平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

あの日に帰る、歌とともに

2018-07-30 06:12:42 | 牧師室だより

牧師室だより 2018年7月29日 あの日に帰る、歌とともに

 先日、新聞に「思い出の歌」特集が載っていた(朝日新聞7月8日)。恋人と別れて涙をこらえた日、戦争が終わったと実感した瞬間など、人生の節目にそっと寄り添ってくれた名曲たちが寄せられた、とある。

 思い出に残る歌は?のアンケートの1位は「なごり雪」(イルカ)、2位は「高校三年生」(舟木一夫)、3位は「神田川」(南こうせつとかぐや姫)と「故郷」(唱歌)。その他、「不思議なピーチパイ」(竹内まりや)、「リンゴの唄」(並木路子)、「里の秋」(童謡)、「東京の空」(小田和正)、「それが大事」(大事MANブラザーズバンド)、「タイガーマスク」の主題歌「みなし児バラード」(新田洋)、「あなたのすべてを」(徳永芽里)、「岸壁の母」(菊池章子)などなど、それぞれの人生にそれぞれの思い出の歌があることがわかる。

 あなたにとって、思い出の歌は何ですか。私は?いろいろある。小学1年の頃、姉と兄と3人で夜、裸電球の下で川の字に寝ながら、姉が「流行ってるのよ」と教えてくれた「バスガール」。今でもそらで歌える。3,4年生頃か、テレビもない時代、どこで覚えたか、「お富さん」「有楽町で逢いましょう」「黒い花びら」などを友だちと大声で歌いながら下校した日々。意味も分からず、無邪気なものだった。

 そして6年生の寒い冬休み、友だちの家からの帰り道、あたりはもう真っ暗。寒さに震えながらいつとはなしに「上を向いて歩こう」を口ずさんでいた。「ひとりぼっちの夜」「涙がこぼれないように」などのフレーズがなぜか心にしみてきた。もう、意味も分からず無邪気に歌っているのではない。後から思うに、この頃から思春期に入っていたのだなと。

 そして大学時代にまさに「神田川」の世界を経験した者としては(実際、短い期間だったが、神田川のそばに下宿していたこともあった)、この曲を聴くと気恥ずかしさとその頃のことが走馬灯のように目に浮かぶ。恋に恋した時代、憧れに憧れた年頃だったのだろう。

 人生に歌あり、歌に人生あり。

光の中を歩むために

2018-07-26 16:00:04 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年7月22日 主日礼拝 杉野省治牧師
「光の中を歩むために」 ヨハネの手紙一1章5-10節
 
 ヨハネの手紙が書かれた時代はまだキリスト教の歴史も浅く、指導者の数も限られていた。各地に礼拝を共にする集会があったが、その一つ一つに指導者はいなかった。指導者は集会を巡回して回り、時にはヨハネのように手紙という手段を用いて指導する場合もあった。このような状況の中で、指導者不在の集会に異端的思想を持った人が入り込んできた。彼らは教会の人々にヨハネをはじめとする指導者たちから教えられたことと違う教えを語った。ある者はその教えを拒否したが、ある者はその教えに魅力を感じ、ヨハネから伝えられたことを捨ててしまった。そのため、教会の中に深刻な対立が生じ、この対立は教会を分裂させ、ある者たちは福音を捨てて教会から飛び出していった。

 それでは、教会に分裂をもたらした異端的思想とはどういうものなのか。それはいわゆるグノーシス主義と言われるもので、ギリシア哲学に影響を受けた二元論に立つ思想である。人間を霊と肉に分け、それを対立的に考える。すなわち霊は真理であるが、肉は偽りと考えるのである。従って、神が偽りである「肉」をとってイエスとなったということ(受肉)を否定するのである。そこで、ヨハネは「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言葉について」(1:1)と記している。この言葉は、神の子イエスが肉体を持った人となり、世に来られたことを表している。分裂をもたらした人々は、この事実を否定していた。このようにキリストが人として生きられたことを否定する思想を持った熱狂主義的な巡回指導者やそれに影響された人々が、教会を惑わせていたのだ。

 そこで、ヨハネは、罪の自覚の重要性を示す。「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くこと」と記す(1:8)。一方、教会に分裂をもたらした異端者たちは「私たちには罪がない」言っていた。グノーシス主義者にとって肉は偽りである。だから肉体が犯した罪は実態のない偽りであり、責任は問われないというのだ。これは人間の現実を無視している。私たちも、罪というマイナスの評価を受け入れたくないために、現実から逃げようとすることがある。

