たけじゅん短歌

― 武富純一の短歌、書評、評論、エッセイ.etc ―

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第13回クロストーク「文語短歌は生き残れるか/大辻隆弘・吉川宏志」レポート

2019-12-09 10:38:12 | 短歌

12月7日、第13回クロストーク「文語短歌は生き残れるか」in大阪・難波。大辻隆弘さんと吉川宏志さんのガチなテーマのガチトーク三時間…下記、かなりはしょってますけど、私の感じた点のみ、ざっくりまとめてみました。

冒頭、大辻さん、この大テーマにいきなり解答を述べました。「はい、私が生きているうちは残ります!」。もちろん冗談なのですけど、今やこれくらいの危機を感じる時代になっているのは確かな事実ですね。

大辻さんは、若い頃に惹かれた
・<あゆみ寄る余地>眼前にみえながら蒼白の馬そこに充ち来よ(岡井隆)
・咲く花はむしろ滅びを匂はしめわが背後に満ちきはまりぬ(大辻隆弘)
等の歌を挙げ、一首目の「充ち来よ」(カ変・命令)、二首目の「匂はしめ」(使役の助動詞)などの文語の濃密な表現に「文語への憧れとその言い回しが気持ちよかった」と述べました。
また、
・連結を終わりし貨車はつぎつぎに伝はりてゆく連結の音(佐藤佐太郎)
の二句めの「は」への違和感について、今その瞬間に立ち会っているような時制のとらえ方に触れ、文語のメリットとして「助詞、助動詞の豊かさ」を挙げ、こまやかなニュアンス、文語特有の省略、時間描出の豊かさ(定点の確定、意識のゆらぎの描出等)等を挙げ、「時間にヌメッと延び広がっている人間存在の手触りをありのままに描出」とレジュメに述べています。

口語短歌については、
・白壁にたばこの灰で字をかこうおもいつかないこすりつけよう(永井祐)
のフラグメント(断片化)した時間の捉え方や、
・フルーツのタルトをちゃんと予約した夜にみぞれがもう一度降る(土岐友浩)
に「ちゃんと」等の副詞で時制を表そうとしているのではないかと述べ、時間の回収という点は口語には難しいところがあるという穂村弘の言に触れました。

続いて吉川さんは「ひと口に文語といっても、いろんな文語がある」として、生来の文語歌の他に、今の若い世代の文語として、
・友だちの受けしパワハラ聞きながら上手にホッケの骨とれるかな(佐佐木定綱)
の「かな(詠嘆)」の、口語に混じったとても不思議な感じの文語や
・ハムからハムをめくり取るときひんやりと肉の離るる音ぞ聞ゆる(門脇篤史)
の係り結び等を挙げました。

また、
・閉ぢ込められてわが思うらく父親の蔵書とともに死ぬのはいやだ(花山多佳子)
の「思うらく(思っていることには)」に「現代短歌が生み出した文語という感じがする」とか、
・ぐちやぐちやに絡まったまま溶けゐつつあらむ 始発を待つ藻屑たち(小佐野彈)
の文語は、
・海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空母艦も火夫も(塚本邦雄)
の本歌取りではないかと、新しい感覚の文語の取り込みへの言及がありました。

大辻さんの語る「文語への陶酔感」について、吉川さんは「私にはそれはなくて、文語の違和感を取り込んでいる」と返し、文語と口語をミックスさせる実戦的な感覚を言えば、大辻さんは「陶酔したらあかんのか?」は第二芸術論の話へとつながってゆく…と論が一気に彼方へ飛んでゆきました。

さらに、定型の持つ「重力感」や「磁場」について、吉川さんは、
・あまのはら冷ゆらむときにおのずから石榴は割れてそのくれなゐよ(斉藤茂吉)
の定型の持つ重力感に触れ、大辻さんは「定型の磁場あればこそ機能した歌だ」と応じました。

さらに、文語的な口語、文語と口語の互換性や定型意識等へ話題は流れ、若い世代の「定型意識の薄れ」も話題になりました。また、大辻さんの「昔の人は細かに時間を切り分けて生きていた」「短歌における文語とは、主にアララギが生み出した「短歌的な文語」なのだ」等の言はなかなかに興味深いものでした。

