平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

進んで心からする

2013-02-26 11:24:35 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年2月24日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「進んで心からする」 出エジプト記35章20-29節

 イスラエルの民たちは、神との契約を破ってしまった。しかし、一度壊れた契約が、「憐れみ深く恵みに富む神」(34:6)の赦しを得て、もう一度結ばれた。取り返しのつかない罪、金の子牛を拝むという偶像礼拝の罪を、主は赦してくださった。もう一度、一緒に歩んでくださると、主は約束してくださった。民の嘆きは、喜びに変わった。
 
 モーセが、主から命じられた幕屋建設を民に呼びかける(35:4-19)。幕屋を建設するということは、それまで時折しか出会うことの出来なかった主が、いつも共にいてくださるということ、遠い場所でしか出会えなかった主が、生活の場の真ん中にいてくださるということ、そしてシナイ山などの特定の場所に行かなくても、主ご自身が民と共に旅をしてくださること、のしるしである。

 幕屋の建設は、確かに「 主が命じられた言葉」(35:4)であるが、その言葉を聞く者たちにとって、決して重荷ではなかった。もう一度神が「私たちと一緒に、私たちの群れの中にあって、歩んでくださる」と約束してくださったのだから、人々はその喜びでいっぱいだった。ここでも恵みの先行がみてとれるだろう。
 
 人々は「モーセの前を去って」(35:20)、それぞれの生活の場に戻っていく。そして、それぞれの生活の場から、「心動かされ」「進んで心から」(35:21)、献げものを携えて、モーセの前に、主の前に戻って来るのである。いかに人々が、喜びの思いに突き動かされていたのかが分かる。
 
 献げられたもののリストを、一つひとつ読み上げてみると、実に様々なものが、実に様々な立場の人たちから献げられたことがわかる。力に応じ、賜物に応じ、ある者は手元にある物を、ある者は新しく紡いだ糸を、それぞれがそれぞれの献げ物を携えてきた。人々はそれからも「毎朝、随意の献げ物を彼のもとに携えて来たので」、必要以上の物が集まり、モーセが「これ以上」「必要はない」と命令するほどだった(36:3-7)。人々の心からの献げ物を持って、神のため、民のための新しい幕屋の建設が始まったのである。
 
 臨在の幕屋の原義は会見の幕屋。神が臨在し人々に出会う場所である。幕屋の建設は、荒野においてイスラエルの民たちが神に礼拝をささげるためのものであった。主イエスは、「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまことを持って礼拝すべきである」と教えられた。礼拝とはこの御言葉のように、神と私たちとの真実な交わりである。それは決して神の大いなる御業をただ眺めていることではない。神の愛とそれへの応答が礼拝である。そこにだけ「まこと」がある。私のために独り子さえ惜しまずに与えてくださった神に、私たちも最高のものを喜んで捧げていくところに、まことの礼拝がある。
 
 イスラエルの民は、モーセの勧めに従って、それぞれ自分の持てる物を主のもとに携え上った。そして彼らは主が示された通りの幕屋を建造することができた。その時、「主の栄光が幕屋に満ちた」(40:34)と聖書は証言している。われらもまた彼らのごとく主の栄光の目撃者とせられたいものである。

受難曲

2013-02-26 10:30:57 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年2月24日 受難曲

 イースター(復活祭)を準備するための6回の日曜日を除く40日間を教会暦では「受難節」(英語ではレントという)と呼ぶ。今年のイースターは3月31日。よって受難節は2月13日の水曜日から始まっている。

 40日という期間はイエス・キリストが荒野で40日間祈りと断食を行ったという聖書の記述にちなんでいる。古代教会では、イースターの前に信者が40日間の祈りと断食の生活を送っていた。中世の時代に入っても、断食の習慣、とくに受難節に肉を食べないという習慣が守られていた。

