たけじゅん短歌

― 武富純一の短歌、書評、評論、エッセイ.etc ―

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大橋巨泉の短歌

2016-07-21 22:21:04 | 時評

・みじかびのきゃぷりきとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ(大橋巨泉)

昭和40年代、パイロット万年筆のCM。確か小学三年あたりの記憶としてかすかに残っている。これが実は短歌だったのだと知ったのは、はるか後年、岡井隆の「現代百人一首」のなかで思わぬ再会をしてからである。

短いキャップをとればすぐ書ける…一見、無意味な言葉に見えているのに、そんな意味合いをやんわり解釈できてしまうところがおもしろい。「すぎちょびれ」が私には未だわからないのだが、語呂合わせなのだろう。結句もまたそんな感じだが、容易に「文(ふみ)」への連想が働き、掛け詞のようでなんだか座りがいい。

岡井はそのあたりを仔細に読み解いたうえで、「ナンセンスの中に意味があり、意味の中に無意味が潜んでいる。この歌は案外、短歌という詩型の持つ、リズムと音韻と意味との関係の、伝統的な本質を示したとも言える」と極めて真面目に高い評価を下している。

意味とか描写、伝えたい情報等はもちろん大切なのだけれど、そこにばかり目が行ってはいけない。そうしたものの根底にある調べの周辺にこそ短歌の本質は隠れているのだ。

歌を始めたばかりの頃、意味や理屈とか、言いたいこととか、一首のすべてを理詰めに突き詰める癖が私にはあった。意味は分からないなりに一首全体をリズムや音韻を含めてまるごとふんわりと受け止めつつ、どこまでもモヤモヤのままに味わってもいいのだという鑑賞スタイルがあることを知ったのは、歌会の参加を重ねてゆくなかで教わった大事なことのひとつである。この歌を正に岡井はそのように評価して自著に納めたのだろう。

大橋巨泉は、私たちの世代には親の目を盗んで見た「11PM」や「クイズダービー」の顔であった。そんな人から間接的に短歌の奥義を学ぶなんて、全く思いもしなかったことだ。
突然の訃報に、思ったままを書き留めてみた。

[たけじゅんWeb]

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コンパニオンアニマルとしての犬、猫

2016-03-25 00:12:27 | 評論

日本人と犬・猫の関わりは万葉以前の昔からあるという。だが、歌として多く詠まれはじめたのは明治時代以降、西洋からの多数の輸入によって日常の身近なペットとして広く普及しだしてからだ。

近代の犬・猫の歌を、まずは石川啄木と若山牧水に探ってみた。

・わが泣くを少女等きかば/病犬の/月に吠るに似たりといふらむ

・愛犬の耳斬りてみぬ/あはれこれも/物に倦みたる心にかあらむ

・われ饑ゑてある日に/細き尾を掉りて/饑ゑて我を見る犬の面よし

・時ありて/猫のまねなどして笑ふ/三十路の友のひとり住みかな
 石川啄木『一握の砂』

・猫の耳を引っぱりてみて、/にゃと啼けば、/びっくりして喜ぶ子供の顔かな。

・猫を飼はば、/その猫がまた争ひの種となるらむ、/かなしきわが家。
 〃『悲しき玩具』

病犬に例える自己の泣き声、犬の耳を傷つける行為…啄木は犬をあまりよくは思っていない。どこか卑近なものとして見ている感じがする。三首目も飢えた犬と自己との比較で、よしと思いつつも犬を自己よりも格下のものとして見ている。自分はそんな犬そのものなのだという自虐心理が底辺にある。

一方、猫にはそうした思いは少ないようだ。四首目は独り住まいの寂しい友の仕草としての猫の鳴き真似、五首目の対象は子であって猫が主ではない。

しかし、それでも猫はどこか暗いイメージの生きものとして扱われていて、六首目などは家庭が明るくなるよう期待して飼った猫さえもが、また平和を乱す存在になってしまうという、なんとももの悲しい現実である。

また、「庭のそとを白き犬ゆけり。/ふりむきて、/犬を飼はむと妻にはかれる。」が犬の歌でよく引き合いに出されるが、どこか明るさを含んでいるこの歌でさえ、もし石川家で犬を飼えば五首目の猫と同様な結果になりそうな気がしてならない。(ちなみにこの歌は『悲しき玩具』の最後の一首とされているが、実はこの後に書きかけの一行で終っている未完の歌がある。)