最後に会場からの意見として島田幸典さんが「文語短歌、私が生きているうちは残ります!」と大辻さんに続く世代からの文語へのエールに会場が沸きました。

以上、他にも書き切れない話題がいっぱいで、私の勘違いや理解の浅さでうまく言えてない点も多し←文語(笑)、ですが、まとめきれません。間違い等あればご指摘ください。

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AIが短歌にもたらすもの

2019-11-16 13:19:08 | 評論

・甘やかで切ない風もあることを人工知能は知るのだろうか

         平成二十八年度NHK全国短歌大会大賞 おのめぐみ

・道ならぬ切なき恋もあることを人工知能は知るのだろうか
         第二十三回与謝野晶子短歌文学賞堺市長賞 古谷智子

・残酷で切ない気持ち持つことを人工知能は知ってるのだろうか
         第十九回若山牧水青春短歌大賞中学生の部佳作 井上京香

AIを詠んだ歌を調べていて出会った。類歌類想の話ではなく、現代人の心に共通するAIへの一般的な眼差しなのだと思いたい。いずれもここ数年内の入選作だ。「人の持つ切ない気持ちというものを人工知能よ、あなたはいずれわかるようになるだろうか」という素朴な問いかけのその裏には「どうせ無理だろうけど」の優位感と「ひょっとしてこの先には可能なのかな?」の思いが見え隠れする。

人には様々な心の動きがあるが、なかでも「切ない」は繊細かつ不確かに揺れる感情なので、その代表格として「切ない」が浮上したのかもしれない。詠んだ人はもちろん、選に関わった歌人たちにもまた同様な思いがあったに違いない。ポピュラーな見立ではあるがAIの本質をついた視点でもある。専門家たちが将来へのテーマとして挑んでいるのは正にここなのだ。

「弱いAI」「強いAI」という言い方を聞くようになった。前者は「自意識」を持たないAI、後者は「自意識」を持つAIだ。「自意識」は「自らの思考や気持ち、感情」と置き換えてもいいだろう。いまや囲碁や将棋の世界ではAIが大活躍し、その実力は人間の能力を遙かに凌駕し、この世界の最強はすべてAIになってしまった。しかし、これらはいずれも「弱いAI」である。解釈を広げればパソコン、スマートフォン、そしてインターネット、いずれも「弱いAI」だ。幸いなことに…というこの言い方そのものに既に不安を含んでしまっているが、自意識を持つ「強いAI」はまだこの世のどこにも存在しない。

短歌の千四百年の歴史の中で、人間ではないものが歌を創り出すなどということは想定外の局面であるから、そこに不安や疑問からくる心理的な抵抗があるのは自然だろう。飛行機、ブルドーザー、潜水艦…歴史上、人の力を凌ぐ機械は多々発明され、それらにはまるで抵抗感のなかった人間が、AIという機械の登場をどこかで容認し難いのは、相手が「力」ではなく「智」でもって我々の脳にダイレクトに迫って来るからだ。

「短歌研究」二〇一八年六月号の特集第二部「短歌システムの崩壊と再生」で、斉藤斎藤は坂井修一との対談のなかで「星野しずる」という短歌創作ソフトが作った歌を学生短歌の歌会に出してほとんど評が入らなかったことに触れ「ただ、今の最先端のレベルでいえば、評が入る歌は作れるんじゃないかと。しかし、いい歌とか巧い歌ではなくて、人間が背後にいるとしか思えない歌が、人工知能に作られてしまうのかどうか。やはり短歌は人間でしょという思い込みか信念かが、崩されるかどうかということに、怖いけれど、興味があるんです。」と述べる。

坂井はこれを受けて「ディープラーニングというのは、人間のくせみたいなものをシミュレーションして学んでいるだけなんです。認知科学的にいえば、そんな学習では、人間を理解したことにはならない。だけど、歌が作れる。そこが面白い所なんです。」と返し、今の「弱いAI」であってもいい歌(正確にはいい歌だと人間が感じてしまう歌)が登場してくる可能性を示唆している。

