アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

サッカーにおいて責任感は必要か?

2006年03月31日 22時40分25秒 | 指導記録
昨日は練習試合。
相手は法政一高、
場所は駒沢第1競技場。



結果は完敗。
スコアは0対4。
前半0対1で折り返し、
後半は立ち上がりの追加点も含めて
3点を追加された。



試合の結果自体は全然気にはしていない。
ただ、試合中の選手の様子や
チーム全体の雰囲気は非常に気になった。



一番気になったのは、
[声が全く出ないこと]と
[守備の意識が極めて低いこと]という2点。



この2点に関しては、A戦の後半とB戦を通じて
全く変わらなかった。



試合後、選手控え室に全員を集めて、
今日の試合を全員で振り返った。
1人1人に、まず、今日の試合について
“自分自身が感じたこと”を話してもらった。



意見として多かったのは
『途中からやる気がなくなった』
『味方が声に反応しなくなった』
『声を出さなくなった』



理由を聞いてみると
『味方のイージーミスでやる気がなくなった』
『途中から“なげやり”になった』
『味方が声に反応しなくなったので声を出さなくなった』
などなど・・・・・・。



『味方のイージーミスでやる気がなくなった』という
ある選手の意見・・・、

『自分は頑張って、オフの日も練習している』
『自主的に練習をしてない奴のミスは許せない』
『もっと、“責任感”を持ってやって欲しい』



もっともな意見の様にも聞こえるが、
昨日の試合の帰り道、や、家に帰ってからも
自分の気持ちの中にモヤモヤしたものが
まとわりついていた。



何にイライラしているのか?



その選手が試合の帰りに、
自分に対して声を出して挨拶しなかったことに
イライラしていたのか?
問い質したところ、
本人曰く、
『会釈だけはしました・・・』
そういう言い方に腹が立ったのか?



その原因を自分なりに分析したかった。



冷静に考えてみると
その選手の発した『責任感』という言葉に
自分の中のモヤモヤの原因があるような気がした。



そもそも【サッカーにおける責任感】とは
何なのだろうか?



【サッカーにおける責任感】とは
誰の為のものなのだろうか?
誰に対しての【責任感】なのだろうか?



【サッカーにおける責任感】・・・
よく聞くフレーズだし、
実際、自分もよく使っていた。



でも、よくよく考えると
かなり抽象的な言葉。



その意味を具体的に考えようとすると
【味方のミスをどう考えるか?】
【誰の為にプレーするのか?】
【チームとは何なのか?】
【チームでプレーすることの意味】
ひいては、
【サッカー:フットボールとは何なのか?】
ということにまで拡げて考えなければならない・・・
そんな気がした。



実際に自分の頭で考えた結論としては
《サッカー(フットボール)はボールを足で扱う》
《したがって、必然的に“ミス”は多くなる》
《“生じたミス”をいかに【取り返す】か?》
《“ミス”が生じても、【リカバー】が可能な準備をできるか?》



また、
《サッカーはチームで行うスポーツ》
《大前提として、チームメイトの存在がある》
《サッカーが“ミス”の存在を本質とする以上、
 味方を【助ける】ことも、本質と考えるべき》



ここまで考えてくると、
自分のイライラの原因も見えてくる。



その選手が
結局は、<自分自身の事しか考えていない>
ということにイライラしていた、のだと思う。



<挨拶も自分はした>つもり、
<負けると自分自身が面白くない>等・・・。



その選手は、
【自分自身の行動が周囲にどのような影響を与えるのか?】
ということについては、基本的には考えてはいない。
少なくとも現在の自分にはそう思える。



確かに、どの選手も自分自身が楽しむために
プレーしている、のだと思う。



でも、
<味方のミスでキレてしまい、やる気をなくすこと>で
自分自身が納得できるのだろうか?
周りの選手は納得できるのだろうか?



チームとしては都大会出場を目標としている。
そのためには、少なくとも3回は勝たなくてはならない。



勝つためには、
【チームが“チーム”として機能】しなくてはならない。



チームが機能するためには
【責任感】は必要だと思う。



でも【責任感】は、
【チーム】に対するものであり、
【チームが“チーム”として機能するため】のものであるはず。



間違っても、【責任感】が
1人の選手に対して向けられるべきものではない。



『責任感をもってプレーしろよ!と言った選手自身が
周囲の存在を無視したり、
雰囲気を壊したり、
やる気のないプレーをしていることで、
【チームが“チーム”として機能しなくなっている】以上
その選手が【責任感】という言葉を言う資格はない。
ただのワガママだと思う。



この件については、今後も冷静に考えて、対応したい。



ちなみに、自分自身は自分の家族に対して、
責任感のある行動や振る舞いができているのだろうか?