では、牧水は犬猫をどううたっただろう。

・枯草にわが寝て居ればあそばむと来て顔のぞき眼をのぞく犬

・ゆふまぐれ遊びつかれてあゆみ寄る犬と瞳のひたと合ひたる

・指に触るるその毛はすべて言葉なりさびしき犬よかなしきゆふべよ
 若山牧水『路上』

・子を生みし疲れか暫し吠ゆることを忘れし犬がいま吠えにけり
 〃『黒松』

・秋のおち葉栴檀の木にかけあがり来よと児猫がわれにいどめる

・猫が踊るに大ぐちあけてみな笑ふ父も母も、われも泣き笑ひする
 〃『みなかみ』

草の上に寝ているところを親しげに覗きこんでくる犬、近づいてくる犬との見つめ合い、犬の毛をまるで言葉に触れるようにさわり、産後で疲れている犬が久しぶりに吠えたその瞬間をうたう…

牧水は犬を自己と同等に見ている感じがする。五首目の猫も同様に仲間のような親しみで見ていて、もう完全に子猫と同じ世界に戯れている。六首目は、その前後の歌を読めば、母との口論や父を罵る姉の歌とかもあって、若山家もまあ大変だなと思わせるところもあるが、そうしたムードを和らげる清涼剤のように、愉しげなこの一首が挟まれている。

また、この他に、鶏を盗む猫のために毒薬を盛る父母とか、その猫を殺して埋めたという歌も続くのだが、それはどこまでも日々の暮らしのためであり、啄木の虐待のような病んだ精神の対象としての犬猫は見当たらない。

自然とはあまり親しまなかった啄木。自然の中で育ち、自然とともに生きた牧水…生きものは自然の一部だから、犬猫の話となれば牧水の方がその親和度が高いのは当然だろう。もとより予想通りのような気もするが、啄木と牧水のその犬猫観にはかくも大きな相違が見えてくる。

さらに時代が進むと、歌人たちはより落ち着いた日常の視点から犬猫を仔細に詠みはじめる。

・目のまへの売犬の小さきものどもよ生長ののちは賢くなれよ
 斎藤茂吉『つきかげ』

・チョコレートかみつつ猫のたたかいを聞きおりたのし老懶われは
 坪野哲久『人間旦暮』

・寝るまへのこころすなほになりきたりふところに猫をいれて枕す
 筏井嘉一『荒栲』

・胡桃ほどの脳髄をともしまひるまわが白猫に瞑想ありき
 葛原妙子『原牛』

・毛ほどの隙も見せずに歩み去る老の白猫がわがこころ知る
 前川佐美雄『松杉』

一首目、子犬たちを実に優しい目で見つめている茂吉がいる。「賢くなれよ」に、自身が歌で戦争に荷担した苦い反省という説もあるが、ここは生きものの先輩としての素直な心で子猫に送ったエールとして私は読みたい。

二首目、猫たちの喧嘩声をわれ関せずとのんびりチョコをかじりつつ愉しんでいる哲久の心。老懶とは年老いて体を動かすのが大義なことだ。三首目は懐に入る猫に安らぐ心を素直にうたう。四首目、葛原は猫の脳髄さえも幻視し、瞑想する猫を思ったようだ。五首目、毅然として歩み去る老猫の行動に心を通わせる佐美雄。いずれもどこか心に余裕をもってゆったりした心で犬猫を見つめている。

そして現代、犬猫は「コンパニオンアニマル」という概念でもって我々と暮らしをともにしている。すなわち「暮らしの伴侶、人生の伴侶」としての生きものである。

ひと昔前の「ペット」という語には所有物、愛玩物的な意味合いが強いが、コンパニオンアニマルはそれとは全く違う。衣食住に気遣い、話し掛け、ともにテレビを視聴し、外出をする共同生活者としての生きもので、もちろん溺愛とはまた別のことだ。

震災などの際、動物保護団体が現場に取り残された犬や猫を救済する活動がニュースになるのは、こうした概念が普及している証左とも言えるだろう。ひと昔前なら「人の命さえ危ないときに犬猫の保護なんぞに構ってられるか」となっているところだ。

