たけじゅん短歌

― 武富純一の短歌、書評、評論、エッセイ.etc ―

鈴木陽美『スピーチ・バルーン』―適度な距離感、多彩な切り口―

2018-11-01 00:59:46 | 書評

・「いまどこに?」「天神裏の珈琲屋」きみと重ねるスピーチ・バルーン

本歌集のタイトルとなった歌だ。「スピーチ・バルーン」とは漫画の吹き出しのこと。私はすぐにスマートフォンのLINEの画面を思った。従来の携帯メールはタイトルや宛先、そして「こんにちは」で始まる何やら堅苦しいやりとりだったが、LINEはそうした煩わしさを軽々と越え、まるでマンガの吹き出しのような画面に相手がそばにいる感じで気楽な会話が弾む。

・鳥の切手花の切手を組み合わせ小さな個展の案内がくる
・とんがったマスク同士で行き合えば未来のヒトのような会釈す
・近づけばわがためだけに動きだす春のまひるのエスカレーター

作者と対象が正にLINEのごとき適度な近さで描かれている。読み手との距離感もまた同様で、いつもフレンドリーだがそこに暑苦しさがない。ベタベタではなく、離れてもなく、難解さもなく、かつ分かりすぎもない。作者もあとがきのなかで「三十一音が入るだけのスピーチ・バルーン。それが私にちょうど良い大きさだったかもしれません」と述べる。

また、心の花インターネット歌会の「読む会」では、選された歌の幅が広く、読み手のそれぞれがそれぞれの「鈴木陽美ワールド」を覗いている感じだった。つまりヒット率が高いのだ。どのようにも切り口を示せて「どこから読んでもいい」の許容度の高い歌集ではあるまいかと思う。
多彩な切り口のその一部を掘り下げてみよう。まず感じたのは対象を見つめる観察眼だ。
・ふつふつと煮つめる苺のジャムの香に春の力がみなぎっている
・「環境に優しい車」のステッカーつけた車が割り込んできた
・右舷から吹く風はらむ帆が立てりどこにも行かぬボトルシップに

一首目、甘ったるいジャムの香を春の力とした見立て。二首目は「どこが環境に優しいんだか…」の柔らかなアイロニー。三首目、「行けぬ」なら悲しい歌になるのだが、「行かぬ」でボトルシップへの優しいまなざしを感じた。

機知に富んだ歌も多い。

・マッチ擦る、ことなどなくて家中に火の匂いなき灯りをともす
・大粒のぶどう含めばたちまちに秋は私を味方につける
・測量士のはたらくそばを通るときわれはつかのま黒猫になる
・勝粒ち残るたびに孤独に近づくを椅子とりゲームのさなか気づかず
・熱の身を横たえながら一九時のE列5番の空席おもう

一首目、寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」の巧みな本歌取り。二首目は「私は秋を」となりそうなところのひねり具合。三首目、存在感を消し、こそこそと通る動作がよく出ている。四首目は想定外の切り口で、深き哲学のようなものを感じてしまった。五首目は席番号のリアルの裏にありありとドラマを感じさせる。

絵画への造詣もある。

・熱き風吹いているらむマティスの絵の開けっ放しの扉の向こう
・花柄のショールをまとう絵の女われにこっそりめくばせをせり
・鎮もれるルネ・マグリットの絵をかけてふしぎな夢をみたい月の夜

絵画を観ての歌は深い鑑賞力がないと上滑りになってしまうが、いずれもどんな絵なのかを強く想像させてくれる。

漢字や言葉への関心、興味も印象に残った。

・相性が悪かったのだ 糸偏は吉を選ばず冬を選んで
・目の奥が総毛立つなり蠢蠢(うごうご)と蠢(うごめ)く文字の列を見るとき
・突然の来客ありて主婦われは夜にうすすき朝にいすすく

一首目、結と終、糸偏さんが選んだ相手への思い。三首目、調べたらいずれも「慌てふためく」の意で巧みな言葉の使い方だと思う。
難解な漢字への興味も相当なものだ。

・たっぷりと雨の雫をはらみたる形とおもう「霽(はれる)」の文字は
・うすものを纏うがごとき夜空かな 昴(すばる)・畢(あめふり)・觜(とろき)・参(からすき)
他にも多々、興味を引く難しい漢字がうたわれている。

・AはB、BはAだとはぐらかす底意地悪き辞書にまた会う
辞書を「引く」ではなく「読む」人がいる。この人もきっと愛読書のように辞書を読んでいるのだろう。

さて、先に私は、どのようにも切り口を示せて「どこから読んでもいい」の許容度の高い歌集ではあるまいか…と述べた。だがこれは、逆に言えば一冊全体の構成力が弱いということでもある。

