平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

深い淵から主を呼ぶ

2018-09-26 16:20:06 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年9月23日 主日礼拝 杉野省治牧師
「深い淵から主を呼ぶ」 詩編130編1~8節

 信仰をもって分かったのだが、クリスチャンになる前の私は(私だけでなく、無宗教の多くの日本人は)、試練の時、悲しみにある時、絶望的な状況に置かれた時に、この詩人のように「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」と呼び掛ける対象を持っていない。この詩人は呼びかける対象を持っている(それは同時に応答があると信じていることを意味する)。この詩人は、深い淵から主を呼ぶ。呼びかけられる対象があるのだ。それは答えてくださる神だ。だから「あなたを呼びます」ということができる。祈ることができるのだ。

 この詩は苦難、苦悩の奥底から神に助けを呼び求める言葉をもってその歌を始めている。この詩人はそういう中から神に呼ばわっている。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます」(3~6節)。罪という問題から深淵というものを感じ、その所から神に呼ばわって、神のゆるしを待ち望んでいるのである。

 言うまでもなく旧約の神は義の神であり、もろもろの人の罪を処罰せずにはおられない厳しさを持っている。しかしそれ以上に憐れみの神であり、赦しの神である。神の義は常に神の愛に包まれている。神学者で牧師であった浅野順一先生は、次のようにある本で書いておられる。「義は義によって義であるのではなく、義は愛によって始めて、真に義であることができる。そうでなければ義はしばしば憎しみに変わる。主イエスの教えるごとく敵をも愛する愛、そこに神の義が成り立つ」。

 詩人の今ある状況は深淵にたとえられているほどに厳しく暗くあった。しかし暁は近いのである。詩人が主を待つと言っているのは、主の「いつくしみ」「あがない」を期待するからであり、そこに赦され難き不義なる罪も赦される根拠があり、救われる理由があるのである。そのためには人間の側において何の保証も努力も必要としないのである。使徒パウロが神の憐れみと慈しみについて、ロマ書9:15-16で「神はモーセに、/『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」と言っていることに通ずるであろう。

 神のゆるしを待ち望むことを新約への預言とするならば、それはイエス・キリストを待ち望むことであり、本当に神に赦されるよりほかに私たちの新しい人生はあり得ないのだということをこの詩人は知らされ、待ち望んでいたのである。そしてその神の御言葉が肉体を持って宿ったのがイエス・キリストであり、十字架の上から「あなたの罪はゆるされた」と宣言してくださるのである。ゆるしを感謝して受け取ろう。そして信じて新しい希望の世界に生かされていこう。「主に望みを置いて待つ」という信仰である。

証 し

2018-09-26 15:02:51 | 牧師室だより

牧師室だより 2018年9月23日 証 し

 (証者は2000年に日本人の男性と結婚をして、中国東北部から来日された女性です)
 私はK・Wです。2000年に中国から日本に来てから教会に通うようになりました。子どもの頃、中国では教会に子どもたちが通っていなかったので勇気を出して行くことができませんでした。日本に来て、教会に行くと癒されて楽しかったので特別なことがない限り行って、たまに礼拝後の食事をしたり、聖書を読んだりして、気に入った聖書箇所に蛍光ペンで線を引いたりしました。

 昨年12月に卵巣の手術を受けました。たまたま会社の健診で貧血だと分かり、内科の先生に婦人科を受診するよう勧められましたが、子どもの高校受験と時期が重なり最初は無視していました。たまたま時間があったので婦人科を受診したところ、市民病院に行って詳しく検査するよう勧められました。市民病院に行ったら手術が必要と告げられ、頭が真っ白になりました。すごく悩みました。その時会社の同僚が手術の経験があって、いろいろな話を聞きました。手術の一週間前に教会に行った時、Hさんに話したら、牧師先生に祈ってもらったほうが良いと言われたので祈ってもらいました。

