平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

責任論 

2015-04-27 07:37:45 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年4月26日 責任論 

 責任ということを考えるとき、二つの要素がある。他人の責任と自分の責任。とかく物事がうまくいかないと、とりあえず他人のせいにしてしまう人が多い。世の中の景気が悪い、社会が悪い、政治が悪い、などと他人の責任を追及する。しかしよく考えてみると、自分に起こった問題の多くは自分に原因があるものである。

 それを自覚して生きた人もいる。米国のトルーマン元大統領は自分の執務室のテーブルの上に「the buck stops here(すべての責任はここで止まる)」という言葉を置いていたという。自分で責任を取るという決意である。この自責という意識が非常に大切であろう。

 人を指差すとき、五本の指はどうなっているだろうか。人差し指で人を指したとき、指三本は自分を指している。そして一本は上を指している。この指の形は何を象徴しているだろうか。これは人を責めることが一つあるなら、その三倍は自分に責任があるということ。自分で三倍犠牲を払いなさいということである。そして、もう一つ大切なことは上を向いている指が一本あるということ。それは、神に最終的な責任を仰ぐということを意味している。責任ということを考えるとき、そういう三つの要素で考え、自らも犠牲を負うということを忘れてはいけないだろう。

 失くし物をした時、日本のことわざに「七度探して人を疑え」ということわざがある。責任を問う場合はそのくらい慎重にしなければいけないだろう。四本の指を全部自分に向けて、親指だけを上に向けると、これはうまくいくという表現になる。自分を犠牲にするのを最大限にして他人に対して責任を問うことをやめると、うまくいくということだ。

 *『聖書力』(中野雄一郎著)112‐114p要約して引用。

箴言を通読して 

2015-04-23 10:46:06 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年4月19日 箴言を通読して 

 水曜日午前の祈祷会で「箴言」を読み始めたのが2014年9月24日。今週の祈祷会で最後の31章となるので、約7か月かかったことになる。箴言をこれだけ丁寧に読み、学んだのは初めてであったが、楽しかった。箴言は単刀直入に語る。「寸鉄人を刺す」である。なるほどと思わず膝を打つこともあり、あまりの率直さに笑うこともあった。

 箴言の「箴」という字は細いことを意味し、はりの用をする細い竹、また、針に通じるとある。「箴石」という言葉もあって、昔、石で針を造り、患部を刺して病気を治したことから転じて、「箴」という字は、「いましめ、いさめ」をも意味することとなる。そして、深い経験を踏まえ、簡潔に表現した戒めの言葉が「箴言」と言われるようになった。

 箴言とは、一般に用いられる短く含蓄のある格言のこと。聖書で箴言と訳されたヘブライ語には、「比喩」とか「たとえ」といった意味がある。それは一般に真実と認められている意見、あるいは判断を簡潔かつ容易に記憶される形式に要約したものである。

 知識と違って知恵は、生活の知恵ともいうように、実生活のしるべとなり、人が生きるうえでの方向づけをしてくれるものである。知恵は豊かな人生経験、失敗や敗北を経て得られるものである。それは、人間が生きるうえでの価値観、生き方のノウハウでもある。

 では、知恵の本体とは何か。それは、人間関係をより円滑に処理していくための「呼吸」のようなもの。それは社会の中で自分を生かす「気働き」ともいえる。その気働きの知恵を与えてくれるものは、時代を経て生き残っている箴言、名言名句である。

 「智慧と戒めをもつは沙門なり。智慧あれば戒めあり。戒め深ければ、智慧もまた深し」とは釈尊(ブッタ)の言葉。沙門とは出家して仏門に入り、道を修める人のこと。「戒め深ければ、智慧もまた深し」とは言い得て妙。ここに箴言と知恵の関係がある。箴言を読んでみませんか。

心の病気

2015-04-16 14:41:21 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年4月12日 心の病気

