十二年ぶりの第四歌集。
見えないものの気配を感じてしまう人だ。
・ああここは沼だつた地だしんしんと湿気を含む夜の底ひの
・運河から上がりそのまま人の間へまぎれしものの暗い足跡
・夜の道に呼ばれてふいをふりかへるそこには顔があまたありすぎ
かつて沼であった地の記憶を感じ取り、運河から上がり街へと消えてゆく得体の知れないものを想う。振り返った夜道を埋める数多の顔…。第六感が鋭いのだろう。そこへ元々の古典文学の知識と夢想が加わるとこのような世界を描く力となる。
・遊子なほ残月を行く、と口にして結論へ向けあと数枚を
・人間五十年に足らずに果てし火の中に織田信長の見つからぬ骨
・寺田屋事件のあとは即座に血まみれの畳替へ客を迎へしお登勢
古典や歴史への造詣をありありと思わせる歌たちだ。この歌人の前世は平安時代あたりできっと「やんごとなき人」であったのだろうと思わずにおれない。
観念的、箴言めく歌もある。
・泥沼にはまるのではなく臑(すね)がもう泥になっているのだ、気づけば
・高貴な人は誰も自由を欲している――といふ嘘『ローマの休日』以来
・幸福でありつづけなければならないとそもそこからが不幸の証
大阪弁の独特なはめ込み方にも惹かれた。
・死んだ父に嫌はれるといふけつたいな思ひがよぎり寒夜すぐ消ゆ
・善も悪もみんな燃やせば簡単だアメリカの洗濯機はごつつう廻る
タイトルは昔のフランス映画から取ったとある。「去年マリエンバートで会った」という男。それを記憶してないという女。どこまでも曖昧なままに進むストーリーらしい。
また、「むかし八瀬にクジラがいた」で始まる幼い頃のおぼろげな記憶のエッセイもある。両者には「記憶が曖昧なままにずっとそのままに思い続けていたい」という共通項がある。余計なお世話ながらクジラの件、検索してみたがどうも事実のようだ。
しかし、この人はよくわからないままにずっと思い続けていたいのだ。自らの創作スタンスの自負かもしれないし、とかく事実や結論を突き詰めてしまう現代人への警鐘かもしれない。
他に印象に残った歌を挙げる。
・庭先のまるい日向にまどろめる明治を知つてゐるやうな猫
・個室居酒屋でずつと話を聞いてみたいお湯割りの梅を箸で突きつつ
・葬りたい場面のありていくたびも頭(づ)のない釘を石で打ちたり
・ブランコを漕ぐといふ語のさみしくてどこの岸へもたどりつけぬ
・講義メモも本も手帖も開かない十分間、乳と蜜のながれる時
書肆侃侃房
2017年10月17日発行
1900円(税別)
2018-04-16