展開、見せ場、箸休め、クライマックス、エンディング…あるいは、順に読むことで解けてゆく謎、より深まっていく心象…こういう、構成的な、一冊を貫くような背骨は私にはあまり感じられなかった。これがもし単なる「時系列編集」であるなら噛み合わない話になるのだが、構成面から見れば、もう少し太き背骨をこの一冊に通してほしかったとも思う。

2008年、私が「心の花」に入会したとき、この人は同世代ながらすでに歌作の力の貫禄をにおわせていた人で、その蓄積の証左だろう、当歌集上梓の後、心の花賞を受賞している。

『スピーチ・バルーン』
ながらみ書房
2018年6月14日発行
2500円(税別)
2018-11-01
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現代短歌が見つめるもの

2018-08-10 16:16:45 | 時評

・古文書のなかに見いでし/よごれたる/吸取紙をなつかしむかな(石川啄木)

・ハブられたイケてるやつがワンランク下の僕らと弁当食べる(うえたに)

若い世代の多くは「吸取紙」を知らないだろう。逆に二首目、もし啄木が読んでも理解できないのではないか。

言葉は常に時代の中から生まれ、そして流動している。十年ぶりの改訂で話題となった広辞苑の第七版は新規に約一万語を収録したという。「短歌」ではなく「現代短歌」と言うとき、「現代」が背負っているその意味は深い。「短歌」四月号の特集「現代ならではのテーマをどう詠うか」をこんなことを思いつつ読んだ。

介護、労働、ジェンダー、ポップカルチャー、時事、そして「短歌の重さとは」等について歌人たちがそれぞれの現代的な側面に切り込んでいる。

栗木京子は「普遍性から浮上するもの」として、現代は介護や老いの歌が多いが、実はそれらはずっと昔からあり、現代に色濃く上がってきた背景には医療や介護の進歩によって飛躍的に寿命が延びた点があり、一方でただ命があれば幸せなのかという深刻な問いに突き当たっている苦悩を述べる。

また、新しいテーマとして人工知能(AI)を挙げ、平成30年度の角川「短歌年鑑」座談会「人工知能は短歌を詠むか」の「ロボットもことばを持たば苦しまむ虹の下ゆく鉄腕アトム(坂井修一)」に触れ、『短歌に特化しつつ、「言葉」や「心」という局面から関心を持ちつづけること』で次の時代へつながるテーマが生まれてくると結ぶ。AIは将来、答(ゴール)の決まっている課題はすべてこなせるようになるが、短歌は答が決まっていないので、ここが人間側の最後の砦になるだろう。やがてはアトムの如く自己の愚かしさに悩み続けるフレンドリーなAIが登場し、それを「心」と読む歌が大量に生まれ出ることだろう。

また、斉藤斎藤は「短歌の重さ」について、歌のテーマで一般に重いとされるのは「戦争貧困人災天災自分の病気に他人の死、つまり命に関わる歌だ」としながら、戦争の歌に軽さを感じることもあればコンビニでおにぎりを買う歌に胸を衝かれることもあり、「テーマも文体も重々しければ重い歌というわけでもないのは何故か」を「毛穴が開いているか否か」という表現で論考する。「毛穴が開いている」とはつまり感性が鋭敏になっている状態のことなのだろう。斉藤は、毛穴が閉じたか開いたかよく分からなくなったときに、その「疲れている」という認知に嘘をつかないでいたい…閉じているのに開いているふりをしてしまえば私の歌は軽いままだろう」と自己の作歌姿勢を厳しく戒めている。

・こころよく/我にはたらく仕事あれ/それを仕遂げて死なむと思ふ

ふたたび啄木を引く。今も昔もこうした思いの本質は何ら変わらない。ずっしりと変わらぬ短歌の基盤は常に意識しつつ、現代という眼前の変動を見つめてゆきたい。

「心の花」六月号時評

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外から見る短歌

2018-06-29 01:00:05 | 時評

 「美術手帖」三月号の特集は「言葉の力/美術、詩、短歌、演劇、音楽、ラップ ジャンルを横断する言語表現の現在地」。主に短歌に関する頁をめくってみた。巻頭は穂村弘、柴田聡子(ミュージシャン)、保坂健二朗(キュレーター)による座談会で、最初のテーマは「震災」。