ペットから人生の伴侶へ出世(?)したそんな犬猫を現代の歌人はどう見つめているのだろう。

・何もせず嗅ぎに来てから立ち去ることを猫のモモおぼえたり
 高瀬一誌『火ダルマ』

・ま夜中に物食ふ犬の歯牙の音いさぎよきもの覚めて聞きをり
 安永蕗子『褐色界』

・若き日は猫にもありてあたへたる木天蓼のこなにわれをうしなふ
 小池光『現代短歌』2014年9月号

「観察眼」の歌としてくくってみた。一首目、猫の仕草をまるで人の子のようにしっかりと観察している。二首目、深夜に聞こえて来た犬の物食う歯音をいっそいさぎよいと感じたのだろう。

 三首目はマタタビに夢中な猫への目。「猫にも」としたことで、人にもこういう時代はあるよなあという感慨を含ませてより味わい深い歌となった。

・春幹に爪とぐ猫を笑ひ合へばこちらを見たりまじまじと見る
 花山多佳子『春疾風』

・庭隅のペットの墓に陽の当り猫が来犬が来て座りをり
 富小路禎子『幻の花』

これらも観察の歌だ。爪を研がないことには伸び続けて支障が出てしまう猫にしてみれば「爪研ぎの何がそんなにおかしいの?」と真面目に怒っているのだろう。二首目はどこかウソっぽいけれども事実だ。まるでしんみりした短編映画を観ているような気分になる。

・地を這ふ夢の中をひたせり真夜中にみづ飲む猫の舌ならす音
 尾崎まゆみ『明媚な闇』

・やはらかく畳のへりを踏んでゆく猫の足音のなかに覚めたり
 大辻隆弘『夏空彦』

・夜のふけに犬は鎖の音ひきて眠りのかたち選びゐるらし
 尾崎左永子『夕霧峠』

・昼寝するわが上にきて仔猫ありそのほどほどの体重ぞよき
 浜田康敬『家族の肖像』

・少年はわが少年の留守にきて帰りぬ犬としばらく話し
 中野昭子『夏桜』

日常の暮らしに溶け込んでいる犬猫たち。一、二首目、猫のたてる舌や足の音と睡眠はどうも歌と相性がいいようだ。三首目は犬の動きによって音を立てる鎖からの寝床での想像。四首目、生き物と接すると人は心が落ち着くというセラピー効果そのままの歌だ。五首目、目当ての友だちがいなくて所在なく犬と話している少年の姿が見えるようだ。

・猫の舌いく枚のびて来たりけり午睡の夢のうたた寝の中
 内藤明『海界の雲』

・永遠に不平屋としておれはゐる 濡れし鼻面を寄せる巨犬
 岡井隆『神の仕事場』

・雨降りの仔犬のやうな人が好き、なのに男はなぜ勝ちたがる
 栗木京子『夏のうしろ』

・花の奥にさらに花在りわたくしの奥にわれ無く白犬棲むを
 水原紫苑『あかるたへ』

・イヌつけてブナもサクラもサンセウもやや劣る意とするあからさま
 今野寿美『雪占』

「喩や抽象としての犬猫」でまとめてみた。一首目、昼寝の夢の喩としての猫の舌。二首目、不平屋と巨犬のイメージ、さらに「その濡れし鼻面」ときて、両者の重なり具合が見事に決まった。三首目、雨に濡れそぼる仔犬のような男だなんて、なんという巧みな比喩だろう。四首目は自己の心の奥底に棲む喩としての白犬、これもイメージがとてもうまく重なっている。

五首目、「犬」の持つ意味の発見。イヌブナ、犬桜、犬山椒…犬死になんていう語もあるし、なるほど確かに犬には「やや劣る」という意味が含まれている。

では、猫はどうか。猫に小判、猫かぶり、猫のひたい、猫なで声、猫も杓子も…どうも犬ほど悪くは使われていないようだが、化け猫、猫ばば、猫又など、その怪しい仕草や姿態に由来する語もまた多くある。

 小池光の『現代歌まくら』の「犬」の項には「人間同士のコミュニケーションは、なにより言語による。人間と動物のコミュニケーションは言語によらない。言語という不定型なものを媒介とせず、同じ生きものとして、いのちといのちが直接に触れ合い、交流する。こういう高度の情報化社会になってくると人間同士のコミュニケーションより、動物たちとのそれの方が手応えがあり、信頼できるように思われてくるのは必然でもある。ただのペットではなく、人間に「自然」を回復する回路として切実だ。短歌でも、犬、猫の歌はたくさんあるけれど、今後もより一層、ますます歌われていくに違いない。」とある。

