たけじゅん短歌

― 武富純一の短歌、書評、評論、エッセイ.etc ―

水口奈津子『水のかたち』―さまざまな水を見つめる柔らかい眼―

2024-12-06 10:43:04 | 書評
・春の水は動いておりぬ浅瀬ほど水のかたちはくっきりとして

タイトルの元となった一首。「水のかたち」とは、考えてみればなかなかに意味深長な言葉だ。普段から水というものをよく見ているのだろうと思い、そうした歌を探ってみた。

・湧き水のそこのみ白く盛りあがり女子学生のおしゃべりつづく
・IHコンロにお湯は煮えたぎる青き炎を見せぬ明け暮れ
・ブランコの下はいつでも水たまりその中の空とどかない雲
・シンメトリーわずかに崩し噴水の立ち上がる昼コロッケの香り
・新緑をざんざん濡らす雨粒が青いバケツの中にも溜まる
・水滴はつぎつぎ生まれ思わざる速さに形に落ちてゆくなり

まずは具体的な形としての水を挙げてみた。一首め、止めどなき女子学生のおしゃべりと湧き上がり続ける水の重なり。二首目、炎が無いのにお湯が沸く不思議だろうか、IHになってガスのあの炎を懐かしんでいるようにも思える。三首目、水たまりの映す空の中の雲への思い。四首目、コロッケの匂いに職場の昼休みと想像した。五首目、自然の緑と人工物のリアルな対比。六首目は写実が活きている。

・求められぬことばさがして応えこし歳月みずの淡さをもてり
・身ごもりて不透明なるこの身体 水こぼさぬようそろりと歩く
・水を飲む玄米を噛む細胞があたらしくなる生まれ変われる
・百年の眠りから覚めせせらぎに足浸すように検査台降りる
・わたくしの静まりそめし水の面に白檀の香の立つるさざなみ

抽象的な、喩としての「水」の歌たち。一首目、隠喩としての水の「淡さ」。二首目、妊娠した身体は動きも慎重になるのだろう。三首目、病を得ての健康への強い希求を感じた。四首目、辛い検査を終えた感覚をこううたう。四首目、落ち着いた心にふと立つさざなみの香。

他にも雨、お湯、霧、池、舟等、様々な「水」が多く登場するのだが、とりわけ「水」を喚起させるものを挙げてみた。跋文で谷岡亜紀もここに触れ、「『水のかたち』とはすなわち水口奈津子の、世界に向けた、ひそやかだが確かな存在証明であり、そして自特の表白である」と述べている。

仏教では「水はどんな形の器にも納まる」として、心のあり方の柔軟さを水に託している。水口もまた世界のあらゆる対象に向け、実に柔らかな心で接している。

・告知後に処方されたる睡眠薬眠れないのか一週間は
・不調すべて再発につながる恐怖打ち消して書く一日の記録
・五年後に会える確率十二パーセントならばもう一杯のコーヒーを

かつて大きな病を経たようだ。本書はこうした過酷な状況から這い上がった再出発のエナジーかもしれない。

わが子を見つめる優しい歌にも注目した。

・さみしいと言う幼子よさみしいという感情をいつ覚えしか
・はじめての授業参観 母の日に描いてくれた顔をして行く
・4Bを削る手つきのあやうくて全力はときに折れることある

2022年、本書に収められた「セーカンドフラッシュ」で「心の花賞」を受賞している。繊細、しなやか、優しさ…そしてどこかにしっかりとした芯の強さを保ち続けている人である。

・「わかりました」今この川をなめらかに流す術なり解らなくても
・昨夜の夢の少女に借りた耳飾り秋の肌えにひんやり揺るる
・オカリナの中に眠っているような穴から光が差し込むような

『水のかたち』
青磁社
2023年11月4日発行
2500円(+税)

短歌往来/2023年3月号「評論月評」第六回「短歌のオリジナリティ」

2023-07-03 15:50:42 | 評論
川本千栄「キマイラ文語」(現代短歌社)を読む。キマイラとは獅子と山羊と蛇を合体させたギリシャ神話の怪物。サブタイトルは「もうやめませんか?「文語/口語」の線引き」。

短歌界でずっと論じられてきた口語・文語という対立概念への疑問を「現代短歌で用いられている文語は古語と現代語のミックス語であり、キマイラ的な言語だ。文語も口語も基本は現代語で、対立概念ではない」として、明治期の短歌革新運動以前まで遡って歴史的観点からそれらを紐解いてゆき、「短歌の歴史は即ち口語化の歴史でもある。短歌の口語化はその成り立ちから、宿命だったのだ」と述べる。

