平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

あなたは聖書をどう読んでいるか

2019-03-25 13:55:09 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2019年3月24日 主日礼拝 杉野省治牧師
「あなたは聖書をどう読んでいるか」 ルカによる福音書10章25ー37節

 このお話は「善きサマリ人」の話としてよく知られている話だが、話のつながりとしてはその前の個所において、主イエスと弟子たちが天に名前が書き記されていること、言い換えるならば「永遠の命」を喜びあっているときに、ある律法学者が「永遠の命」を受け継ぐためには「何をしたらいいのか」と質問した話の流れになっている。

 律法学者は、実は答えを知っている。「試そうとして」とあるように、律法学者は自ら「知恵ある者」(10:21)として答えを持つ者であると自負している。主イエスは、問いをそのまま彼に返す。「律法には何と書いてあるか?あなたはそれをどう読んでいるか」。すると、律法学者は「…あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と答えた。律法学者の答えはユダヤ教、つまり律法の中核を成すもので、誰でもよく知っている教え。しかし、主イエスはそこで終わらず「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と話を続けられる。これは律法の行いによって命を得なさいと言われているのではなく、話の流れから言えば、天に名前が書き記され、永遠の命に生かされている人の生き方として、そのように行いなさいと招いておられるのである。

 この話の中心的なポイントは、主イエスが彼に「あなたはどう読んでいるのか」と問いかけたこと。当時の律法学者たちは、律法の言葉を大切にしているようでいながら、むしろ逆に、彼らの読み方、解釈などの言い伝えによって、律法が本来伝えている神の御心を矮小化していた(マルコ7章参照)。

 律法学者はさらに主イエスに「自分を正当化しようとして」、「では、私の隣人とはだれですか」と質問する。律法学者たちの解釈では「隣人」とは「ユダヤ人の同胞」という意味であり、そのような隣人愛を実行してきたことを自負する律法学者は、自分を正当化しようとしたのである。そのような彼らと主イエスは、神学論争はされない。むしろ、だれともよくわからない人が助けられたシンプルな物語を語ったのちに、ただ一言「誰がその人の隣人になったか」と問われ、律法学者から「その人を助けた人です」という応答を引き出された。

 追いはぎに襲われた人は「ある人」と書かれている。その人がユダヤ人であるとは記されていない。何者かわからないということがポイント。サマリア人は、倒れている人が「ユダヤ人だから」助けたわけでなく、また「ユダヤ人にもかかわらず」助けたわけでもない。サマリア人は、相手が何者であろうと、倒れている人を「憐れに思って(はらわたのちぎれる思いに駆られて)」介抱したということが重要である。

 「祭司」はエルサレム神殿の宗教儀式をつかさどる聖職者。「レビ人」はその祭司の下で奉仕する人たちで、民衆の教育にも当たることがあった(歴代誌下17:8-9)。彼らが追いはぎに襲われた人を助けなかったのは、倒れているのがユダヤ人かどうかわからなかったからでもあり、ユダヤ人だと分かれば彼らは隣人愛を実行しただろう。「隣人とはだれか」という考え方自体が問題なのである。主の祈りに「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」とあるが、この「我ら」にはだれが入るのか。

 イエスが問題にしたのは「隣人とはだれか」ということではなく、「あなたは誰の隣人になるのか」ということ。律法に何が書いてあるかを知ることも大事だが、それを「どう読んでいるのか」こそが問われているのである。

 主イエスは、愛について語るのではなく(定義)、具体的な愛の行為こそが重要なのだ、と言われたのだ。そこには民族や宗教の相違を超えた愛が、隣人観における「内」と「外」を超えた隣人愛が語られている。要するに、彼が傷つき倒れていて、助けを必要としているゆえに、サマリア人は立ち止ったのである。「隣人とはだれか」ではなく、「誰がその人の隣人となったか」と問われているのである。ここに主イエスの普遍主義的愛のあり方を見ることが出来る。今一度、立ち止まって、私たちの信仰生活を吟味してみよう。自分は聖書をどう読んでいるか。

10年を振り返って 新しい出来事を中心に 

2019-03-25 13:46:31 | 牧師室だより

牧師室だより 2019年3月24日 10年を振り返って 新しい出来事を中心に
 
 今回は新しい出来事に絞って、10年を振り返ってみた。前回と同じく年末の十大ニュースより抜粋。

 2009年:5月1日杉野省治牧師、着任。7月12日に多くのお客さんと喜びの牧師就任式。今後の教会形成のための話し合いが8月から月1回行われる。水曜の夜の祈祷会が再開された。教会のホームページが古田真里姉の奉仕により、リニューアルされた。プロジェクター購入。