AIとはつまり「天城越え」を歌う十二歳の天才少女歌手なのだと思う。少女の抜群の歌唱力や表情、仕草は聴く人を魅了し感動を与える。だがしかし、少女はこの歌詞の意味は理解できていない。大人の男女の逃避行の旅、愛情からくる憎悪や性愛などを人生経験少ない十二歳の少女が分かるわけがない。だが私はその歌詞や歌いっぷりに感動し、素直に拍手をするだろう。少女自らは意味の分からぬ語を発しても、受け手には意味がしっかり理解されて伝わるのだ。この少女こそが我々の前にいる「AI」の本質なのだ。

AIと二物衝撃

坂井の「…だけど、歌が作れる」という言は、読む側の人間がそこに「図らずも」詩情をくみ取ってしまうということであり、決してAI自身の主張ではない。人が「いい歌」と感じる要因は、歌意はもちろんとしてその裏にある普遍性や愛唱性、調べなど実に様々な要素が絡むが、そのひとつに「異質な言葉同士がぶつかる効果」がある。

・ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕(やまこ)殺ししその日おもほゆ
・めん鶏ら砂あび居たれひっそりと剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり(斎藤茂吉)

ゴーギャンの自画像と山蚕を殺した記憶は本来なんの関連もない。めん鶏と剃刀研人もそもそも無縁なもの同士だ。しかし、私たちはこうした歌に触れるとなぜか驚き、戸惑い、心にさざ波が立ち、ときに強い感動を覚える。ふたつの言葉それぞれが背負っているイメージが脳のどこかで絶妙にせめぎ合う感覚こそが、詩というものの本質的な部分なのだろう。主に俳句界で「二物衝撃」と呼ばれているものだ。

・そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています(東 直子)

上の句と下の句の一見無関係なフレーズの繋がり具合に何かぼんやりした物語を想像させる。穂村弘との共著「しびれる短歌」で、東は「そうですかきれいでしたか」は松田聖子が結婚したときのかつての恋人だった郷ひろみのコメントだったと明かし、下の句は長い間できなかったが、何となく小鳥を売っている人のイメージに結びつき、遠くの元恋人を思いつつ目の前にいる小鳥をめでるという物語を想起したのだという。

茂吉も東も、歌人ならではの言葉の掛け合わせ力でもってこの力技をなし得たわけだが、そんな言葉のぶつかりを自動的にしてくれる「Phrase+」というスマートフォンアプリがある。二万八千余りの名詞や形容詞が内蔵されていて、それらを機械的に「二物衝撃」させてくれるのだ。中には意味を成さないのも混じるが、心に響いてきたフレーズをランダムに挙げてみる。

券売機観察日記、エレガントな児童公園、手綱がついた遊牧民、一塁側スマートフォン、おむすび型のガン保険、抗生物質入りの茶柱、アラビアン源氏物語、心が軽くなるイクラ、土木内科医、ふりかけの生き残り、ジグザグ型の言葉、サンドイッチ構造の芋けんぴ、間違いだらけの糸電話、牛乳を宅配するおはぎ…。

我々の通常の思考からはまず繋がることのない言葉たちが次々と強制的に繋げられてゆく。「二つの語」の組み合わせなのがわかりやすい。意味不明かつ奇妙な感覚が次々に迫ってくる。思わず吹き出してしまうのもある。前後に希望する言葉を付けることもできるので試しに「歌人」を「後入れ」で設定してみる。

黒酢仕立ての歌人、金太郎飴みたいな歌人、自給自足歌人、バネ入りの歌人、1シーズン使える歌人、レモン風味の歌人、バックアップ機能付きの歌人、ボタン1つで歌人、二度づけ歌人、出がらし歌人、両面を軽く焼いた歌人、富士山山頂でも使える歌人、ゾウが踏んでも壊れない歌人…。

これらが更新をタッチするたびに五十個ずつ延々と表示される。歌人に限らず文章を書く世界の人ならいつまでも遊べそうだ。本稿のために様々な語を入れ続けてみたのだが、おもしろい小説を一冊読み終えたような気分になった。コピーライトやネーミング、新商品の企画会議等の活用を想定したアプリだが、たとえば題詠の題を前後に付けさせたりすれば短歌作りの補助ツールとして充分に使えそうだ。

