(先週の説教要旨) 2013年2月24日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「進んで心からする」 出エジプト記35章20-29節
イスラエルの民たちは、神との契約を破ってしまった。しかし、一度壊れた契約が、「憐れみ深く恵みに富む神」(34:6)の赦しを得て、もう一度結ばれた。取り返しのつかない罪、金の子牛を拝むという偶像礼拝の罪を、主は赦してくださった。もう一度、一緒に歩んでくださると、主は約束してくださった。民の嘆きは、喜びに変わった。
モーセが、主から命じられた幕屋建設を民に呼びかける(35:4-19)。幕屋を建設するということは、それまで時折しか出会うことの出来なかった主が、いつも共にいてくださるということ、遠い場所でしか出会えなかった主が、生活の場の真ん中にいてくださるということ、そしてシナイ山などの特定の場所に行かなくても、主ご自身が民と共に旅をしてくださること、のしるしである。
幕屋の建設は、確かに「 主が命じられた言葉」(35:4)であるが、その言葉を聞く者たちにとって、決して重荷ではなかった。もう一度神が「私たちと一緒に、私たちの群れの中にあって、歩んでくださる」と約束してくださったのだから、人々はその喜びでいっぱいだった。ここでも恵みの先行がみてとれるだろう。
人々は「モーセの前を去って」(35:20)、それぞれの生活の場に戻っていく。そして、それぞれの生活の場から、「心動かされ」「進んで心から」(35:21)、献げものを携えて、モーセの前に、主の前に戻って来るのである。いかに人々が、喜びの思いに突き動かされていたのかが分かる。
献げられたもののリストを、一つひとつ読み上げてみると、実に様々なものが、実に様々な立場の人たちから献げられたことがわかる。力に応じ、賜物に応じ、ある者は手元にある物を、ある者は新しく紡いだ糸を、それぞれがそれぞれの献げ物を携えてきた。人々はそれからも「毎朝、随意の献げ物を彼のもとに携えて来たので」、必要以上の物が集まり、モーセが「これ以上」「必要はない」と命令するほどだった(36:3-7)。人々の心からの献げ物を持って、神のため、民のための新しい幕屋の建設が始まったのである。
臨在の幕屋の原義は会見の幕屋。神が臨在し人々に出会う場所である。幕屋の建設は、荒野においてイスラエルの民たちが神に礼拝をささげるためのものであった。主イエスは、「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまことを持って礼拝すべきである」と教えられた。礼拝とはこの御言葉のように、神と私たちとの真実な交わりである。それは決して神の大いなる御業をただ眺めていることではない。神の愛とそれへの応答が礼拝である。そこにだけ「まこと」がある。私のために独り子さえ惜しまずに与えてくださった神に、私たちも最高のものを喜んで捧げていくところに、まことの礼拝がある。
イスラエルの民は、モーセの勧めに従って、それぞれ自分の持てる物を主のもとに携え上った。そして彼らは主が示された通りの幕屋を建造することができた。その時、「主の栄光が幕屋に満ちた」(40:34)と聖書は証言している。われらもまた彼らのごとく主の栄光の目撃者とせられたいものである。