アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

部活動としてのサッカー部にどんな意味があるのか?

2009年05月25日 13時52分58秒 | NOTE
今はテスト期間で部活動としてのサッカー部は活動停止中。
活動停止期間中も、
延期になっている未消化のリーグ戦の日程を調整したり、
選手をサッカーノートにコメントを書いたりして、
活動再開後に備えて何らかの準備をしている。

活動停止期間はインターハイ予選を振り返りながら、
サッカー部の活動や今後の方針を色々と考えることのできる大切な時間。
サッカー部の活動や自分の指導を俯瞰したり、客観視することで
また違ったものが見えてきたり、気づけなかったことに気づくこともある。

先日も「学校における部活動としてのサッカー部」ということについて
改めて色々考えた。
「学校における部活動どのようなものであるべきなのか?」
「部活動としてのサッカー部にどんな意味があるのか?」
「学校の部活動に外部指導員として何をすべきなのか?」
「監督として何ができるのか?」・・・etc。



部活動を学校の軸に据えて強化しようとしている学校、
部活動はあくまでも授業以外の時間の余暇的な活動と考えている学校、
理想を前提に文武両道を目指す学校・・・等、
学校と部活動との関係は色々あるとは思う。
また、野球部など特定のクラブには力を入れるが
その他のクラブはそれほどでもない、
という学校も少なくない。

全国レベルの強豪チームでない限りは
「部活動というのは勉強に支障のない程度に行うべきものであって、
学校活動においては隙間的な意味しかない」というのが
学校経営者や顧問の先生以外の大多数の教員の方々の考えかもしれない。
地区レベルのチームが都大会に出たとしても
それよりも進学実績の方が重要な場合がほとんどだろうし、
学校の評判を落とさない程度でそこそこやってほしい、
というのが本音かもしれない。

保護者の方々も
「まずはしっかり勉強してほしい」
「勉強に差し支えがあるようなら、部活動は辞めてほしい」
というのが本音だと思う。
その感覚は子を持つ親として理解はできる。
また今の時代、部活動ひいては学校に
その種目の指導はもちろん生活指導までを期待するという保護者の方は
少なくなっている、というのが現状なのだろうか。
むしろ、余計なことをしてほしくない、と考えている保護者の方が
多数派になってきているのだろうか。



日本は、スポーツが学校の中に組み込まれている
世界でも数少ない国かもしれないが、
学校における部活動は多くの学生にとって
運動するいい機会になっているのは紛れもない事実。
一方、スポーツの指導が学校教育と結びつくことで
いい面だけでなく悪い面も存在しているのもまた事実。
クラブ活動が授業と同じように教えることにつながり、
詰め込みやオーバーコーチングといった話はよく耳にする。
ただ、嵌め込みの危険性を筆頭に
今改めて学校における部活動の存在意義が問われているように感じる。

学校における部活動の意味、存在意義をどのように考えるか?ということは
「自分が外部指導員として何をすべきなのか?」という答につながり、
「サッカー部の監督として何ができるのか?」という答に繋がっていく。
もしかしたら、学校の部活動としてのサッカー部の活動は
学校の片隅の砂場で遊ぶような時間なのかもしれない。
最近、そんな風に思う。

サッカー部での練習や試合は
所詮、砂場で作った砂の城なのかもしれない。
砂場で城を作りたい奴だけが集まって
みんなでわいわい言いながら城を作るのと、
サッカー部の活動はさして変わりないのかもしれない。

どんなに立派な砂の城を作っても
さらにその城作りは学校側はもちろん、
基本的には外部の人間からも評価されることはない。
『所詮、遊びだろ・・』と揶揄されるものかもしれない。
城作りの中で、様々な自主的なルールを決めても
その様子を外から見ている人間から見れば、
『砂遊びに、何もそこまでしなくても・・』
と思われるかもしれない。
砂の城作りも共同作業、
コミュニケーションも必要だし、
話合いながらみんなで頑張っていいものを作ろうぜ、
どうせやるなら真剣にやろうぜ、と言ったとしても、
『そんなことに意味があるの?』
『所詮、砂遊びだろ?壊れたら終わりじゃん・・』
影でそんな言葉さえ言われているのかもしれない。