小池の言う人間同士の言語によるコミュニケーションで直接会話以外の現代の手段は、電話、手紙はもちろん、メール、ツイッター、フェィスブック、そしてラインと、もう充分すぎるほどにそろっていて、人間はそのやりとりに日々、余念がない。

それでも動物たちとのコミュニケーション熱は廃れることがない。インターネットに「BUZZmag(バズマグ)」というサイトがあり、おもしろおかしい動画ばかりを世界中から厳選して集めてあり、特に動物系が人気だ。そこには「全力でお散歩を拒否する犬」「幼児と同じポーズでご主人の帰りを待つ猫」「仲間の背中を押して風呂に落す猫」「赤ちゃんのためにゴロンとなったハスキー犬」など、思わず笑ってしまう傑作をいつでも観ることができる。ユーチューブでもテレビでも同様の動画は大人気だ。こうした点からも人と犬猫との共同生活は、今後もさらに広がってゆくと確信できる。

 最後に私が知った犬猫の歌で最も印象に残っている犬の歌、猫の歌を引く。

・糞をする犬をつつめる陽のやうなごく自然なる愛はむづかし
 小島ゆかり『ごく自然なる愛』

・肛門をさいごに嘗めて目を閉づる猫の生活をわれは愛する
 小池光『滴滴集』

いずれも初句いきなりのダーティ感に引きそうになる。だが、その扱いにくい言葉たちをこれほどまでに清らかにかつ大胆に浄化させ得て詠んだ歌を私は他に知らない。

さて、犬と猫、あなたはどちらが好きですか?。

・犬と猫どちらが好きと問ふ人ありパンもごはんも好きなわたしに
 小島ゆかり『泥と青葉』


「心の花」2016年3月号特集「犬の歌・猫の歌」より

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花 美月『かはうその賦』―「どう」歌うかの独自性―

2015-11-09 01:44:05 | 書評

字面といい読みといい、いかにも秀麗なこのぺンネームは、かつて新聞や雑誌の歌壇投稿欄をたいへん賑わせていた。そんな作者の第一歌集である。

・大輪の色を愛でたるそのあとで腹で聞くもの花火といふは

・天空が過呼吸になる 連なれるしだれ花火の忙しきかな

・段ボールが鳴いてゐるなりゆふぐれを足止むべからず覗くべからず

・三丁目に叩き損ねたわれの血が二丁目路地へさまよひゆけり

・キシリトールののど飴舐めてうすあをき蛍の味の嘘をつきたり

・がうがうとみづ音のして真夜中を川太くなる眠れぬ耳に

・針仕事上手き夫なり病院に切つて縫つてを生業とする

・星の字のつく病院ゆ夫戻る宇宙飛行士のやうな顔して

短歌の入門的指導ではよく「何を」「どう」歌うかを教えられるものだが、この作者は「どう」のところの捌き具合が実に巧みだと思わせられる。

一首目、二首目、よくある花火大会見物なのだが、花の独自フィルターを通るとこうなる。三首目、これも単に「捨て猫見つけた」だと想像するのだが、彼女が歌にするとこういう心理の歌になってしまう。四首目は蚊に咬まれて逃げられただけなのだが、それがこんな歌に進化してしまう。

五首目、のど飴を舐めつつの軽い会話の嘘の色が独特のアメの色になってしまった。六首目、「川の音がうるさい」が、こうなる。七・八首目、どうやら夫は外科医らしい。それがこのように描写される。

いずれも、独自の「どう」が、チャキッとした切れの良い言い回しとなって読むほどに印象的である。

また、視座が転換している歌も愉しい。

・帯解いて顔を洗って人間に戻れど「こん」としはぶく寒さ

・右空けてエスカレーター小走りのアリスの兎先に行かせる

・「どうぞ」とて旅館の庭にうるはしく人放たれる蛍狩りの夜

・幸せの五つ詰まつた箱入れてすこぶる機嫌の良き冷蔵庫

狐、アリスの兎…こうした言葉で読み手を一気に異界へテレポートさせてしまう力は真似しようがない気がする。三首目、放たれたのはホタルではなくて「人」という面白さ。
四首目、冷蔵庫の擬人化。本当は機嫌の良きは当人のはずなのだが(笑)。