 「受難」という言葉は、キリスト教国でない日本では必ずしも一般化しているとはいえないが、イエス・キリストが無実の罪で捕らえられて裁判にかけられ、ついには十字架上で刑死したことを指している。しかし、キリスト教にとってイエス・キリストの十字架上の死は「受難」ではあっても「悲劇」ではない。その後の「復活」があるからである。

 このように考えていくと、「受難曲」というものを単に暗い悲劇的な音楽作品としてとらえることは明らかに間違っている。数ある受難曲の中でも有名なバッハの「マタイ受難曲」は私も何回かコンサートやカセットで聴いたが、心の奥深いところから祈りが自然とわき起こるような感動をいつも味わった。

 確かに「マタイ受難曲」は、イエス・キリストの受難と死を時系列的に扱ってゆく作品だから、明るく喜ばしい気分の音楽となるはずはないが、受難は終わりでなく新たな始まりであり、その先に見えているのは復活の喜びと救いの希望である。「マタイ受難曲」がイエス・キリストの死を境にむしろ緊張感が解け、安らかなものとなっていくのもそのためであると言われている。

 第63曲コラール「血潮したたる主のみかしら」は賛美歌でも歌われていてなじみ深い。一度聴いたら忘れられない美しい受難のコラールである。受難節に「受難曲」を聴くのも有意義な過ごし方だろう。

心の扉を開く

2013-02-22 14:38:40 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年2月17日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「心の扉を開く」 ヨハネの黙示録3章17-20節

 聖書全体の中で、20節の御言葉ほど、祈りの本質について明らかに示してくれるものはない。祈るとは心を開いて主イエスを迎えること。

 私たちの祈りが主イエスを動かすのではない。そうではなくて、主イエスが私たちを動かして祈らせて下さる。まず、主イエスが私たちの心の扉をたたかれる。主イエスが、私たちの心の中に入りたいと知らせてくださる。私たちの祈りは、いつも主イエスが私たちの心をたたいてくださっていることの結果である。
 
 主イエスは、私たちの心の扉をたたき、私たちが祈りによって扉を開き、すでに用意されている祝福を受けるようにと招いて下さっている。そして、主イエスは静かに私たちの心に入り、よい働きをしてくださる。このことをたとえて「私たちと共に食事をする」と言っておられる。共に食事をするということは、親密な楽しい交わりをするということ。このことは、神が人との親密な楽しい交わりを望んでおられることを示している。なんという恵み。
 
 ここに一つだけ問題がある。それは私たちの心の態度、姿勢である。私たちは悩みの時に、あるいは悲しみに沈んでいる時に主イエスを迎えたいと願っているだろうか。それが祈りにとってもっとも大切な問題である。それは、主イエスを仰ぎ見ること。悩みや悲しみのただ中で、祈りの目を救い主イエスに向けること。言葉に出すかどうかは神にとっては問題ではない。祈ることはある意味ではこのように単純なこと。だから、祈りは私たちの心の中の姿勢ともいえる。祈りとは神に対するはっきりとした心の姿勢。祈りの目を救い主イエスに向けること。だから「悔い改め」が求められている。
 
 この黙示録の最初、2章から3章にかけて記されているのは、七つの教会への手紙である。そしてどの教会に対しても、「耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい」と語られている。悪霊ではなく神の霊、キリストの霊が語る言葉、神の言葉が聞こえているか、と問うている。しかしこの言葉は批判の言葉ではなく、「悔い改め」を求めている言葉である。七つの教会あての最後の手紙の終り近くに簡潔に言われている。「悔い改めよ」(19節)。すべてはここに集中する。神の言葉を聞きつつ罪に気づかされ、そこから身をひるがえして神のもとに帰ること。それが求められている。そのために主イエスは戸をたたかれるのである。

祈りは、私たちの心の中の一つの姿勢。それは心の姿勢。祈りとは神に対する明白な心の姿勢。神は天においてご自分に訴える祈りをすぐ知られるお方である。言葉に出すかどうかは神にとって問題ではない。神の言葉に耳傾け、罪に気づき、悔い改めて、あらたに主に目を注ぐ。そして心の扉を開けることである。