こうした強制的な二物衝撃を二つの語から定型に進化させたものが先述の、初句から結句までの言葉たちをランダムに組み合わせて一首に仕立ててくれる「星野しずる」だという見方もできる。

・ちぐはぐなデフォルメされた過去となる自分自身は死んでしまった
・ありふれた恋人たちを調べれば朝の秘密がかなしくて街
・水色の風のあいだに鉄塔はつめたい猫を見つめ続ける(星野しずる)

全体に意味が散ってしまってフラット感があるのは否めないが、歌会に出されたらAIの作だとは思わないだろう。若い世代の一部の歌にもこうした傾向があるように思えてならないのだが、ひょっとして彼らはもう既にAIと組んで活用しているのかもしれない。

他に、ウィキペディア日本語版の文章から「五七五七七」の定型部分を引っ張り出してくれる「偶然短歌」というプログラムも話題になっている。

・愛される親しみやすい雰囲気の若い女性が笑顔で天気
             ウィキペディア日本語版「お天気お姉さん」
・艦長が自分好みの制服を艦の資金で誂えていた
                    〃     「セーラー服」

AIが人間を遙かに凌ぐ能力のひとつは、膨大な数の中から目的のものをすばやく見つけ出す能力だ。(その意味では私が冒頭に上げた三首の「切ない歌」もこの能力無しには見つけ出して並べることは不可能だった。)
「偶然短歌」を読むと「短歌における定型」と「文章が偶然に定型になっている部分」は本来似て非なるものだという思いがぐずぐずと崩壊してしまいそうになる。さらにつきつめていけば、こうした作品を元にかつてない新たな定型論が生まれ出てくるかもしれない。

両者ともツイッター上で日々歌を生産し続けている。完成度を問わずにおけば、「Phrase+」「星野しずる」「偶然短歌」、いずれも言葉と言葉の思わぬ繋がりや重ね合わせが詩情的なものを生みだし、我々の脳に何らかの詩的な刺激を与えてくれている点では、人間が作るフレーズとの差はさほど感じない。

太古の昔、人の脳に詩情というものが生成された根源を思う。人の祖先は敵だらけの森のなかで、生き残るために必死で闘っていた。敵の攻撃を避けるためには「変化への予測」が必要だ。この予測は「気をつけろ!」の緊張として作用する。逆に「物音はただの風だった」と予測が外れると、緊張は緩和されそこに安堵の喜びが起きる。この安堵感が進化上のどこかで「楽しい」となり、やがて笑いへ、そして詩情へと変容したのではないか。
先の「Phrase+」にしても、普通「黒酢仕立ての」とくれば、次に予測される言葉は「サラダ」や「ドレッシング」等が自然だろう。ところがそこに「歌人」などという全く予測不能な語が繋がれば、ここで「緊張の緩和」が起き「おもしろい」が生まれる。この「おもしろい」が脳の根幹で詩情の生成に作用しているのだと思う。

相手が機械だからとか、思考ではなくただの膨大な組み合わせを作りだしているにすぎないとか、そもそも人間の脳と仕組みが違うとか、とうてい人の脳は越えられないとか、AIに対するそういう表層的な反応はもういい加減聞き飽きた気がする。

私はそんな話よりもこれらを短歌創作の新入りツールとして、おもしろおかしく接してみたい気がする。工夫しだいで電卓や電子辞書、ワードの文章校正機能のように、AIは歌作の新たな補助ツールになるはずだ。もちろん過度に依存してしまうのは問題だが、人が思いもしない言葉の繋がりを強制的に淡々と紡いでくれるこんな特殊な能力を歌作りの味方にしない手はない。

AIがもたらすもの

近い将来、AIは短歌に何をもたらすのだろう。AI研究の専門家たちは、考えを突き詰めていけばいくほどに「脳とは」「人生とは」「芸術とは」等の壮大な疑問に行き着くという。このあたりが見えないことにはAI研究は前へ進めないのだ。