ユーモアの歌もいい。

・地下鉄の混雑にゐてわき腹をくすぐられをり誰かの電波に

・女性誌の素肌美人が同い年と知りてよりみな寝息をたてる

・JALぐらり「紅芋ソフト食べたよ」が辞世のメールになるのは困る

・支那の箸ひようと長かりチリの海老つるんと逃げる真っ赤な海に

・激辛の麻婆豆腐を食べてわがゴジラ日和よ口は火を噴く

過剰にならず、自虐にならず、客観的視座からの知的なかわいいユーモアを感じる。ひょっとして当人はユーモアだと全く意識してないのでは?とも思うが、ユーモアはそれ故に上質のユーモアとなるのだろう。

家族、特に夫との微妙な距離感も楽しい。

・二メートル離るる夫へパソコンゆ二秒で届く恋文メール

・腕力のスーパーショット語る君に靴下ひろふ筋肉はない

・食卓の女男にパソコン一つづつ開かれ更ける長き夜のあり

・神無月の花壇の隅に夫知らぬ花の球根こっそり植ゑる

・始祖鳥のひそむスカーフ夫よりの損失補てん昨夜の喧嘩の

二首目、男はこういうとこあるですねぇ…女性目線ならではの痛烈なアイロニー。
三首目は我が家でもよくあるシーンなのに、私は歌のネタとしては見てなかったので、やられた!と思った。四首目の「こっそり感」は、男にはなんかコワイ気がする。
五首目、「損失補てん」と名づけた女性らしい「獲物」に妙に感心してしまう。

気になった側面がある。「汗」の歌がよく出てる歌集だなと思ったのだ。一般に女性の歌集にはさほど出てこない言葉ではないだろうか?。

・鬼灯の市の浴衣にわが脱げる四万六千日の汗

・総身の汗どうどうと押し出され我の純度の高くなりたり

・再びの deuce なりたりスマツシユの汗が追い越すボレーの汗を

・したたれる汗のしよつぱさ昨夜食みし塩煎餅の塩と思へり

・ドア出れば次のドアまでひたぶるな汗のしとどを炭団坂行く

・大汗に<冷しコーヒー>飲みたしと江戸川乱歩のD坂上る

・わが汗をリットル単位で吸いし土掬へば高校球児めきたり

=======================

・往年のマドンナ走り来遅刻にも花の匂ひの汗かいてをり

・救急のメスとメツツエンとクーパーの夫オペ室の汗にをりたり

・一間を乱して脱げる古典柄はたちの汗にほの湿りたり

・百人の生者に汗の匂ひたり鄙の寺ぬち秋暑き宵

上の七首が自己の汗、下が自己以外の汗だ。マイナスイメージとしての「汗臭さ」とかのダーティな汗とは全く異質である。花の歌う「汗」は全然臭わない汗、というよりむしろ"香る"「汗」だ。生命体の持つエネルギーとしての元気なさわやかな「汗」だ。

そこにはマイナスのイメージは全く無い。故に「汗」という言葉に抵抗感が全くないのだろう。こうした個性的な「汗」の捉え方は、私にはとっても刺激的だった。

一見、明るい歌集だと思う。しかし、だからと言って明るい作者だと断定してはならない。人は誰も世間に見せたくない影を背負っているはずだ。この作者はそれを見すえた上で、敢えて明るい部分と向き合いたいのだろう。

私は花と同年代で「心の花」への入会時期もほぼ同じである。そして歌集の伊藤一彦先生の跋文と共通項が多く、同期の歌仲間という感じがする。

『かはうその賦』
ながらみ書房
2015年4月24日発行
2500円(税別)
2015-11-09

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伊藤一彦『土と人と星』―自然との親和―

2015-11-07 11:30:46 | 書評

第十三歌集。二〇一二年から一五年までの自選四六四首を収める。

自然、人生、暮らし、時事、食物、酒…見つめる対象が幅広く、それらにふとした思いや独自の発見が加味されている。発想の豊かさ、表現の奥行きやそらし方等のあしらいも巧みだ。語彙も豊富で円熟味ある世界をたっぷりと味わうことができた。