「使命・懸命・運命」

2013-02-21 14:43:07 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年2月17日 「使命・懸命・運命」

 以下は『使命を生きるということ』(柏木哲夫・樋野興夫著 青海社 2012)から引用した3人の方々の言葉。

 三浦綾子さんはかつてNHKのインタビュー番組で「使命っていうのは、命を使うと書きますよね」と話された。続けて、三浦さんは「私の使命は小説を書くことだとずっと思ってきました。体が弱ってから小説を1冊書き上げると、もうくたくたになるんです。あー、命を使ったなあって思うんです」と語られている。実感のこもったすごい言葉だと思う。「命を削る」とはこのようなことだと思わされた。

 瀬戸内海の小さな島の診療所でずっと診療を続けてこられた老医さんの言葉。最初はそれほど使命感に燃えていたわけではないけれど、困っている人の助けになるならと、島の診療所に奥さんと一緒に赴任した。初めは次の医師が見つかるまで1、2年いて、自分も都会に帰ろうと思っていた。ところが島の住民が素朴な、いい人たちで、医師がいなくなったらその人たちが困るだろうと、一人きりの診療所で「とにかく懸命に働いてきました」と言われる。「懸命」とは「命を懸ける」と書く。この老医は命を懸けてきたとは意識しておられないふうであるが、確かにこの老医は命を懸けてこられた。

 東日本大震災で夫も子どもも亡くされて、ひとり仮設住宅に暮らしている40代のクリスチャンの女性の言葉。つらい体験を話された後、「これも私の運命だと思います」と言われたとある。その言い方は、決してネガティブではなく、起こったことすべてを受け止めた「運命」だと思わされたそうだ。「運命」とは「命を運ぶ」と書く。聖書の中に「神のなさることは、その時々にかなって美しい」という御言葉があるが、キリスト者は、すべてのことには、何らかの神の意思があり、意味があると考える。だから、どんなつらい状況でも、それが命を運ばれたと受け止める信仰の強さというものをその女性の言葉から感じる。

 「命を生きる」って何だろうと、あらためて深く考えさせられた3人の方々の言葉でした。

神の国の最も小さい者

2013-02-21 14:39:54 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年2月10日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「神の国の最も小さい者」 ルカによる福音書7章18-35節

 バプテスマのヨハネは、律法を尊重し、悔い改めにふさわしい実を結ぶことを求め、罪の赦しを得させるバプテスマを宣べ伝えた。ヨハネは自分の後から、聖霊と火によってバプテスマを授ける方が来られ、自分はその方の靴の紐を解く資格もない(3:16)と語っているが、自分の想像を超えるイエスの大胆な振る舞いに戸惑い、二人の弟子たちを獄中より派遣して「『きたるべきかた』はあなたなのですか、それとも、ほかに誰かを待つべきでしょうか」(20節)と尋ねさせた。
 
 しかしイエスはヨハネの問いに直接答えることはせず(22節)、自分で見聞きしたことをもって自分で判断するようにと伝え、預言者イザヤの言葉(イザヤ書35:5,42:7)をもって答えた。
 
 ヨハネの弟子たちが去ると、イエスは人々にバプテスマのヨハネについての証言を語る(24節以下)。「預言者以上の者」(26節)とは、次の27節にあるように「メシアの先駆者」と言う意味で、メシア到来前の預言者の時代にあって最も偉大な人物だということである。しかし続く28節の言葉が衝撃的である。「女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい」。    

 私たちが普通するように人物をその「功績」とか「影響力」によって評価する限りは、この言葉の意味を理解することはできない。イエス以前の「律法」が支配する世界においては、人は「功績」「影響力」という見えるもので評価されるのが普通だった。そしてヨハネは律法によってなしうる最大の仕事をしたのである。
 