苦しいときこそ・・・・・

2006年03月29日 09時39分36秒 | サッカーの謎
先日、関東一高Aチームと練習試合をした。



場所は新砂運動場。
この日は隣同士で練習していたこともあって、
急遽、練習試合ということになった。



正直なところ、レギュラーメンバーが4人位いなくて、
そのポジションに、入学前の中3というか新高1を
使わざるをえない状況。



相手にも失礼だったかもしれないが、
春休みに入ってすぐの時期に、
強い相手とやることは、
たとえ負けたとしても、
現在の自分達の実力を見直す意味でも
とてもいい勉強になるはず・・・・・。



結果は試合合計で0対5(前半0対3、後半0対2)
完敗。



試合後、相手チームのコーチと話したら、
『今日は、真ん中だけじゃなく、外からも攻める』
ということテーマにしていた、とのこと。
まさにその通りの展開だった。



練習してきた【1対1】で相手に振り切られ、
練習してきた【ヘディング】では競り負ける。
まさに、今まで練習してきた部分を
徹底的に否定された・・・・・



『それじゃ、まだまだダメだよ』と
関東一高の選手に言われたように感じた選手も
多かったのではないのだろうか?



正直、新1年生や新高2で
今までレギュラーではなかった選手の中には
自信を喪失した選手もいたと思う。



もしかしたら、私自身もそうかもしれない。



後半開始から「今後、何を取っ掛かりにすればいいのか?」
という視点で試合を外から見ていた。



まず、全員が自信喪失な感じではなかったのは
収穫?だったと思う。
ファイトしている選手も少なからずいたのは
頼もしく感じたし、嬉しかった。



次に、気持ち以外の面で今後、どのような点を
チームの[拠り所]にしていくべきか?



継続しているミドルシュートはやっていくべき、だと思う。



他の部分は何かないだろうか?
試合中は思い当たらなかった、というか
考えがうまく整理できなかった。



試合後、ゲームを振り返ってみて、
「どうしたら、0対5のチームに勝てるのか?」
「どうしたら、失点を1点までに減らせるのか?」
「どうしたら、得点できるのか?」



[失点の減少]と[得点の可能性を拡げること]
2つのバランスをいかに保つか?
もちろん、“現在のチーム”という前提で。



選手自身が自分達の意識しやすい基準が、
何かないものか?



そこで、今までの指導者としての経験、
選手としての経験、等をフルに思い出して
いろいろと考えてみた・・・・・。



昔、選手に
『負けた時こそ、顔を上げよう!』
『苦しい時こそ、前を向こう!』
と言ったことをなぜか思い出した・・・。



!!、・・・・・。
待てよ?



もしかしたら、今なにげなく感じたことは
実はとても大切なことかもしれない。



あまり根拠はないが、
気持ちの面だけではなく、
戦術的にも、すごく重要なことではないか?



【前を向く】。
シンプルな言葉だし、
単純な行為かもしれない。



特に[失点の減少]という点において
攻撃時において【前を向く】という行為が
影響を与えられるのだろうか。



でも、何か引っかかる・・・・・。
[失点の減少]は≪悪い取られ方を減らす≫
ということによっても、可能なのではないか?



だとすれば、【前を向く】という行為が
≪悪い取られ方を減らす≫ことに結びつけば、
【前を向く】という行為が[失点の減少]と
論理的に結びつくことになる。



相手DFの立場からすると、
一番嫌なのは【相手に前を向かれること】。
【相手に前を向かれること】で足を出せないこともある。



相手選手に技術がある場合には
【相手選手に前を向かれること】によって
〝相手から前を向いてボールを奪う〟ことは
かなり厳しくなることが多い。
実際、相手に裏を取られることも多くなる。



相手DFに前を向いてボールを奪われなければ、
相手の攻撃を遅らせたり、
相手の攻撃方向も限定しやすい。



とすれば、やはり攻撃の際に【前を向くこと】は
逆説的かもしれないが、
[失点を減少させる]ことにつながるのだ。



言い古された言葉、
『攻撃は最大の防御なり』という短いフレーズが
急に近くに感じられた。



では、自分のチームにおいて
実際に、どのように選手に
攻撃時に【ボールを持って、前を向くこと】を
伝えるのか?



