平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

みんなも呼びな 神さまを呼びな

2019-01-30 15:11:23 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2019年1月27日 主日礼拝 杉野省治牧師
「みんなも呼びな 神さまを呼びな」詩編23篇1節 マタイ福音書6章25-34節

 八木重吉というクリスチャン詩人の詩に「神を呼ぼう」という詩がある。「赤ん坊はなぜにあんなに泣くんだろう /あん、あん、あん、あん/あん、あん、あん、あん/うるせいな/うるさかないよ/呼んでいるんだよ/神さまを呼んでいるんだよ/みんなも呼びな/神さまを呼びな/あんなにしつこく呼びな」。

 赤ん坊は泣き叫ぶ以外、何の手段ももっていない。しかし、赤ん坊は生まれながら神さまを知っているかのように、叫び続ける。それは私たちが手段も方法もない時、何をなすべきか、教えているかのようだ。赤ん坊は全身をもって泣き叫ぶ。言葉も知らない、歩いて取ることもできない、物を使うすべもしらない、まさに何もできない、その時、神が唯一与えたもう手段は、神に呼び求めることだった。赤ん坊は、その目的のものが与えられるまで、決して泣きやまない。神への信頼、要求の激しさだろうか。全身をふるわせて泣き叫ぶ。それは私たちの祈りに対する指針ですらある。私たちの祈りは、ぼそぼそとしていないだろうか、それは叫びだろうか。神を呼ぶと言えるものだろうか。

 有名な詩編23篇1節にこうある。「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」。これは、自分が羊であるという自覚を歌っている。羊というのは、羊飼いの守りと導きの中で生きるし、その中でしか生きることができない。その羊飼いが自分の前にいてくださる。だから自分には乏しいことがない。それで自分には十分だと歌っているのだ。人間としての満ち足りた生き方がそこに描かれている。

 しかし、私たちは、あれがあればこれがあれば満ち足れる、自分の生活は安定するのではないか、と考える。しかし、実はそうではなくて、私たちが導かれて生きるということの中に、私たちの満ち足りた人生があるということがこの短い言葉の中に歌われているのではないか。だから、私たちが何か道を開拓するというのではない。神に導かれながら私たちは歩いていくのである。導かれながら、一つひとつ前に開かれていく道を歩いていく。これが人間本来のあるべき姿。私たちはそれを信仰と言うが、信仰というのは特別なことではなくて、人間が本来あるべき姿、歩き方のことであろう。

 イエス・キリストは言われた。「明日のことまで思い悩むな」(マタイ6:34)。明日は私たちの手の中にはない。よく言われるように一寸先は闇。一寸先は何もわからない。何が起こるかわからない。どんな災難が待っているかわからないということ。その通りだ。私たちの人生は誰にとっても、不安といえば不安、頼りないといえば頼りない。だから、私たちは明日というものを自分のもとに確保しようと思う。だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩む、のだ(25,31節)。その私たちに対して主イエスは言われる。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも伸ばすことができようか」(27節)とはっきり言われる。明日の命は、私たちの手の中にはない。といって、明日のことまで思い悩んでもしょうがないではないか、と短絡的に主イエスは言われているわけではない。

 その前に、前提がある。空の鳥をよく見なさい、野の花を見なさい、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる、野の花を装ってくださっているではないか、というのである。さらにまた32節で、あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である、といわれるのである。

 これらの言わんとすることは、要するに、天の父、父なる神によって私たちは養われている、そういう存在だということである。命は私たちの手の中にはない、それは神の手の中にある。ヨブ記1:21「神は与え、神は奪う」とあるとおり。だから神は創造者としての責任と愛をもって養ってくださる。必要なものは与えてくださるお方であるということ。だからその神に求めなさい。だから「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われるのだ。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる、と約束されている。

 その前提のうえで、だから、「明日のことまで思い悩むな」と言われているのだ。そこで私たちに求められていることは「何よりもまず、神の国と神の義を求め」ること。赤ん坊のように「みんなも呼びな/神さまを呼びな/あんなにしつこく呼びな」と八木重吉が歌っている通りである。