確かに今の時代、
部活動は砂遊び程度にしか考えていない人も少なくないのかもしれない。
それでもいい。
記録に残らなくてもいい。
それぞれの記憶に残れば、それでいい。

サッカーをやっても、砂遊びをしても、
知識は身につかない。
進学にも、就職にも役に立つことはない。

でも、真剣に取り組めば、
人として大切な何かが残るかもしれない。
人間として大切な何かに気づけるかもしれない。
仲間と向き合えば、
絆ができるかもしれない。

人と人との結びつきは
利益のみによる訳ではない。
砂遊びも、部活動も、サッカーも、
儚く、虚しいものかもしれない。
もしかしたら人生すらも・・・。

いい大人が何してんだ、と言われても、
選手と真剣に向き合いたい。
選手のことを見守りたい。
時には怒り、時には褒め、
全体を見つつも、一人一人に声を掛けたい。



高体連の多くの先生方や関係者の方々は
世間的な出世につながらない、全く金にならない部活動に
真摯に取り組まれている。
ご自身の価値観を軸に選手と向き合い、
選手と話し、選手と共に汗をかいている。
サッカー部の活動を通じて、
選手に、子供達に、生徒達に
人としての何か大切なものを伝えたい、
一緒に何かを学びたい、
一緒にサッカーを楽しみたい、
勝って一緒に喜びたい・・・、
そんな熱い想いで頑張っている。

そんな先生方のいる高校サッカーという場所で
自分も選手と一緒に、真剣に、
〝砂遊び〟をしていきたい。



高校時代のサッカー部という部活動は
やりたい人間が集まる場所であると同時に、
通り過ぎる場所でもある。

ただ、どんなに儚くても、
頑張った記憶、熱い記憶がお互いの中に残れば、
それでいい。

その為に、毎回の練習や試合、サッカー部の時間を
大切にしていきたい。

サッカーは悲劇か?

2009年05月17日 22時30分09秒 | サッカーの謎
先日、久しぶりにサッカーマガジンを読んだ。
あまり時間がなかったので、走り読みだったが、
ジャック・ティベール氏の記事だけはじっくり読んだ。
ティベール氏の記事は一度読んだだけでは味わい尽くせない。
何度も読み返したくなるような記事が多かった印象がある。

最近は『エルゴラッソ』や『フットボリスタ』等を読むことが多かったので
久しぶりにティベール氏の記事を読んで、とても懐かしかった。
また、相変わらず味わい深かった。

今回のティベール氏の記事は
『サッカーにおける悲劇』をモチーフにしたものだった。
記事の中で紹介されていたフットボールにおける過去の悲しい出来事は
心を痛ませるのに充分なものだった。
ティベール氏の味わい深い表現がより悲しみを深くする。
ティベール氏の記事を読むとあたかも
「サッカーそのものが悲劇」といった印象すら受けてしまう。



個人的には「サッカーは希望であってほしい・・」そう思っている。
ただ、現実は悲劇に近いものなのかもしれない。
どんなに練習しても、報われない時も少なくない。
また、どんなにボールを支配しても
カウンターやセットプレーの一発でやられることもある。

PKなどもある意味、負けたチームにとっては、
キッカーにとってもGKにとっても、
悲劇といえるのかもしれない。

あたかもサッカーが戦争のように受け止められる
ヨーロッパや南米の国々においては
内容云々にかかわらず負けたという事実それ自体を
悲劇そのものと捉える人もいるのだろうか。

日本人はサッカーを、サッカーにおける敗北を
悲劇と捉えていない傾向が少なくなかった気もするが、
高校サッカーにおけるPK戦だけは
歓喜と落胆とのわかりやすいコントラストも手伝って、
昔から悲劇的に捉えられていた。