常に、【前を向け!】というのは
現実的には難しいかもしれない。
どうするか?



でも、<サイド>でなら、なんとかなるかもしれない。
<サイド>なら、【顔を上げられる】かもしれない。



理想は常に【前を向く】ことだが、
チームでは、まず、
【サイドでは絶対に、前を向くこと】
【サイドでは、しっかり顔をあげること】
からやっていきたい。



苦しい時こそ、【前を向こう!】
辛い時こそ、【顔を上げよう!】



それが、気持ちだけでなく、
戦術としても、実際にプラスになっていく・・・。



これは、気持ちがプレーに関連していく、
ということなのか?



それとも、気持ちとプレーはつながっている、
ということなのか?



こういう風に考えると、
サッカーもしくはフットボールというのは
とても不思議なスポーツに思えるが、
そう思っているのは、自分だけだろうか?

『いまを生きる』?

2006年03月22日 22時10分46秒 | コーチングの謎
先週、都立足立新田高と練習試合をした。



お互い、人数がいないチーム同士だったので、
35分×3本という設定でおこなった。
結果は2-0、1-0、1-3、合計4-3。



練習試合なので、結果自体はたいして意味を持たない、
大切なのは内容だとは思う。



この日のテーマは、
守備における状況判断。
特に、最終ラインの選手が
「いかに状況の変化に応じたポジショニングを意識できるか?」



ポイントは、
【CHECK】⇒【READ】⇒【ADJUST】



【CHECK】:相手の目線やボールの持ち方等を“見る”
【READ】:パスコースを“予測する”
【ADJUST】:ポジションを“調整する”



最終ラインがポジショニングとラインコントロールを
状況を考えた上で適切に行う、というテーマ自体は
ある程度、選手は意識していたと思う。



状況に応じて、最終ラインでカバーリングを作ることも
結構できていたので、練習の成果が少しは出ていたかな?
と感じた。



ちなみに、この日は参加人数は10人。
足立新田高の先生に無理を言って、
レフリーとアシスタントレフリーをお願いした。
自分はチームのGKとして、出場した。



GKの目線でチームを後ろから見る、という経験は
なかなかできないので、貴重な体験ができた。
ボールが来ない時に、
ボールのない状況における選手の動きを
冷静に観察できた。
まさに、今日のテーマを冷静に観察するには
GKというポジションはまさにうってつけだった。



両サイドバックは、高校までサッカー経験のない選手だったが、
攻撃から守備に切り替わったときの守備への動き出しが
やはり経験のある選手と比べると、やはり多少遅い。



あと気になったのは、
経験のない選手のステップワークというか両足の位置関係。
多分、無意識だとは思うが、
ゴールラインと平行になっていることが、
本当に多かった。
相手がロングボールを蹴ろうとして、
助走を長めにとっているにもかかわらず、
両足はゴールラインと平行のまま・・・・・。



問題はどこにあるのか?
【CHECK】の部分?【READ】?【ADJUST】か?



当たり前だが、経験者とは大きな隔たりがある。
一瞬、卒業までには無理か?という考えが頭をよぎる。
1人の指導者として「どうするか?」



そこで、足立新田高の先生に言われた言葉が
自分の頭の中に、フラッシュバックする。



今回の練習試合をお願いしたときに
足立新田高の先生にさりげなく言われた言葉、



『大切なのは何をしてきたか?ではなく、
 これから自分が何をしていくか、ということ』



まさにそのとおりだと思う。
今、チームにいる選手でどういう練習や経験を
積み重ねていくのか?ということこそが重要であって、
選手や環境に対して、愚痴をこぼすことではない。



去年のチームが都大会に出場したことは関係ない。
選手も違うし、コンセプトも違う。



今のチーム、今の選手で
『何をしていくか?』ということこそが大切なのだ。
その中で、自分が考えて、工夫すればいいのだ。



足立新田高は都大会常連チームではない。
でも、すばらしい指導者のいるチームであり、
頑張る選手のいるチームであることには間違いない。
来月も、大会前に練習試合をお願いした。