聖句引用でお話

2019-01-30 09:34:34 | 牧師室だより

牧師室だより 2019年1月27日 聖句引用でお話

 教師という仕事は何かと生徒に話す機会が多い。朝礼や毎日の朝の会、帰りの会、学年集会、入学式に卒業式、始業式に終業式。その度に話すネタ探しに苦労した。本や新聞、テレビの話題はもちろん、手元には逸話集やことわざ・格言集なども置いて参考にした。たまに聖書の話もした(公立学校なので宗教教育にならぬよう注意を払いながら)。

 聖書の話では、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という聖句を引用して、人間は「言葉」によって成長し、言葉によって学び、言葉によって生きている、ことをわかりやすく話した。挨拶一つとっても人間関係に大きな影響を与えることなどは生徒にもよく通じた。さらに、言葉遣いや読書の大切など話を広げて話すこともあった。

 次の聖句もよく引用した。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5:4)。これは生徒にはストレートに伝わった。特に3年生の受験生を励ますときに最適だった。「忍耐」して繰り返し復習して、体に染みつくまで習熟すること、それが「練達」だ、というように話すと、生徒も部活動などで、繰り返し練習しているので実感として受け止めてくれた。

 「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録20:35)は、生徒自身に体験を話させて、考えさせた。誕生プレゼントやお年玉をもらった時の気持ち、逆にプレゼントをあげたり、優しい言葉をかけてあげたときの気持ち。その違いを考えさせたりした。また、「頂戴、頂戴」「欲しい、欲しい」ばかりの自分と「与えたい」「何かしてあげたい」と常に考えている自分、どちらが心豊かか、問うたりもして考えさせた。

 岩の上に家を建てる賢い人と砂の上に家を建てる愚かな人のイエス様のたとえ話もよくした。これなんかは説明はいらない。基礎、土台が大事という話。だから、小・中学校の勉強は人生の土台となるのだからしっかり学ぼうとなるわけだ。基礎が大事なのは何事も同じ。

あなたはどこにいるのか

2019-01-22 14:14:22 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2019年1月20日 主日礼拝 杉野省治牧師
「あなたはどこにいるのか」創世記3章8-13節

 創世記3章には、アダムとエバが食べてはならないと禁じられていた木の実を食べた後のことが描かれている。神の方からアダムとエバのところに近づいて来られた。アダムとエバをご自身の下に呼び寄せるためだ。しかし、アダムとエバは、主なる神の顔を避け、園の木の間に隠れたと、書いてある。すると、神が「どこにいるのか」と問われた。アダムは答える。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」。知恵の木の実を食べて、彼らは目が開けて、賢くなった。そして、目が開けて、これまで全く見えなかったものが見えた。あるいは、これまで全く気がつかなかったことに気がついたわけである。

 神が恐ろしくなった。神に対して丸裸。すべてが見られている存在と気づく。自分たちが神に対して逆らった行為がすべてばれていると気づく。とがめられるに違いない。今までは、彼らは神が近づいてきたら、おそらくそのもとに駆け寄ったと思う。ちょうど、子どもが、母親が帰ってきたら、母親の下に駆け寄るように。しかし、目が開けて、彼らは神のように賢くなって、そして、神が恐るべき存在だということが、わかるようになった。

 神のように賢くなったということは、神と対等、あるいは神の知恵と対抗できるくらいに賢くなったという意味である。今まで、神の知恵に守られ、神の知恵の下で生きてきた人間が、自分の知恵で生きるようになった。神が「こうしなさい」と言うと、人は「いや、自分はこういうふうに思うんだけども」と答え、神に「こちらに行きなさい」と言われると、人は「いや、あちらだっていいのではないか」と答える。それは、たとえて言えばこういうこと。親は自分の子どもについて、「こうしちゃいけないよ」と教える。「あっちに行ってはいけないよ」「ここは走ってはいけないよ」と。それは、子どもが心配だからだ。つまり、子どもの命を守るために禁じるわけである。あるいは「こちらへ行きなさい」と言う時には、子どもが正しく育っていくためにその道を示すわけである。

