たけじゅん短歌

― 武富純一の短歌、書評、評論、エッセイ.etc ―

第13回クロストーク「文語短歌は生き残れるか/大辻隆弘・吉川宏志」レポート

2019-12-09 10:38:12 | 短歌

12月7日、第13回クロストーク「文語短歌は生き残れるか」in大阪・難波。大辻隆弘さんと吉川宏志さんのガチなテーマのガチトーク三時間…下記、かなりはしょってますけど、私の感じた点のみ、ざっくりまとめてみました。

冒頭、大辻さん、この大テーマにいきなり解答を述べました。「はい、私が生きているうちは残ります!」。もちろん冗談なのですけど、今やこれくらいの危機を感じる時代になっているのは確かな事実ですね。

大辻さんは、若い頃に惹かれた

・<あゆみ寄る余地>眼前にみえながら蒼白の馬そこに充ち来よ(岡井隆)
・咲く花はむしろ滅びを匂はしめわが背後に満ちきはまりぬ(大辻隆弘)

等の歌を挙げ、一首目の「充ち来よ」(カ変・命令)、二首目の「匂はしめ」(使役の助動詞)などの文語の濃密な表現に「文語への憧れとその言い回しが気持ちよかった」と述べました。

また、

・連結を終わりし貨車はつぎつぎに伝はりてゆく連結の音(佐藤佐太郎)


の二句めの「は」への違和感について、今その瞬間に立ち会っているような時制のとらえ方に触れ、文語のメリットとして「助詞、助動詞の豊かさ」を挙げ、こまやかなニュアンス、文語特有の省略、時間描出の豊かさ(定点の確定、意識のゆらぎの描出等)等を挙げ、「時間にヌメッと延び広がっている人間存在の手触りをありのままに描出」とレジュメに述べています。

口語短歌については、

・白壁にたばこの灰で字をかこうおもいつかないこすりつけよう(永井祐)


のフラグメント(断片化)した時間の捉え方や、


・フルーツのタルトをちゃんと予約した夜にみぞれがもう一度降る(土岐友浩)


に「ちゃんと」等の副詞で時制を表そうとしているのではないかと述べ、時間の回収という点は口語には難しいところがあるという穂村弘の言に触れました。

続いて吉川さんは「ひと口に文語といっても、いろんな文語がある」として、生来の文語歌の他に、今の若い世代の文語として、

・友だちの受けしパワハラ聞きながら上手にホッケの骨とれるかな(佐佐木定綱)


の「かな(詠嘆)」の、口語に混じったとても不思議な感じの文語や


・ハムからハムをめくり取るときひんやりと肉の離るる音ぞ聞ゆる(門脇篤史)


の係り結び等を挙げました。

また、

・閉ぢ込められてわが思うらく父親の蔵書とともに死ぬのはいやだ(花山多佳子)


の「思うらく(思っていることには)」に「現代短歌が生み出した文語という感じがする」とか、


・ぐちやぐちやに絡まったまま溶けゐつつあらむ 始発を待つ藻屑たち(小佐野彈)


の文語は、


・海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空母艦も火夫も(塚本邦雄)


の本歌取りではないかと、新しい感覚の文語の取り込みへの言及がありました。

大辻さんの語る「文語への陶酔感」について、吉川さんは「私にはそれはなくて、文語の違和感を取り込んでいる」と返し、文語と口語をミックスさせる実戦的な感覚を言えば、大辻さんは「陶酔したらあかんのか?」は第二芸術論の話へとつながってゆく…と論が一気に彼方へ飛んでゆきました。

さらに、定型の持つ「重力感」や「磁場」について、吉川さんは、

・あまのはら冷ゆらむときにおのずから石榴は割れてそのくれなゐよ(斉藤茂吉)


の定型の持つ重力感に触れ、大辻さんは「定型の磁場あればこそ機能した歌だ」と応じました。

さらに、文語的な口語、文語と口語の互換性や定型意識等へ話題は流れ、若い世代の「定型意識の薄れ」も話題になりました。また、大辻さんの「昔の人は細かに時間を切り分けて生きていた」「短歌における文語とは、主にアララギが生み出した「短歌的な文語」なのだ」等の言はなかなかに興味深いものでした。

最後に会場からの意見として島田幸典さんが「文語短歌、私が生きているうちは残ります!」と大辻さんに続く世代からの文語へのエールに会場が沸きました。

以上、他にも書き切れない話題がいっぱいで、私の勘違いや理解の浅さでうまく言えてない点も多し←文語(笑)、ですが、まとめきれません。間違い等あればご指摘ください。