 私たちにとって大切なことは、神の光の中を歩むことだ。それは、罪人という人間の現実と向かい合うことを意味する。この現実を受け入れたところにこそ真の救いがあるのである。私たちにとって大切なことは、神の光の中を歩むことだ。しかし、異端者たちは神の光の中を歩むことではなく、自分自身が光り輝くことを願った。そして自らの正しさを示すために、他者を見下したのである。

 ヨハネ文書には「光と闇」というように二つの対立する場を示す特徴がある。例えば、ヨハネ福音書の1章5節には「光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった」とある。ヨハネの第一の手紙の著者であるヨハネも、神と交わりを持つ者は光の中を歩み、神に反する者は闇の中を歩む(5~6節)と「光と闇」という対立する場を示す。そして、光の中を歩む者は「互いに交わりを持ち」「御子イエスの血が、すべての罪から私たちを清めるのである」(7節)と書く。つまり、光の中を歩むというのは罪の赦しの中に生きていることなのだ。

 聖書の言葉、神の光は私たちの罪を指摘する。しかし、その光は罪をあぶりだすことにとどまらない。自分の罪を受け入れた人に、その罪を赦す神の愛を示す。ヨハネ福音書3章16節に「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とある。もし自分には罪がないと言い張るなら、この愛の尊さと、永遠の命の価値を知ることはできないだろう。そしてそれは福音を拒むことなのだ。

 ヨハネ福音書8章の「姦淫の場でとらえられた女」の記事で、イエスは女に「私もあなたを罪に定めない」と言われた。イエスがこのように言われたのは女に罪を認めないというのではない。そうではなく、「あなたの罪は私が負う」という福音の宣言ではないだろうか。

 自分自身を受け入れるというのは、自分を良い者とするのではない。内なる罪、欠けを事実として認めることこそ自己を受容することである。ここに罪の告白の必要があるのだ。ヨハネは「もし、私たちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、すべての不義から私たちを清めてくださる」(9節)という。イエスの十字架と復活はこの「赦し」と「清め」なのだ。

 私たちは自分の罪と向かい合うとき、イエスの十字架の血による贖いを自分自身のこととして受け止めることができる。神の光の中を歩むというのは、神の愛の中を歩むということ、福音に生かされているということなのである。

手段と目的を間違えないで

2018-07-26 09:53:12 | 牧師室だより

牧師室だより 2018年7月22日 手段と目的を間違えないで

 キリスト教は、言葉を大切にする宗教だと言われています。なぜなら、神がロゴス(言葉)となって、私たちに救済のための真実を教えてくれるからです(ヨハネ1章)。ですから、聖書の言葉を学ぶことで、目には見えないが確実に存在する、大切なものを捉えることができるようになります。そうすると、誰もが避けられない挫折や逆境、仕事や人間関係の悩み、人生の岐路に立った時、聖書の言葉によって、慰めや生きる力、希望が与えられます。

 また、聖書の言葉は不思議なもので、何度読んでも、また人によって、さらに置かれた状況の違いによって、さまざまなメッセージを私たちに与えてくれます。今日は、佐藤優氏の『人生の役に立つ聖書の名言』(講談社 2017)から、メッセージを聞きたいと思います(10-11p)。

 「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。」(マタイ福音書6章25節)。

 人間は、食べること、着ることなくして生きていくことはできない。それだから、自分が努力して食べ物と衣服などを含む生活のために必要とされているものを確保しなくてはならないと、無意識のうちに考える。しかし、このような発想には、重大な欠陥がある。それは、現在置かれている自分の状況に感謝するよりも、自分の力によって、よりよい食べ物、衣服などのものを確保するという欲望に支配される危険だ。食べ物や衣服は生きていくための手段であり、目的ではない。イエスはここで、手段と目的が逆転してしまう危険を指摘しているのだ。

 以上ですが、この手段と目的を間違えてしまう悲劇はいくらでもあります。一流大学に入ることが目的となり、入学したら勉学に身が入らなくなったり、受験勉強に押しつぶされて心身を病んでしまうなど。働くことは美徳とばかり、寝る時間を削ってまで働き、あげくは心身を病み、うつになったり、過労死という悲劇まで起こっています。学ぶこと、働くことは大事。でも生きていく手段。何のために学び働くのかを見失わないで。