まずは「人生」を切り取ってみる。

・一生に一度の遊行 はなびらはわづかの間をかがやき舞ひぬ

巻頭歌である。桜だろうか、蕾から開いた一枚の花びらがやがて落ちてゆくそのわずかの時間を「一生一度の遊行」として捉えた。一般に花びらは「散る」ものだが、かがやいて舞う「遊行」との見立てが新鮮で愉しい。

・春に咲くむらさきの花を親としてこの円き実はむらさきを継ぐ

・タレーナー版わがニーチェ全集売りし友死にたるといふ 全集いかに

・大螳螂寄り来て斧を低くせりあの世とこの世をつなぐ炎に

・枯死したる親より白き花と思ふ庭の実生のしだれ桃の樹

・来む世には女に生まれ酒飲まむ男の酒をさらに知るため

一首目、直前の歌からアケビだとわかる。命の継続への視線。二首目、貸したのが返ってこぬまま長き年月が過ぎたのだろう。友の死よりも我がニーチェ全集の行方を思ってしまうユーモア。三首目、大カマキリが見つめる送り火からの想像。四首目は一首目の思いの別バージョンのように見える。五首目は酒の歌だが、女の酒を味わってみたいとの思いつき、それは男の酒をさらに知るためだという。こういう捉え方は珍しいのではないか。当然、来々世はまた男として生まれてくる計画(?)である。

さらにこんな一首もある。

・紫のまろき水茄子さきの世はいかなる女人 冷酒傅(かしず)かす

水茄子に「前世はどんな女性だったのだろう?、まるで冷酒の器をかしづかせているようではないか」という粋な思いに溜息が出た。私は伊藤の人生観と酒とレトリックの合体した最上の一首として親しい友にメールで教えたりして何度も鑑賞した。

・われを知るもののごと吹く秋風よ来来世世はわれも風なり

第六歌集『海号の歌』の著名な一首である。
伊藤の人生の歌には、一貫してこうした生の継続、輪廻転生の思想が流れている。

自然観をみてみよう。

・目礼をすればものみな返礼す空にあるもの地にあるものら

・朝月の日向の国の山と川 魔所なきごとく光りかがやく

こうした歌が、伊藤の自然を見つめ続ける基本姿勢のように思える。

・水と水ぶつかりあつて大き犀の背(せな)のごときが下流をめざす

・前衛(アバンギャルド)の風吹きたるか猫じやらし向きを違へて倒れ伏しをり

・きのふ杏けふは臘梅 幹つつく音の異なるさ庭の小啄木鳥(こげら)

・染井吉野好きか嫌ひか意見分るそめいよしのに罪はあらざる

川面の荒々しさを犀の背に例える写実、猫じゃらしを倒した風の正体への思い。小啄木鳥のつつく音で木の種類がわかるだなんて、私にはその音さえも想像できない。そして、染井吉野の側に立った「あなたはなにも悪くない」というやさしさ。

伊藤は牧水研究家としても知られ、著書も多く最近では『若山牧水—その親和力を読む』を上梓している。そこに収められている信和力のひとつは、牧水の「自然との信和力」だ。牧水のそうした面に深く学び続ける姿勢は、当然ながら歌として下記のように結実している。

・ひとり来て秋の岬の突端にめつむりたれば闇はあかるし

・冬銀河古く新しき光なりいのち以前のいのちかがやかす

あとがきにも「自然は庭の小草から天上の日月までまことに奥深い。地球の新参者である人間より遙かに永い永い時間を過ごしてきたそれらの存在には教えられることばかりである」と書く。

また、「月」も多く登場する。既刊歌集を通じて「月」は伊藤の一貫したテーマとなっている。特に月光の歌は味わい深い。

・月光の訛(なま)りて降るとわれ言へど誰も誰も信じてくれぬ

第四歌集『青の風土記』より引く。宮崎では月光が訛って降り注ぐのだと言っても誰も信じてくれないという伊藤の主張は、年月を経て全くぶれないままに下記のような歌たちにさらに連なってゆく。(これより以前に、そもそも第二歌集(昭和五十二年)のタイトルが『月語抄』であることも付記しておく)。