我々はそこまで思い詰めなくても、AIの作った歌のどこがおもしろいか、そしておもしろくないかを考察してゆくなかで見えてくるものがあるだろう。そこから、従来の思考では及ばなかった歌作りの本質や新機軸が発見されるかもしれない。

二物衝撃の他にも、調べや構成、普遍性、文法等、AIには見えていて人がまだ気づいていない何かが必ずある。どういう表現を人は好むか、それはなぜか、どの語順が詩的と感じるのか、その理由は…嫌われる語順とは…等、新たな課題が次々に見つかってゆくだろう。その意味でAIは我々の歌づくりを次の地平へ引き上げてくれる力を秘めている。

また、短歌のビッグデータへの活用も考えられる。例えば、日本中のすべての車の屋根に水に反応するセンサーを付けIoTとしてデータを収集、分析すれば、非常に高い精度の天気図をリアルタイムに把握することができる。これと同スケールの仕組みを短歌で構築できないだろうか。短歌は老若男女を問わず、職業や歌われる世界等が実に幅広い大衆の文芸であるし、何より作品のサイズが小さくかつ大量にあるため、多角的に分析できれば様々な新しい側面が浮き出てくる。

例えば朝日歌壇は毎年八月になると戦争の歌が増えるとよく言われてきた(最近は一時期ほどでもないらしいが)、ビッグデータとして詳しく解析してゆけば、さらに詳細な部分が見えてくるはずだ。長期的な見地から特定の言葉の変遷を探ることもできる。例えば「携帯電話」がいつ頃から「携帯」となり、そして「ケータイ」となったか等はたちどころに分かるだろう。

また、歌に「白」が増えるとボールペンの売上げが落ちる…などの「風が吹けば桶屋が儲かる」的なとんでもない事象同士の複雑な法則性が見えてきたりもするだろう。こうした法則性を人が発見するのは不可能だ。短歌の組織とAI研究者の連携、著作権の問題、経費等の課題はあろうが、実現すればこれまで思いもつかなかった全く新たな短歌の活用の可能性が見えてくる。時代を如実に映し出す大衆文芸として、こうした面から短歌が注目されるかもしれない。

終わりに

斎藤茂吉は生涯に一万八千首近くの歌を創ったといわれるが、人口に膾炙した秀歌は何首あるだろう。歴代の多くの秀歌も、大胆に見方を変えて乱暴に言ってしまえば確率論でもあり、AIは人間の何百万倍も延々と歌作し続けるため、シンギュラリティを待つまでもなく「弱いAI」でもいずれびっくりするような秀歌が作られる(厳密には「見つけ出される」)可能性はある。高い評価を受けるAI作の歌の登場は意外と近い気がする。

その時、歌人はAIの作品を素直に「いい歌」と言うだろうか。私はそれを従来の秀歌同様に読んでみたい。作者が歌人であろうがビギナーであろうがAIであろうが全く気にかけずに鑑賞、評価してみたい。

ただ、分からないのはその歌の背後にあるはずの「我」はいったいどうなるのだろう。将来、強いAIが「我」を歌い出したとき、「我」という概念はどう位置づけられ、変容してゆくのだろうか。

AIの進化で私たちは言葉や詩情、脳というもの本質を新たな視点から考えられるようになってきた。それはまだほんの序章にすぎない。歌人にしか分からないことがあるなら、AIにしかわからないこともまた多くある。両者が互いに向き合うなかで見えて来る詩歌の新たな地平をともに見つめてゆきたい。

2019年度「短歌研究評論賞」候補作を加筆・修正

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梅原ひろみ『開けば入る』―ベトナムを軸に綾なされるしなやかな半生―