足立新田高の選手から、『頑張ること』、
足立新田高の先生から、『いまを大切にすること』を
勉強させていただきたい、と思う。



そうなのだ、
昨日は今日という日に無条件で繋がっている訳ではない。
同じように、明日という日が今日と繫がっている訳ではない。
『これから何をしていこう、と考えるのか?』
『そのために、いま、何ができるのか?』
ということを考え続けることこそが大切なのだ。



『いまを生きる』というのは、
ロビン・ウィリアムスの映画だが、
今度またじっくり見直してみたい。

たかがサッカー、されどサッカー・・・・・

2006年03月21日 23時43分49秒 | コーチングの謎
先日、日大2高のスタッフ(先生・コーチ)と食事をした。
いろいろな話ができて、とてもいい時間が過ごせた。



その中で印象に残った話があった。
日大2高のコーチがさりげなく言った一言、
『たまに顔を出すOBがいいコーチングをすることもあるんですよ』



確かに、そうなのかもしれない・・・・・。



私自身、毎日、選手と顔を向き合わせている。
選手の様子や頑張りを毎日、見る事で
選手に対しても、はっきりと言えるはず・・・・・。



指導者として、雨の日、風の日、雪の日、暑い日等、
どんな時も選手と同じ時間を共有することが大切だと
考えていた。



同じ時間を共有していなければ、
選手に厳しいことを言う場合に
同じ言葉でも、
選手に対する説得力が変わってくるのではないか・・・・・
と思っていた。



自分自身が選手だったら、
同じ時間を共有していない指導者には
偉そうなことは言われたくない・・・・・。
そんな感覚を有していた気がする。



ただ、もしかしたら、
毎日、選手と接するからこそ、
見落としてしまうこともあるのか・・・
近くのいるからこそ、気づけないこともあるのか・・・



日大2高のコーチが言いたかったことは
こういうことなのだろうか?



でも、すごく大切なことかもしれない。
指導者は選手に対して常に客観的な視点を持つべきだろうし、
絶対に必要な視点だと思う。



でも、こうなってほしい、上手くなってほしい・・・等
指導者のさまざまな主観が入ることで、
選手の素の姿が見えなくなってしまうのかもしれない。



選手に対する愛情は指導者として必要だが、
選手に対する冷静な観察眼も必要。



たまに、練習に参加するOBが
[選手の変化や選手の欠点、反対に成長した点など]に
気付くことができるのは
冷静な視点を失っていないことの証拠かもしれない。



以前、『冷静と情熱の間』というタイトルの小説があった。
小説自体は残念ながら読んだことはないが、
タイトルのつけ方はとても巧みな気がする。
人間の心理に対する深い洞察力をもった方が
タイトルをつけられたのだろうか。



今の自分にとっては、
まさに必要な気持ちのあり方なのかもしれない。



『冷静と情熱』・[客観と主観]、
2つの視点を自分自身が保てていないとしたら、
自分自身の考え方に問題があるのだろうか。



サッカーに対する情熱があるあまり、
周囲のことが見えなくなる。
若い選手にはよくありがちかもしれない。



でも、社会一般の視点から見たら、
「たかが、サッカー」なのだと思う。



そのような視点で1人の大人として
選手にできるアドバイスもあるはず。



サッカーよりも大切なものは、
人生の中でたくさんある。



今の自分にとっては、
家族はサッカーよりも大切なものの1つ。
人によっては、他にも色々あるはず。



常に、『冷静さ』という視点を持ちながら
指導を続けていきたい。




でも、「されど、サッカー」とも思う。
サッカーがあるからこそ、楽しいことも多い。
サッカーがあるからこそ、頑張れる。



人生が1つの旅だとしたら、
家族という車に乗りながら、
チームというバスに乗りながら、
サッカーという土地を旅することで
旅に彩りがつくのかもしれない。



指導者を続けることは我慢することを多く、
また、反対に、独善に至る可能性もあるが、
私自身、1人の人間、唯の1人の男である、
という視点を忘れずに、
サッカーというフィールドを
家族とともに、歩いていきたい。

自分達の武器は何なのか・・・・・

2006年03月14日 21時24分07秒 | サッカーの謎
先日、江戸川高校の監督と食事をした。
食事しながら、その後、お茶飲みながら、
いろいろ話をした。



チームのこと、選手のこと、高校サッカーのこと、
そして、指導者としての自分達のこと・・・・・



彼は、以前、勤めていた会社を辞め、
サッカーの指導で生計を立てていこう、と
一念発起して、自分で小学生のチームを立ち上げ
クラブチームのアシスタントコーチを
パートタイムで請け負い、
残りの時間で江戸川高を指導している。