 しかしイエスによって神の国が宣べ伝えられた今、もはや律法による評価は過去のものとなった。神の国では人を「功績」や「影響力」で比べようとすること自体が成り立たない。神の国では、「ひとり」がまったく異なった次元で計られる。そこには、一人ひとりの存在に与えられている「輝き」「命」を大切にするまなざしが満ちている。
 
 イエスの宣教の活動は、そんな神の国のまなざしを伝え、喜びの分かち合いへと人々を招く。イエスと出会い、そのまなざしにふれるとき、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(22節)出来事が起こっていた。
 
 バプテスマのヨハネは律法を誠実に守る方向で、人びとが悔い改めにふさわしい実を結び、神の国に備えるべきことを伝えた。律法の世界でなしうる最大のことをヨハネはしたと言えるだろう。
 
 しかし、ここに挙げられている人びとは、律法の世界ではいずれも「資格のない者」として打ち捨てられていた人々である。ヨハネの語る「悔い改め」もなしようもない人々である。しかしイエスの伝えた神の国はそんな一人ひとりに「輝き」「いのち」を与える世界であり、それぞれが主の愛を受けて輝き生きる世界なのである。

ノンクリスチャンから見たバプテスト

2013-02-12 14:17:31 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年2月10日 ノンクリスチャンから見たバプテスト

 『なんでもわかるキリスト教大事典』(朝日文庫 2012 950円)の著者、八木谷涼子さんはノンクリスチャンで作家である。一方で、キリスト教の教派とその専門用語に多大な関心を持つ、自他共に認める「キリスト教会オタク」だそうである。

 このような本は普通、クリスチャンの神学者が編集したり書いたりするものだが、この本は違う。だからそれまでになかった切り口での記述が新鮮で、興味深い。内容も客観的で、図版も多くて分かりやすい。お薦めの一冊である。

 そこで、さっそく、我が「バプテスト」はどのように紹介されているか読んでみた。最初に小見出しの下に「幼児洗礼を認めず、自覚的な信仰を持つ信者のみで構成」とある。的を得た説明である。さらに箇条書きに説明が続く。「◎大衆的なプロテスタント◎洗礼(バプテスマ)は、全身が浸かる方式だけ◎ひとりひとりが教会を支える◎ゴスペルで熱狂的に盛り上がる礼拝も◎キーワードはバプテスマ、浸礼、新生◎代表地域は北米とアフリカ◎イメージとしては、キング牧師、カーターとクリントン両元大統領◎信者は四千万人以上」。これに「各個教会主義」「教会政治は民主的な会衆主義」を付け加えてほしいと思ったが、よく特徴を言い表している。

 「礼拝に行ってみると」の項目も興味深い。「個々の教会によってかなり幅があるがフランクな雰囲気のところが多い。教会堂はシンプルで、バプテスマに使うための小さなプールのようなバプテストリー(浸礼槽)を備えているのがふつう。儀式的な要素は一切なく、説教は平易で力強い。ゴスペル音楽で熱狂的に盛り上がる教会もある。子どもだけでなく、全年齢の人を対象にした教会学校がある。礼拝中に読まれる式文はパターンが決まっているが、祈祷に関しては自由。牧師以外の役員が司式を担当することもある」。

 「なるほど」とこちらが感心する説明。あなたならバプテスト派をどう説明する?

罪人を招くイエス

2013-02-12 14:13:43 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年2月3日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「罪人を招くイエス」 ルカによる福音書5章27-32節

 当時、「罪人」(律法を踏みはずした人)と同様に人々から非常に疎んじられていた取税人レビにイエスの方から声をかけられた。レビが座っているのを「見て」とあるが、これは単に偶然にイエスが見られたということではなく、「罪人」と見なされていた取税人をあえてイエスの方から選ばれた、イエスの決断的招きがここに見てとれる。
 
 「取税人」に声をかけ、彼らと食卓を共にするということは、そのことによってイエス自身もまた周囲の人々から「罪人」と見なされることを承知の上での招きだった。そのように自らの実存をかけて自分を招いてくれているイエスが、レビには心から嬉しかったのだろう。彼もまた「いっさいを捨てて」「立ち上が」る。神の愛に対する応答である。
 
