平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

子育てサロン「こひつじひろば」

2018-05-31 16:21:30 | 教会案内

平塚市で
子育てサロン「こひつじひろば」始めました

「こひつじひろば」は0才~2才の赤ちゃん、未就学児のママが
のんびり過ごせるスペースです。
毎日子育てに頑張っているママたちに、
ホッとする時間、おしゃべりする場所を提供します。
ママ友を作ったり、情報交換したり、ボランティアさんとも仲良くなりましょう。

場所:平塚バプテスト教会 こひつじ館
日時:毎月第1,3木曜日 10:30-12:00

会費は無料、駐車場もあります。赤ちゃんの飲み物はご持参ください。

問合せ:平塚市豊原町4-5 平塚バプテスト教会 0463-33-2320
    メール:hiratsukabap@pro.odn.ne.jp

2018年6月7日、21日、7月5日、19日です。

神は私たちの避けどころ

2018-05-31 16:14:30 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年5月27日 主日礼拝 杉野省治牧師
「神は私たちの避けどころ」 詩編46篇1-12節

 詩編46篇に繰り返し告白されるのは「万軍の主は私たちと共にいます」(8,12節)という信仰告白である。「万軍の」というのは、「力に満ちた」という意味。「力みなぎる主が私たちと共にいます」ということ。このことが私たちの人生と世界の混乱や危険の中で、あるいは動乱の予感や不安の中で、私たちの避けどころとなり、私たちの砦となっていると告白しているのである。「万軍の主が私たちと共にいます」。だから、「苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる」(2節)のであり、これを信じて、「私たちは決して恐れない」(3節)と詩人は歌うのである。
 
 私たちの人生にも、いろいろな危険や混乱がある。現在だけでなく、将来の不安もある。個人の生活だけではなく、超高齢社会となり少子化の進む日本はこれからどうなるのだろうとか、あるいは中東をはじめあちこちの紛争はどうなるのだろうか、地球温暖化は、資源の枯渇は…、不安や心配はきりがない。しかしこの詩人はこう歌う。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、あるいはすべての民が騒ぎ、国々が揺らぐとも、「苦難の時、必ずそこにいて助けて下さる」(2節)、それゆえ「私たちは決して恐れない」(3節)。そのように心に信じ、周囲に告白している。危険を見くびっているのではない。神が「私たちの避けどころ」であり、「万軍の主は私たちと共にいます」から、「決して恐れない」ということができるのであり、それは生きる力、勇気、希望、平安が与えられるからこそであり、だから今度は自分の人生や社会の様々な混乱、不安、問題に立ち向かうことができるのである。

 重大なのは「神が共にいます」という「現実」がどこにあるかではないか。そしてその現実の中にどう生きるかだろう。どうしたら「神が共に、万軍の主が私たちと共にいます」という現実が分かり、「苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる」と分かるのか。神がその中にいます「場所」があるという。「神はその中にいまし、都は揺らぐことがない」(6節)と詩人は告白している。普遍的で超越的な神、天地の創造者である神が、「ある場所にいる」というのは不思議なことかもしれない。この世の中には神をとどめておけるような場所はどこにもないはず。しかし超越的で自由な神が、身を低くして「その中にいまして」くださるのである。そして「万軍の主は私たちと共にいます」「苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる」という現実を与えてくださるのである。一方的な憐みによってご自分を低くし、私たちに顔を向け、私たちと共にいてくださるのである。

 どこで?「いと高き神のいます聖所に」「神の都に」とあるように、「神の」とあるから、神が支配される場所で、その意味で神の国の栄光にあずかっているところとして、それを教会の中に、礼拝の中にと受け取ることはできないだろうか。教会はキリストの体であり、キリストは教会の頭であるといわれる。その教会では、み言葉が語られ、祈りがささげられ、主が賛美され、感謝と献身の思いがささげられる。さらにキリストの体に共に与る聖礼典が行われる。それは神が共にいて下さり、神の愛の配慮と導きがあってのことである。万軍の主であるイエス・キリストによって実現しているのことである。イエス・キリストがおられ、その言葉、その働き、その十字架、そしてその復活の体に与るところ、それが教会、それが礼拝。その教会につながるとき、それはイエス・キリストにつながるときであるが、「神は私たちの避けどころ、苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる」と告白することができる。主イエスにつながるとき、「私たちは決して恐れない」と言うことができる。それは主ご自身が万軍の主であり、主ご自身が戦って下さるからである。主ご自身がすべてを引き受けて下さるからである。その主にすべてをゆだねるのである。