確かに、PK戦は残酷そのもの。
どちらに転ぶかわからない運命の上に
人々が立たされ、踊らされるかのようにすら見える。

先日のインターハイ地区予選でのPK戦も
先攻を取り、相手の一人目のキッカーをGKが止めたにもかかわらず、
3人目・4人目が外し、敗退。
見ている方としては、1回1回のキックに一喜一憂し、
結局、勝利の女神の後ろ髪を掴み損ねた結果となった。
掴みかけていた勝利の女神の後ろ髪が
まるで掌からするりと抜け落ちたような展開だったという点では
ある意味、今回の敗退は充分に悲劇的だったのかもしれない。



ただ、「PK戦での敗退は悲劇」
「もしかしたらサッカーそのものも悲劇かもしれない・・」という分析だけでは
指導者として不十分だと考えている。

大切なのは
悲劇的な展開において、人はどう振舞うことができるのか?
また、どう振舞うべきなのか?
ということを選手に伝えること。

選手の悲しみや辛さを受け止めつつも、
そのことを自分なりの言葉で選手に伝えることこそが
指導者の役割だと思っている。

今回のPK戦の敗退直後の選手達の行動は極めて紳士的だった。
悲劇的な展開にもかかわらず、相手の選手と握手を交わし、
健闘を讃え合っていた。

悲劇的な状況下で、人はどう振舞うべきか?
という人間の本質ともいえるテーマが具体化された場面において
選手達の振る舞いは見ている側にも熱く伝わるものがあった。

ある意味、選手達に教えられた。

辛く悲しい状況にもかかわらず、
相手を讃え、相手チームの次戦での健闘を祈り、声を掛ける場面は
チャンピオンズリーグでのPK戦での敗退を思わせるような
気持ちをコントロールしたある意味プロフェッショナルな行動だった。

辛い状況で下を向くわけでもなく、しっかりと顔を上げて
握手し、抱擁し、相手に言葉を掛けていた選手達を誇りに思う。



サッカーはある意味悲劇かもしれない。
ただ、悲劇であることを強調することに何の意味もない。

大切なのは、
悲劇的な状況下においても、
人として何をすべきか?ということを問い続けること。

悲劇的な状況で、自分のことしか考えられないのか?
悲しみや悔しさに飲み込まれてしまうのか?

感情は行動を起こすモチベーションになるが、
全ての行動が感情に飲み込まれてしまうのでは
あまりにも悲しすぎる。
それはサッカーにおいても、人生おいても、また同じ。

サッカーにおいても、人生においても
悲しさや失望、虚しさは常に存在する。
むしろ、思い通りにならないのが人生でもサッカーでも常。

しかし、思い描いた展開にならない状況でも
選手達は理性を失わなかった。
人としての優しさや気配りを失わなかった。

都大会ベスト16というチームの目標には届かないどころか、
地区予選のPK戦敗退という厳しい結果に終わってしまった
インターハイ予選だったが、
テスト明けからまたこの選手達と一緒に
前期の残りのリーグ戦や選手権の地区予選に向けて頑張りたいと思う。

PKが食わず嫌いになっていないか・・

2009年05月12日 10時44分20秒 | サッカーの謎
先日のインターハイの地区予選ではロスタイムに同点に追いつくも
延長なしのPK戦で地区予選敗退した。
結果には満足はしていないものの、
気持ちの伝わる試合だったことには
ある程度納得している。

ただ、監督である以上、
勝ちきるために足りなかったものを
次の大会に向けて精査していく必要があると感じている。

試合のデータや選手のサッカーノートを分析しながら試合自体を振り返ったり、
指導記録や試合をデータを見ながら
新チームになってからの5ヶ月間を振り返ってみると
色々な課題や足りなかった部分、やるべきこと等も見えてくる。

見えてくるというよりも、
浮き上がってくるという表現の方が適切だろうか?