 「学歴」や「職業」「身分」といった「肩書き」で人を見るのでなく、一人の人間として尊重するイエス。自分を安全圏において上から迷える者を導くのではなく、一緒に食卓を囲む仲間となって自分に出会ってくれたイエス。このイエスとの出会いの喜びをレビは「盛大な宴会」という形で表現した。これも神の愛に対する応答と言える。 イエスのまなざしにふれるとき、私たちの心の中で命が輝きだす。その喜びが自然と人に伝わり、楽しい食卓の仲間がさらに広がっていく。
 
 ところがその宴会の様子を見て、当時のユダヤ教の指導者たちは厳しい批判を浴びせた(30節)。しかし、この批判に対してイエスが明確に答えられる。「健康な人」「義人」を招くためではなく、「病人」「罪人」を招くために自分は来たのだと(31節)。
 
 このイエスの言葉の意味を理解するためには、当時のユダヤ教の礼拝観を押さえておく必要がある。ユダヤ教においては、健康であることは神からの祝福のしるしで、反対に病気は何らかの「罪」(律法を踏みはずす行為)に対する神の「報い」だった。そのため「義人」(律法を守っていいる人)や「健康な人」による礼拝こそが神に喜ばれる、神の前にふさわしいものと理解され、「病人」や「罪人」は礼拝所の外で祈ることが当然とされていた。
 
 しかしイエスは、このユダヤ教の礼拝観をひっくり返し、礼拝所の外に追い出されている「病人」や「罪人」をこそ招いておられる神の愛を示された。
 
 では、「健康な人」や「義人」は招かれていないのだろうか。そんなことはない。イエスが問題にしているのは、「自分こそ神の前にふさわしい」と自負し、「病人」や「罪人」たちと自分は違う質の人間だと思い上がっている「義人」の姿勢である。「罪人」と自分との間に線引きをして罪人らを外へ追い出している限り、神の招きは外の「罪人」らに向かう。それゆえ「義人」がそのことに気付き「自負」を捨てて「罪人」たちとの食卓に飛び込んでいくようにとイエスは招いておられるのである。
 
 最後にイエスは「罪人を招いて悔い改めさせるためである」(32節)と言われる。ここで「悔い改め」と訳されているギリシア語の「メタノイア」は、方向転換のことであり、ものの見方、価値観が変わることを意味する。イエスは、「義人」たちのユダヤ教の律法理解を大胆にひっくり返して、「罪人」を招く神の愛を示したのだが、しかし「罪人」が招かれた時点で「救い」が完成するかというとそうではなく、その招きに与かった「罪人」の生き方が、自分中心から神中心へと変えられていくところに救いの目的があることをこのイエスの御言葉は示している。

 立ち上がり、一切を捨てて従っていく、イエスのために盛大な宴会を催す。これらは神の愛の招きに対する応答、すなわち悔い改めの結果なされたことだと言えよう。

礼拝中は拍手してはいけないの?

2013-02-05 12:18:49 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年2月3日 礼拝中は拍手してはいけないの?

 春名康範著『マンガdeキリスト教入門』(日本キリスト教団出版局)に上記の表題の文章があって、私も以前から、「どうなんだろうな?」と思っていたので、興味深く読みました。皆さんはどう思われますか?以下一部引用します。

 日本の教会では、反応がありません。説教の導入の部分で面白い話をしても笑ってくれません。どうも昔の偉い先生が、「説教では笑ってはいけない」「礼拝堂では静かに」「教会では人を見るな、神さまだけをみなさい」と、教えてくださったことが原因みたい。