2019-10-28 17:56:39 | 書評

一読し、「これ、ドラマの原作にならないかな…」と思った。

著者は今から18年ほど前に短歌を始め、その数年後、海外に行けそうという理由で工具の貿易会社に入社、ベトナムのサイゴン(ホーチミン)の駐在員事務所に赴任する。

・バイクの海を泳ぐがごとし午後五時の車のなかに眼(まなこ)つむれば
・轢くなよと目で訴へてずいずいとレユアン通りの信号渡る
・面接の二十人目が戸をたたく、小さな組織を作りてゆかむ
・別嬪でしつかり者の妻多し工具あきなふ店を仕切るは
・社会人のあり方をタムに説きながら漂いてゐる我が十四年
・「信じる」といふ語を最近よく使ふ金勘定にもつとも似合ふ

赴任地ベトナムでの仕事を核に物語は進展していく。ベトナムの古来の歴史やベトナム戦争への思いの歌もある。短歌はモチーフによって自然詠や職業詠、介護詠、海外詠等と呼ばれるが、もう「ベトナム詠」と呼んでいいかもしれない。

そしてここに相聞が紡がれる。

・死んでもいい、かつて言いしか言われしか然したあれも死んではをらず
・二の腕に熱き湯をあて思い出づ逢ふために浴びるシャワーのあるを
・眼(まなこ)ふたつ映せる秋の鏡あり弱らなくては恋などできぬ
・淋しき日にだけ会ふのかと責められき淋しき日など我にはあらず
・金の無き君なれど我は頑として貸さぬよ貸せば崩るる砂地
・いつよりか夜の電話にオヤスミと言ふを覚えし君よおやすみ

まるでドラマのワンシーンになるような映像が浮かぶ。

・わたしここで何やつてんのと呟けば海雲(ハイヴァン)峠にたなびく霞
・始末書など何枚でも書くと思ひをり本気で生きてをらぬ証拠か
・欲しかったのかと聞くならずつと欲しかつた子供をほろほろつれて歩く

こんな境涯詠的な心象世界も垣間見られる。

・十人の事務所となりてささやかにわれも所帯を支ふるごとし

当初、五人だった事務所を大きくしてゆくそんな中、終章は「腹部に異物感があり、サイゴンのクリニックに行くと、直ちに医療先進国に出るようにとの指示があった…」の詞書で始まる。そして帰国、手術を経て帰任。着任期間は七年九ヶ月。その後、退職。

・消灯のわれにあること瀬戸内を渡るフェリーの大部屋以来
・三月の乾季の日差し遠くなり沁みゐるやうに思ふサイゴン
・椰子の葉と笠(ノン)をかたどる紙細工 ベトナムは壁に掛くるものとなりたり
・村の奥の廃屋を過ぎ峠越ゆ由良川に沿ふ祖母のふるさと
・学生の我の朝にはおばあちゃんのイチゴジャムありきつぶつぶとせり

べトナムを懐かしく思う日々。そして祖母や短歌仲間の死去が続く。
もちろんここで彼女の人生は終わらない。

・西洞院塩小路角にドアありて開けば入る求職のため

職安の扉だろうか、そこが「開けば入る」。タイトルの元となった一首である。「なぜ山に登るのか?」「そこに山があるからだ」みたいな感じだ。リクルートの社是「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」を思いだした。また、渡辺和子のベストセラー「置かれた場所で咲きなさい」も連想した。逆っぽい意味かもしれないが本質的には同じだと私には思える。

納められた歌たちがどこかでこのタイトルと繋がっている。仕事や恋の様々な困難、哀しみをしなやかに乗り越えてゆく半生…。そこには熱意とか根性、チャレンジとかの暑苦しさが無く、しなやかに軽やかに、時に微笑みながら黙々と乗り越えてゆくような個性的な生き方を感じる。かつて角川短歌賞の佳作となり、心の花賞受賞、2019年度の現代歌人集会賞最終候補の歌集ともなったのも分かる。先ほどから我が頭の中に「愛はかげろうのように」がBGMのごとく流れている。歌集を読んでこんな体験をしたのは初めてのことだ。

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『開けば入る』
ながらみ書房
2019年4月1日発行
2500円(税別)
2019-10-28

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鈴木陽美『スピーチ・バルーン』―適度な距離感、多彩な切り口―