 2010年:6月20日より全年齢層の礼拝(子どもメッセージ)とプロジェクターの使用の試行始める(月一回)。8月より子どもメッセージを毎週行なう。久しぶりに教会バザーを11月23日に行う。収益金を福祉団体へ寄付。その他にも春から教会員による英語教室や子育てさろんが開始されたり、パソコン、プリンーを新規購入した。

 2011年:高齢者の集い「サロン虹」を始めた(12月1日)。10名の参加。教会学校などで活用するためにデジタルテレビやデッキも新規購入。聖歌隊が「シニアフォレスト湘南平塚」でクリスマス賛美の奉仕。

 2012年:「私のプロフィール」集を作成(1/15)。月1回(第3木曜日)のホームレス支援の炊き出しを6/14より始める。

 2013年:1年かけて信徒会で検討してきた「信仰告白」を3月の総会で承認。教会学校デーはサマーナイト礼拝として行う(7/21)。 南小会室のテーブル新調。

 2014年:4月より「子どもの広場」始まる。4月ルンバ(掃除ロボット)購入。6月、ホームページをリニューアル。

 2015年:4月より「みんなのカフェ」始まる。

 2016年:1月よりビジョン委員会の話し合いが始まる。月報(祈祷計画と会計報告)が1月より始まる。

 2017年:手芸の会、4月より地域へ呼びかけ、新たに参加者が与えられた。

 2018年:子どもプロジェクトの一つ「こひつじひろば」が4月からスタート。

 残念ながら取りやめた活動もあるが、常に前向きに取り組んできたことがわかる。感謝。

キリストにおいて一つとなろう

2019-03-22 10:18:53 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2019年3月17日 主日礼拝 杉野省治牧師
「キリストにおいて一つとなろう」 マタイによる福音書16章13ー20節

 私たち人間はいろいろな問題に悩まされる。悩みの中で疑問や迷いを抱き、問いを持つ。しかし今朝、聖書を読むと、人間は問うだけではなく、問いかけられてもいるという。神が私たちに問われる。主イエスを通して神が私たちに問うている。そしてこの神の問いかけに答えることが、人間のいろいろな悩みや問題の答えになるのだ。神のその問いかけとは、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」という問い。主イエスはそう問いかけた。ここに実は人間にとっての「最大の問いかけ」があると言ってよいと思う。聖書はその問いかけのために書かれているといってよいだろう。

 人生には確かにいろいろな問題がある。例えばトラブルがあり、悩ませられることが様々起こる。そして私たちは自分を見失い、進むべき方向を失い、他者ともうまくやっていけなくなる。しかしその時にも、この最大の問いかけ、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」という問いかけを聞き、この問いかけに答えながら生きるとき、人間は真実に生きることが出来る。

 主イエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。この問いに弟子のシモンは答えた。「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」。そう答えたシモンを主イエスは「岩」だ、ペテロだと叫んで、「その上に私の教会を建てる」と言われた。今朝、皆さんは教会の礼拝に集まって来られた。それは、実は「岩の上」に来たのである。教会はその岩の上に立っている。それはまたどんな問題や悩みの中にあっても私たちの人生を真実に生きることの出来る「岩」である。その岩とは「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」という、主イエスに対する信仰告白である。これが教会の土台であり、また私たちの人生の土台なのである。

 では、一体、教会とはどんな群れだろうか。それは、どんな時にも、この主の問いかけとシモン・ペテロの答えが生きて、力を発揮しているところである。この問いを「最大の問い」とせず、またあの答えを失ったとき、つまり世の中にはもっと深刻な問いがあると考えたり、もっと別の答えがあると思ったとき、教会はその命を失い、力を失う。逆に、これこそ「最大の問い」とし、それに対する真実な答えをする時、教会はどんな時にも力を発揮する。

 主イエスは言われた、「私の教会を建てる」。教会(エクレシア)という言葉は、呼び集められた者の集会、あるいは群れ、という意味。主イエスは弟子たちをご自分の周りに呼び集められた。十二弟子を選んだということは、神の民であるイスラエル十二部族を象徴して、選んだのである。神の民が新しく建てられ、集められるために主イエスは来られ、十字架にかけられた。

