たけじゅん短歌

― 武富純一の短歌、書評、評論、エッセイ.etc ―

外から見る短歌

2018-06-29 01:00:05 | 時評

 「美術手帖」三月号の特集は「言葉の力/美術、詩、短歌、演劇、音楽、ラップ ジャンルを横断する言語表現の現在地」。主に短歌に関する頁をめくってみた。巻頭は穂村弘、柴田聡子(ミュージシャン)、保坂健二朗(キュレーター)による座談会で、最初のテーマは「震災」。

・運命使命救命露命懸命寿命宿命よ 生命(いのち)見ゆ  (横山ひろこ)

穂村は新聞歌壇の選者の経験として、普段、短歌の世界にはプロとアマチュアのピラミッドが漠然とあるのだが「非常時には圧倒的な現場性や衝迫感を持った短歌が毎日届いて、短歌的なレトリックを使うことが不謹慎に思える、奇妙な逆転現象が起きる」としてこの歌を紹介する。短歌は大衆の力を持つ文芸だからこそこうしたことがままあるのだ。

 また、誌上ワークショップでは斉藤斎藤が三名の美大生をレクチャーしている。驚いたのは「短歌=5・7・5・7・7というルールが有名ですが、じつは、8・8・8・8・8の枠内に収まれば、歌としてのリズムや質感は保たれます」と述べていて、こんなことをいきなりビギナーに言って大丈夫?と思ったが、続けて「定型を意識しすぎると窮屈になってしまうので…」とあり、指折って文字数合わせに陥ってしまう表現の退化の危惧を思えば、定型意識はあとからでも充分間に合うなとも思った。穂村も斉藤も自分がどうして美術手帖に呼ばれたかをしっかり理解していて、短歌を知らない人に彼らなりのスタイルでいかにその世界をわかってもらうかという思いがにじみ出ていた。

 他にも詩人の谷川俊太郎や小説家の川上未映子などが短歌誌にはありえない奇抜なレイアウトで紹介されてゆくのだが、私は「韻律の信仰/共同体をめぐる日本語ラップの試み」としてGADOROというラッパーを取材したページ(文/荏開津広)が興味深かった。

詳細は省くが、ラップのリズムに乗りにくい日本語の壁と格闘してゆくなか「…そして、中国の漢文が韻を踏んでいることを思い出す。漢文にならって音読みを用い、倒置法や体言止めを試してみた」「韻の構築、つい納得してしまう韻と韻の組み合わせの生み出す力」等に、ラッパーって歌人とまったく同じところに腐心しているのかと驚かされた。「あの世に金は一銭も持っては行けないから/せめて俺の言葉だけは地球上に残す」。やや直接的ではあるがどこか短歌世界に繋がる感じだ。

そういえば山田航も『桜前線開架宣言』で今の口語短歌について、「日本語ラップはダサい」が乗り越えられたように、「口語短歌は単調」という思い込みも遠からず乗り越えられてゆくだろうと、その類似性を熱く語っている。

短歌のど真ん中ばかりにいては見えないものがある。江戸時代、お稽古事のお師匠さんは師匠同士で立場を交代し、互いの芸を学び合っていたという。ときには外から自由な目で短歌を眺めてみたい。岡井隆が自由詩の世界を語り、小高賢が外部からの批評を求めていたのもこうした思いからであろう。

「心の花」五月号時評


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2 コメント

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外から見た短歌 (田川喜美子)
2018-06-30 20:55:37
誌上では活字が小さくて読み辛いけど、このコーナーで読めて良かったです。
2004年に関川夏央著の『現代短歌そのこころみ』のなかで、短歌はもっと大衆により添っては
という意味合いのことが書かれてあり、なかなか興味深く読んだものです。すでに読まれたかも知れませんが、結構、面白かったです。
Unknown (武富純一)
2018-07-01 23:54:43
田川さん、ありがとうございます。関川さんのそれ、私も読みました。なんかね、現代短歌はアカデミックな装いをし始めてへんか?、という思いが私にはあります。昔から大衆の文芸でっせ、短歌って。
\(^^)/。

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