 「力を捨てよ、知れ、私は神」とも書かれている。「力を捨てよ」とは「手出しを止めよ」と訳してもいい。主にゆだねよ、主に任せよということになるだろう。肩の荷を下ろそう。肩の力を抜こう。主に委ねつつ、主と共に平安のうちに歩んでいこう。

老金期

2018-05-28 14:30:39 | 牧師室だより

牧師室だより 2018年5月27日 老金期

 「サロン虹」に来られているIさんから「いいことがいっぱい書いてあって参考になった」と貸してくださった本『天国で神様に会う前に済ませておくとよい8つのこと』(東邦出版 2018)。題名からして面白そう。

 その本に「老金期(ろうごんき)」のことが書いてある。老金期は、人間がどんどん神様に近づいていく素晴らしい瞬間です。老金期の「金」は、“お金”のことではなく、人生の“最も輝いている瞬間”のことです。人生の金メダルをもらうとき、それが老金期なのです(4-5p)、とある。

 著者の田頭真一先生は沖縄のオリブ山病院理事長、読谷バプテスト伝道所牧師、心理学博士でもある。田頭先生の人生のとらえ方はユニークだ。一般的に人間の一生を考えるとき、山型のカーブを思い浮かべる。誕生から幼少期、青年期、壮年期とゆるやかな登り曲線を考え、そこから熟年期、高齢期になっていくとき、下り曲線を描く。ところが田頭先生は山の頂上が人生のゴールである、と考えておられる。

 人生の8合目、「アタックキャンプ」(まさに今の私の年代か?)にたどり着いたら、背負ってきた荷物は置いて、身軽になる。残すはラストスパート、頂上に突き進むのみ、と言われるのだ(46p)。その時期に済ませておくとよいことが「人生の必修8科目」として書かれている。

 その「人生の必修8科目」を箇条書きで紹介する。詳しくは直接本をお読みください。
(1)自然体…「超老力」を身につけて自分そのものになる。
(2)謝罪…自分の弱さを受け入れ、自分から謝って和解する。
(3)解放…老いはすべてを手放す準備期間。
(4)伝承…人生の収穫期に何を伝えるのかを明らかにする。
(5)成熟…老いはパーフェクトエイジである。
(6)謙虚さ…手を引いてもらって初めて気付くことがある。
(7)受容…自らの死を受け入れる。
(8)奉仕…「世の中に何を残すか」を決める。

 「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる」(箴言)。


疑いによって救われる

2018-05-22 16:52:26 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年5月20日 ペンテコステ礼拝 杉野省治牧師
「疑いによって救われる」 マタイによる福音書14章22-33節

 「主よ、助けてください」。ペテロが叫ぶと、主イエスは助けてくださった。その時、あの恐るべき言葉を主イエスはペテロに語られた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。それは、私たち誰もが人から言われたくない言葉でありながら、私たちの多くが同じ言葉を毎日のように自分自身に投げかけている言葉でもある。なぜ、私にはもっと信仰がないのか。なぜ、すべてを神にゆだねることができないのか。なぜ、疑うのか。この私が神のみ手の中にあると信じ、そのみ手がよき手であることを信じている。それなのに、失業したり、だまされたり、事故にあったり、様々な試練や困難に出会うと、私の信仰も一緒に失せ果てて、私は沈み始める。

 私たちは、神が共にいて下さること、この世界で生きて働いておられることを信じている。それでも、私たちの社会ではひどい事件が次から次と起こる。新聞の見出しやテレビのニュースなど、そのどれを読んでも聞いても、嵐はいつまでも静まらないように思える。波は私の足に絡みつき、沈み始めていくのだ。