 体の病気は体の変調でわかります。同じように心の病気も、自分の心の中にある不満や憎しみ、虚栄やわびしさ、また敵意などによってわかります。体がどんなに健康でも、人間の中心ともいうべき心が病んでいては、決して幸福には暮せません。ここでは症状から病名を診断してみましょう。

 愚痴と不平の咳が連発する人は、心の風邪をひいています。言い争いとけんかの発作にしばしば悩まされる人は心の喘息です。恨みと妬みの影が胸に広がり、悪口や嘘の痰が出て、ついには怒りの大喀血を起こす人は、心の結核にかかっています。要注意。

 人の幸運によって傷つき、いつもイライラしている人は、心の高血圧です。汚れた思いと言葉と行いの腐れが広がり、みだらなことや間違った男女関係を平気で行い、その結果離婚となり、最も大切な人たちを泣かせ、不幸に突き落としてしまう人は、心の癌にかかっています。すぐ治療しなければなりません。

 いつも何かにつけて自己中心的な視点で考え、相手の立場に立つことができない人は、心が近視です。一方、自分の欠点と失敗は見ないで、ただ相手の誤りと弱さを過大視して、人を裁いたり、悪く言ったり、批判ばかりする人は、心の遠視です。

 どうでしょうか。私たちは変調をきたしていないでしょうか。自分の心の健康状態を診断し、心を健康な状態に保つように努める必要があります。「箴言」の4章23節に「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」とあります。「これ」というのは、教え、戒め、教訓、知恵などを指します。

 私たちは適当な栄養バランスの取れた食物を得ることで体の健康を維持します。それと同じように心の健康のためにも心の食物は必要不可欠です。肉の糧と同時に心の糧を毎日いただかなければなりません。心の糧は聖書の御言葉です。み言葉によって、心の診断をし、生きる力をいただきましょう。

祈りは霊的呼吸

2015-04-09 15:34:12 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年4月5日 祈りは霊的呼吸

 主権とイニシアティブ(主導権)はいつも神の側にある。「シェマー(聞け)、イスラエルよ。」(申命記6:4)とある通り、神が語り、人がそれを聞くのである。どこまでも神が主であり、人間は従である。

 この場合、「聞く」よりも「聴く」という漢字を使いたい。「聴」の旧字体は「聽」である。「聽」という漢字は本来「耳と目と心を一つにして、十全に用いて王の声に耳を傾ける」という意味を持つ。

 そのようにして向こう側から響いてくる聖なるお方の御声に耳を澄ませ、無心になって全身全霊を傾けていく。神が語り、人が「聽く」。これこそ聖書が私たちに求める「祈り」の姿勢であろう。

 私たちにとって祈りは「霊的呼吸」でもある。呼吸が止まったら死んでしまうように、祈ることを止めたら私たちは霊的に死んでしまう。神がご自身の「息」をアダムの鼻に吹き込んで生命を与えたように(創世記2:7)、私たちもまた神の息を吸い込んで生きる。神の呼気は人間の吸気、人間の呼気は神の吸気。「インマヌエル(神、我らと共にあり)」の神はかたわらにあって私たちと「呼吸を共にしてくださる神」でもある。

 神は必ずその祈りを聞かれると宗教改革者ルターは信じていた。祈りが神に喜ばれ、必ず聞き入れられることを疑ってはならないが、いつでもそれが祈る通りにかなえられるとは限らない。それがどのように実現するかという「時、場所、分量、目的」などは、神がよいようにしてくださることを信じて、神に任せるべきである。

 最近、祈りに関して「さかなとねこ」が大切であるとある本で読んだ。「讃美、感謝、慰め、執り成し、願い、告白」の最初の語を組み合わせたものだ。自分の日頃の祈りはどうだろう。「さかなとねこ」がちゃんと入っているだろうか。ともあれ、私たちが神に祈ることができるということは、何という恵み、何という喜びであろうか。