 新しく神の民が集められるにはどうしたらよいだろうか。何によって民は集められ、一つにされるのだろうか。私たちは罪によって自分自身失われた人間。また、罪によって他者を失う人間である。自己中心のあまり、愛することができない人間である。それにもかかわらず、教会は新しい神の民としてどのように建てられるのだろうか。呼び集められた人間の群れ、教会も愛に失敗するのではないだろうか。その教会が罪と死に打ち勝つところと、どうして言えるのだろうか。天の国に通ずるとどうして言えるのだろうか。それは「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子」、この主への信仰告白によって可能にされる外はないのである。

 「あなたはメシア(キリスト)」、そうお答えする時、私たちはそのメシアの民とされる。「あなたはメシア(キリスト)」、そうお答えする中で、私たちは罪を赦され、愛の破れを癒される。死から生き返らされる。そうお答えする中で、私たちは真のクリスチャンにされていく。キリストに結ばれ、死と罪から解放され、天の国へと通じる存在にされている。私たちも答えようではないか。「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子」と、そう答えることが可能である。天の父がそれを可能にしてくださる(17節)。神は私たちがそう答えることを喜んでくださる。

 平塚教会も今までもそうであったように、これからも「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」と、大胆に信仰告白していく群れとして、祈りをあわせ、キリストにあって一つになって歩みを進めていこう。

10年を振り返って 営繕を中心に

2019-03-22 10:11:20 | 牧師室だより

牧師室だより 2019年3月17日 10年を振り返って 営繕を中心に

 10年を振り返ると実にいろいろなことが思い出され、とてもこの欄では書ききれないので、建物や境内の改修、修繕、手入れなど営繕に絞って振り返ってみた。年末に「数えてみよ、主の恵み」と題して10大ニュースを取り上げたが、そこから引用した。

 2009年:春に牧師館、教育館の改修工事。さらに夏、教会墓地の改修工事をする。

 2010年:教会内外の改修工事(5月~7月、中庭門扉、教育館床、会堂引き戸、電気配線工事)、元ホームレス仲間によるボランティア作業で会堂や牧師館の側地整地工事や庭木の剪定など(10月~12月)、さらに会堂にエアコン設置(12月19日使用開始)。

 2011年:会堂の電気配線改修工事(5月)や玄関灯の取り変え工事。トイレ改修工事を行い、長年の不便さを解消。障害者用も設置できた。台風15号(9月21日)により教育館2階屋根破損。そのため10月5日の大雨で雨漏り。その後急いで補修工事。費用は保険の補償金で賄えた。

 2012年:特になしだが、春から夏に雑草取りを行った。

 2013年:エアコン献金、目標額が満たされ3月末で感謝して終了。生きがい事業団に除草依頼。

 2014年:2月、45年ぶりの大雪で教育館雨漏り、10月、大型台風直撃で会堂漏電、牧師館雨漏り。牧師館以外はそれぞれ修理した。

 2015年:1月寒波による教育館水道管破裂、修理。6月中庭南側の樹木伐採。11月自転車置場整備。
  
 2016年:6月、音響機器新規設置。

 2017年:漏電ため、会堂・教育館の電灯、電線の補修。こひつじ館の献堂、子ども献金の開始。

 2018年:1月寒波により中庭の水道管破裂、8月台風で会堂玄関横の水銀灯倒壊、秋の台風で会堂屋根瓦破損など。それぞれ修理や撤去。牧師館屋根葺き替え、外壁補修と塗装。

 このように毎年、老朽化や台風などの自然災害による雨漏り、漏電、漏水、破損などに悩まされ、また除草、植木の剪定などに苦労したが、これも広い敷地、3つの建物が与えられている恵みゆえの悩み、苦労と思い、みんなで頑張ってきた。感謝でいっぱいである。

神による神への犠牲

2019-03-11 06:55:02 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2019年3月10日 主日礼拝 杉野省治牧師
「神による神への犠牲」 ヘブライ人への手紙9章11ー15節

 今日一般には、「犠牲(いけにえ)」という言葉はあまり使われてないのではないだろうか。死語になっている。「犠牲」という言葉が使われるとしても、例えば酔っ払い運転の「犠牲」と言うように、その人自身の責任でないのに禍を受ける場合で、避けることができれば避けたかったというような、否定的な意味合いで用いられる。「犠牲」に積極的な意味があるとは理解されていない。だから、「犠牲」という言葉は、現在では宗教的な次元でも、神との関係において理解されていないし、それが持っている積極的な意味も理解されていないと思う。しかし人間の生き方には、「犠牲」なしには成り立たないところがある。家庭生活でも職場でも、福祉や医療や教育の現場でも、権利の主張だけでは成立しない部分がある。「犠牲」という言葉を死語の中から救い出し、積極的な意味合いで理解する必要があるように思う。