 なぜ私たちは疑うのだろう。怖いからだ。海はあまりにも広大であり、私たちはあまりにも小さいから、嵐はあまりにも凄まじく、私たちはあまりにも簡単に沈んでしまうから、人生はあまりにも私たちの手に負えず、私たちはその中であまりにも無力であるからだ。なぜ私たちは疑うのだろうか。それは怖いからだ。私たちに信仰があるときでさえも。そう、私たちには信仰がある。まったく信仰がないわけではなく、いくらかの信仰ならあるのだ。ペテロと同じように、私たちにもいくらかの信仰があり、それは全くないよりもずっと良いことだ。その信仰が、私たちを救うには十分ではないように思えることが、時にあるとしても。

 ペテロのように、私たちは、信仰がありながら疑い、主イエスと共に歩こうとしながら失敗し、ほんのわずかだけ歩きながら沈む。そして、「主よ、助けてください!」と叫ぶのだ。私たちが叫ぶと、主は助けてくださる。そのみ手を差し伸べて下さると同時に、叱責の言葉をもって。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。それを聞いて、私たちのほとんどは自分が落第者だと決めつける。けれども、私はこうも思うのだ。もし、この物語が別の方向に向かっていったら、どうなるのだろうか。

 もしも、ペテロが沈まなかったらどうなるのだろうか。もしも、ペテロが完全に信頼して、舟から飛び降り、波の向こうの主イエスに微笑みかけ、主のもとへ全く躊躇することなく滑るように行ったとしたなら、どうだったのだろう。もしも、他の弟子たちもペテロに続いて舟から次々と降りてきて、嵐が猛威を振るい風が帆を叩きのめし、頭上では闇夜に稲妻が炸裂する中を、全員が完全な信仰のうちに水の上で大はしゃぎしたとするなら、どうだったのだろう。

 それでは、まったく別の物語になってしまっていたことだろう。確かに素晴らしい話かもしれないが、それは私たちの物語ではないだろう。私たちの真実の姿はもっと複雑なのだ。私たちの真実の姿は、従い、そして恐れ、歩き、そして沈み、信じ、そして疑うのだ。本当に複雑だ。どれが本当の自分か本人でもわからない。そのどちらか一方というのではなく、両方してしまうから。私たちの信仰と私たちの疑い、その二つは併存しないものではない。その二つは私たちの中に同時に存在して、私たちを支え、引き降ろし、私たちを勇気づけ、恐れさせ、人生の荒海を歩く私たちを下から支え、石のごとく沈める。どちらも本当の私なのだ。

 だから、私たちには主イエスが必要なのだ。だから、私たちは、主イエスがおられないのであれば、水の上になど決していたくないのだ。恐怖と疑いは、私たちを縮み込ませるが、それは同時に、主の救いのみ手を求める叫びを私たちに促してくれるものでもある。それならばどうして、恐怖や疑いは悪いものでしかない、と言えるだろうか。もしも、私たちが決して沈まなかったなら――もしも水の上を自分の力でわけなく歩いていけたなら――救い主を求める必要はなかっただろう。私たちは、独立独歩で生きていけただろう。疑いは、私たちに恐れをもたらすものだが、いったい自分が誰なのか、自分はだれのものなのか、そして、私たちの人生において私たちが救い出されるために、いったい私たちはだれを必要としているのかを、私たちに思い起こさせてくれる。ペテロのように、そして、私たちの誰もがそうであるように、私たちが沈んでいくとき、私たちの主はみ手を伸ばして私たちを捕まえ、まず恵みをもって、それから裁きをもって応えてくださる――「なぜ疑ったのか」――。しかし、それは決して拒絶ではない。主は私たちを舟に戻してくださる。主は、すっかりご存知なのだ。私たちがそもそも舟に乗っているのは、信じているからだということを。信じたいと願っているからだということを。そして、疑いに満ちた日々の中にあっても、主に従うつもりでいるからなのだ、ということを。