 入院する日は一人でバスに乗って病院に行きました。夜怖くて眠れませんでした。14年前長男の出産のため入院していた時は、ママ友もでき、楽しく過ごせましたが、今回は全然違って、人間って弱いものだと思いました。主治医は手術も成功し、重い病気でなくてよかったと喜んでいました。手術が終わったあと、健康が大事だと気付きました。日曜日の夕方に牧師先生夫妻がお見舞いに来て祈ってくださいました。水曜日にはAさんとSさんがお見舞いにきて祈ってくださいました。本当にうれしかったです。入院中と退院後、賛美歌「いつくしみ深き」を聞いたり、聖書を読んだりして癒されました。

 手術前は聖書はただ素晴らしいみ言葉だと思っていたのが、手術後は一つ一つのみ言葉が心に響きました。神様は何で一生懸命信じて教会に通っているのに何も与えてくれないのかと憎んだりしていました。でも今は、何より大事な健康を与えてくださったことにとても感謝しています。

安心して行きなさい

2018-09-21 16:31:26 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年9月16日 主日礼拝 杉野省治牧師
「安心して行きなさい」 マルコによる福音書5章25~34節
       
 今日の聖書箇所の最後の場面で、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われているが、文字通り理解すれば、彼女自身の信仰によって、彼女自身を救った、ということになる。いわゆる自力本願か。では、本当に彼女は自らを救ったのか。キーワードになる彼女の信仰とは何だろうか。彼女は、「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」(27節)と記されている。さらに「『この方の服にでも触れれば癒していただける』と思ったからである」(28節)とその動機が記されている。そこに彼女の信仰を見て取れないだろうか。

彼女の置かれていた状況を見てみよう。彼女は「十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけだった」(25~26節)とある。それ故、「『この方の服にでも触れれば癒していただける』と思った」というのはよく理解できるし、自分だってそうしただろと思う。皆さんもこれ以上、説明はいらないと思う。押さえておきたいのは、彼女は「イエスのことを聞いて」(27節)、決断し、そのような行動を起こしたということである。彼女はあらゆる「迷い」や「ためらい」を越え、あるいは「妨害」を越えて、「イエスの服に触れ」る行為をしたのだ。ここに彼女の決断、すなわち信仰を見ることができるだろう。

私たちはこの時、彼女がどれだけ大きな障害、妨害、躊躇、ためらいを越えたかということを知らなくてはならないと思う。信仰とは、まず「聞いて」、そしてあらゆる障害、妨害を越えて決断し、行動していくことだ、ということを教えられる。

私たちに主イエスにもっと近く触れることを妨げるどんな障害があるだろうか。自分は無資格だ、無価値だ、能力がない、罪深い生活をしている、あるいは周囲の人々が妨害している、身近な人々の無理解がある、将来の不安があるなど言い訳がどんどん出てくる。しかし信仰はそれらのどの障害をも越えてイエスに接近する。「イエスのことを聞いて」、「『この方の服にでも触ればいやしていただける』と思った」という彼女のイエスに対する確信、信頼こそ、あらゆる障害をも越えてイエスに接近させた。逆に言えば、彼女は主イエス・キリストの愛に捉えられたのだ。この主の愛を妨害できるものは何もない。全ての障害は有限なもの。どんな躓きも限りあるもの。しかし主イエスの愛は無限。恵みの愛は無限である。この無限な愛と恵みと救いの力に捉えられて、限りある障害を越えていったのだ。

信仰は誰にとっても、常に、障害を越えて行かなければならないものだ。信仰生活で試練を受けない生活はない。しかし越えることの出来ない障害は何一つないのも事実。主イエス・キリストの愛に捉えられ、癒しを受け取る信仰にとって、越えることのできない障害は、何一つない。主の愛と癒しの力が、あらゆる障害を越えて、私たちを捉え、生かしてくださるからである。