前の会社では、上司に、
鹿実で全国に出たことのある方がいた、とのこと。
彼自身も高校では全国クラスの高校で
エースとして頑張ってきた経歴を持っている。



彼は思うところあって、大学や社会人では
サッカーをやらず、一度就職した。



それでも、サッカーの指導だけは、
継続していた。




彼の話す内容はとても刺激的で、
同時にサッカーに対する彼自身の情熱も
どんどん伝わってくる感じだった。



昔の自分もこういう感じだったのだろうか?
今の自分はどうなのだろうか?



印象的だったのは、
『うちのチームは地区の中で一番走っていると思う』
という発言だった。



話を聞いたら、確かによく走っているし、
江戸川高校の選手も頑張っている、と
感じさせる内容だった。



『うちは絶対に走り負けませんから』
そういう自信のようなものを
聞いている側が強く感じるような言葉だった。



ところで、うちのチームの武器は
何なのだろうか?


一昨日、学校練習の最後に、
教室でミーティングをして選手1人1人に
聞いてみた。



答えは、さまざまだったが、
今まで練習でやってきた
1対1やミドルシュートを武器にすべき、
ではないか、という意見が多かった。



もちろん、
走り負けたくない、
というものや、
判断で負けない、
気持ちでは負けない、
という選手からの意見も少なくなかった。



自分の意見も含めて、
チームとしてインターハイの予選に向けて
・判断(予測と準備)
・走り(運動量)
・気持ち(闘争心と自制心)
では負けないようにしていこう、
ということをチームとして確認した。



3つとも、技術やフィジカルを
言い訳にできないものばかり・・・。



もちろん、確認しただけでは、
当然すぐに身につく訳ではないが、
意識しなければ、身についていくはずもない、
とも思う。


今後は、
・判断のどういう部分か?
・どういう状況での走りか?
・どういう場面でのメンタルか?
それらの具体的内容を
練習や試合を通じて
チーム全員で確認し、
形にしていきたい。

医者?教師?1つの答えとしてのMVP

2006年03月03日 22時01分33秒 | コーチングの謎
先日、読んだ雑誌に興味深い記事があった。



たしか、
『コーチングクリニック』か
『トレーニングジャーナル』
の中の記事だったと思う。



記事の要旨は
 『欠点を改善できる指導者は少なくないが、
  人を育てることのできる指導者は数少ない』
というものだった。



読んだ直後は、
「そのとおりかもしれない」と感じたが、
少しずつ疑問が湧いてきた。



『人を育てる』とは?



今までの自分は、
選手個人に対する指導に関して言えば、
正直、「その選手の欠点を直す」、
という点を重視していた。



「自分は人を育てるような器ではない」
「自分のような半端な人間に人を育てるのは無理」



『人を育てる』という行為は、自分の立っている場所から
遥か遠くにあるような気がした。



この記事を読んだ後、
改めて、『人を育てる』ということがどういうことなのか?
考えさせられた。



たとえば、サッカーにおける技術的課題。
左足でキックできなかった選手が練習によって
左足で正確なキックができるようになる。



指導者として自分ができる、
もしくは、その選手にしてあげられることは
それぐらいなのではないか?と
考えていた。



また、場合によっては、
その選手の気づかない欠点を指摘すること
も指導者として必要だとも考えていた。



選手を追い込む中で、その選手自身が自分の欠点に
気づく、ようにしていたこともあったかもしれない。



[できないこと]が[できるようになる]こと。
このためにこそ、
“練習”というものが存在している、と思っていた。



欠点の改善こそが練習の本質であり、
自分のコーチングの中心だと考えていた。



患者が病院に行く場合のほとんどは
治してもらいたい部分があるからこそ、
病院に行く。



選手の練習に参加する際の意識は、
どうなのだろうか?



『自分の欠点を直したい』と考えている選手は
いるのだろうか?