 主は私たちを舟に戻してくださる。私たちの仲間たちが、襟首を捕まえて舟に引き上げてくれる。感謝にあふれると同時にへとへとになった私たちは、滑りやすいデッキの上に倒れ込む。たちまち風は止み、波は静まり、夜が明けようとする畏怖すべき静寂の中で、この舟に乗っている私たち皆が、ともに主イエスを礼拝し、言うのだ。「本当に、あなたは神の子です」。疑いのあるところに救いはある。

著名人の言葉で考える

2018-05-22 15:45:23 | 牧師室だより

牧師室だより 2018年5月20日 著名人の言葉で考える

 著名人の言葉を引用しながら、自分の考えをまとめていく。そのような記事を見かけた。4月29日朝日新聞、編集委員の福島申二氏の「日曜に想う」だ。

 冒頭は昭和映画の巨匠小津安二郎の言葉。「人間は少しぐらい品行は悪くてもいいが、品格は良くなければいけないよ」。これは小津が人を見る基本であったらしい。「品行は直せても品性は直せない」とも小津はしばしば口にしていたという。

 小津が示した人間像を作家の城山三郎の小説のタイトル「粗にして野だが卑ではない」を引用して補足説明。さらに城山氏の言葉を引用して何が言いたいかまとめる。「見るからに卑のにじむ人がいますが、そういう人に限って美学とか矜持とかいう言葉を好んで口にしたがるようです」。この記事の見出しは「政官中枢 荒んだ『卑』の景色」。何を言わんかよく分かる。

 我が国の政官中枢の今の景色を「国民は自分たちの程度に見合う政府しか持てない」という議会制民主主義の本場英国の警句「この国民にしてこの政府」の言葉に照らして見たとき、私たちはこのレベルなのかとげんなりさせられると嘆く。

 次に明治の文豪徳富蘆花の言葉「言を弾丸にたとえるなら、信用は火薬だ」を引用。火薬がなければ弾丸は透(とお)らない。すなわち言葉は相手に届かない。「信なくば立たず」である。安倍首相の「しっかり、丁寧に、謙虚、真摯、うみを出し切る」の常套句はもはや国民に届いていく力を失っていると断じる。

 最後に非暴力抵抗を説いたインド独立の父ガンジーの言葉を引用。「立派な運動はいずれも、無関心、嘲笑、非難、抑圧、尊敬という五つの段階を経るものである」というガンジーの言葉は、理不尽とたたかい抜いた人の不屈の意志を示すだろう。それとともに、たたかう人々を勇気づける。♯MeTooを合言葉にセクハラ根絶を訴える運動が、早く尊敬を勝ち取る時が来ることを願うと書く。ガンジーを精神的に支えた詩聖タゴールの言葉「人間の歴史は、侮辱された人間が勝利する日を、辛抱強く待っている」を引用して希望につなげている。

 見事な引用しながらの文章。こういう手もあったか。

祈りはすでに聞かれている

2018-05-15 17:17:01 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年5月13日 主日礼拝 杉野省治牧師
「祈りはすでに聞かれている」 マタイによる福音書6章5-14節

 人生、自分の願い通りに事が運べば、どんなにか気を楽にしていることができるだろう。けれども現実は意のままに生きることを許してはくれない。そんなことは言われなくてもわかっていると言われるだろうが、大事なのは、そのことから目をそらさないということ。目をそらさずにいると、信仰的転換を体験することができる。では、信仰的転換とはどういうことか。

 私たち信仰者はことあるごとに神に祈るが、別にクリスチャンでなくても人間は誰でも祈ることはする。そして思う。果たして祈りは聞かれるのか。それが私たち人間の思い、考えのありようでないだろうか。それがいけないというのではない。それは私たち人間のもっている自己中心の当然の思いである。でも、先ほども言ったように、現実は意のままに、願いのままにならない。では祈りは無駄か。そうとも言い切れない。そんな揺れ動く思いの中で過ごしているのが私たちの現実ではないだろうか。その現実にも目をそらさないことだ。