・運命使命救命露命懸命寿命宿命よ 生命(いのち)見ゆ  (横山ひろこ)

穂村は新聞歌壇の選者の経験として、普段、短歌の世界にはプロとアマチュアのピラミッドが漠然とあるのだが「非常時には圧倒的な現場性や衝迫感を持った短歌が毎日届いて、短歌的なレトリックを使うことが不謹慎に思える、奇妙な逆転現象が起きる」としてこの歌を紹介する。短歌は大衆の力を持つ文芸だからこそこうしたことがままあるのだ。

 また、誌上ワークショップでは斉藤斎藤が三名の美大生をレクチャーしている。驚いたのは「短歌=5・7・5・7・7というルールが有名ですが、じつは、8・8・8・8・8の枠内に収まれば、歌としてのリズムや質感は保たれます」と述べていて、こんなことをいきなりビギナーに言って大丈夫?と思ったが、続けて「定型を意識しすぎると窮屈になってしまうので…」とあり、指折って文字数合わせに陥ってしまう表現の退化の危惧を思えば、定型意識はあとからでも充分間に合うなとも思った。穂村も斉藤も自分がどうして美術手帖に呼ばれたかをしっかり理解していて、短歌を知らない人に彼らなりのスタイルでいかにその世界をわかってもらうかという思いがにじみ出ていた。

 他にも詩人の谷川俊太郎や小説家の川上未映子などが短歌誌にはありえない奇抜なレイアウトで紹介されてゆくのだが、私は「韻律の信仰/共同体をめぐる日本語ラップの試み」としてGADOROというラッパーを取材したページ(文/荏開津広)が興味深かった。

詳細は省くが、ラップのリズムに乗りにくい日本語の壁と格闘してゆくなか「…そして、中国の漢文が韻を踏んでいることを思い出す。漢文にならって音読みを用い、倒置法や体言止めを試してみた」「韻の構築、つい納得してしまう韻と韻の組み合わせの生み出す力」等に、ラッパーって歌人とまったく同じところに腐心しているのかと驚かされた。「あの世に金は一銭も持っては行けないから/せめて俺の言葉だけは地球上に残す」。やや直接的ではあるがどこか短歌世界に繋がる感じだ。

そういえば山田航も『桜前線開架宣言』で今の口語短歌について、「日本語ラップはダサい」が乗り越えられたように、「口語短歌は単調」という思い込みも遠からず乗り越えられてゆくだろうと、その類似性を熱く語っている。

短歌のど真ん中ばかりにいては見えないものがある。江戸時代、お稽古事のお師匠さんは師匠同士で立場を交代し、互いの芸を学び合っていたという。ときには外から自由な目で短歌を眺めてみたい。岡井隆が自由詩の世界を語り、小高賢が外部からの批評を求めていたのもこうした思いからであろう。

「心の花」五月号時評

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五十音のアンソロジー

2018-06-02 11:48:35 | 時評

第二十九回歌壇賞受賞作、川野芽生「Lilith」を読む。作者は平成三年生まれで本郷短歌会の出身だ。

・なにゆゑに逃げざりしかと問われゐつ共犯を追い詰むる口調に
三十首全体から職場でのセクハラにまつわる静かで強い悲しみを思った。ただ、歌意がわかるこうした歌は少なく、どこかに聖書や古典の世界をうかがわせるような抽象的で難解な歌が多い。
・汝が命名(なづけ)なべて過誤(あやまり)にてアダム、われらはいまも喩もて語らふ
・わがウェルギリウスわれなり薔薇(さうび)とふ九重の地獄(Inferno)ひらけば
そして終盤には物語を締めくくるようなこんな歌が置かれる。
・たたかひはうつくしきものの手にわたり地上に生くるほかなきわれは

比較的わかる歌を適所に配置しつつ、謎めいた歌を散りばめてぎりぎりで想像をつなぎ止めさせる表現力を感じた。三枝昂之は選考で「日常を離れた様式性を感じさせる表現の魅力」と述べる。印象深い歌も多く、一首一首が並々ならぬ力で立ち上がっている。
連作におけるストーリー性という要素はその強弱が完成度に常に微妙な作用をもたらすものだが、それがあまり強いと詩としての広がりや厚みが犠牲になってしまう。本作品はストーリーに寄りかからず、全歌から思いを分泌させた作り込みが鑑賞の深みに結実したように思う。

書肆侃侃房から「短歌タイムカプセル」というアンソロジーが登場した。編著は東直子、佐藤弓生、千葉聡で百十五人の各二十首選。若手から年輩まで幅広く収録されている。誰が入っていて誰が入っていないとかの些細なことは言うまい。誰がどう作ってもアンソロジーとは常にそういうものだ。

