アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

対話

2013年10月21日 19時06分25秒 | 人として
サッカーは、その瞬間瞬間は
うたを歌うようなものだと思っている。

特に、試合やその日のトレーニングの
一回一回を切り取ってみれば
まさにうたを歌うようなものだと思う。

その都度その都度、
自分の声で、その曲を歌えばいい。

うまく歌える時もあれば
そうでない時もあるかもしれないが、
まずは自分の声で歌おうとすることが大事。

誰かの真似や誰かの声でなく、
あくまでも自分の声で歌うべき。

下手でもいい。
自分の声や歌い方で
うたを歌おうとすることこそが、
経験が本当の意味で
自分の財産になっていく。
試合やトレーニングが
自分の血肉になっていく。

大切なのは、
あくまでも自分自身の歌う意志。
歌おうとする意志。
歌いたいという強い意志。



その瞬間瞬間において
サッカーをするということは
うたを歌うということではあるが、
長い時間の幅でみると、
サッカーを続けること、
サッカーにかかわることは
「対話すること」だと思っている。

練習や試合においては
仲間と「対話」せずにプレーすることはできないし、
試合においては対戦相手と駆け引きする意識は
「相手との対話」ということになっていくのだと思う。

でも、仲間や相手との「対話」と同じくらい
自分自身「対話」も大切。

これは選手でも監督でも変わらない。

仲間や選手達に投げかける言葉は
真剣であればあるほど、
そのまま自分に跳ね返ってくる。
自分自身に突き刺さってくる。

時に鈍く、時に鋭く、
痛みが自分の心を揺さぶっていく。

本当によかったのか?
これでよかったのか?
自分は正しかったのか?
なんで・・・
どうして・・・
なぜ、あんなことを言ってしまったのだろう?
もっとこう言うべきだった・・・

その痛みや疼きが
自分自身への終わりのない問いかけとなり、
必然的に自分自身の至らなさに辿り着く。

自分はこういう欠点を持っているのだ。
自分はここを変えていかなければならないのだ。
自分はここがダメなのだ。
自分は何がしたかったのだ?
自分は何のために始めたのだ?
そもそも自分は何者なのだ?

ただ、悲しいかな
こうした際限のない禅問答の継続は
禅問答を断ち切る術を身につけることにも繋がっていく。

それでも、やはり試合や練習の度ごとに
その刃は自分自身に向かってくる。

でも、今思うと、
こうした刃や自分自身への問いかけが
自分自身には必要だったのだと思う。

元来、怠惰で自己中心的な自分には
こうした「自分自身との対話」が必要だった。

少なくとも、私自身が
前に進む為には「自己との対話」が必要だった。

自分の弱さや甘さと向き合うことが
前に進むということだった。

少なくとも私にとってはそうだった。



もちろん、サッカーに関わる者だけが
「自己と対話」しているわけではない。

どんな場所にも「自己との対話」を続けている人はいる。
世界中にいる。
時として、心が折れそうになりながらも
「自己との対話」を必死に続けている。

それが、自己の成長に繋がることを
頭だけでなく身体で理解しているから。

苦しい作業は時として気持ちを押しつぶしそうになるが
サッカーに関わっているうちは
「自己との対話」から逃げたくない。

潰れそうな気持ちを
背骨で必死に支えながら
自分の足で立っていたい。

仮に、サッカーの指導を続けなくなったとしても
「自己との対話」から逃げず、
自分の足で立ち、必死で前に進みたい。
進もうとしていたい。
出来ることなら、
誰かの背中を押せるような自分でいたい。

たぶん、サッカーの指導を通じて
「自分と向き合う」ことがなかったら、
こんな気持ちにもなれなかった。

こういう気持ちにしてくれたサッカーと
選手達やチーム関係者、そして家族に感謝したい。

これからも、感謝の気持ちを忘れないように
「対話」を続けたい。

2013年10月15日 03時59分56秒 | 指導記録
サッカーというスポーツの正体は何なのか?
このボールゲームの本質は?

高校サッカーの監督をしながら、
常に、これらの疑問と向き合ってきた気がする。

もちろん、まだ最終解答は見つかっていない。

でも、ここ何年か
サッカーは「うたを歌う」ことに似ているのではないか?
そう感じている。

基本、「合唱」ということになるが、
もちろん、「ソロ」パートもある。

声は一人ひとり違い、
声量も音質もことなる。

リズム感も経験も
個性の中に集約されていく。

上手い奴もいれば、
まだまだ未熟な奴もいる。

でも、大切なのは
何を持っているかではない。

どんな気持ちで歌うのか?
誰のために歌うのか?
歌うことによって何を表現するのか?
何を伝えたいのか?
そもそも、何の為に歌うのか?・・・

もちろん、自分自身の為であってほしい。
でも、仲間の為にも歌ってほしいと思う。
自分の為に、仲間の為に、
精一杯歌う。

下手でもいい。
自分の思いを込めて、
誰かに何かを伝えようとする。
必死に伝えようとする。

自分の為だけでない。
その歌が誰かの為でもある時、
その歌は力を持つはず。
その歌自身が「伝わる力」を持つはず。

最初は自分の為だけだった歌が
いつしか仲間の歌になり、
そして、みんなの歌になっていく。

きれいな歌になることもあれば
力強い歌になることもある。
もちろん、まとまらないこともあったし、
悲しい歌になったこともあった。

ただ、どんな歌になっても
大切なのは「伝わる歌」になること。

応援してくれている人達や支えてくれている方々、
一緒に頑張ってきた仲間、
こういった聞いてくれている人たちに
何かが伝わればそれでいい。

できれば、ポジティブな内容であってほしい。
出来ることなら、希望の歌であってほしい。

自分が監督として、
今、指導している選手たちの歌を聴けるのも
数えるくらいしかないが、
彼らがあらん限りの力で
「伝わる歌」が詠えるように
最後まで選手達の背中を押し続けたい。

最後の大会

2013年10月07日 01時57分29秒 | 指導記録
今、指導しているサッカー部を次の大会を最後に退くことになった。

進学高のサッカー部という環境で、新しい挑戦を・・と考えて、
約7年に亘って指導を続けてきた。

新しくチャレンジしたこと、出来たこともあった。

もちろん、上手くいかないことも少なくなかったが、
迷いながらも、誰の受け売りではなく、最後まで
自分で考え、自分のやり方にこだわり、
指導を続けてきた。

前に指導していたチームは14年の長きに亘ったが、
今回はその半分の期間ということになった。

ただ、環境を変えることで、また新たな気持ちで指導にあたることが出来、
実際、学ぶことも多かった。

心ある選手たちと時間を共有することが出来たことも
自分にとってはもったいない位の財産。

選手たちには感謝してもしきれない。

サッカーと真剣に向き合い、
自分自身と向き合い、
仲間と向き合い、
試合では相手と向き合う。

自分が今のチームで指導を始めてから
大学の体育会のサッカー部でプレーする選手も増えた。

また、大学のサッカー部でプレーしていなくても、
こだわりをもって、厳しい道を進んでくれている元選手達も少なくない。

そんな選手達とかかわる中で、自分自身も
サッカーと、自分自身と、向き合えた。

心ある選手達との出会いが、悩み続ける勇気を与えてくれた。

そういった選手達がいたからこそ、頑張れた。

最後の大会は、自分の背中を押してくれた元選手達に恥ずかしくない試合にしたい。

「最後まで頑張ったよ」と胸を張れるような大会にしたい。

今いる選手達の為に、全力を尽くしたい。

10年後、20年後に、彼らの中に何かが残る大会にしたい。