 そんな私たちに聖書は次のようなメッセージを告げる。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」(マタイ6:8-9)。これは主イエスが弟子たちに祈りを教える場面で、次に主の祈りが続いている。祈りはすでに聞かれているという意味がここにはある。もしそうであるなら、もはや祈る必要はないではないかと訝しむことがあるかもしれない。しかし、主イエスは聞かれているからこそ祈るのだと言われているのである。

 キリスト者詩人の八木重吉の詩集『貧しき信徒』の中に、主の祈りについて歌ったところがある。「祈りの種は天にまかれ、/さかさまに生えて、地に至りてしげり、/しげり、しげりて、よき実を結び/また種となりて天にかえりゆくなり」。 神は必要なものをすでにご存じであって、祈るときは、すでに祈った結果を手にしているという意味がここには歌われている。

 信仰は祈り。そして祈り続けるということが目をそらさずにいることでもあるが、そのような祈りの信仰は、「私」の生き方を最も良い方向へと転換させる。しかし私たちは注意しておかねばならない。それは信仰を持てば万事OKというような単純な楽観主義ではない。日々の生活の営みの中で、願い事を心にもって祈ることもあるだろう。しかし、願い通りにならず、意に反した結果が待ち受けていることも一度や二度ではない。しかし意に反したことであっても、信仰を通してよく見るなら、結果は、最も良い実が「私」のために結ばれていることに気付くだろう。これが信仰的転換である。

 信仰的転換を実生活の中に経験しようとするなら、わが身に起こったことが意に反する出来事であればあるほど、そこから目をそらさないこと。意に反することは地上の生活では付きもの。しかし、19世紀のドイツの神学者、牧師のブルームハルト曰く「地上のことから目をそらすな、神は地上の神である」という言葉を思い出す。神は地上で働くお方であることを信じるなら、地上で私の意志に反したことが起こっていたとしても、神の意志に反したことは起こっていないのである。

 祈りが聞かれるとは、願い通りに祈りが聞かれることとは違う。真剣に祈っても願った通りにならないこともあるだろう。結果が意図しないことであったり、場合によっては願いと全く逆のことであったかもしれない。けれども最も必要なものをご存知であると信じて祈った結果がそこにある。結果はどうであれ、私にとって最も必要なものが与えられる、それこそ信仰による祈りである。目をそらさずというのは、神から目をそらさずということでもある。そうすることによって神の意志というか思いに気づかされ、知らされて、感謝と希望に生きるものとされていくのである。祈り続けよう。神から目をそらさずに。

神の愛の奥深さ

2018-05-15 16:37:14 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年5月6日 主日礼拝 杉野省治牧師
「神の愛の奥深さ」 コリントの信徒への手紙一4章3-5節

 常に私たちが恐れているのは他人の目であり裁きである。人はどう思うだろうか。人はどう言うだろうか。批判されはしないだろうか。結局、人間がいつも頭を悩ませているのはそのことである。人の一生は人からの裁き、評価との闘いだといってもいいほどである。気を使って、闘って、疲れ果ててしまうのである。 

 使徒パウロはきっぱりとこう言う。自分は人から裁かれようと、人間の法廷に立たされようと何ら気にしない、と。人に何と言われようと、自分には自信がある、というのではない。パウロは言う。自分で自分を裁くこともしない、と。何もやましいことはないけれども、それで自分が正しいわけではない、と。いわゆる、自分を客観的に相対的に見ているのである。自分を絶対化しない。すべてを超越しておられる絶対者なる神の存在を信じる信仰がそのような自己を相対的に見ることを可能にさせるのである。そうすると、だいぶ肩の荷がおり、力が抜けてきて、楽になるだろう。

 箴言に「人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる」(21:2)という一節がある。これは信仰による認識がどういうものであるかを語っている。人間の目には自分の行動は正しく見えるのである。冷静に、十分に考えてみて、自分の間違えていることがよく分かった、ということにはならない。考えれば考えるほど、言い訳が出てくる。弁解が出てくる。自分を正当化することになる。自分可愛さ、自己保身、これは私たち人間の本性で、言うならばどうにもならないところで、聖書的に言うならばそれが罪。
   