今、チームは中間テストの準備期間に入ったので
仕事に専念しつつも、
残りの前期リーグ戦や夏休みの選手権地区予選に向けて
テスト明けから何をやるべきか?ということを整理していきたい。

やるべきことが色々浮かび上がってきたとしても
実際にやれることも時間の関係で限られているので
やるべきことを選定作業を慎重に進めると共に
やるべきことの優先順位の付け方にも充分注意したい。

やるべきことの1つの中に「PK」も含めたいと考えている。



PKに関しては運という要素は否定できない。
その技術やメンタルとの比重は人によって解釈が異なるとは思うが、
技術やメンタルの強さだけではPKの成功や失敗を説明できない。

個人を介する要素以外のものを「運」という言葉で表現するかどうかは
個人の解釈やサッカー観、人生観にも影響されるが
個人的には〝運〟という言葉を使うのが適切だと考えている。

PKに〝運〟が必要だと言っても
技術やメンタルの強さが必要性が零になる訳ではない。

むしろ、今回のPKでボールのセットの仕方や助走までの雰囲気などを
振り返ってみると、PKそのものの練習が足りていないのではないか?
そんな仮説を有するようになっていった。

もちろん、PKの練習をしなくても成功する時はあるし、
素人が何気なくPKを決めることも少なくない。

それでも、PKの練習が不要ということにはならない。
今までは、チームの練習が週3回ということもあり、
PKの練習に時間を割いてこなかったが
PKを失敗した選手が落ち込んでいるのを見ると
PK練習をやるべき必要性を感じている。

以前、指導していたチームでは徹底的にPK練習をしていたが、
同じやり方をする必要も同じ位の時間を費やす必要もないとは思う。

ただ、夏の選手権地区予選に向けて
このチームに合ったやり方で少しずつ練習していきたい。



私自身が高校の頃、弱小サッカー部だったが、
高1の頃、コーチとして指導してくれた方から
〝PKの蹴り方〟なるものを教えてもらったことがある。
その方の蹴り方は『コースを狙って蹴る』というものだった。

その方曰く『俺はこうやってコースを狙っていたんだ』
10本中5本以上は必ずポストの内側に当たってゴールする光景を
初めて見たときはなんだか魔法を見ているようだった。
蹴ったボールはほとんど同じ軌道でポストの内側に当たっていく。
外れてもポストギリギリのサイドネット。
しかも、蹴られたボールのほとんどが
ある程度のスピードあるボールになっている。
蹴り方も独特な感じでは全くなく、ごく自然に蹴り方。

中学の時、公式戦で何度もPKを蹴ったが、
失敗したことがなかったので
生意気にもPKに対して変な自信を持っていた。
中途半端な自信はコーチの方のキックを見て、吹っ飛んだ。

考えてみると、自分の中途半端な自信は
公式戦でたまたま成功しているというある種の偶然性の上でのみ
成り立っていただけだった。

PKそのものを
深く研究していたわけでもなく、
PK練習に時間を割いていたわけでもない。
偶然にも成功していたという経験が
自分自身への過信もしくは
ペナルティーキックをバカにしているような気持ちさえ
生んでいたかもしれない。