一番の特徴は五十音順という構成だ。だから当たり前なのだけれど岡井隆の前に大森静佳がいたり、寺山修司のあとに堂園昌彦が出てきたりする。従来、アンソロジーの多くは世代別に構成され、私たちはそれに慣れ親しんでいる。雑誌、年鑑や評論でも年代というカテゴリーでの構成や論が基本だ。世代で分ける切り口はわかりやすいし、そのメリットや意義も大きい。世代ごとにその時代を明確に背負った歌も確かに存在する。

しかしながら「一人十色」の進む現代では、もはやこの分類だけでは把握しきれないのも事実だ。若手で文語旧かなを自在に使い、抽象的で難解な歌を紡ぐ若者もいれば、高齢なのにまるで青年のような瑞々しい世界を拓く歌人もいる。そもそも年齢で括っただけでこの短詩型を深く語れるはずもない。

そうした側面から本書を読むと、キャリア派も若手も有名も無名も、年齢の壁のないごちゃごちゃのカオス感がとても愉しい。また、すでに評価の定まった名歌はしっかり紹介しつつ、従来よく知られてないような歌人や歌をできる限り入れ込んだという強いこだわりもうかがえる。「見落とされてしまった名歌」を編者たちが協力して懸命に発掘し、評価の場に再び置き直す…これは良き姿勢だと思う。私自身、初めて出会った歌にこれまで知らなかったその歌人の側面を見た思いとなった。「心の花」2018/4月号より)

「たけじゅん」

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何も足さない言葉

2018-05-11 17:07:13 | 時評

昨年十二月、京都で開催された現代歌人集会秋季大会、大辻隆弘の「佐藤佐太郎について」の基調講演が興味深かった。

大辻は「佐太郎の歌は音楽で言えばビートルズ」として、長年にわたり常に高い人気を保ち、初心者でも安心して読めて勉強になると、その世界を評価する。
そして「作歌の際、もう充分な内容なのにあと何音か足さねばならないとき、一番ダメなのは不用意な説明や想像を入れてしまうことで、そんなとき必要なのは、何も言わないクッション材のような意味の無い、でも調べのいい言葉だ」と述べ、佐太郎はそんな「何も足さない言葉」を数多く知っているとして、『佐藤佐太郎全歌集各句索引』(現代短歌社)から次のような言葉とその頻度を紹介した。

あらかじめ/13首、おしなべて/10首、おほよそに/23首、あるときは/33首、さながらに/20首、さまざまに/16首、たちまちに/32首、ひとしきり/21首。

たとえば「さながらに」は「…のよう、そのまま、ひたすら」の意だから大して強い意味はなく、つまり何も足さない言葉である。

・さながらに霜あれて軽き庭のつち寒の日々晴れて乾きに乾く
                                                               『冬木』
・風は夜を待たずといえばさながらに庭を覆いて雪やみにけり
                                                               『開冬』
全ては紹介しきれないが、他も同様だ。
・あるときは幼き者を手にいだき苗のごとしと謂ひてかなしむ
                                                               『形影』
・高原のうへの千草はおしなべてたけの短かさ風に吹かるる
                                                               『地表』
・ひとしきり乳色の窓かがやきてかたはらに愚かなる猫が居るのみ                     『帰潮』

いずれもなるほど「何も足さない言葉」であり、それ故に極めて柔らかくマイルドに一首全体を機能させているのがわかる。
併せて「言葉をのろく使う」ことも大事だとして、他に「をりをりに」「おのずから」等の例歌も示し、「これを真似するだけであなたも佐太郎になれる!」と言い切って会場の笑いを誘った。

概して現代短歌は機知に走りがちな傾向にある。それは決して悪い面と言い切れるわけではないが、どこかで読み手の直接的な反応を促すあまり、どうしても「言おう」としてしまう。つまり「何かを足す言葉」となり、意味性のより強まる方へと流れてはいないか?。だからこそ、そうした流れへの反動として、現代短歌は佐太郎のこうした歌がいつもどこかで気になって仕方がないのではないか。

いつだったか、「心の花」全国大会のとき、佐佐木幸綱が「どうしても言いたい、言いたいよなぁ…でもこれを取る勇気を、どうか持って欲しい」と話したときの、会場から湧いたため息とも呻吟ともつかぬ数多の声を私は忘れない。

「心の花」2018/3月号より

 

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