 特にイエス・キリストの十字架の理解には、この「犠牲」という言葉は不可欠である。イエスの十字架の死をどう理解し受け止めるべきだろうか。聖書によるといくつかの意味、いくつかの受け取り方がある。今朝はその中から、主の十字架は、私たちの罪のための贖いの「供え物」「祭壇に供えられた犠牲(いけにえ)」だということについて、わずかなりとも理解して、受難節の信仰生活の糧を与えられたいと思う。

 「犠牲」としての十字架は、「キリストの血」を強調している。「血」は「いのち」の象徴。そしてそれは、「大祭司キリスト」(11、25節)という興味深いキリスト理解と結び付いている。「大祭司」は、神と人間の間の仲保者、取り次ぐ者として働く。さらにその「犠牲」は、「ただ一度」(12、26、28節)のこととも言われている。だから、イエス・キリストの十字架が「犠牲(いけにえ)」だということは、主イエスご自身が「大祭司」(仲保者)として、「ご自身の血」(いのち)を「祭壇」に注ぎ、ささげられたということである。それはもはや二度と繰り返すことが出来ない。それはもはや繰り返す必要のない仕方で、ただ一度にして「永遠の贖い」(12節)を成し遂げられるのである。

 「犠牲」は祭壇において、神にささげられる。それは「神との和解」のため。真実の「生きた礼拝」が出来るようになるため。そのためには「罪が取り去られ」なければならない。「罪」は人間を神から引き裂く。この「罪」が「取り去られる」必要がある。そのための「犠牲」である。現代人に「犠牲」という言葉があまりぴんとこないのは、この「罪によって神から引き離される」ということの深刻さがぴんとこないということだろう。人間の本当の問題は、神問題なのである。神から引き離されていることなのである。しかしそれがなかなかぴんとこない。「神なしで生きられる」「信仰なんてなくても幸せ」。しかし、ぴんとこようとこなかろうと、神から離れていることこそが、人間と社会の根本問題なのである。こうも言えるだろうか。ぴんとこようとこなかろうと「神があなたを愛しておられる」ということは真実なのだということ。そのことに気づかないだけなのだということ。

 さらに、14節に「永遠の霊によってご自身を傷のないものとして神にささげられたキリストの血」とある。キリストの「犠牲」は「永遠の霊」の働きだというのである。ということは、それは神ご自身の御業ということである。「大祭司キリスト」が神に「ご自身の血」をささげる。そのことは「永遠の霊」によったのだ。主イエスの十字架は「神による神の十字架」なのだ。「神による神への犠牲」である。キリストの「犠牲」は「罪を取り去る」ため。というのは22節「血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない」からである。しかし、それは神による神への犠牲だった。そこに「ひとたびにしてまったき犠牲」と言われる理由がある。「永遠の贖い」と言われる理由もある。神によるのでなければ、罪の赦しはあり得なかった。私たち自身が罪の者だからである。しかし、「一度にしてまったき犠牲」がある。だからこそ、今日も私たちはそのキリストの犠牲のゆえに罪を取り去られ、礼拝の恵みにあずかることが出来るのである。私たちのどの礼拝も、どの説教も、どのバプテスマも、どの主の晩餐も、どの祈りも、この主の「ひとたびにしてまったき犠牲」によらなければ成り立たない。

 このことは私たちの信仰生活に決定的である。私たちの人生はどこまでいっても主の十字架によるほかない。「主の十字架によって御国に入るまで」、日々主の十字架によるのである。御国に入っても、その根底には主の十字架がある。主の犠牲によって真の礼拝があるのだから。この後、賛美する新生讃美歌543番の4節では「世にある中も、世を去るときも、知らぬ陰府にも、審きの日にも、千歳の岩よ、わが身を囲め」と賛美している。「千歳の岩」は1節にある「裂かれし脇の、血しおと水に、罪も汚れも、洗い清めよ」とあるように、主の十字架である。その「犠牲」である。その主の十字架の犠牲は、世にあるうちだけのものではない。世を去るときも、主の犠牲に囲まれている。知らぬ陰府にも、審きの日にもである。私たちは知っている、キリストの犠牲とその愛を。いや、知らされている、気づかされたのである。キリストの血による犠牲によって罪赦された者とされたことを。だから、そのことを覚え、感謝し、献身の思いを持ってこの受難節を過ごしていきたいと思う。