このように見てくると、救われた本当の意味で彼女を救ったのは、彼女自身の力ではなく、「主イエスご自身の中に働いている癒しの力」だった、ということがわかる。30節に「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて」とある通りである。29節に「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」とある。この女性は、主イエスの癒しの力をその身に感じた。自分の体、自分の内に、キリストの力の働きを感じ取ることが出来た。彼女は、自分自身の力を感じたのではない。主の力を感じ取ったのだ。それこそ信仰の偉大な能力である。信仰によって主の力が感じ取られ、救いが「私のもの」となったのだ。罪を赦され、神の子とされ、生かされているのを自分のこととして受け取り、感じ取ることができる。それが癒しを受け取る信仰の能力である。
 
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。この主の言葉を受けて、家路につける人は幸いである。その人は喜びを持って生きることが出来る。主の恵みの証人として、前進することが出来る。私たちもこの女性のように、あらゆる障害を越えて、確信を持ち、主に信頼して、安心をもって前進したいと思う。

昼寝の効果

2018-09-18 11:54:20 | 牧師室だより

牧師室だより 2018年9月16日 昼寝の効果

 私は子どもの頃から昼寝が苦手で嫌いだった。というより、眠ろうとしても眠れなかった。幼稚園で7月になるとお昼寝タイムがあった。講堂で仰向けになってバスタオルを掛けて寝るのだが眠れなかった。みんな静かに眠っている様子。一人、早く時間がすぎないかなと天井を見上げていたことをはっきり覚えている。

 それ以来、大人になるまで昼寝とは無縁の生活だった(中高生時代の授業中の居眠りは別・笑)。上京して電車の中でよく居眠りしている人を見かけたが私には時間の無駄に思えた。私は本を読むのに忙しかった。

 大人になって昼寝をした記憶は確か30台半ば過ぎてからか。夏休み、炎天下のグランドでの部活の指導をした後だけである。軽い熱射病状態のふらふらで帰宅。シャワーを浴び、軽くビールを飲んで昼食。そしてこの時ばかりは昼寝をした。寝ないと体が持たない感じだった。

 昼寝をよくするようになったのは、数年前のこと。テレビで昼寝の効果について特集していたのを見た時からである。ある高校で昼食後15分の昼寝を実行すると、午後の授業に活気が出、その後の部活での事故やケガが少なくなったと報じていた。また、ある作家が午後の同じ時間帯に20分と決めて毎日昼寝をするとそのあとすっきりして仕事がはかどると語ってもいた。

 最初は昼食後何となく眠くなってきたときに20分寝ることにした。寝入ることはあまりなく、ただ横になっているだけで、その時間がもったいなく感じられたが、夕方になるといつもと違って何となく頭(脳みそ)も身体も疲れが少ないことが実感されるようになった。だんだんと効果を実感し始めて、今は積極的に昼寝をするようになった。午後2時前後、20分と決めている。いろいろな都合で毎日とはいかないが習慣化していこうと思っている。

 さて、昼寝の効果だが、疲労回復、心身のリラックス効果、生産性の向上、注意力の向上、 記憶力の向上、創造性の向上、夜の睡眠の質の向上、ストレスの減少、心臓疾患による死亡率の低下、認知症の予防、眠気の予防……。実感しています。皆さんにお勧めです。

福音は驚きの連続

2018-09-13 17:06:24 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年9月9日 主日礼拝 杉野省治牧師
「福音は驚きの連続」マルコによる福音書2章1~12節
 
 福音は私たち人間にとって驚きである。主イエスの教え、御業はどれをとってみても驚きである。私たちは主イエスの話を聞いて、とても素晴らしいお話でしたとか、立派なお話でよく分かりましたということもほとんどない。当時の人々もひたすら驚いていた。マタイ福音書7章28節にも「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」とある。今まで聞いたことのないことを耳にした人々の反応がうかがえる。今日の箇所もそう。12節に「人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言った」とある。神の言葉や御業は、そのような反応を人々に起こすのだということである。神の言葉が語られるところでは、人々の心も揺さぶられ、騒ぎ立つのである。

