平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

空に描かれた絵画

2009-10-31 17:32:00 | 彫刻
皆さん、この写真の絵が、辻堂海浜公園の広場にそびえる立つ野外彫刻だと見えますか。どう見ても白いキャンパスの上に描かれた絵としか思えませんね。偶然のシャッターチャンスで、この角度から撮れていました。

通じない言葉

2009-10-28 16:05:01 | 説教要旨

説教要旨 2009年10月25日 杉野省治牧師

「通じない言葉」 創世記11章1-9節

 このバベルの塔の物語は、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」との記述で始まる。多種多様な人々が同じ言葉を使い、同じように話していた、というのである。続いて人々が東から移動してきて平野に定住したとある。平野に住むということは、火を使いこなし獣から自らを守る術を心得ていることを表している。火を使ってレンガを作り、接着にはアスファルトを使う。ここには、創世記のそれまでの物語には見られなかった進んだ文化・技術が示されている。

 彼らは声を合わせ、天まで届く塔のある町を建て有名になることを目指した。天に届くような高いタワーがあれば、有名になれる。高い建物は、周囲のあこがれの的になれる。彼らの言っていることは、現代でもやっていることではないか。競い合うように上を目指し、努力・工夫し、自分たちの技術・建築力を誇る。多くの人々の注目を浴び、賞賛される。それはまるで、神のように扱われることである。天まで届くとは、天の神の座に届こうとする意味を持つ、と解釈される。つまり聖書は、人々が掛け声をかけて力を合わせ、神になろうとしたことを記している。そして、そこに人間の罪があることを見抜いている。人が神のようになろうとし、自分を中心に世界を動かしていこうとする「自己中心・エゴイズム」の罪がある、と。

 また、バベルの塔の物語は、神不在の人間文化に対する預言、警鐘であると言われている。彼らは自分たちの能力と協力によって石のかわりにレンガを、しっくいのかわりにアスファルトを得たのである。そして彼らは言った。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と。今や彼らは自己高揚に躍起となったのである。人間賛歌、人間万歳である。しかし、この自己高揚の文化こそ、バベルの混乱に他ならないと、この物語は預言している。人間賛歌、人間万歳はよいのだが、神がどこかに消えて、神不在の人間文化になってしまうことの危うさを警鐘しているのである。
 
 現代でも人間は神の言葉を不確かなものとして、自分の能力に寄り頼み、現代のレンガやアスファルトを生み出し続けている。しかし、私たち人間はこのことによって人類により確かな幸福をもたらすことができると願ったにもかかわらず、まったくそれとは反対の事態に直面し、苦悩している。代表的な例をあげるならば、核兵器である。今人類はこの核兵器を持て余している。また、様々な科学、技術の発達によって生み出された現代文化は環境破壊と地球温暖化という、人類の生存に待ったなしの危機的状況を生み出している。それこそ現代のバベルの塔ではないだろうか。だから現代にとってもバベルの塔の物語は神不在の人間文化に対する預言であり、警鐘であり続ける。現代への預言者として召されている私たちはそのことを指し示すつとめをもっていることを自覚し、活動していかなければならない。


世の中 何か変

2009-10-27 12:29:35 | 牧師室だより

牧師室だより 2009年10月25日 世の中 何か変

 先々週の朝日の「声」欄に中学生の投稿が載っていた。表題は「交通違反『捕まえ方』に驚き」。素直で簡潔な文章で、はっきりと自分の考えを述べている。花マルです。全文、紹介する。

 その朝は母の運転する車でいつもと違う道を通って学校まで送ってもらった。横断歩道を小学生が渡っていて警察官が一人立っているのが見えた。「通学路の安全確認、ご苦労様だよね」と母と話した。ところが、小学生が渡り終えてから母が左折した途端、その警察官が私たちの車に向かって来て、「ここは左折禁止のため、取り締まります」と言ったのだ。

 見ると、間違って左折した車が何台も止められていて、警察官も7、8人いた。なんと、横断歩道の所で左折車を捕まえるために見張っていたのだ。

 母が標識を見落としたことはたしかに悪い。だけど、左折する前にいったん止まってウィンカーを出していたのだから、そのときに「ここは左折禁止ですよ」と教えてくれればすむことだと思う。何人もの警察官がいたのだから、一台ごとに注意すればいいではないか。まるでワナにかかった獲物を捕るかのようなやり方だと思った。未然に防ぐために注意するのと、左折するのを待って捕まえるのとではずいぶん違うと思う。反則金も科せられてしまった。

