奇跡』に近いものが生まれる、
ということなのだろうか?



石井選手の言葉を聞きながら、
昔、聞いたプロゴルファーの小林浩美選手の言葉を思い出した。



小林選手は今は選手を引退されて、
協会の仕事をされているようだが、
選手としてアメリカツアーに挑戦されている当時、
なかなか結果が出ず、
精神的にも落ち込んだことが少なくなかったとのこと。



小林選手がゴルフという競技そのものを辞めようと思った時、
ゴルフ以外の世界でとことん自分を追い込んで頑張っている人のことを知り、
『本当に自分は全てやりきったのだろうか?』
『やれることを全部やったといえるのだろうか?』
その都度、何度も自問自答したのだという。



その結果、『まだまだ自分はやりきっていない』と感じ、
競技を辞めずに、アメリカでの挑戦を続けた・・・とのこと。



石井選手も小林選手も
世界という舞台で自分の限界に挑んでいた。



石井選手の金メダルはその過程の先にあった。
石井選手の番組を見た後に、ふと考える。
自分はやりきっているのだろうか?



指導者として。
今、指導している環境は
世界相手に戦う、という場所ではない。



それでも、今いる場所で
限界に挑戦することで
何かが生まれるはず。
何かが変わるはず。
何かが残るはず。
自分は指導者として
自らの限界に挑戦しているのだろうか?



指導者としての未熟さに
原因があるのだと思うが、
今、指導しているチームでは
全力を出し切っている雰囲気にはなっていないのが現実。



練習が始まる前にチーム全体で集合して
その日のテーマを説明したり、
テンションを上げようとしている時に
下を向いている選手、
ニヤニヤしている選手、
あくびをしている選手がいることが時としてある。



もちろん、そういった選手は少数なのだが、
まだまだ、自分の準備の甘さやモチベーションの上げ方に
問題があるのかもしれない。



練習における効率の良さは
選手の集中力につながるとは思うが、
形の上だけで練習の効率の良さを満足していても、
何か足りない気がする。



特に、練習への入り方と練習の終わり方は
その日の練習の成果に大きく影響してくる
と考えている。



今、指導しているチームはプロを養成する場所ではない。
誰一人、プロを目指している選手はいない。
意識が高くないのが普通なのかもしれない。



また、練習も週3回だけなので、
今、指導しているチームの練習においては
石井選手の練習のように
『オーバーワーク』にする所までは行けないかもしれない。



それでも、練習に対する考え方次第では
試合で『奇跡』を起こせるはず。



短い時間でも、選手の気持ちの中に
『やりきる』『追い込む』『出し切る』
という気持ちを持たせることができれば、
選手もチームも少しずつ変わっていく、と信じたい。



新人戦は目の前の試合に集中しながらも、
最終的には地区予選突破というところまでなんとか辿り着きたい、
と考えている。



夏の選手権地区予選で都大会出場チームに
大敗した現状を考えると
新人戦で都大会出場というのは
『奇跡』に近い目標設定だが、
「練習をやりきる」
「自分を出し切る」
「自らを追い込む」
といった意識をもってチームとして練習を重ねていきたい。



足りない部分は選手の自主練で補えることを信じ、
大会を迎えたい。



大会に向けて、
試合に繋がるような練習をしていきたい。
試合での勝ちが見えるような練習をしていきたい。