たけじゅん短歌

― 武富純一の短歌、書評、評論、エッセイ.etc ―

林和清『去年マリエンバートで』―あいまいな記憶のままに―

2018-04-16 00:27:31 | 書評

十二年ぶりの第四歌集。
見えないものの気配を感じてしまう人だ。

・ああここは沼だつた地だしんしんと湿気を含む夜の底ひの
・運河から上がりそのまま人の間へまぎれしものの暗い足跡
・夜の道に呼ばれてふいをふりかへるそこには顔があまたありすぎ

かつて沼であった地の記憶を感じ取り、運河から上がり街へと消えてゆく得体の知れないものを想う。振り返った夜道を埋める数多の顔…。第六感が鋭いのだろう。そこへ元々の古典文学の知識と夢想が加わるとこのような世界を描く力となる。

・遊子なほ残月を行く、と口にして結論へ向けあと数枚を
・人間五十年に足らずに果てし火の中に織田信長の見つからぬ骨
・寺田屋事件のあとは即座に血まみれの畳替へ客を迎へしお登勢

古典や歴史への造詣をありありと思わせる歌たちだ。この歌人の前世は平安時代あたりできっと「やんごとなき人」であったのだろうと思わずにおれない。

観念的、箴言めく歌もある。
・泥沼にはまるのではなく臑(すね)がもう泥になっているのだ、気づけば
・高貴な人は誰も自由を欲している――といふ嘘『ローマの休日』以来
・幸福でありつづけなければならないとそもそこからが不幸の証

大阪弁の独特なはめ込み方にも惹かれた。
・死んだ父に嫌はれるといふけつたいな思ひがよぎり寒夜すぐ消ゆ
・善も悪もみんな燃やせば簡単だアメリカの洗濯機はごつつう廻る

タイトルは昔のフランス映画から取ったとある。「去年マリエンバートで会った」という男。それを記憶してないという女。どこまでも曖昧なままに進むストーリーらしい。
また、「むかし八瀬にクジラがいた」で始まる幼い頃のおぼろげな記憶のエッセイもある。両者には「記憶が曖昧なままにずっとそのままに思い続けていたい」という共通項がある。余計なお世話ながらクジラの件、検索してみたがどうも事実のようだ。
しかし、この人はよくわからないままにずっと思い続けていたいのだ。自らの創作スタンスの自負かもしれないし、とかく事実や結論を突き詰めてしまう現代人への警鐘かもしれない。

他に印象に残った歌を挙げる。
・庭先のまるい日向にまどろめる明治を知つてゐるやうな猫
・個室居酒屋でずつと話を聞いてみたいお湯割りの梅を箸で突きつつ
・葬りたい場面のありていくたびも頭(づ)のない釘を石で打ちたり
・ブランコを漕ぐといふ語のさみしくてどこの岸へもたどりつけぬ
・講義メモも本も手帖も開かない十分間、乳と蜜のながれる時

書肆侃侃房
2017年10月17日発行
1900円(税別)
2018-04-16


純粋読者とは

2018-04-05 01:27:51 | 時評

 十一月二十日の朝日歌壇「短歌時評」で大辻隆弘が昨年度の現代短歌評論賞、雲嶋聆「黒衣の憂鬱―編集者・中井英夫論」の一部に疑問を投げかけた。

 雲嶋は「現代短歌は斜陽文芸であり、その原因は純粋読者がいないことだ」と述べ、純粋読者がいる小説と比較し「その獲得こそが現代短歌の課題ではないか」という。

 これに対し大辻は「短歌は小説の消費モデルとは違う」として「古来、短歌は座の文芸であり、短歌表現は歌を作りたいという自覚を持つ読者によって研ぎ澄まされてきた。作者=読者という共同体があるからこそ短歌は表現水準を維持し得たのだ」と反論し、「歌作に興味を持つ人を掘り起こすのは歌人の責務だと思うが、それは歌を消費する傍観者を作ることではあるまい。作者と読者の関係はどうあるべきか、慎重な考察が必要だ」と結ぶ。

 記事から四日後、雲嶋は大辻の声に素早く反応し、自身のブログで、純粋読者を求める理由として「実作者=読者」という閉じられた世界のみでは血が濃くなってしまい、どんどん言葉が痩せていくのでないか」という恐怖感を述べる。

さらに古今東西のジャンルを超えた芸術交流の例を挙げ、このままでは短歌は「短歌村にしか通用しない言葉で作られた、高度なゲーム」か「ふっとしたことでツイートするように作る五七五七七の呟き」になってしまう気がするとして「どちらになってもそれは文芸とは呼べない」と、他ジャンルの血を入れて短歌を再生して欲しいと思いを返している。

 相前後して大辻自身が多くの続編をツイートしたこともあり、ツイッター上に瞬く間に「純粋読者」論議が巻き起こり、本議論を飛び越えてしまったような広範な意見も並んだ。

端的にまとめると「私は現代短歌が好きだけど自分じゃ全く詠めない純粋読者」「小説と違って短歌は読み手から詠み手へのハードルが低めかつ高速」「語呂がしっくりこない。読み専とかでは?」「短歌は「サラダ記念日」で一度は純粋読者を獲得してるからね」「純粋読者歴ゼロ年、けっこう多いんだ」「純粋読者を熱望する不純作者という構図」「純粋読者より必要なのは、短歌の外に出ていこうとする不純作者なのでは?」などだ。

大辻はその反応ぶりに「私は純粋読者が少ないことがなぜ斜陽としてマイナスにとらえられねばならないか」を問うているだけだ」とし、「なぜ実作をしない純粋読者の多寡という基準で「主要文芸⇔斜陽文芸」を測るのかがわからない」と言う。

また「純粋読者」ではなく「読者」と表していたら何のひっかかりもないのだが…とも加え、前後して第二芸術論や前衛短歌からの流れも交えつつ、純粋読者とは「実作をしない短歌購読者」ではなく「広範な芸術的造詣を持った知識階級の享受者(ただし実作はしない)」イメージなのだと述べている。

 菱川善夫亡き後、大辻の示すところの「純粋読者」に私はまず東郷雄二が浮かぶのだが、はたして現在、そんな人はいったいどれぐらいいるのだろうか。

心の花2月号/時評)