さらには小池光、島田修三、河野裕子等の歌を文語と口語の観点から鋭く分析していく。他にも、ら抜き言葉についての「言語は進化する。それは「乱れ」などの劣化ではなく、単なる変化だ。(略)生きて使われる言語は常に流動的なのである」等の語り口が、実に歯切れ良く届いてくる。

興味深かったのは、口語の「時」の助動詞「た」への考察だ。口語の過去の助動詞はこのひとつしかない点が、文語の豊富な助動詞と比べて単調になりがちだと言われているが、川本は「た」は「完了」以外にも多くの用法があると説く。

「もう、お昼ごはんは食べた」(完了)
「水に映った景色」(存続)
「あっ、ここにあった」(発見)
「そう言えば、明日は休日だった」(想起)
「もっと考えるべきだった」(事実)
「ちょっと待った!」(命令)

併せて例歌を挙げつつ、「た」の細やかで多彩な仕事ぶりを説き、「過去の助動詞」と呼ぶだけでは正確ではないと述べる。こうした「文語/口語」の新しい切り口からの論考は、現代短歌の次の時代への布石的な一冊となることだろう。

「短歌」二月号の特集は「唯一無二の歌―短歌のオリジナリティ」。
冒頭で栗木京子は、歌舞伎の中村勘三郎が教育者の無着成恭の言葉を借りて「型があるから型破り。型がなければ、それは形無し。」と語ったとして、伝統を継承しつつ独創性を加えるのは短歌も同様であると述べる。

また、平山公一は「黒ひとつ裏返されて たちまちに寝返る寝返る白き勢力(春日いずみ)」を挙げ、オセロで「たちまち寝返る」のは人の世界の喩かもしれない、として「誰もが意識しなかったことや新しい視点に気づくことが肝要」と書く。

「オリジナリティ」を検索すると「個人の制作物をそのほかの類似品から区別する真性性を重視し、芸術家の制作を自律的で根源的な意味性の発生源、すなわち価値の源泉であるとする考え方。(現代美術用語事典)」というのが最初に出てきた。「独創性」と言う方が分かりやすいかもしれない。

かつて私は頻繁に短歌コンクールに応募していたが、上位入賞作には職業詠が多いといつも感じていた。農業や牧畜等の従事者、教育者等の歌がよく上位に並んでいた印象がある。各人の専門の仕事世界はいずれも独特で奥が深く、その特性や意外性に門外漢はただ感嘆するしかない。作り手の個性と読み手の未知の世界への驚きが出会い、読み手が「これは私には絶対に真似できないな」と感じるとき、オリジナリティは燦然と輝き始める。

 ガイコツと抱き合わないとスイッチに手が届かない理科室倉庫
(二〇〇九年NHK全国短歌大会大賞/宮城 相澤由紀子)
理科の先生だろう。作者にはこれが日常なのかもしれないが、なんともユーモラスで個性的である。「何を」「どう」歌うかで私たちは日頃うんうんうならされているわけだが、その両方でオリジナリティが発揮されている。

 鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい(木下龍也)

一読でコンビニのおにぎりだと分かるが、それをこう言いますか…と感心させられる。

 カードキー忘れて水を買いに出て僕は世界に閉じ込められる(同)

よくあるホテルのオートロックの失敗なのだが、このように言えば独創的な詩となる。もし「世界」が「廊下」や「ホテル」であっても通じるが、「世界」となったとき、正に世界が立ち上がった。いずれも読み終えたときの驚き混じりの叙情で成功している。

 段ボールが鳴いてゐるなりゆふぐれを足止むべからず覗くべからず(花 美月)
 三丁目に叩き損ねたわれの血が二丁目路地へさまよひゆけり
 地下鉄の混雑にゐてわき腹をくすぐられをり誰かの電波に

捨て猫を見つけた、蚊に刺された、電話が入った、を嗚呼…こう言いますか。「何を」のところは誰にでもあるようなことなのに「どう」の部分の確かなオリジナリティに読み手は引きずり込まれてしまう。もちろんすべての独創性的な歌がそうというわけではないが、オリジナリティは「どう」の部分でこそ発揮される。