 もともと神の言葉は人間にとって異質であるばかりか、むしろ受け入れ難いものである。立派な教えです、有難いことですと歓迎して受け入れられる類の心地よいものを持っていない。「そんなことは聞いたことがありません」と言うのが正直な私たちの反応ではないだろうか。もし神の言葉を聞いて、「よく分かりました」という程度のものであれば、それは人間の言葉の範疇にとどまるだろう。神の言葉は、人間の理解を超えている。その意味では、聞いて驚くのが自然の反応である。驚かなければ、逆に神の言葉ではない。

 さて、私が今日の聖書の箇所で驚くのは、「イエスはその人たちの信仰を見て」と語られていることである。主イエスが、中風の人の信仰を見られて、というのではない。あるいはまた、中風の人が悔い改めて主イエスの所に来たので、というのでもない。中風の人が何かをしたとは全く語られていない。自分で主イエスに近づいたというのではない。本人は何もしていないのである。でも、救いはその人のところに来たのである。「その人たちの信仰」によってである。驚くべきことだ。

 「その人たちの信仰」とは中風の人を運んで来た四人の信仰である。中風の人の床を持ち上げ、重い床を徴税人の所まで引きずってきて、屋根にまで高く運び上げて、屋根をはがして、綱をつけて、主イエスの足下にまで男を降ろした四人の信仰である。この四人がいなかったら、中風の男はどうなっていただろう。いつまでも自分の居場所に居続けて、生涯の決定的な転機を経験することもなかっただろう。完全に救いのない生涯、祝福されない人生。しかし、この中風の男のために労を惜しまず運んでくれた四人がいてくれたということが、この人に救いをもたらしてくれた。これは驚きの出来事であると同時に、私たちにとって希望の物語となる。自分の努力や修行や業績ではなく、救いは向こうからやってくる。主イエスからやってくる。そのためのとりなしをしてくれる者がいるということ。まさに希望である。

 ドイツの神学者ボーレン教授は、『天水桶の深みにて』という本の中で、妻が深く心を病んだ時、その傍らにあった自分の労苦、悩み、そして罪を語っている。病む妻がみ言葉を読むことも、祈ることもできなくなった時、何とかして自分でそれを回復するように励ましても無駄であった。その時、自分がなすべきであったことは、代わりに読み、代わりに祈ることであった、と述懐されている。代わりに祈る。それこそが「とりなし」である。誰かのために祈ることは、その人に代わって、ということである。

 もう一つ、この中風の男の物語で、私が驚くのは、主イエスがこの中風の男にこう言われたことだ。「子よ、あなたの罪は赦される」。連れてこられたのは病人。癒しの業を行われるのかなと思っていたら「子よ、あなたの罪は赦される」だ。私たちには驚きと同時に理解できない。罪の赦しなんかより、癒して欲しい、それが人間の本音ではないだろうか。なぜ主イエスはそう言われたのだろうか?

 それは人は癒される以上に、まず救われなければならないことを明らかにされるためである。中風を病む人の癒しに先立って、主イエスは罪の赦しを宣言される。すべての人は、罪人であって赦しの対象である。健康であろうと病気であろうと、幸福であろうと不幸であろうと人間としては罪人なのだから赦しを受けねばならない。中風の人に向かって、「あなたの罪は赦される」と言われるのは、病人である前に人間であることを主イエスは認めておいでになるのである。そして赦しはその人の全存在を包むもので、しかも永遠の命に結ばれるのだから、生き死にを越えた出来事としてその身に起こる。癒しは、それに反してあくまでもこの世のことであり、肉をもって生きている限りのことである。いかに癒されたとしても死ねば、そこまでのこと。癒されただけでは救われたことにはならないのである。

 福音は驚きである。しかし、このようにそこに神の真実、神の愛が隠されている。この愛を聖霊の助けをいただいて受け入れ、救いの確信を持つ者となろう。

バプテストとは何か? 

2018-09-10 06:58:11 | 牧師室だより

牧師室だより 2018年9月9日 バプテストとは何か? 
 