 創造された人間、神によって造られた人間は、いわば神の前には子どものような存在である。しかし、賢くなった人間は抗うのである。「そうは言うけれども、こっちの道を選んだ方がいいのではないか」「神はそういうけれども、こちらの道だっていいのではないか」「神のおっしゃることよりも、自分の考えの方が合理的ではないか」。そういうように、神と並び、そして神に対抗するようになると、神は恐ろしい存在になる。時に敵になり、嫌な存在になる。自分のしたいことをさせてくれない。だから、神が近づいたときに隠れたのである。自分が追及されるのではないかと恐れたのである。
 
 神に見られたくない、知られたくない。それが罪の罪たるゆえんなのだろう。罪の本質は、間違えたことをするというよりも、神に対して自分を隠すということである。つまずくこともあるし、失敗することもある。してはいけないことをすることもある。人を傷つけることもある。とっさに嘘をついてしまうこともある。それは誰にでもある。あるけれども、それを隠す。ごまかす。それが罪。間違いや過ち、それを認めない。間違いや過ちを抱いたままで、逃げ続ける、そして、逃げ続けることによって、その罪が人間を追い詰めていく。人間は自分の罪によって追い詰められて、行き詰ってしまう。

 キリストは言われた。「すべて疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。私たちは逃げて疲れている。言い訳して、自分を正当化し続けて、疲れてしまっている。重荷にあえいでいる。イエス・キリストは、その私たちの荷を負う救い主として、この世に来られた。私たちの罪をその体に背負い、十字架につけられ、そして私たちを受け入れ、赦す。そういうメシア、救い主。だから、何もかも打ち明けていいのだ。罪を告白してもいいのだ。その時に、神は私たちを受け入れてくださる。その時に、真っ暗いところに光が差し込む。イエスは言われた。「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)。

 逃げ続けて、そして落ち続けていた人間が、その時初めて生きるようになる。立ち上がる。つまり、光を受けて初めて、人は生き始める。自分のことを神の前にさらして、自分が神の光に照らし出されて、初めて人はそこから生き始める。人が生きるということは、そこからしか始まらない。光をこの身に受けるというところからしか、私たちは生き始めることはできないのである。パウロは言う。「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」(ローマ13:12)。

若い人の折々のことば

2019-01-21 14:48:09 | 牧師室だより

牧師室だより 2019年1月20日 若い人の折々のことば

 朝日新聞主催の中高生がつづる「私の折々のことばコンテスト2018」の最優秀賞などが紙面に紹介されていた。それは、心に響いた「ことば」とそのエピソードを作文にしたものだ。

 最優秀賞は高校2年生が中学2年の時、塾の成績が振るわず落ち込んで不安な心で帰宅途中、見知らぬおばさんにかけられた言葉。「あんさんが思っとるほど足下には何もなか、やけん前でも見て歩きんさい」。それで「次がんばればいいだけの話だ」と心が軽くなったという。

 私がこの「ことば」を読んで思い出したのが、坂本九さんの「上を向いて歩こう」だった。小学6年の冬、寒く暗い道を友だちの家から帰る途中、当時はやっていたこの歌がなぜか口から出て、心にしみた。上を向いて歩くのは「涙がこぼれないように」であり、なぜ涙かというと「一人ぽっちの夜」だからである。当時、人間しょせん一人、孤独な存在である、というような哲学的な見識があるはずもなく、友だちもいなくて寂しい思いをしていたわけでもなかったが、その後、悲しい時、寂しい時、なにかにつけ上を向いて歩こう、と私を励ましてくれた「ことば」である。皆さんにもきっとそのような心に響いた「ことば」があることでしょう。

 次の言葉は妙に面白かった。「はい、トイレ掃除――」。女子高校生が幼い頃、数え切れない間違いや誤りを重ねたていたある日、母親が叱らず、代わりにこの言葉を言ったという。優しさの中に厳しさがある母親の姿が浮かぶ。「行動で自分の心を整え、磨きなさいと、後になって教えてくれた」と書いている。悪さをすると何かと「罰掃除」という先生が昔はいた。皆嫌がらず半分面白がって掃除をしたものだ。

 次のことばも面白い。「わけわけ」。「年の近い妹2人。何でも『わけわけしてね』と親は言った。それが嫌で、ある時、お菓子を一人で食べた。後に残ったのはむなしさと妹の顔。わけわけは物だけでなく、優しい心や幸せだった」と高3の子が回想している。わけわけは幸せの基(もとい)。ともに食べ、ともに生きる。生きる原点だと思う。