 人がみな
 同じ方角に向いて行く。
 それを横より見てゐる心。(石川啄木)

皆と同じ方へは頑なに行かない。啄木はきっとヘンコだった。ヘンコとは大阪弁で偏屈者、頑固のことだ。極端に奇をてらったり、あざといようなものは決してお薦めしないが、啄木のこの思いはオリジナリティの世界へ確かに繋がっている。
「短歌往来」2023年3月号より

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短歌往来/2023年2月号「評論月評」第五回「短歌ブームに思う」

2023-06-15 22:18:24 | 評論
「短歌研究」二〇二二年八月号の特集は「短歌ブーム」。同十二月号の年鑑では天野慶、黒瀬珂瀾、笹公人、田村元等が、また「歌壇」十二月号では田中綾、川本千栄、本誌九月号で勝又浩、同一月号で内野光子が触れ「角川短歌年鑑」でも東郷雄二、大森静佳が述べている。二〇二二年の注目される現象となった。

ブームには必ず仕掛け人がいる。始めは新興出版社の動きだろう。書肆侃侃房、左右社、ナナロク社等のプロデュースによる若い歌人たちの歌集シリーズやアンソロジーが、判型や価格など従来にないスタイルで打ち出された。
また、テレビ番組「情熱大陸」に登場した歌人、木下龍也の異色な活動なども短歌の大きなアピールとなった。書店に歌集コーナーができたり雑誌に載ったり、「短歌」という言葉がこれまで以上に世間の目に触れる機会が増えた。

それだけでは一部の人々への関心で止まったかもしれないが、こうした情報が並行してSNSの世界とダイレクトに繋がっていった点が大きい。短歌であれ何であれ、今の若い世代は興味を持ったジャンルへの最初の入口は書籍でもグーグル、ヤフーでもなく、まずはとにかくツイッターだ。「#短歌」「#tanka」で検索すれば短歌関連の情報がたちまちスマホにズラリと並ぶ。そこから関連サイトへ飛び、グループやイベントを知り、相互フォローが増えていき、書籍に興味が向けばアマゾンで注文となる。

短歌はSNS映えする詩型である。わずか三十一文字で発信される歌のほとんどは口語だし、優劣はともかく、よほど小難しい歌で無い限り、ごく短時間で歌意を理解して鑑賞できる。あれこれと時間に追われるせわしい現代人の行動様式にも合っている。やがては作歌したい人も現れるだろうし、そこから投稿、さらに専門誌へとのめり込む人も出て来よう。かつてのように結社の入会へとすんなり進まないのが悩ましいところではあるが。

しかし、ただ波に乗ってばかりではいけない。ブームはいつか去る。長年売れなかった歌手がようやく一曲ヒットしたにもかかわらず、後が続かず姿を消したケースは多い。異常な人気続きに大増産をかけたものの、ブームの急降下で大量の在庫の山で大赤字となった「たまごっち」の例もある。

短歌に興味を持って入ってきた人たちをどう定着させ、次の峯へ誘えるか…出版社、結社、短歌団体、歌人たちが次の一手をかけ続けていかないと、せっかく掬い上げた人たちが指の間からぼろぼろと零れ落ちてしまう。短歌という紙風船を下から常に仰ぎ続ける努力と工夫が求められる。

キュレーターという職業がある。美術館などで、展示企画全般の他、作品やアーティストの情報を来館者に伝える専門職だ。こうした水先案内人的な役割の人が短歌の世界にも必要とされるのではないか。短歌の歴史、歌人や結社、世代ごとの歌等の全般を俯瞰的に横断し、偏りの無い幅広い見識でもって、短歌を知らない人々に易しく伝える、いわば「短歌キュレーター」だ。

少々穿った見方をすれば、短歌は今まで千四百年間ずっと、密やかで地道な小さなブームとして連綿と続いている文芸である。大手の新聞には歌壇欄があり、毎週、たくさんの歌が届き、歌人によって選がされ掲載される。新聞にこんな欄があるのは日本だけだ。多くの大小さまざまな短歌コンクールも催されている。目立つ動きで華やぐ人たちや知識人だけのものではなく、数多の大衆の文芸としての短歌という側面を私は大切にしたい。

「短歌往来」九月号の特集は「創刊四百号記念」として、歴代の佐美雄賞、短歌賞、出版賞の四十三人の歌人の十首連作と短いエッセイだった。エッセイはおそらく「昨今やこれからの短歌について思うことを自由に書いてください」というような依頼だったと推測される。こうしたところにこそ歌人の率直な思いが顔を出すのでは…と興味深く読んだ。気になった言を挙げる。