・神よりも仏よりも世にあるか老いたる月のしろがねの寂

・空っぽの一升瓶を庭に出し一晩じゆうを月光呑ます

・月の光映す椿の葉の露のとりわけ光るひとつぶのあり

  前世、現世、来世
・三世あれど二世は知らざる 月光の濃くて密なる空を仰ぎつ

・おそふごと強き光の射してくる月の夜かほをかくし歩めり

一首目、神仏の登場より遙か以前から輝いている寂しき月への畏れ。二首目、空の一升瓶に月光を呑ませるだなんて、私には考えさえ及ばない。三首目は映像としてもとても美しい。四首目、先に述べた輪廻転生の人生観と月光が合体している。五首目、日光のように顔を隠すほどの強き月の光とは一体どんな明るさなのか…。

この他、我が未知の語彙や思わずうなってしまうレトリック等、滋味のように味わい、学ぶところが多かった。いつの日か、もう少し俯瞰的な視点から伊藤の人生観や自然観を深く掘り下げてみたいと思う。

『土と人と星』
2015年9月12日発行
3000円(税別)
2015-11-07

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倉石理恵『銀の魚』―主軸を成す母への挽歌―

2015-11-06 18:28:22 | 書評

「心の花」に属するキャリア派の第一歌集。

真面目でフォーマル、落ち着きがありどこまでもきっちりと短歌に向き合ってる人だと思う。家族を軸に、仕事や旅、地元の風土、日々の想いが時間軸に沿って織り込まれている。

・ハチ公前交差点にて千の貌すれ違うとき影入れ替わる

・三浦終・久里終・浦終 終電が岬のさきへ闇を運べり

・一切の家財道具のなき部屋の壁伝いつつ三度巡りぬ

・曼珠沙華やわらかに秋を開きゆく薬師如来の指の形に

・山頂は霧の中なる普賢岳ロープウェイは秋を引き上ぐ

いずれも結句の言い回しがバッチリ決まった感じで、適度な言葉の摩擦感を安心して鑑賞することができる。仕事詠もおもしろい。

・つぶつぶの苺の種のひと粒を奥歯にはさむようないちにち

・明るさが億劫になる今日の空辞めゆく同僚(とも)へ言葉かけ得ず

仕事そのものではなく、仕事中のこうした心理の表現が巧みだと感じた。
地元をうたった歌もある。

・米軍の専用改札置かれたる神武寺駅に蜻蛉飛び交う

・砲台跡いくつ隠せる観音崎伸び放題に夏草におう

作者は神奈川県逗子市に住む。相模湾が近く米軍基地がある横須賀も近い。
その風土を落ち着いた目で淡々と読む。

旅の歌も多い。

・旅の人ひとりまたひとり乗り来れば旅の一人のごときわたくし

かなりの旅好きなようだ。

・緑濃く苔に甲羅は覆わるる海を来て木となりたる亀の

連作「鹿の島」から引いた。

・語尾高く翁は歌うナバホ語に鳥を呼ぶうた馬をよぶうた

これはアメリカ旅行。頭の中が「外部」に向いているような気がする人である。好奇心旺盛で、常に目がキラキラしている。とにかく行って見たい、見たい、知りたい…そんなキャラが見え隠れする。登山の歌もあるが、これも同様の心なのだろう。

さて、この一冊の主軸を成すものは、亡き母への想いである。

・二、三冊天と地の向き直しおり拘らぬ人だったか母は

・返せずに八年となる母の傘 晴れていますかそちらの空は

・火の気なき部屋に広ぐる訪問着五十歳(ごじゅう)の我を母は知らざり

・夢にさえ母と会わざるこの一年髪梳く時のしぐさ似て来

・十三年物の梅酒の梅まろみ母の最期の夏の横顔

・ぼうぼうと風打ち付ける丘の上母の記憶を受信するべし

強く込められた母への想いが、読む者へじんわりと響いてくる。
いささか結論めくが、本歌集上梓のエネルギーは「母へ」、つまりは母への挽歌なのだと思う。同じ結社仲間なのでメールのやりとりをよくするのだが、あるとき、発行日を決めた理由を聞いた。母の命日だという。

亡き母への想いの整理、区切り、そして明日からも生きてゆく自己への励まし…そんな想いの強くこもった第一歌集なのだろう。こうした意味で、自身にとってとりわけ意義のある第一歌集になったのではないだろうか。

『銀の魚』
2015年8月7日発行
ながらみ書房
2500円(税別)

2015-11-06
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