一九四五年(昭和二十年)八月九日、結核で長崎の病院に入院中だった竹山広は、その日落とされた原子爆弾に被爆した。ちょうど退院予定日、二十五才のことだった。
・たづねたづねて夕暮となる山のなか皮膚なき兄の顔にまぢかく
『とこしへの川』
・まぶた閉ざしやりたる兄をかはたらに兄が残しし粥をすすりき
・人に語ることならねども混葬の火中にひらきゆきしてのひら
いくつもの傷を負いながら、おびただしい死傷者たちのなかに退院を迎えにきてくれるはずだった兄を探し回り、雑木林の中で上半身に火傷を負った兄の最期を看取る。
遭遇し体験したままの凄惨な記憶を、感情を露わにせず静かにうたう。竹山の「戦後」はここから始まった。だが、この惨禍から十年の間、竹山は作歌を中断している。原爆の記憶があまりに生々しく、夢に脅かされて作れなかったという。
長い年月を経たのち、第一歌集『とこしへの川』の上梓は一九八一年(昭和五十六年)。六十一才のときである。その後、生涯に九冊の歌集を上梓、遺稿集として平成二十二年『地の世』が発刊された。
・二万発の核弾頭を積む星のゆふかがやきのなかのかなかな
『千日千夜』
・核兵器廃絶を見ずわれは死なむその兆しさへ見るなくて死ぬ
・原爆をわれに落としし兵の死が載りをれば読む小さき十六行
『空の空』
・あやまたず歴史は書けよ六十二年アメリカがなしきたりしすべて
『眠つてよいか』
・原爆を知れるは広島と長崎にて日本といふ国にはあらず
『地の世』
忘れらない一首がある。
・アメリカに一発の核を落さんか考へ考へ燃ゆる枯菊
『千日千夜』
七十九才での第五歌集。結句は被爆地の惨状の記憶に重ねたのだろう。一見テロリストのようなとんでもない過激な思いに見えるが決してそうではない。長年ずっと思いつつも抑えに抑えてきた消えない怒りがふとむくむくと腹の底から湧き起こってきたような歌だ。わずかずつではあるがじわじわと重たいものを着実に持ち上げてゆくジャッキのような静謐な憤怒が伝わってくる。
下記、二〇〇八年、「原爆投下はしょうがないこと」と発言した当時の防衛大臣への連作から。
・うち伏しし家より空を蹴上げゐし二本の足よ しやうがないことか
・山みづの溜りに身を折り重ねゐし死者たちよ しやうがないことか
・一瞬にして一都市は滅びんと知りておこなひき しやうがないことか
・六十二年昔をきのふをとといの如くに泣けり しやうがないことか
『眠つてよいか』
他のどんな反論や批判よりもずっしり強く抗議の思いを表し得ている。これこそが詩歌の力であろう。ときに竹山八十七才。どんなに時を経ても「原爆許さじ」の憤怒を生涯賭けて自分の言葉でうたい続けた。二〇一〇年三月三十日逝去。享年九十歳。正に戦後を生き抜いた短歌史に残る歌人だろう。
(うた新聞2014年2月号)
お会いできて幸せです!
中里さんと繋がったとか、ばんざい!
竹山広歌集を取り上げてくださりうれしいです。