「今日の短歌で目立っているのは言葉の面白さを先立てつつ傷つきやすい時代の空気に反応している若い歌で、そこに同時代を生きている痛痛しい感性が呼吸しているのをみる。そこでは助辞がもつ微妙なニュアンスよりも、言葉の空白に広がる想像力が期待される。(略)それが今日の多世代間の表現や文体の断層をなしているように思われる。(馬場あき子)」
「短歌の世界が著しく多様化しているように思います。その背景にはネットの普及や出版状況の変化等の要因もあることでしょう。(田中拓也)」
「(略)Twitterや投稿サイト、ネットプリント、同人誌といった発表媒体の多様化は、自ずと短歌のありようも変えていくだろう。(松村正直)」

世代間の分断、多様性、インターネットの影響力…どの歌人たちも現況の混沌に途惑いつつも、同時にどこか冷静で温かい眼差しも伝わってくる。馬場の感じている「今日の短歌」は先述の「SNS映えする歌」とどこかで共鳴しているようにも思える。

プラトンは、自分の弟子について。「最近の若者は、なんだ。目上の者を尊敬せず、親に反抗。法律は無視。妄想にふけって、街であばれる。道徳心のかけらもない。このままだと、どうなる」(「アシモフの雑学コレクション(星新一訳)」)

世代間の分断は本質的に今も昔も変わらない。長い目で見ればプラトンにもこんな若い頃がきっとあったに違いない。また、多様性の側面から考えれば、若い老人も年老いた若者もいるし、世代論はあまり意味が無いようにも思える。

「短歌往来」2023年2月号より

短歌往来/2023年1月号「評論月評」第四回「多様性と分断」

2023-05-28 13:04:48 | 評論
「角川短歌」二〇一六年十月号の歌壇時評で佐佐木定綱は、勤めている書店に於ける文芸雑誌のジャンルの細分化とその混沌ぶりについて述べる。

ざっと挙げられた雑誌は「文藝春秋」「オール讀物」に始まり「群像」「新潮」「すばる」「小説すばる」「ミステリマガジン」「SFマガジン」「宝石 ザ ミステリー」「怪」「MONKEY」等、ざっと二十五誌余り。ジャンル別には純文学から若者向け、エンタメ、ミステリ、ホラー、海外小説と実に幅広く、「文芸」だけでこんなにも多くの雑誌が混在し、現代の多様化を象徴している。

佐佐木は短歌にもこうした多岐に渡るジャンルの歌人がいるのだが、しかしながらそれらが「ひとつの総合誌でまとめて読める」点をあげ、これは「小説雑誌ではありえないこと」として、例えば「作風の全く違う永井祐と吉川宏志が、同じ短歌雑誌という土俵上で意見を交わしているのは他の分野ではあまり見られない」と短歌界の特異性を挙げ、世代間の断絶が叫ばれるなか、若手やベテランの歌人たちが誌上に混在するのは良いことだと述べている。

なぜ異ジャンルの歌たちは分離独立してゆかないのか?。答えは明白だ。各ジャンル同士の規模がどれもとても小さく、広い市場を形成するだけの力を持てないからだ。建物に喩えればビルのワンフロアをパーテーションで区切った一つの会社であり、同じ長屋に住む者同士という感じだ。

だから少々意見が違っても互いに離れずに言い合うことができる。小さいが故に、いつも相手の様子が見える同じ世界にいることで、なんとかまとまっていようというわけだ。力が無い故に互いに集まって一つの場に住み続けるしかないという冷静な見方もできるだろう。

一方、こうしたジャンルの細分化は見方を変えれば「同世代同士の間」でも起きている。東郷雄二は「橄欖追放」サイトの二〇〇七年五月の「現代短歌のゆくえまたは、『新響十人』」で興味深いエピソードを挙げている。