 だからパウロは、自ら省みてやましいことがないとしても、それで義とされているわけではないという。4節で「わたしを裁くのは主なのです」と言う。自分を裁くのは人ではない、自分でもない、主イエスだという。主に裁かれる、主に裁いていただく、それが信仰の確信であり、拠り所である。そこから導かれるのが、だから主に委ねるという信仰。

 しかし、思いがけないことがこれに続いている。「その時、おのおのは神からおほめにあずかります」(5節)。その時、おのおのは神から厳しい裁きを受けるだろう、というのであればよくわかる。けれども、そうではなくて、「おほめにあずかる」というのである。一方、人間は人の罪悪を見出した時、まるでその人間の正体をつかんだかのように思う。醜い部分を見つけたとき、その人間の本質を知ったかのように興奮する。

 聖書のメッセージは、次のように言う。主が人間の隠された闇の秘密を知るということは、そういうことではない。人間の醜さ、罪悪のその奥に隠されている良いものを主は見られる。人間の汚濁のその向こうにあるわずかな良い志を見落とされはしない。そこのところで評価してくださる、というのである。

 むろん、神が私たちを総体として見れば、とても正しいとは言えないだろう。捨てられるべき罪人にすぎない。しかし、主イエスはそのような人間を贖ってくださったのだ。自ら苦難の道をその人間のために歩んでくださったのだ。人間から見ると理解しがたいものがあるだろう。主イエスは私たちの中の否定されるべきものをもはやご覧にならない。汚れた雑巾のように、私たちの中の、わずかの良い志を見ていてくださる。汚れた手の中の小さな業を、主は決して見失われない。これが神の私たちに対する意思、愛である。ある意味で神の愛は一方的で、無条件の愛と言えるだろう。神の愛のなんと奥深いことだろうか。

 そのようなことを思わされるとき、果たすべき課題の大きさと、なしうる業の小ささを思わないではいられない。けれども、私たちはこのことを知っている。「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを」(一コリント15:58)。

信仰は苦難を生きる道

2018-05-15 11:45:34 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年4月29日 主日礼拝 杉野省治牧師
「信仰は苦難を生きる道」 コリントの信徒への手紙二1章3-7節

 3節に「私たちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」とある。新約聖書においては神は「父」と呼ばれている。父という言葉には厳しさが当然あるが、同時にある親近さをも連想させる呼び方である。主イエスも「アッパ、父よ」と親しみを込めて呼んでおられる。救い主イエスを送ってくださった、その神は私たちを守る方であり、私たちを父親のように包む、そういう神だ。ここにはそのような神と私たちとの関係が記されている。

 「慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神」と書かれている。神が厳しく裁く神として私たちに関わることは否定できない。しかし根本は、「慈愛に満ちた父」であり、「慰めを豊かに」与えてくださる神である。それが私たちと神との根本的な関りである。神は時に怒り、あるいは罪を裁く、あるいは罪を問う、そういう方でもあるが、それは父の慈愛の中でなされることなのである。ひるがえって人間社会には愛のない者が相手を叱り飛ばすことがある。あるいは、裁いて突き放すということもあるだろう。しかし、愛する者は悲しみながら叱る、あるいは泣きながら打つのである。父なる神が打ち、あるいは裁くということは、そういうことを意味している。つまり、裁く方に痛みがあるのである。打つ方に悲しみがあるのである。そういう痛みや悲しみに打たれることによって、人間は変えられるのだと思う。

 さらに4節に「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」と書かれている。あらゆる苦難に際して慰めてくださると言われている。信仰の苦難、神を信じて生きる時に苦難がある。この世の現実の中にも苦難がある。信仰を持ったならば、楽な問題のない人生が始まるということではない。信仰は楽になる道ではない。試練や苦難が取り除かれて、バラ色の道を歩いて行ける、そのような道ではない。苦難や試練はある。苦難や試練はあるけれども、そこで受け取るものがある。主イエスも言われている。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)。