2018-11-01 00:59:46 | 書評

・「いまどこに?」「天神裏の珈琲屋」きみと重ねるスピーチ・バルーン

本歌集のタイトルとなった歌だ。「スピーチ・バルーン」とは漫画の吹き出しのこと。私はすぐにスマートフォンのLINEの画面を思った。従来の携帯メールはタイトルや宛先、そして「こんにちは」で始まる何やら堅苦しいやりとりだったが、LINEはそうした煩わしさを軽々と越え、まるでマンガの吹き出しのような画面に相手がそばにいる感じで気楽な会話が弾む。

・鳥の切手花の切手を組み合わせ小さな個展の案内がくる
・とんがったマスク同士で行き合えば未来のヒトのような会釈す
・近づけばわがためだけに動きだす春のまひるのエスカレーター

作者と対象が正にLINEのごとき適度な近さで描かれている。読み手との距離感もまた同様で、いつもフレンドリーだがそこに暑苦しさがない。ベタベタではなく、離れてもなく、難解さもなく、かつ分かりすぎもない。作者もあとがきのなかで「三十一音が入るだけのスピーチ・バルーン。それが私にちょうど良い大きさだったかもしれません」と述べる。

また、心の花インターネット歌会の「読む会」では、選された歌の幅が広く、読み手のそれぞれがそれぞれの「鈴木陽美ワールド」を覗いている感じだった。つまりヒット率が高いのだ。どのようにも切り口を示せて「どこから読んでもいい」の許容度の高い歌集ではあるまいかと思う。
多彩な切り口のその一部を掘り下げてみよう。まず感じたのは対象を見つめる観察眼だ。
・ふつふつと煮つめる苺のジャムの香に春の力がみなぎっている
・「環境に優しい車」のステッカーつけた車が割り込んできた
・右舷から吹く風はらむ帆が立てりどこにも行かぬボトルシップに

一首目、甘ったるいジャムの香を春の力とした見立て。二首目は「どこが環境に優しいんだか…」の柔らかなアイロニー。三首目、「行けぬ」なら悲しい歌になるのだが、「行かぬ」でボトルシップへの優しいまなざしを感じた。

機知に富んだ歌も多い。

・マッチ擦る、ことなどなくて家中に火の匂いなき灯りをともす
・大粒のぶどう含めばたちまちに秋は私を味方につける
・測量士のはたらくそばを通るときわれはつかのま黒猫になる
・勝ち残るたびに孤独に近づくを椅子とりゲームのさなか気づかず
・熱の身を横たえながら一九時のE列5番の空席おもう

一首目、寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」の巧みな本歌取り。二首目は「私は秋を」となりそうなところのひねり具合。三首目、存在感を消し、こそこそと通る動作がよく出ている。四首目は想定外の切り口で、深き哲学のようなものを感じてしまった。五首目は席番号のリアルの裏にありありとドラマを感じさせる。

絵画への造詣もある。

・熱き風吹いているらむマティスの絵の開けっ放しの扉の向こう
・花柄のショールをまとう絵の女われにこっそりめくばせをせり
・鎮もれるルネ・マグリットの絵をかけてふしぎな夢をみたい月の夜

絵画を観ての歌は深い鑑賞力がないと上滑りになってしまうが、いずれもどんな絵なのかを強く想像させてくれる。

漢字や言葉への関心、興味も印象に残った。

・相性が悪かったのだ 糸偏は吉を選ばず冬を選んで
・目の奥が総毛立つなり蠢蠢(うごうご)と蠢(うごめ)く文字の列を見るとき
・突然の来客ありて主婦われは夜にうすすき朝にいすすく

一首目、結と終、糸偏さんが選んだ相手への思い。三首目、調べたらいずれも「慌てふためく」の意で巧みな言葉の使い方だと思う。
難解な漢字への興味も相当なものだ。

・たっぷりと雨の雫をはらみたる形とおもう「霽(はれる)」の文字は
・うすものを纏うがごとき夜空かな 昴(すばる)・畢(あめふり)・觜(とろき)・参(からすき)
他にも多々、興味を引く難しい漢字がうたわれている。