 でも、私は日本の教会が活性化するためには、逆のことをしたほうがいいと思うのです。礼拝堂に入ったらキョロキョロして、誰が来ているか、独りぼっちの人はいないか、初めて来た人が困っていないか、見まわすべきです。説教で感動したら「アーメン」と合いの手を打つべきです。だって、「アーメン」は「そうだ、その通り」という意味もあるのですから。拍手があってもいい。聖歌隊の賛美にも拍手したいですよね。せっかく練習して歌ってくださったんだから。お祈りの時も「アーメン」と大きな声で唱和しましょう。力をこめて、心をそそぎ出して祈っても、誰も「アーメン」と言ってくれなかったら、祈った人は無視されたみたいでさみしいですよね。もっとも、一言祈るたびに「アーメン、おお主よ」とあんまり合いの手が入るとお祈りしにくい時もありますが。

 もちろんいろんな考え方があって、礼拝は神に捧げるものだから人の言葉や歌を拍手してたたえるなんてすべきではないと言う人もおられるでしょう。しかし、今の日本の多くの教会はあまりに活気がなく、まるで葬式かと思うほどに暗く感じます。キリスト教信仰は、「福音」を聴いて歓ぶことですから、笑いと活力に満ちてて当然、そういう礼拝に出席して、初めて来た人も元気づけられ、「また来よう」と思えるのではありませんか?

 引用は以上です。私は春名さんの意見に基本的に賛成ですが、無理せず自然体で反応するのがいいように思うのですが。

神との契約

2013-02-05 12:16:36 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年1月27日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「神との契約」 出エジプト記34章1-10節

 あなたの人生の中で一番重要な契約は何か。そして、神との契約とは何か。
 
 契約というものは相互の信頼関係があって始めて成立する。また、契約には当事者の立ち合いが必要。そこでモーセは神の命じられたとおり再びシナイ山に上り、神と会う。32章にある前回の契約では、モーセが山を下る前に民が裏切り、モーセは2枚の板を砕いてしまった。今回も前回と「同じ石の板」と言われている。それは神があきらめていない証拠。どうしても神の民と契約を結びたい。そこで今回は失敗しないように、まず神が名前を明かし、自己紹介の宣言をされる。
 
 主と民との関係は一度壊れてしまったが、主は「前と同じ石の板」を切るようにモーセに言われた(34:1)。その板に、主は以前書かれていた言葉を、もう一度記してくださる。モーセが準備を整えてシナイ山に登っていくと、主はその御名を宣言される。その方の名は「主(ヤハウェ)」であり、主こそ、「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」方(34:6-7)。もちろん主は義しくあられるから、罰すべき者を罰せずにはおかない。しかし、三代、四代まで罪を問うが、その慈しみは幾千代にも及び、その広さ、豊かさは民を覆う。主は、一度破壊された契約をもう一度結び直すことによって、そういう方であることを表わしてくださったのだ。
 
 モーセは御名の宣言を聞いて、「急いで地にひざまずき、ひれ伏して」、主に願う(34:8)。「主よ、私たちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、私たちの罪と過ちを赦し」てください、と民に代わって懺悔する(34:9)。約束をしたすぐそばから、その契約を破ってしまうような民なのだ。それゆえ、主に「罪と過ちを赦し」、「受け入れて」いただくことによってしか、この契約を結び直すことはできない。
 
 ほかならぬ「主」が、自由な方として、「恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」(33:19)方として、もう一度契約を結んでくださった。それは一度目の契約と同じ言葉で結ばれたが、イスラエルの民は「罪と過ちを赦された」民として契約にあずかり、歩んでいくことになる。
 
 ここには愛の神が私たちを導き護ると宣言されている。しかし、道を外れたときには罰し、正す、神の愛と神の義が書かれている。これが契約内容である。この契約は、人間同士の契約との違いも明らかである。人間関係においては信頼関係がないため契約書と担保が必要。そしてギブ・アンド・テイクである。しかし神との契約の特徴は無条件で、先に神が私たちを愛してくだる。さらに石の板以上に明確な契約書が私たちの信仰。これは砕くことができない。神が私たちを愛し、私たちがそれに応答する時、私たち自身が神の愛によって砕かれ変えられ、私たちの人生を通して、神の業がこの世に現れるのである。