 私たちは「バプテストの教会です」と言ったり、「私はバプテストです」と言ったりする。では、何をもって「バプテスト」と言うのか。改めて考えてみたい。

 求道者や他教派の人たちに「バプテストの信仰って何ですか」と問われると、「聖書主義です」とか「万人祭司主義です」、「会衆主義で各個教会主義を尊重します」とか、さらに「幼児洗礼をしません」などと説明する。それはそれで間違いではないが、では、なぜそれらの主義をもって「バプテスト」と言うのか、というもっと根本的な問いが起こってくる。

 その問いに対して金丸英子先生(西南学院大学神学部教授)は『バプテストの信仰 ここに立って、私たちは…』(日本バプテスト連盟宣教研究所発行 2015)の中で、「個の自覚的主体性の尊重」であると書かれている(90p)。これは、他の諸教派に比べてバプテストになおも際立って色濃くみられる特質であると述べられている。

 バプテストは各個人による信仰告白や各個教会による信仰告白を尊重し、いわゆる「使徒信条」や「○○信条」などをそのまま鵜呑みにしたりしない。それは、人と教会それぞれの次元で「個(個人、各個教会)の自覚的な主体性」を何より大切にしているからである。バプテストはそのようにして、神との人格的な交わりのなか、個々人と各個の教会が自覚的に信仰に目覚めさせられ、主体的に信仰の告白をするそのようなあり方を早い時期からかけがえのないものとしてきた。それはバプテストの歴史からもうかがえる。

 ここで注意しなければならないことがある。「個の自覚的主体性の尊重」を履き違えると、独りよがりの自己主張の強い信仰に陥りやすいことだ。また、自己目的化、自己実現の信仰と変質する危険性がある。それは自分の信仰、自分の教会のことのみ考え、他者のことは視野に入らなくなる恐れがある(隣人性の喪失)。だからこそ,我々バプテストは、「自主独立であるが、同時に他の教会との協力を喜ぶ」ことを忘れずに告白し続けている。それは連盟や地方連合を通して互いの交わりを深め協力して伝道を進めていくことに表れているだろう。

イエスは今も呼びかけておられる

2018-09-05 15:38:05 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年9月2日 主日礼拝 杉野省治牧師
「イエスは今も呼びかけておられる」 マルコによる福音書1章14ー20節

 シモンとアンデレは漁師だった。ガリラヤ湖で魚をとって生計を立てていた。これを比喩として読むならば、ユダヤの民にとって、山は神の住む世界である。例えば、シナイ山でモーセは十戒を受け、タボル山でイエスは変容された。またイエスは山の上で教えを述べられた(山上の説教)。それに対して、海は世俗悪の世界を象徴している。例えば、レビヤタンという怪獣は海に住んでいる。それは基本的に、ユダヤ人が陸の民で、海の民ではなかったからだと言われている。この二人が漁師だったということは、世俗の世界に関わっていた人間のあり方を象徴している。つまり、私たちが毎日の生活で、お金儲けに忙しく働いたり、何かと心を煩わせている生活そのものを意味している。イエスが湖のほとりを歩いておられるとは、神自らが私たちの人間の世界に関わってくださることを意味している。だからこそ、神の国が私たちに近づいているのである。

 注意すべきは、人間が神の国の方に行くのではない。逆である。主イエスが人間の方に来てくださるのである。神の国の方が勝手に私たちの方に「近づいて」くるのである。極端に言えば、探し求める必要は何もない。ただ向こうから来ているものに気づくだけでよい。日本人の宗教観と大きく食い違う点がここかもしれない。日本人の宗教心の原点は求道心である。道を求める者がそれを見つけていくことを指す。発心して仏門に入るというのが普通である。座禅でもお稽古ごとでも、まず道を求めるものが門をたたいて、師匠に入門が許される。聖書の世界は逆である。まず、神が人間を求めている。神の国が向こうから近づいてくる。主イエスが私たちの方に歩いてくるのだ、生活のただ中に、そして突然に。ということは私たちの中に何の準備も用意もなく、ということだ。それは無条件で、神さまの方から来てくださることを意味する。