・AはB、BはAだとはぐらかす底意地悪き辞書にまた会う
辞書を「引く」ではなく「読む」人がいる。この人もきっと愛読書のように辞書を読んでいるのだろう。

さて、先に私は、どのようにも切り口を示せて「どこから読んでもいい」の許容度の高い歌集ではあるまいか…と述べた。だがこれは、逆に言えば一冊全体の構成力が弱いということでもある。

展開、見せ場、箸休め、クライマックス、エンディング…あるいは、順に読むことで解けてゆく謎、より深まっていく心象…こういう、構成的な、一冊を貫くような背骨は私にはあまり感じられなかった。これがもし単なる「時系列編集」であるなら噛み合わない話になるのだが、構成面から見れば、もう少し太き背骨をこの一冊に通してほしかったとも思う。

2008年、私が「心の花」に入会したとき、この人は同世代ながらすでに歌作の力の貫禄をにおわせていた人で、その蓄積の証左だろう、当歌集上梓の後、心の花賞を受賞している。

『スピーチ・バルーン』
ながらみ書房
2018年6月14日発行
2500円(税別)
2018-11-01
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現代短歌が見つめるもの

2018-08-10 16:16:45 | 時評

・古文書のなかに見いでし/よごれたる/吸取紙をなつかしむかな(石川啄木)

・ハブられたイケてるやつがワンランク下の僕らと弁当食べる(うえたに)

若い世代の多くは「吸取紙」を知らないだろう。逆に二首目、もし啄木が読んでも理解できないのではないか。

言葉は常に時代の中から生まれ、そして流動している。十年ぶりの改訂で話題となった広辞苑の第七版は新規に約一万語を収録したという。「短歌」ではなく「現代短歌」と言うとき、「現代」が背負っているその意味は深い。「短歌」四月号の特集「現代ならではのテーマをどう詠うか」をこんなことを思いつつ読んだ。

介護、労働、ジェンダー、ポップカルチャー、時事、そして「短歌の重さとは」等について歌人たちがそれぞれの現代的な側面に切り込んでいる。

栗木京子は「普遍性から浮上するもの」として、現代は介護や老いの歌が多いが、実はそれらはずっと昔からあり、現代に色濃く上がってきた背景には医療や介護の進歩によって飛躍的に寿命が延びた点があり、一方でただ命があれば幸せなのかという深刻な問いに突き当たっている苦悩を述べる。

また、新しいテーマとして人工知能(AI)を挙げ、平成30年度の角川「短歌年鑑」座談会「人工知能は短歌を詠むか」の「ロボットもことばを持たば苦しまむ虹の下ゆく鉄腕アトム(坂井修一)」に触れ、『短歌に特化しつつ、「言葉」や「心」という局面から関心を持ちつづけること』で次の時代へつながるテーマが生まれてくると結ぶ。AIは将来、答(ゴール)の決まっている課題はすべてこなせるようになるが、短歌は答が決まっていないので、ここが人間側の最後の砦になるだろう。やがてはアトムの如く自己の愚かしさに悩み続けるフレンドリーなAIが登場し、それを「心」と読む歌が大量に生まれ出ることだろう。

また、斉藤斎藤は「短歌の重さ」について、歌のテーマで一般に重いとされるのは「戦争貧困人災天災自分の病気に他人の死、つまり命に関わる歌だ」としながら、戦争の歌に軽さを感じることもあればコンビニでおにぎりを買う歌に胸を衝かれることもあり、「テーマも文体も重々しければ重い歌というわけでもないのは何故か」を「毛穴が開いているか否か」という表現で論考する。「毛穴が開いている」とはつまり感性が鋭敏になっている状態のことなのだろう。斉藤は、毛穴が閉じたか開いたかよく分からなくなったときに、その「疲れている」という認知に嘘をつかないでいたい…閉じているのに開いているふりをしてしまえば私の歌は軽いままだろう」と自己の作歌姿勢を厳しく戒めている。

・こころよく/我にはたらく仕事あれ/それを仕遂げて死なむと思ふ

ふたたび啄木を引く。今も昔もこうした思いの本質は何ら変わらない。ずっしりと変わらぬ短歌の基盤は常に意識しつつ、現代という眼前の変動を見つめてゆきたい。

「心の花」六月号時評

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