 国民を守るべき警察官の人は、お仕事の仕方をもう少し考えてほしいと思った。

 どう反論する、警視庁長官殿。同じく素直で簡潔な文章で自分の考えを投稿してほしい。以前は警察官をご苦労様と信頼していたであろうこの中学生は、多分これからは不信と疑いの目で見ることだろう。そのことの罪は大きいし、めぐって警察への協力と信頼を失ない、かえって仕事がやりにくくなるだろう。

 確かに戦後の警察は民主的な警察になって、「おい、こら」的な威圧的な物言いはなくなったが、根っこは変わっていないようだ。国民のためではなく自分たちのために仕事をしている。献身的で真面目な警察官が大半だということは承知している。だからこそ国民の立場に立った警察になって欲しい。   

放蕩息子はなぜ救われたか 

2009-10-21 14:29:12 | 説教要旨

説教要旨 2009年10月18日  杉野省治牧師

「放蕩息子はなぜ救われたか」 ルカによる福音書15章11-24節

 主イエスは放蕩息子の譬え話を語られた。それは次のような展開をしていく。この息子は、「やりたいことをやる」ために父親の家を出ていった。彼は「遠い国」に旅立ち、しばらくの間すばらしい時間を過ごす。しかし、その後は、何事もうまくいかなくなる。財産を使い果たし、友人もいなくなってしまった。ある夜は、独身貴族の集まるバーで名を鳴らし、高価な酒をがぶ飲みしていたが、次の夜には、豚小屋で豚と一緒に豚の餌にありつかんばかりになっていた。ユダヤ人が何よりも嫌った豚の隣りに我が身を置くことになったのである。

 息子は「我に返った」。「ちょっと待てよ。自分は豚のように暮らして、こんなひどいものを食べなくてもよいはずだ。ぼくには父がいるし家もある。僕はあの父親の息子なのだ。僕は父親のところに戻って、人間らしく生きることができる」。この「我に返る」ことが、この息子にとっての「回心」であった。

 しかし、放蕩息子が回心したことによって、息子の資格を得たのではないことに注意したい。彼は息子のように暮らしていなかったけれども、はじめからずっと父親の息子だったのである。彼が家へと向きを変えたのは、自分に対する父親の愛を思い出した時である。その時、その場で、彼は家に戻る決心をする。家が近くなると、この息子は心のうちに短いスピーチを準備する。彼は、父親の足元にひれ伏して、自分が馬鹿だったこと、息子と呼ばれる資格はないこと、雇い人の一人にしてもらえるだけで十分だと告白しようと決心する。しかし家に近づくと、父親は彼のもとに走り寄ってきて、彼を抱きしめる。父親は、息子に悔い改めの言葉を始めさせようとさえしない。父親は、息子が罪の告白のためにひざまずくことよりも、ようやく息子が家に戻ってきたということの方にずっと関心を持っていることに注意しよう。息子は物乞いのように扱われるだろうと予想しているが、父親は息子の手に指輪をはめ、王子のように迎え入れるのである。

 私たちの福音がどのようなものであるか、この物語はよく表している。この放蕩息子の物語は、恵みに気づくことが、悔い改めや変化に先立つ。最初に来るのは、父親こそ「答え」であることをこの息子が思い出すことである。それは単純に、この父親は、この息子の父親であり、息子を愛している父親であるからである。続いて、この息子は、自分の問題を感じ取る。それは、自分の父親の息子としてではなく、家を失い、豚のように暮らしている事実である。そして最後に、この息子は「悔い改める」。つまり、家へと向きを変えるのである。家に帰ってみると、父親の愛は、それまで想像していたよりもずっと深く恵みに満ちたものであることを知らされる。これを境に、彼は変わったに違いない。このような恵みと受容を経験すれば、変わらずにはいられない。彼は健やかにされた。息子は、豚と一緒になってぬかるみに足を取られるのではなく、人間として、息子として、自分の足で立ち始めたのである。彼は救われた。このような頑なな子どもがついに家に帰って来る時、天ではすべてを挙げて狂喜乱舞する、と主イエスは語られた。あらかじめ家があり、父親があるから、私たちは家に帰ることができるのだということを決して忘れないようにしたい。