10年を振り返って ホームレス支援 

2019-03-11 06:01:39 | 牧師室だより

牧師室だより 2019年3月10日 10年を振り返って ホームレス支援 

 10年前、平塚に赴任する時、許されるならばやりたいことの一つにホームレス支援があった。北九州にいた時、O先生(H教会)たちの活動をお手伝いしたかったが、何しろ新米の牧師で本業で手一杯、さらに園長という仕事も加わり、いくらもお手伝いできなかった。自分の中では消化不良というか中途半端な気分が残った。

 平塚に赴任すると、前の牧師K先生もホームレス支援に関わっていて、教会もそれに協力していたと知り、少し落ち着いた7月に初めて平塚パトロールに参加した。当初、平塚は横浜、川崎についでホームレスが多く、100名前後だった。リーマン・ショック後の不況が大きく影響していたと思われる。その後、市の福祉事務所でも巡回パトロールを始めたり、済生会病院の院長たちが巡回診療を始めたりと官民一体となった取り組みが進み、現在は40名前後と減ってきている。

 赴任した年の12月には生活困窮者の支援団体「サポーティングハウスひだまり」を平パトの仲間と作った。ホームレスから居宅設定するまでの住居としてアパートの一室を借り上げ、そこを拠点に食事会や生活相談、医療相談、そのうちDV被害者のシェルターとしても活用するようになった。利用者が多くて教会の教育館もシェルターとして利用することが度々あった。

 追悼集会を7年前から始めた。最初は八幡山の旧横浜ゴム記念館で行っていたが、使い勝手が悪く、教会でするようになった。追悼者は現在28名にもなった。また平パトでは以前、教会の中庭で年2回程度、バーベキューの食事会をしていたが、それを定例にして月1回の炊き出しを始めた。始めたころは15名前後だったが、今は8~9名前後である。親しくなった元ホームレスの方たちに剪定、草取り、もちつきのお手伝いなど、ずいぶんお世話になった。

 これらの活動を通して、さらに子ども食堂、フードバンク、学習支援の団体など多くの市民活動とも連携するようになった。多くの出会いと経験をさせてもらい、教会の中だけでは学べない貴重な10年間となった。感謝。


今も共に歩まれるイエス

2019-03-07 17:47:58 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2019年3月3日 主日礼拝 杉野省治牧師
「今も共に歩まれるイエス」 コリントの信徒への手紙二2章5-11節

 ここでパウロは「悲しむ」という言葉を使っているが、何か教会の中で不祥事があったようだ。詳しいことはここではわからない。それはパウロ自身にとっても大きな悲しみであり、同時に、それは教会のすべての人々を悲しませたのだ。パウロはここで、不祥事を起こしたその人に対する自分の思いを述べているのだが、それを「悲しみ」という言葉で表現している。そして、その悲しみの感情をあなたがたも持ってほしいというのだ。ひどいことをしてくれた、おかげで自分たちは恥をかいた、そういう怒りや憎しみではなく、あるいは、もうあきれ果てて突き放してしまう、という思いでもない。「悲しみ」である。

 人は、自分のしたことに関して、怒りや憎しみを人々から受けて、そこで反省をして自分の非を認める、ということはあまりない。自分自身の非というものはわかっている。わかっているけれども、素直に認められない。非はわかっていても反発をしてしまう。自分だけではないではないか、というふうに思う。ほかの人間もそういうことがあるのではないか、というふうに考える。しかし、自分のしたことに対して悲しまれるとき、人は苦しくなる。あるいは、そうやって自分のしたことに対して他の人が悲しんでいるということを知ったときに、自分の非、つまり間違いを思い知らされる、認めさせられるという経験をする。

 ルカによる福音書に、イエス・キリストが捕らえられて裁判を受け、死刑の判決を受ける場面がある。その時、弟子のペテロはその裁判を遠くから見守りながら、大勢の人々の中に混ざっていたのだが、あなたはあの人の弟子ではないか、あの人と一緒にいたのではないのかと言われて、彼は「知らない」と三度否認したと書かれている。その時のことがこう書かれている。「主は振り向いてペテロを見つめられた」(ルカ22:61)。これは裏切ったペテロを見た悲しみのイエス・キリストのまなざしである。そのまなざしの中で、ペテロ自身は自分のやったことを本当に心底知らされたのである。自分のしたことに対して周りの者が悲しむ、あるいは肉親が悲しむというのは、だれにでも何かの経験があると思うのだが、悲しまれて初めて自分の罪悪を知り、あるいは自分のやったことに対する自分自身の痛みを経験するのである。それが「悲しむ」ということである。その悲しみによって、人は自分の罪悪を認めさせられる。