でも、その日から徹底的にPKを練習した。
もちろん、個人練習。
練習が終わった後や家に帰ってから、朝練で。
一人で徹底的に練習した。

基本的には、
7本連続でポストの内側に当たってゴールするまで連続で蹴り続ける、
という地味なもの。

その作業を3ヶ月近くやり続けると
自分の中に新しい感覚が生まれてくる。
ポストが不思議と大きく見え、
当たって当たり前。

自分の感覚に従って
ポストの外側と内側に蹴り分けられるようになっていった。

ボールが大きく見えるようになり、
その内にポストに当てる場所の高さも調整できるようになっていった。

ただ、ポストとバーの交点の内側に当ててゴールに入れるというのは
最後まで上手くできなかったが・・。



インターハイ地区予選で負けた次の練習の時、
運動会の練習や選択授業、塾や予備校の関係で
練習開始時には6人だった。
まさにこの時とばかりにPKを全員で練習した。

始めは黙ってPKを蹴る様子を見ていたが
時間の経過とともに自分の中の仮説は確信に変わった。

「選手達はPK練習が絶対的に足りない」

PKに自信の持てない選手は
ろくに練習をしないまま失敗し、
それがある種のトラウマにまでなってしまうことは少なくない。

今、指導している選手達は
トラウマにまでは至っていない選手は多いとは思うが、
絶対的な練習量の不足が苦手意識を助長しているのは事実だと思う。

勉強していないのにもかかわらず、
テストで点が取れずに
その科目に対して苦手意識を持ってしまうのと似ているかもしれない。

ヘディングと同じようにPKもやらなければ上手くならないし、
得意にもならない。

苦手意識が食わず嫌いに起因しているにもかかわらず、
そのことを意識できていない選手は少なくない。

ガンバ大阪や日本代表のMF、遠藤選手の〝コロコロ〟PKが
最近話題になっている。
蹴られたボールのスピードに反比例するかのように
遠藤選手のPKにはある種の凄みを感じる。
〝コロコロ〟だから余計に凄みを感じるのだろうか。

遠藤選手の代名詞ともなった〝コロコロ〟PKであるが、
遠藤選手が何の練習もせずに、
あの芸術的なPKを蹴れるようになったとは到底思えない。
〝コロコロ〟PKは
遠藤選手なりの様々な研究や練習した成果の賜物であるはず。



PKはその選手のスタイルでいいし、
〝運〟といった不確定要素も確実に存在する。

ただ、競った試合ではPKで決まる勝負も少なくないという
現実を忘れずにいたい。

もちろん、どんなに練習しても、
PKを失敗することはある。

しかし、練習しないと、PKと真剣に向かい合わないと
PKに自信が持てないのもまた事実。

PKやPK戦で
選手が自信を持ってボールをPKマークにセットできるように。
チームとしてPKに向き合っていきたいと思う。

生き方の基本とは?

2009年05月08日 09時52分18秒 | 人として
インターハイ地区予選は残念ながら
地区予選で敗退してしまったが、
同時にチームにとって残念な知らせを
試合後、選手達に伝えなければならなかった。

実は自分が監督として以前指導していたチームの教え子が
GKコーチとして一緒にスタッフとしてやってきていたが、
チームの敗退を機にスタッフを辞めることになった。

大会前から辞めるタイミングを打診されていたが、
本人とも話して、大会で勝ち続けている間は続ける・・
という結論になっていた。

チームや選手、特にGKの選手達にとっては
バッドニュースだったと思うが、
ただ、チームを卒業する本人にとっては
辛い別れでもありが、同時に新たな旅立ちでもある。
明るく送り出してやりたいと考えている。

教え子であるGKコーチからは
以前から色々相談されていた。
自分の今後、家族とのこと、自分の夢・・

グランドでは一切、悩んでいる素振りは見せなかったが
話を聞いている限りはかなり葛藤があったようだった。
色々悩んだ末の決断だったとは思う。



サッカーの指導や運営に係わる人間は
それでメシを食っているかどうかに係わらず
常に悩んでいる。
今後のこと、特に未来への不安・・・
数え上げればキリがない。

指導している瞬間はいいのだが、
指導に携わって期間中は
基本的に我慢することの方が圧倒的に多く、
楽しいと思える瞬間は極稀にしか過ぎない。

それでも、これで生活している家族を養っていけるのなら
他の職種の方々と同じように頑張るべきだとは思う。

ただ、ボランティアでやっている場合、
常に「これでいいのか?」
といった根本的な疑問がないと言ったら嘘になる。

「誰の為に頑張るのか?」
その答を持っていない、また持ちきれていない指導者は
疑問の渦に飲み込まれてしまう。

ボランティアの場合には指導で生活している訳ではないので、
プロコーチとは違った判断かもしれないが
「自分はこのチームで頑張るべきなのか?」
「このチームでなくてもいいのかもしれない・・」
と考えることは正直ある。