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神戸女学院大学教授にしてフランス現代思想の研究家である内田樹は、私が愛読する書き手だが、文学部で卒業論文を書く最近の学生の傾向について、次のように述べている。彼らは特定の作家やジャンルのことはよく知っているが、自分の卒論のテーマ以外のものは読んでいない。だから寄り集まっても文学の話で座が盛り上がるということがないという。共通の話題がないからである。この状況は音楽でも似ていて、
「ねえ、音楽、何聴いてるの?」
「私? マリリン・マンソン。あなたは?」
「…スピッツ」と3秒で会話は終了してしまう。そりゃ、そうでしょう。マリリン・マンソンとスピッツとでは、あまりにかけ離れすぎている。共通分母がないのである。(略)この文化状況は短歌シーンにおいては端的に「歌論の不在」として表面化する。みんなが自分の好みの短歌を作り、歌人はそれぞれ離れた島として海中に点在するかのようだ。島と島を結ぶ橋は限りなく細い。現在、若手の歌人たちはみなそれぞれの性向と嗜好に基づいて、「自分の世界」を築いているように見える。しかしそのようにして築かれた世界どうしが、ぶつかり合ったり相互に干渉しあう場がなければ、世界は矮小化し自己模倣に陥ることになるだろう。
===

相互の交流が極めて少ない小さな「自分の世界」ばかりがやたらと点在することに強い危惧を抱いている。細分化の結果として「分断」は当然起こる。若い世代は現在、より進化したSNSやネットプリント、文フリ等で緩いコミュニティを形成し、同世代間の会話は過去より進んでいるように思うが、他の世代、特に上の世代との交流はやはり薄くなる一方だろう。細分化されたそれぞれの世界は、狭いどころか逆に「かなり深くかつ充足している」ため、敢えてそこから動かずとも心的な満足感は得られ、無理してよそへ出向く必然性もない。勢い、大きな集団はますます形成されないままに小集団同士の交流も消えてゆく。

基本的に、世の中の全ての物は時の流れとともに際限なく細分化の道を辿る。その昔、文芸誌はただ一冊に小説、自由詩、短歌、俳句、川柳、戯曲等、あらゆる「文芸」が載っていた。吉野家は牛丼の一品から今の多彩なメニューに細分化した。医学も長い歴史のなかで、より細かな専門分野へと、狭く深く掘り進められてきた。釣りだと「大阪湾の釣り」サイトよりも「垂水漁港の防波堤の東側の内向きの釣り」と、よりピンポイントでマニアックな世界の方が有用となる。

とりとめもない妄想がある。こうした細分化の果てとして、百年、数百年かの遠い将来、「短歌」から「タンカ」が分派し、そこからさらに「Tanka」が産まれるのではないか。

「短歌」とは現在の文語口語ミックスの主流的なイメージ、「タンカ」はベテラン勢からよく「わからない歌」と批判されている若者世代の歌世界、そして「Tanka」は、そこからさらに進んだ、まだ誰にも分からない新たなテイストを含んだジャンルだ。こうして短歌が三つのジャンルに分派、独立し、書店では「短歌往来」「短歌研究」の横に「タンカ往来」や「Tanka研究」が並ぶ。実に馬鹿げた想像だし、思う度に苦笑してしまうのではあるが…。

新しい船には新しい水夫が乗り込むのがいい。そして出て行く海は新しい海であってほしい。しかし、どこかでしっかり古い海と繋がっていてほしいものだ。

「短歌往来」2023年1月号より
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短歌往来/2022年12月号「評論月評」第三回「2022現代短歌評論賞」

2023-05-24 22:56:52 | 評論
「短歌研究」十月号、「2022現代短歌評論賞」を読む。受賞は桑原憂太朗「口語短歌による表現技法の進展~三つの様式化」、髙良真実「はじめに言葉ありき。よろずのもの、これに拠りて成る│短歌史における俗語革命の影」の二人。

今回の課題は「口語短歌の歴史的考察」「ジェンダーと短歌」「疫の時代の短歌」からの選択だったが、次席を含めてすべて口語の論考であった。他の候補作も口語に関するものがほとんどで、これだけでも口語への変わらぬ関心度を感じてしまう。

桑原はまず、現代口語短歌は「口語をいかにして定型になじませるか」の試行の連続であったと捉え、口語を旧来の韻詩へ「翻訳する意義」への疑問を挙げ、口語ならではの技法として「動詞の終止形」「終助詞」「モダリティ」を取り上げる。八十年代から現在の口語短歌の変遷を論考し「韻詩ならではの韻律や調べに目を瞑った」姿勢から「ざっくりとした定型意識」、そして「口語をなんとかして韻詩へ変換しよう」と現代短歌の新しい道への進化を述べ、過去完了助動詞の「た」や「る」の終止形についても考察する。
そして「終助詞の活用」として、加藤治郎の「マガジンをまるめて歩くいい日だぜ ときおりぽんと股で鳴らして」「たぶん口をとがらせてるね だまったきりひとさし指をまわしてね、ふん」の「ぜ」や「ね」等へ着目し、これらを「主体の性別や性格のキャラクターづけ」や「主体との関係性」まで表されるとして「口語ならではの豊かな表現を可能にした」と述べる。