 パウロはここでこう言っている。「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです」(6-7節)。る。「多数の者から受けたあの罰」というのは何なのかは、書いてないのでわからないが、おそらくいろんな人から何らかのことを言われたのだろう。あるいは注意をされたり、叱責をされたのだろう。しかし、それで十分だとパウロは言う。それ以上追い詰めてはいけないと言う。そうでなくて、「赦して、力づけるべき」だと言うのである。そして「愛するようにしてください」(8節)とも書かれている。赦すということは、痛みを自分も負うということを意味している。自分が痛むことも苦しむこともなく人を赦すなんてことは普通はできない。赦すということは、自分も痛い思いをし、苦しい思いをすることである。特に、自分に関わる出来事、自分が赦さなくてはならないときには、何らかの傷を自分も受ける。

 無償で赦すということはない。人々からの責めをそのそばに立って一緒に受ける。赦すということは多分そういうことだろうと思う。そして「力づける」というのは、ただ「がんばれ、しっかりやれ」と言っているのではない。痛みを共有している、一緒に苦しんでいる、その罪のために、そのやったことのために、一緒に苦しんでいる者として力づけるのである。

 なぜパウロがこういうことを言っているのかというと、これはイエス・キリストの私たちに対する関わり方であるからである。イエス・キリストは私たちの罪をご自分の痛みとして身に負い、そうして一緒に悩む方として私たちを励ましてくださる、あるいは力づけてくださる方である。向こう側から、離れたところから、「がんばれ」と言っているのではない。あるいは、上の方から「しっかりしろ」と声をかけているのでもない。私たちの悩みのただ中で、一緒に罪を担いながら、共にいて、そして励ましてくださるのである。これが、イエス・キリストが私たちの救い主であるということの意味なのである。かつて私たちを救ってくださったという、そんなことではない。今も私たちの救い主でいてくださる、私たちの罪を担っていてくださる、今も一緒にこの道を歩いてくださる。そういう中での励ましをいただきながら、私たちは生きているのだ。ただただ主の恵みと感謝である。

新聞拾い読み 

2019-03-07 13:50:22 | 牧師室だより

牧師室だより 2019年3月3日 新聞拾い読み 

 毎日、新聞を読んでいて、時に考えさせる話題、励まされる記事、改めて知る内容、そして素敵な言葉に出会う。某日の新聞から拾い読み。「もう少し『金』曜日を減らし意識して自然と触れ合ったほうがいいんじゃないか」(本田亮「折々のことば」)。何のことかと首をひねった。「曜日の名はもっと自然に触れ合えと伝えている」と続く。なるほど、確かにそうだ。「月を見る、火をおこす、水と遊ぶ、木に触れる、土を踏む、陽光を浴びる」。「『金』を稼ぐばかりだと、心が乾いてしまうよと」忠告。その通りだとうなずく。

 同じ日の「天声人語」に「あせらず、あわてず、あきらめず」は経営やスポーツの哲学としてしばしば聞く心構え、とあった。教会形成や牧会にも当てはまると思った。とにかく「あせる」が禁物。2千年の教会の歴史の中で今の現状を見つめる余裕を持ちたいと思った。

 漫画家の里中満智子さんの「語る -人生の贈り物-」のコラムに、「ことばは男にとって第三の価値しかない。第二は行動、第一は生きる姿勢だ」とあった。漫画の登場人物に語らせた言葉だ。ちょっと待って、私はそうは考えない。私は人間の生きる上で大事なのは(第一なのは)「ことば」だと考えているからだ。「男は頭で考え、女は子宮で考える」と誰かが言った言葉があるが、確かに男は言葉で論理的に考える傾向がある。これも新聞記事に書いてあったが、小さな子が泣いていると、男性は近寄って「なぜ泣いているの、どうしたの?」とすぐ聞くが、女性はまず抱きしめて、よしよしをする、とあった。皆さんどう考えますか。

 このように新聞は毎日、いろいろなことを考えさせてくれたり、教えられたりで、有意義で楽しい。と思っていると同じ日の投稿欄に高校教員からの次のような声があった。勤務先の定時制高校生に新聞を読んで欲しいと、一緒に「新聞読み方講座」に参加したら、生徒に変化があったという。「最初はやらされてる感があったが、しぶしぶでも読んでいると自分のためになっていることがわかった」と生徒の感想。そうでしょう。