話は変わるが、
先日、大学時代の友人から
「会社を辞めたいんだ・・」という話を聞いた。
色々悩んだ末の結論のようだった。

大学卒業後、勤め続けて20何年・・
迷う年代とはいえ、今の社会情勢を考えると
無理にでも努め続ける人もいるだろうし、
実際はそういう人の方が多いのかもしれない。

ただ、友人が辞めようと思い至った経緯を聞くと
充分に説得力があったし、
何よりも友人が決めた決断だったら、
その決断を応援したい。



今は、何がいいのか?何が正しいのか?
本当にわかりづらい時代。

自分がどこに向かったらいいのかといったことすら見えにくい。

でも、大切なのは
「今、何がしたいのか?」ということを問い続けることであり、
その時の自分の気持ちに正直に生きること。

不安や疑問はどんな人にも存在し、
不安になる度に、疑問を持つ度に、
人は選択を迫られる。

誰かに背中を押してもらいたい・・
という気持ちもどこかに抱えながら、
結局は自分の進むべき道は自分で選択しなければならない。

最後は自分の意思で選択し、その選択に自分自身で責任を持つ、
これが生き方の基本だと思う。



自分以外の誰かに決められると
上手く行かなくなった時に
責任転嫁してしまう。

そもそも他人の選択で生きる人生が
自分の人生といえるのか?
自分で決めるからこそ、
成功も失敗も自分の糧になる。

自分自身で選択しない人生ほど無責任なものはない。
その無責任さは、周りを傷つけ、自分自身を傷つけていく。

偉そうに言っても、
自分自身も常に悩み惑うちっぽけな人間に過ぎない。

それでも、人生に原則のようなものがあるとしたら、
「自分の進む道は自分で決めること」
「自分の気持ちに正直になること」
この2つは確実に人生の原則に含まれるべきものだと思う。

考えた末の結論なら、自分自身が納得できる選択なら、
それでいい。

どんな道でも、どんな結論でもいい。
道は人の数だけある。

失敗してもいい。
どの道を選んでも、その先に常に迷いは悩みは存在する。
失敗のない人生も、悩みのない人生も存在しない。

ただ、自分の意思で選択した人生でしか、人は納得できない。
自分の気持ちの存在しない人生では、人は輝けない。



これは一人の人だけでなく、チームでも同じかもしれない。

今回のGKコーチが卒業するきっかけになってしまった
地区予選敗退の試合も監督として満足はもちろんしてないが
試合の結果は冷静に受け止めているし、
得るものもあった敗戦だと思っている。

対戦相手をスカウティングした結果、
こういうゲームプランで行こう、と自分達で決めた。

冷静さや相手との駆け引きが足りなかったとはいえ、
応援している選手達も含めてチームとして戦う意思はあった。
誰の為でもなく、自分達の為に戦った。
やらされる試合ではなく、試合には自分達の意思が確実に存在した。

負けはしたが、
チームとして戦う意思があったからこそ
ロスタイムに同点に追いつくことができた。

負けと引き換えに、
最後まで諦めない気持ちを
自分自身の感覚として得ることができた。

試合に自分達の意思がなかったら、
やらされている試合だったら、
戦う気持ちがなかったら、
負けたら何ものこらなかったはず。
ロスタイムにも追いつけなかったはず。

迷ってもいい。
悩んでもいい。
失敗してもいい。

そこに自分の意思があるなら、それでいい。
自分の決断があるなら、それでいい。
人生もサッカーも。



GKコーチをしてくれた教え子と大学時代からの友人の
勇気ある選択にエールを送りたい。

また、サッカー部の選手達が
自分の意思でプレーできるような
雰囲気作りや言葉掛けを考えたい。

私自身も監督として、一人の人間として、
自分の気持ちを忘れずにいたい。
どんなに格好悪くても、自分らしくいたい。
これからも、自分の気持ちに正直でいたい。

いつまで続くかわからない人生、
いつまで続くかわからないサッカーの指導において
納得して終えることができるようになるために。

過去とどのように向き合うべきか?