 「あらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださるので」と書かれている。信仰の苦難は、逃げることも避けることもできる。しかし、もし私たちが苦難をいつも避けていたならば、信仰のことはわからない。信仰の喜び、恵み、感謝が分からない。苦難の中に踏みとどまる時に、そこで神の慰めをいただく。苦難の中で慰めを受け取る。それが信仰者の力となるのである。信仰者は苦難の中に踏みとどまり、神の慰めを受け取ることで、そこで生かされ、そこで育てられていくのである。

 私たちは苦難の中で、そこに踏みとどまって、神の慰めを受け取るから、ほかの人の苦難に際して慰めを与えることができる、というのである。苦難を前向きに生きている人が苦難の中にいる他の人を慰めることができる。苦難の中で鍛錬されて、強くなって、タフになってほかの人を励ます力が与えられるのではない。苦難の中で、弱いから、行き詰るから、そこで慰めを神から受け取って立っている人が、ほかの人を慰めることができるのである。

 苦難というのは、しばしば私たちの持てる力や実力を圧倒する形で迫ってくる。もうギブアップするしかない、もうおしまいだ。そういう事態は誰の人生にも必ずある。つまり自分を手放すしかない事態である。しかしその時にも、人間に残されている可能性がある。それは、「わたしは既に世に勝っている」と言われる主イエス、死者を生き返らせてくださる神に祈るということ。神はその死から、生きづまったところから命を見出される方、生きる力を与えてくださる方。

 私たちの信仰の道、神を信ずる道は、この死に体から繰り返し生かされる、思いがけない形で道が開かれる、そういう形で生きていく道なのである。そしてその道が、永遠の命につながるのである。私たちが自分の持っている、個人的な力や実力で開いていく道なのではない。そんなのは行き詰ってしまう。ギブアップするしかないような状況から、繰り返し新しい命への道を開いていただきながら生きていく道、それが信仰の道。信仰というのは、苦難のない道ではない。苦難を生きる道なのである。私たちがたとえギブアップしても、必ず神は私たちのために、前方に道を開いてくださるお方。私たちは、その道を歩いていく。それが信仰によって生きるということ。

言葉は丁寧だけど

2018-05-15 10:19:58 | 牧師室だより

牧師室だより 2018年5月13日 言葉は丁寧だけど

3月のことである。病気のせいで体はだるく、頭もボーとしていたせいか、日帰り温泉を出る時、げた箱のカギがないことに気づいた。ポケットを探したがない。慌ててフロントへそのことを告げた。対応した女の店員さんは、言葉遣いは丁寧だが、ちっともこちらが不安で困っている気持ちを察してくれない。

 番号は?そんなのいちいち覚えてない。場所はどこですか?記憶はあいまい。確かここだけど。確かですか。う~ん、そういわれると自信がない。違うかな?あっちがそうかもしれない、と言うとまた聞く。確かですか。そんなのちゃんと覚えてないって。カギをなくすなんて想定してないのだから。そんなことばかり聞いてどうするの?イライラしてくる。

 すると、カギの紛失は千円いただきます、ときた。えっ、お金とるの?ここに名前と住所、連絡先を書いてください。見つかったらご連絡します。ちょっと待って。もう一度、脱衣所まで見てきます。行ったが見つからない。仕方なく千円を払う。この後、どうなるんだろう、見つからない場合はまさか裸足でお帰り下さいってことはないよな、と不安と心配が膨らむ。その辺のことは何の説明もない。

 すると、そこへ男の店員さんがやってきて、どこですかと聞いたので、ここだと思うんですけどと言うと、なんと合いカギ(どこでも開けることができる)を出して調べてくれた。なんだ合いカギがあるんだ、それなら時間をかければ見つかる。ちょっと安心する。ここかなと思うところを2,3か所調べたがどれも違う。しょうがないとあきらめかけていた時、その店員さん、よくカギの閉め忘れもあるんですよ。ここ違いますか?これだ。靴を入れたまま閉め忘れてカギをかけなかったのだ。

 確かにこちらの不注意だが、それにしても、まずこちらの不安や心配を取り除くような説明や対応をしてくれればいいのに。大丈夫ですよ、合いカギで探しますからとか一言でも言ってくれればと思った。ところが、やたら、こちらの不注意を責めてくるような対応に不愉快になったという次第。もう二度と行かない。皆さん、こんなことないですか?