ただ、『上手くなりたい』と思う選手は、
多いのかもしれない・・・・・。



自分自身の感覚では
『選手が上手くなる』ことは『欠点を直すこと』と
ほとんど同義だと思っていた。



マリノスの岡田監督は
『選手の欠点は簡単には直らない』ので
『長所を伸ばすことのほうが、いいと思う』
という趣旨の発言を著作の中でされている。



岡田監督の手法は、
【人を育てる】ということなのだろうか・・・・・



私自身、指導者として
【褒めること】と同時に【厳しく言うこと】は
あくまでも、【欠点を改善するため】にこそ必要だと
考えていた。




もちろん“技術的にできない”選手に対して、
【厳しく言うこと】は、ない。



でも、やれる選手がやるべきことをやらなかったり、
できるのにやろうとしない場合には、
どうしても、厳しく言ってしまう。



今まで、自分自身のコーチングを振り返ってみると、
選手の気持ちの中に存在していると思われる
気になるココロの癖みたいなものに対しては
指導者として敏感に反応していたような気がする。



特に、自分勝手な振る舞いに対しては
かなり厳しく対応していた。



自分の中では、正直な感覚として
自分自身が【教師】である、という感覚はなかった。



そもそも、【教師】の仕事とは何なのだろうか?



【教師】の仕事とは、【人を育てる】ことなのだろうか?



[褒めること]=【人を育てる】
[厳しく言う]=【欠点を直す】
という単純な図式ではないような気がするが・・・・・。



でも、【褒める】ことは自分自身の課題の1つとして、
存在しているのは確かだと思う。



自分の中で、【褒める】ことへの1つの試みとして
【MVP】制度というものをやりはじめた。



1日の練習・試合の最後に、
その日1番印象の良かった選手、成長がみられた選手を
表彰する、というもの。



もちろん、賞品等は一切ない。



ただ、簡潔に、「ここが良かった」と一言、
全員の前で指導者としての自分が言う、
というだけのもの。



この【MVP】制度が、選手を【褒める】ことに
どこまで結びついているのか?
選手1人1人の心にどれだけ響いているのか?
正直、わからない。



【MVP】制度が、【人を育てること】の
答になるかどうか・・・・・、
確証はないが、続けていきたいと思う。

『make the style』?

2006年03月02日 14時20分22秒 | サッカーの謎
『make the style』。



トヨタ自動車のコマーシャルのキャッチフレーズ。



トヨタ自動車のキャッチフレーズの真意はわからない。



自分では、まさに読んで字のごとく、
『自分のスタイルを創っていこう!』
という意味に理解している。
というか、勝手に解釈している。



チームで言えば、
『自分達のサッカーを創っていこう!』
という感じだろうか?



2月の週末は、第1週と第4週に
都立水元高と練習試合を行った。



水元高の先生は、サッカーに対する情熱を持って、
指導にあたられている。



選手にサッカーの楽しさを伝えたい、
という気持ちがヒシヒシと、見ている側にも伝わってくる。
もちろん、勉強熱心で、サッカーに対する造詣も深い。
なにげない会話の中でも、勉強になることは多い。



ただ、今は都立水元高が学校統廃合の対象になっていて、
部員が11人いない。



2月第1週に、行った練習試合も、
都立向島工高との合同チームだった。



向島工の先生も情熱をもって指導にあたられている。
都立高のクラブ活動はこうした先生方の情熱に支えられている、
と本当に強く思う。



また、合同チームというと・・・?と思う方もいるのかもしれない。
でも、合同チームの選手もまた、強い気持ちを持って、
プレーしている。



同時に、
「プレーしたい」
「試合がしたかった」
「試合が楽しい」
という気持ちが、外から見ていても本当に伝わってくる。



技術・戦術うんぬんよりも、合同チームの選手達の
そうしたサッカーに対する姿勢や気持ちが、
サッカーにかかわる1人の大人として
本当に気持ちがいい、というか嬉しい。



強いチームとへんなテンションで練習試合するよりも
合同チームの選手達のピュアなスピリッツにふれることで、
私自身、指導者として刺激になるし、
うちの選手にとっても何かいい影響が必ずある、と思っている。



2月第1週に行った水元・向島工合同チームとの試合は、
強い風の日だった。



にもかかわらず、うちのチームは、
攻撃において、浮き球を多用してしまい、
ミドルシュート以外では
なかなかフィニッシュにもっていけなかった。



その試合を2日後、全員でビデオで見た。
ビデオで改めて見た印象は
やはり「浮き球が多すぎる」ということだった。



そこで、全員1人1人に聞いてみた。
「どういう攻撃をしていきたいのか?」



答えは1人を除いて、
『もっとボールをつなぎたい』
『ボールを浮かさずに、グラウンダーでつなぎたい』
『その方が、今のチームにはあっている、と思う』



ある意味ショックだった。
今まで、自分は【しっかり守って、カウンター】、
場合によっては【プレスから速く攻める】ということで
チームの戦術や練習を考えてきた。
そのスタイルがこのチームに合っていた、と考えていたし、
ある意味、合理的だとも考えていた。