無条件の赦し

2019-01-15 14:54:22 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2019年1月13日 主日礼拝 杉野省治牧師
「無条件の赦し」マタイによる福音書6章12節

 朝、目覚めて憂鬱になることがある。職場や家族、学校、友人などの人間関係による嫌な思いや心の痛み、悲しみ、悔しさによって暗く、憂鬱な気分になってしまうことはよくある。「赦すことのできない」苦々しい感情を引きずったまま、一日を始めないといけないことが私たちには時としてある。誰かのことを赦すことのできない人間関係は、私たちの生活を非常に窮屈な苦しいものとしていく。

 幼いころから親に傷つけられて、親のことをずっと赦せない人がいる。その赦せない思いが、やがて自分が親になったときに、自分の親にされたと同じように、自分の子どもにしてしまうということも起こり得る。赦すことのできない思いは、赦せない罪の連鎖を生み出す。

 しかし、今日の主の祈りの言葉は語る。「私たちも私たちに罪を犯してきた人を赦しますから、私たちの罪をお赦しください」。これはどういう意味だろうか?何かの取引のように見えるが、そうではない。私たちが、主の祈りに従って、私たちに罪を犯した誰かのことを赦そうとした時、そう簡単に赦せない自分に必ず出会う。そして赦せない自分の弱さにぶつかって、赦せない自分の罪に出会うのである。だから、まず何より、自分の罪の赦しを神さまに求める以外に、解決の道がないことを知らされるのである。

 主の祈りを教えてくださった主イエスは、私たちが赦せない人間関係に苦しみ、赦せない自分の罪に苦しみ続けることがないように、十字架の上から「父よ。彼らをお赦しください」と祈られ、私たちの罪を赦してくださったのである。だから、私たちは、まず「赦せない」自分の罪を正直に認めたいと思う。そして赦せない自分を、神の前に差し出していく。このことから、この主の祈りは始まっていくのである。

 よく言われることだが、「本当に赦されたという経験がないと、赦すことはできないものだ」ということ。それと同じことは、「本当に愛された経験がない人は愛することができない、また愛することがどういうことかわからない」ということである。人間は自分が経験したこと、いわゆる身に着けたこと、学習したことしかできないということでもある。

 赦すということはなかなかできないことであり、限界がある。私たちは「もういいよ、赦したよ」と言いながら、本当のところは、その人を赦していないことがある。そして、そのことを誰よりも知っている。私たちが誰かを赦そうとしたとき、赦せない自分に出会う。その時、真の赦しは、神の赦し以外にないことを知るのである。十字架の赦しを受け取らない限り、この赦しの中に生きない限り、私たちは本当の意味で赦しを知ることができない。人を赦すことができずにもがき続けている私たちの限界の前に、神からの本当の赦しをもって、あなたを赦そうとする神の愛が、私たちの目の前に差し出されているのである。

 主イエスの赦しは、十字架の上でなされた。主イエスは自分を殺そうとする者たちを前にして、祈られた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。この赦しを前にしたときに、今までの自分の赦しがどれほど小さく、本当の赦しにはほど遠いかを知る。そして、いまだに赦せない自分自身の罪深さをも知らされることになる。

 この無条件の赦しが、私たちのために先立って祈られている。自分で自分をどうすることもできない私たちのために、今も祈られている主イエスの祈り。この主イエスの祈りを聞きながら、私たちは赦された安心、平安の中を過ごすことができるのである。

 さらに、ここで祈られているのは「彼ら」と複数形。主イエスを十字架につけるような「彼ら」という、私たちの赦せない人間関係のために祈ってくださっている。この祈りがあるからこそ、私たちは祈ることができるのである。「私たちは赦します」「私たちを赦してください」と。主イエスの無条件の赦しの中に生きることが許されていることを覚え、感謝してこれからも歩んでいこう。