だれのせいでこうなったのか

2018-05-13 17:59:18 | 説教要旨
 
<先週の説教要旨>2018年4月22日 主日礼拝 杉野省治牧師 
「だれのせいでこうなったのか」 ヨハネによる福音書9章1-12節

 生まれつき目の見えない人が、人通りのある所に座っていた。そこで弟子たちはイエスに質問した。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。弟子たちはおそらく、この生まれつき目の不自由な人を見た時に、反射的にイエスにこの質問をしたのだと思う。というのは、こういう場面に出くわすと、だれでもが考えることだからである。いったいどうして、誰のせいでこんなことになったのか。本人が悪いのか、両親の罪か、あるいは先祖の誰かが悪かったのか。

 イエスはこの弟子たちの質問にこう答える。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。本人の罪か、両親の罪か、だれが悪いのか、そんなことは関係ないと、イエスは言われたのである。誰のせいでもない。そんなことはいくら考えても答えはない、とでも解釈できる。因果応報の考えを真っ向から否定する。イエスはここでハッキリ言われる。「神の業がこの人に現れるためである」。神を知らない時に、人はみな問う。どうしてこうなったのか。誰のせいでこうなったのか。しかし、神を信じた時に見方は変わるのである。目の前にあるこの現実は結論ではない。結果としてこうなったというのでもない。ここから神が御業を行ってくださるのだ。この厳しい現実こそ、神の御業が現れる始まりなんだ、とイエスは言われるのである。

 この出来事の最初、「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」(1節)と書いてある。イエスが来たということ、そして生まれつき目の見えない人に目を留められたということ、ここに聖書のメッセージがある。救い主がこの世界に来られたということ、そして救い主が人間の現実に目を留められたということ、それが大切なメッセージである。人間の苦しんでいる、悲しんでいる現実に目を留められた。もし神の子である救い主が、目を留められたのであるならば、どんな現実にも希望がある。

 さらに、4節にこう書いてある。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことができない夜が来る」。日のあるうち、つまり光のある間、植物も動物も光の照っている中で生きる。光の中で癒される。光の中で成長し、そして実を実らせる。私たちはその昼の中にいる。救い主イエス・キリストのおられる昼の中に私たちがいる、ということなのである。私たちはこの命の光を浴びている存在。神の愛の中にいる存在。神に愛され、支えられ、導かれて生きているのだ。だから、私たちは問わない。なぜこうなったのかなんて問わない。だれのせいで、だれの責任かなどとは問わない。そんなことを問うても何にもならない。そう問うことで先が見えなくなってしまう。しかし、もうそんなふうに問わなくてもいいのである。そういう時が今来ているんだ、ということを聖書は私たちに告げているのである。

 救い主が御業を行ってくださるのである。イエス・キリストが来てくださって、ただそこにおられるというのではない。来てくださったということは、御業を行ってくださっているという意味なのである。だから私たちのこの現実は、結果ではない。救い主の業の始まる場所なのである。神のみ手が働いている現実なのである。だから私たちは待つ。待ち望む。私たちは将来を待ち望む。ここから神がどういう現実を生み出してくださるのかを私たちは待ち望む。この現実を突き抜けて、主の御業の行方を私たちは待ち望む。ここに主にある希望がある。

 そして、この創造の業に、私たちも参与させていただくのである。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」のである。ものをつくり出す業に、人を癒す業に、人を生かす働きに、私たちも用いていただくのである。この命がそのために用いられる。「神の業がこの人に現れるためである」ということはそういうことでもあるのではないか。こんな私でも神の創造の働きに参与するように召されている。そのことの中に人間の命の喜びがある。生きる喜びがある。生かされている、生かされて生きている。この命を用いて主の業に励みたい。