【カウンター】であれば、
“浮き球”でも“グラウンダー”でも、
状況に応じて、選択すればいいのではないか・・・、
と思っていた。



でも、選手は指導者の自分よりも“こだわり”を持っていた。



1人の選手の発言、
『グラウンダーの方が速く攻められる、と思う』。



確かに、その通りなのだ。
【ボールが“丸い”のは“転がる”ため】。



それから、2月中は、
【ボールを転がして】攻めることを
徹底的に練習していった。



【前を向いてサポートすること】
【トラップをさらさないこと】
【ボールを奪った後の、動き方】
などを中心に練習していった。



2月の最終週は水元・足立東合同チームをした。



水元高の先生から、
『前の試合とは全然違いますね』
『どうしちゃったんですか?』
『前回は褒めるところはなかったけど、良くなりましたね』
お褒めの言葉を戴いた。



うれしかったが、少し複雑だった。
選手達が、自分達の意思を主張したからこそ、
いくらかでも納得できるサッカーが
できたのだと思う。
それを水元高の先生が評価してくれたのだと思う。



でも、もし、うちの選手達が
気持ちよくサッカーができたのだとしたら、
それは水元・足立東合同チームの選手達の
サッカーに対する純粋な気持ちがあったからこそ
なのだと思う。



選手達が納得できるスタイルを創っていく、
簡単なことではないし、
自分達が納得できるサッカーというのは、
もしかしたら永遠に届かない理想かもしれない。



でも、練習で一番大切なのは、
自分達のスタイルを創っていくことかもしれない・・・。

『Better place 』と長州小力?

2006年03月01日 20時10分44秒 | 日々反省
今回は反省というか懺悔。



先日、ミーティングの最中に
私語の多かった1人の選手に対して“ブチ切れ”た。



挙げ句の果てに
「もう来なくてもいい」と突き放してしまった・・・。



「我慢しきれなかった」というのが、
その時の自分自身の正直な気持ちだった。



指導者としての自分のポリシーは

 『まじめにやっている人間をバカにしない』
 『一生懸命頑張っている人間をバカにする奴は絶対に認めない』




『Better place』。
FIFAの人種差別に反対するキャンペーンのためのキャッチフレーズ。



ピッチ周辺では、少数ではあるが、
スペインやイタリアをはじめとするヨーロッパにおいて
アフリカ系選手への差別的発言も出始めてきている。



もちろん、
グランド外ではいろいろな場所での紛争、テロ、悲惨な事件、等
挙げればきりがない。



でも、
グランド上だけでなくサッカーの周辺では、
悲惨な現実とは無縁な状態であるべき、
というのが『Better place』という考え方。



たしかに、
サッカーを含めサッカーの周辺は
『Better place』であるべきだと思う。



先日のミーティングでも、1人の選手を除き、
他の選手はまじめにやろうとしていた。



1人だけ、その空気を壊しているように感じた。



『まじめにやっている人間がバカをみる』
ようなことはしたくないし、させたくない。



自分では、
今のチームという『Better place』という
場所とか価値観を守ったつもりだった・・・。



ただ、その選手から、
その時の事情をもっと聞くべきだったのかもしれない。



いきなり、怒鳴って突き放すべきだったのだろうか。



自制を忘れた監督のいるチームは
『Better place』と言えるのだろうか?



先日、ラジオを聞いていたら
タレントの長州小力さんが出演されていた。



長州小力さんの芸風等はあまりよくわからない。



でも、すごく気になる台詞があった。



『俺をキレさせたらたいしたもんだよ!』



正直、その台詞は胸に響いた。




指導者にもこのような台詞を言える芸風というか、
素養、人としての器の大きさが
必要なのかもしれない。



自分にそのような台詞を言える日が来るのだろうか?
その選手の姿を通して、昔の自分の姿を見ていたような気がする。
だからこそ、感情的になってしまったのだろうか?



とりあえず、その選手に連絡をとってみるか・・・。