排除と包摂 

2018-07-16 06:17:37 | 牧師室だより

牧師室だより 2018年7月15日 排除と包摂 

 私たち日本バプテスト連盟の国際ミッションボランティアとしてルワンダで「和解と平和の構築」に取り組んでおられる佐々木和之さんのことはよく知っているが、世界を舞台に同じような働きをしておられる日本人は少ないがおられる。

 その一人が東 大作さん(上智大学教授)。新聞で紹介されていた(2018年6月23日版)。シリア、イラク、南スーダンなど、戦いで荒れ果てた国に、平和で穏やかな生活を取り戻す平和構築に関わり、具体的な政策提言を続けている。原点は、両親の広島の被爆体験をきっかけに、平和に貢献する仕事につくのが幼いころからの夢だったという。

 徹底した現場主義。掲げる主張は一貫している。国民から信用され争いが再発しない政府を作るには、特定の政治勢力を排除せず、可能な限り広範な集団が参加する「包摂性」を保つことが重要だと言う。「包摂」とは「広い概念が、より狭い概念のものを包み込むこと」と辞書にある。例文として「ヒトは哺乳類に包摂される」と出ていた。少数民族も反政府勢力も排除しない。同じテーブルに着かせて、対立する人々に対話を呼びかけ、促す。そして話し合いを重ねていく中で和解を作り出していく。書くと簡単に思えるが、そこには信頼関係を作りながら、粘り強く対話を促していく努力が求められる。対話は和解の第一歩。そして継続は力なり。

 東さんは次のように言っている。「平和国家日本の信用は高く、日本の主張には素直に耳を傾けてくれる。日本は、対立する集団同士の対話の促進役という新しい役割を果たすべきです」。しかし、膨大な負担金を払いつつ、紛争地の国連の平和維持活動などに日本人の上級職員が極端に少ないと、嘆いておられる。

 敗戦後73年間、日本は海外で一人も殺さず、殺されていない歴史を持つ。平和憲法を掲げる日本。さらに、敗戦の荒廃から飛躍的な復興、高度経済成長した日本。高品質な電化製品、自動車をはじめとするモノづくりにたけた日本。最近ではアニメや和食が世界中で評判が高い。海外からの観光客が驚く安心・安全な日本。今後は世界平和構築に貢献する若い人材を育てたい。

新来者や求道者をどう迎えるか

2018-07-09 06:09:14 | 牧師室だより

牧師室だより 2018年7月8日 新来者や求道者をどう迎えるか

 先週、「協力伝道会議」のことを書きました。その会議のための「事前配布資料」が先日、連盟宣教部より配布されました(5部、会堂の後ろに置いておきます。お読みください)。その資料に「新来者や求道者をどう迎えるか」という項目があり、さっそく読んでみて、ドキッとさせられました。キーワードは「パラダイムシフト」であると分かっているのですが、具体的に考えてみる必要を教えられました。以下、引用して紹介します。

 新来者が来ると嬉しいですね。でも、次の週に来て下さらなかったときは、ほんとうに落ち込みます。新来者や求道者の存在は、教会にとって、間違いなく「元気の源」です。ところで、「パラダイムシフト」(発想の転換)という点で見つめ直してみたいことがあります。新来者が定着し始めますと、教会は「新来者クラス」とか「求道者クラス」という学びを意識し始めます。そして「キリスト教ABC」とか「教会生活入門」などを学んでもらいたいと考えます。でも、その前に……。

 そもそも、その新来者がある日突然、礼拝に来られたということは、とても奇跡的なことなのです。ですから、教会がまずしなければならないことは、「いったいあなたの中にどんな渇きがあったの」「あなたが生きるために何を求めようとしたの」とその方から聴かせていただく姿勢をもつことではないでしょうか。つまり、「教会が語るべき事」を知っているのは、教会ではなくその新来者なのだということです。

 教会は、人間に大切なものを「教会が持っている」と考えやすいですが、そうではなく、教会が人間の人生やいのちについて語るべき事は、教会の外から飛び込んでくる、という事実に気づくべきです。そして、その新来者といっしょに、教会が、聖書から聴き、一緒に学んで行く。このような「構え方」や「向かい合い方」のチェンジも、パラダイムシフトなのです。

 以上ですが、思い当たる節がいっぱいですね。上から目線、相手よりこちらの都合。いつしか無自覚に陥ってしまっている教会の姿勢を問うています。共に聖書から聴く、共に学ぶ。原点に戻って取り組みたい。