サッカーは、その瞬間瞬間は
うたを歌うようなものだと思っている。
特に、試合やその日のトレーニングの
一回一回を切り取ってみれば
まさにうたを歌うようなものだと思う。
その都度その都度、
自分の声で、その曲を歌えばいい。
うまく歌える時もあれば
そうでない時もあるかもしれないが、
まずは自分の声で歌おうとすることが大事。
誰かの真似や誰かの声でなく、
あくまでも自分の声で歌うべき。
下手でもいい。
自分の声や歌い方で
うたを歌おうとすることこそが、
経験が本当の意味で
自分の財産になっていく。
試合やトレーニングが
自分の血肉になっていく。
大切なのは、
あくまでも自分自身の歌う意志。
歌おうとする意志。
歌いたいという強い意志。
その瞬間瞬間において
サッカーをするということは
うたを歌うということではあるが、
長い時間の幅でみると、
サッカーを続けること、
サッカーにかかわることは
「対話すること」だと思っている。
練習や試合においては
仲間と「対話」せずにプレーすることはできないし、
試合においては対戦相手と駆け引きする意識は
「相手との対話」ということになっていくのだと思う。
でも、仲間や相手との「対話」と同じくらい
自分自身「対話」も大切。
これは選手でも監督でも変わらない。
仲間や選手達に投げかける言葉は
真剣であればあるほど、
そのまま自分に跳ね返ってくる。
自分自身に突き刺さってくる。
時に鈍く、時に鋭く、
痛みが自分の心を揺さぶっていく。
本当によかったのか?
これでよかったのか?
自分は正しかったのか?
なんで・・・
どうして・・・
なぜ、あんなことを言ってしまったのだろう?
もっとこう言うべきだった・・・
その痛みや疼きが
自分自身への終わりのない問いかけとなり、
必然的に自分自身の至らなさに辿り着く。
自分はこういう欠点を持っているのだ。
自分はここを変えていかなければならないのだ。
自分はここがダメなのだ。
自分は何がしたかったのだ?
自分は何のために始めたのだ?
そもそも自分は何者なのだ?
ただ、悲しいかな
こうした際限のない禅問答の継続は
禅問答を断ち切る術を身につけることにも繋がっていく。
それでも、やはり試合や練習の度ごとに
その刃は自分自身に向かってくる。
でも、今思うと、
こうした刃や自分自身への問いかけが
自分自身には必要だったのだと思う。
元来、怠惰で自己中心的な自分には
こうした「自分自身との対話」が必要だった。
少なくとも、私自身が
前に進む為には「自己との対話」が必要だった。
自分の弱さや甘さと向き合うことが
前に進むということだった。
少なくとも私にとってはそうだった。
もちろん、サッカーに関わる者だけが
「自己と対話」しているわけではない。
どんな場所にも「自己との対話」を続けている人はいる。
世界中にいる。
時として、心が折れそうになりながらも
「自己との対話」を必死に続けている。
それが、自己の成長に繋がることを
頭だけでなく身体で理解しているから。
苦しい作業は時として気持ちを押しつぶしそうになるが
サッカーに関わっているうちは
「自己との対話」から逃げたくない。
潰れそうな気持ちを
背骨で必死に支えながら
自分の足で立っていたい。
仮に、サッカーの指導を続けなくなったとしても
「自己との対話」から逃げず、
自分の足で立ち、必死で前に進みたい。
進もうとしていたい。
出来ることなら、
誰かの背中を押せるような自分でいたい。
たぶん、サッカーの指導を通じて
「自分と向き合う」ことがなかったら、
こんな気持ちにもなれなかった。
こういう気持ちにしてくれたサッカーと
選手達やチーム関係者、そして家族に感謝したい。
これからも、感謝の気持ちを忘れないように
「対話」を続けたい。
うたを歌うようなものだと思っている。
特に、試合やその日のトレーニングの
一回一回を切り取ってみれば
まさにうたを歌うようなものだと思う。
その都度その都度、
自分の声で、その曲を歌えばいい。
うまく歌える時もあれば
そうでない時もあるかもしれないが、
まずは自分の声で歌おうとすることが大事。
誰かの真似や誰かの声でなく、
あくまでも自分の声で歌うべき。
下手でもいい。
自分の声や歌い方で
うたを歌おうとすることこそが、
経験が本当の意味で
自分の財産になっていく。
試合やトレーニングが
自分の血肉になっていく。
大切なのは、
あくまでも自分自身の歌う意志。
歌おうとする意志。
歌いたいという強い意志。
その瞬間瞬間において
サッカーをするということは
うたを歌うということではあるが、
長い時間の幅でみると、
サッカーを続けること、
サッカーにかかわることは
「対話すること」だと思っている。
練習や試合においては
仲間と「対話」せずにプレーすることはできないし、
試合においては対戦相手と駆け引きする意識は
「相手との対話」ということになっていくのだと思う。
でも、仲間や相手との「対話」と同じくらい
自分自身「対話」も大切。
これは選手でも監督でも変わらない。
仲間や選手達に投げかける言葉は
真剣であればあるほど、
そのまま自分に跳ね返ってくる。
自分自身に突き刺さってくる。
時に鈍く、時に鋭く、
痛みが自分の心を揺さぶっていく。
本当によかったのか?
これでよかったのか?
自分は正しかったのか?
なんで・・・
どうして・・・
なぜ、あんなことを言ってしまったのだろう?
もっとこう言うべきだった・・・
その痛みや疼きが
自分自身への終わりのない問いかけとなり、
必然的に自分自身の至らなさに辿り着く。
自分はこういう欠点を持っているのだ。
自分はここを変えていかなければならないのだ。
自分はここがダメなのだ。
自分は何がしたかったのだ?
自分は何のために始めたのだ?
そもそも自分は何者なのだ?
ただ、悲しいかな
こうした際限のない禅問答の継続は
禅問答を断ち切る術を身につけることにも繋がっていく。
それでも、やはり試合や練習の度ごとに
その刃は自分自身に向かってくる。
でも、今思うと、
こうした刃や自分自身への問いかけが
自分自身には必要だったのだと思う。
元来、怠惰で自己中心的な自分には
こうした「自分自身との対話」が必要だった。
少なくとも、私自身が
前に進む為には「自己との対話」が必要だった。
自分の弱さや甘さと向き合うことが
前に進むということだった。
少なくとも私にとってはそうだった。
もちろん、サッカーに関わる者だけが
「自己と対話」しているわけではない。
どんな場所にも「自己との対話」を続けている人はいる。
世界中にいる。
時として、心が折れそうになりながらも
「自己との対話」を必死に続けている。
それが、自己の成長に繋がることを
頭だけでなく身体で理解しているから。
苦しい作業は時として気持ちを押しつぶしそうになるが
サッカーに関わっているうちは
「自己との対話」から逃げたくない。
潰れそうな気持ちを
背骨で必死に支えながら
自分の足で立っていたい。
仮に、サッカーの指導を続けなくなったとしても
「自己との対話」から逃げず、
自分の足で立ち、必死で前に進みたい。
進もうとしていたい。
出来ることなら、
誰かの背中を押せるような自分でいたい。
たぶん、サッカーの指導を通じて
「自分と向き合う」ことがなかったら、
こんな気持ちにもなれなかった。
こういう気持ちにしてくれたサッカーと
選手達やチーム関係者、そして家族に感謝したい。
これからも、感謝の気持ちを忘れないように
「対話」を続けたい。