平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

すべては挫折から始まった

2012-07-10 14:06:32 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2012年7月8日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「すべては挫折から始まった」 ヨハネによる福音書19章38-42節
 
 十字架上で死んだ主イエスの遺体を引き取った二人の人物は十二弟子ではなかった。彼らは皆逃げてしまっていた。アリマタヤのヨセフとニコデモがその役を引き受けたのだった。アリマタヤのヨセフはユダヤ人を恐れて、「イエスの弟子でありながら……そのことを隠していた」人物だった(19:38)。彼は「身分の高い議員」(マルコ15:43)であり、「金持ち」であったという(マタイ27:57)。社会的に人々から一目おかれ、有力な市民だっただろう。彼は主イエスの教えを聞き、関心をもっていたが、自分の社会的立場や家族のことを考えて、その教えに共感しつつも、信者にはならなかった。
 
 もう一人は「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモ」(19:39)。ヨハネ福音書3章に、彼は、夜ひそかに主イエスのところに行き、「あなたが神のもとから来られた教師である」と告白し、主イエスの教えに魅力を感じていることが書かれている。しかし主イエスから、人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできないと言われ、「年とった者が、どうして生まれることができましょう」と聞き返した人物である。彼もまた社会的には尊敬された「ユダヤ人たちの議員」(ヨハネ3:1)だった。だからこそ人目につかない夜になって密かにやってきたのである。
 
 しかしこの二人がキリストの十字架の出来事の後に、大胆にも主イエスの遺体を引き取るために、公然と人々の前に現われ出たのである。もはや夜にこそこそやってきたのではない。ユダヤ人をはばかることもない。彼らは十字架で死んだ主イエスのために、その人生の時間と財産を用いることを選んだのである。キリストとの出会いによって、またキリストがどのようにしてこの私を救ってくださったのかを知った後には、彼らはまさに、「年とった者が新しく生まれる」という経験をし、そして救われ、主の証人としてその救いを大胆に告白し、それだけではなく、キリストの遺体を埋葬する人となったのである。こういう経験に押し出されて大胆に語り、証言し、神のために生きようとすることが伝道であろう。伝道されることによって救われ、伝道する者になるのである。
 
 しばしば日本は伝道困難な国だと言われる。確かに日本のキリスト教150年の歴史は、困難の連続であった。しかし、伝道の歴史を見るならば、挫折からすべては始まっている。そこから立ち上がることから始まっている。その力は私たちの努力や分析や企画力ではない。真のキリストとの出会いである。その時私たちは何度失敗しても、思い描くようにならなくても、何度でもやり直すのである。新しくされていくのである。新しい人生が始まる。昨日と今日では確かに違うと言い得る。その経験と、証言が伝道なのである。
 
 そして、何よりも、主イエスが私たちのために祈ってくださっているのである。主イエスを三度知らないと言い、その場から逃げ去ったペテロがどうして伝道の最前線に出て行けたのか。それは彼の回心、努力、あるいは訓練の帰結ではない。それはペテロの努力を超えた、主イエスの祈りによるものだった。ルカ福音書22章31、32節に「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と書かれている。
 
 私たちはペテロ同様、信仰がなくならないように祈られた者である。そして事実信仰がなくならないで、ここに立っている。この喜びを、驚きを、奇跡を、「私たちの立ち直り」を、主と共にある新しい人生を語るのが伝道であろう。そしてこのような伝道は他でもない、「兄弟たちを力づける」のである。生きる力を与えるのである。兄弟たちも新しく生きることができるようになるのである。

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