興味深かったのは「モダリティの活用」という考察だ。モダリティとは、他者への発話の際の文末処理であり「カレーが食べたい」を独り言にした場合の「カレーにするか」「カレーでも食べるか」の「か」や「でも」を「モダリティ」と呼ぶのだという。つまり「お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする」という斉藤斎藤の歌では「っけ」で「敬語を使うような間柄なのにひどくぞんざいに扱われている主体の立場がこのモダリティによって分かる」と言うのである。

発話の語尾を「モダリティ」なる聞き慣れない語で切り込んだのが個性的で斬新だ。「口語は文語と比べてここが弱い」ではなく「口語は文語と比べてこんなことができる」という立ち位置がいい。口語の持つ特性の一つひとつをさらに細かく捉え直してみようという試みでもあろう。

もうひとつの受賞作、髙良の評論は、いわゆる「言文一致体」としての口語は現実の「発話」そのものではない、として発話体の試みで一定の評価を得ている千種創一の「永遠に会話体には追いつけないけれど口語は神々の亀」の歌意を読み解き、「話し言葉的な口語」は「あくまで発話の再現にすぎず、発話そのものではない」として、永井祐、松村正直等の言を引き、そこに横たわる問題点をじわりと紐解いていく。

興味を惹かれたのは、与謝野晶子が与謝野鉄幹の歌に「これなら自分にも作れそう」と感じたというエピソードを挙げ、これは現代人の多くが俵万智の歌に抱いた思いと同様ではないかという発見だ。晶子が鉄幹の歌に感じたのはいわゆる親近感的な感覚だろう。それは今で言う口語の特性に似ており、現代人が「サラダ記念日」の俵の歌に感じたことと似ているということだ。

続いて、明治期の言文一致運動、齋藤茂吉の反口語の姿勢、さらには口語短歌が社会に受け入れられた時期とテレビで育った世代が社会的に活躍するようになった時期の同期性への言及と、論点を自在に絡めつつ広げてゆく。
結論へのプロセスがやや集約されてない感じがしたが、幅広い資料を配置しつつの力強い書き方が評価されたのだろう。

両者とも、口語の持つ側面がより深く追求されていて読み応えあるものだった。「文語と口語」は現代短歌がずっと課せられている話題だが、つまりは自己の思いを、自分が一番使いこなせる言葉で自由にうたいたいというのが原初の思いであろう。

私は俵万智の遥か後方から、同じく文語混じりの口語で出発したのだが、文語助動詞を「文語からの借り物」と思ったことは一度も無い。古くからある時制の使い分けの表現を、過去形が「た」しかない口語世界にすんなり持ってきて活用しているまでのことで、違和感は全くない。言葉であれ色鉛筆であれ十二色セットより二十四色セットの方が微妙な色をたくさん出せるに決まっているではないか。また、ことさらに口語と文語を対立軸と捉えるのもどうなのだろう。もう「短歌語」で良いのではないかとさえ思ってしまう。

しかし、最前線の口語ネイティブ世代にはこうした感覚こそがナンセンスなのだ。ミックス口語の世界に安住せず、正に自分が普段使う真の口語だけで、時制を含めたかつてない新たな表現世界を開拓できないかと日々、懸命に試行錯誤している。

 アヴォガドをざつくりと削ぐ(朝の第一報の前のことである)
 枯れ枝にはためく白い木蓮はずっと前からレジ袋だった
  千種創一「砂丘律」

文語助動詞を使わぬ純粋な口語だけで微妙な時制を表すにはどうすればいいかという執念の試みの成果だと私は感じる。
口語短歌は飛行機の歴史に喩えれば、まだライト兄弟が飛んだ直後ぐらいではあるまいか。当時、その一週間前のニューヨークタイムスは社説に「飛行機の研究など時間と金の浪費だ」と書いたという。長期的に眺めれば、口語短歌は表現の可能性へ向けてまだ飛び立ったばかりなのだ。

「短歌往来」2022年12月号より
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