2009年05月02日 14時02分09秒 | メンタルの謎
インターハイの地区予選は2回戦でPK戦で敗退した。
後半立ち上がりに先制され、
後半ロスタイムに同点に追いつくも、
結局、PK戦で敗退した。

負けてはしまったが、
戦う姿勢をチームとして、個人として一人一人が
持てていたゲームだった。

最後まで諦めない気持ち、戦う気持ちがあったからこそ、
ロスタイムに同点に追いつけた。

ただ、PK戦の前になかなかキッカーが決まらない状態が続いた。
過去のPK失敗の経験が
何人かの選手の気持ちに影を落としているようだった。



もし、自分のPKで勝負が負けが決まってしまったら、
特に若い内は少なからず心の傷みたいなものが残ってしまうのは
理解できる。

自分もあの1対1を決めていればとか、
なんであの時に・・・という後悔の念は
現役を引退してかなり時間の経った今でも時々思い出す。

もちろん、サッカー以外でも
「なんであんなことをしてしまったのか?」
「なんであんなことを言ってしまったのか?」
という思いは少なくない。

法律的に罪を犯したことはないが、
結果的に人を裏切ったり、
自己中心的な考えや行動で
人を近くにいた人を傷つけてしまったことは何度かある。

それを思い出す度に
気持ちがざわつくし、傷が疼く。

傷つけてしまった人や迷惑をかけてしまった人に
直接謝りたいという気持ちは今でも持っている。



今、自分ができることは
同じ失敗をしないこと。
同じ過ちを繰り返さないこと。

過去の経験から、
「これをやってしまったら、自己嫌悪に陥ってしまう」
ということは絶対にやらないと決めている。
反対に「これをやらないと、絶対に後悔する」
ということは絶対にやるようにしている。

これらによって、心の傷が無くなるとも思えないが、
私自身の行動や言動によって、
自分以外の誰かが、また自分自身が、
「人は信じられる存在」だと思えたり、
「みんな可能性を持っているんだ」と思える瞬間が持てたとしたら、
多少の贖罪になるような気がしている。

過去の失敗や苦い思いは超えるためにある。
最近は、心からそう思う。



もちろん、過去と向き合い、過去を越える作業は簡単ではない。
世の中には自分の犯した罪の重さに押しつぶされたり、
自暴自棄になったり、他人や自分自身を信じられなくなってしまう人もいる。

反対に、自己防衛の本能から、自分の過去を封印してしまう人もいる。

気持ちの強さがないと、
そもそも自分の過去と向き合うことすらできないかもしれない。

初めから、強い人間などいないことを考えると、
自分の過去や自分の弱さと向き合う覚悟こそ、
一番必要な要素なのだと思う。



ただ、サッカーというスポーツが
今自分が指導している選手だけでなく、
サッカーに関わる人達全てが
可能性を信じられる気持ちを持ち続けられるような存在であってほしい。
心から思う。

希望を感じ続けられるスポーツとして、
サッカーがこれからも存在し続けてほしい。
本当にそう思う。

アーセン・ヴェンゲルは言う。
『サッカーは、プレーする者にとっては喜びであり、
 社会的な修練の場所であってほしい。
 また、それを見る者にとては幸福の一瞬であってほしい。』



サッカーが自分自身や人間の、
可能性を否定するものであってはならないし、
絶望に導く架け橋になってはならない。

そのためには、
プレーヤーや指導者など、サッカーに関わる人々全てが
可能性を信じなければいけない。
希望を信じなければいけない。

自分の失敗や後悔を乗り越えられると信じ、
勇気と覚悟をもって、
自分の弱さや過去向き合わなければならない。

過去は自分の可能性や人間への信頼を否定するものにならないように
まず、私自身が監督として選手の可能性を信じたい。
同時に、監督としての自分自身の可能性も信じていたい。

今回の敗戦を乗り越えて、
チームで喜べる日が来ると信じたい。
そのために、毎回の練習で少しでも前に進み続けたい。