 主イエスは彼らに声をかけられる。主イエスがかけた言葉は「わたしについて来なさい」である。私も確かに同様の呼び声を聞いた。いつ、どこで、どのような状況の中で主の呼びかけを聞いたか、気づいたかは、人それぞれ違うだろう。多くの方からそのような体験の証しを聞くことがある。それはすべてユニークな体験である。祈りの最中、賛美しているとき、喜びの体験の中で、悲しくつらい最中に。実に様々な違う状況でその声を聞くのである。主イエスは今も呼びかけておられる。

 主イエスについていくとは、どういうことだろうか。人間をとる漁師になることだと主イエスは言われる。今までは魚という世俗のできことに関わる生活だった。そこから人間相手の仕事へ。愛に方向付けられた生き方へ。神の国の広がりを手伝う仕事へと向かっていくのだ。ただ世俗的な繁栄を求める生き方から、神の国の繁栄を求める生き方へ。方向転換。それには主イエスが人間に近づかれたように、私たちも人間に向かっていく生き方へとシフトしていくように呼ばれている。

 また彼らは、「網を捨てた」とある。網とは、それによって今まで生きてきた手段であり、方法。それなくしては生きることができなかったものである。時として、価値観であったり、考え方であったりするかもしれない。主に従うときには、もはや不要となるものである。これからは主御自身が彼らの「網」となってくださる。だから人間をとる漁師となるのである。それは主御自身の働きである。私たちはその主の働きに信頼して、従っていくだけである。

早朝散歩継続の秘訣

2018-09-03 12:10:23 | 牧師室だより

牧師館だより 2018年9月2日 早朝散歩継続の秘訣

 断続的であっても10年続いている早朝散歩。平塚に来て2か月目から始めた。すっかり私の日常生活の一部になっている。それまでも運動不足解消のために、プールやスポーツジムに通ったり、夕方にウォーキングやジョギングをしたりと試みたが長続きしなかった。長続きの秘訣は何だろう、と考えてみた。

 まず、早朝だと不意の電話や訪問がない。もちろん会議など出かける予定は入らない。そう、だれからも早朝の時間帯を邪魔されないので、あとは自分の体調と意志だけで実行できること。旅先でも同じで、早朝散歩を楽しんでいる。

 自分の体調と意志だけと書いたが、生身の人間だから、病気もするし、前夜遅くまで会議があった翌朝は寝坊もする。雨が降ってできない日もある。甲状腺の症状が悪化した時は1か月以上も休んだが、早朝散歩をやめようとは思わなかった。一週間に2、3日しか行けないような生活のリズムが狂った時も、早朝散歩で生活のリズムを取り戻していった。雨が降っても槍が降っても一日も休まないぞ、というような完璧主義をやめて、その辺は適当に考えると肩の力が抜けて、無理なく続け られた。

 ちょっと体調がよくない時とか少し寝坊をした時もミニ散歩と称して短めにしてあきらめずに出かけたのもよかったのだろう。そこは柔軟に考え、対応していけばいい。とにかく一日のスタートが早朝散歩から始まると後もスムーズに進行する。

 早朝散歩の後は、デボーション(聖書日課と祈り、黙想)、コーヒータイム、新聞を読む、そして朝食と続く。朝食後は日替わりメニューとなる。夜は会議や特別な用事がない限り9時には寝るようにして、5時には起きる。最近は4時に起きて散歩に出かけることもある。そんな時は朝めし前の仕事がはかどり、気分爽快。その日一日ゆとりをもって過ごすことができて快適。

 副産物もある。散歩時にチラシ配りをすること。一石二鳥。100枚持っていくと30分で終わる。少し遠くだと自転車で行って配ることもある。また、散歩をするとその日の体調がわかり、健康管理に役立つ。これからも続けたい。