発想の転換 その2

2019-01-15 12:25:09 | 牧師室だより

牧師室だより 2019年1月13日 発想の転換 その2

 先週、「なぜ教会の発信は信者以外に刺さらないのか」(松谷信司@キリスト新聞)を紹介し、ともに考えた。さらに松谷氏は他業界の例を挙げ、忠告する。「出版界でもよく耳にするのは、『良書なのに売れない』という関係者のぼやきです。確かに、売れる本が『良書』とは限りません。しかし、売る(伝える)ための努力もなしに内側の関係者だけで占有している限り、その発信が信者以外に『刺さらない』のは当然です」。

 ではどうするか?「『相手に合わせた言葉選び』の重要性」を説いている。「やってはいけないのが、独りよがりの言葉を羅列すること。……ここで重要なのは相手に合わせた言葉選び。年齢、役職はもちろん、提案に対する立ち位置も見極めたい」と具体的だ。説教の言葉選びについて考えさせられた。

 さらに「ここでいう『相手に合わせる』とは、妥協や迎合ではありません。『ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました』で始まるパウロの言葉(コリントの信徒への手紙一9・20~)に示されているように、伝えたい相手に仕えるという徹底した姿勢です」と言われる。「相手に仕えるという徹底した姿勢」がキーワード。妥協や迎合ではない言葉選びをみんなで話し合ってみたい。

 最後に「すでにキリスト教を信じた人が『福音はこんなに素晴らしい』と押し売りしても、逆効果になる場合があります」と指摘。家電売り場の販売員にたとえて「客の心理としては、強引に新商品の良さをアピールしてくるような販売員は信用できません。さり気なく側に立って、『何かお探しですか?』と『聞きたいことに答えてくれる』人、たとえ安くても(販売する側の利益が少なくても)こちらのニーズに合った商品を勧めてくれる人の方が断然信頼できます」と説明。納得!

 まとめると、こちらの主観を一端脇に置き、一歩退いて客観的な情報を提供する。それこそが私たちに必要な、発信の姿勢ではないか、ということだ。思い当たること多々あり。改善の余地あり。

宣教という愚かな手段

2019-01-09 17:21:56 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2019年1月6日 新年礼拝 杉野省治牧師
「宣教という愚かな手段」コリントの信徒への手紙一1章18-25節

 十字架の言葉の愚かさ、それは下降するということである。神が下降するということは人間には不可解な、理解できないことである。神が罪人の下にまで下降するのであるから。
 
 福音書の中に、100匹の羊の中の失われた1匹を捜し求める羊飼いの話がある。いなくなった羊を捜すために、羊飼いは羊が迷って行った同じ道を辿らなくてはならない。道なき道であり、雑草やいばらの生い茂っている道である。迷った羊が傷ついたように、捜し求める羊飼いも傷つく。この場面を描いた有名な聖画がある。足を滑らせて谷を滑り落ち、灌木に引っかかっている羊。羊飼いは谷に身を傾けてその羊に手を伸ばしている。自ら危険に身をさらして危険に瀕している羊を見出すのである。傷ついた十字架の主イエスを暗示している場面である。キリストの十字架の右と左に処刑されようとしている強盗。彼らは罪の当然の報いを受けている人間。それ以外の結末はあり得ない人間。その人間の場所に、キリストは降りられるのである。

 十字架の言葉の愚かさ、それは降りていく愚かさである。自ら、あえて選んで降りていく愚かさである。それは人の知恵では理解できない。しかも、神がそういう道を選ばれるということを人は納得できない。なぜなら、人の知恵は必ず上に向かうものだからである。人の賢さは高みに向かうことしか知らないからである。高みに向かい、人を見下ろせる地点に立つことしか求めないからである。その意味で、十字架の言葉はまことに愚かである。

 しかし、「わたしたち救われる者には神の力です」と言われている。私たちはあの放蕩息子のように罪によって深く転落した。神はその私たちを追い求められる。ただ追い求めるのではない。聖なる神が罪の汚辱のただ中に身を投じられるのである。そのために神の全能の力は振り絞られなければならなかった。

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。ここには振り切る神、振り捨てる神が示されている。独り子を振り捨てるために神の力は振るわれた。罪人を何としてでもご自身の下に引き寄せるために、御子を振り捨てるのである。十字架によって救われる私たちにとって、それは神の力そのものである。神の激しい力、罪人を追い求めるために振るわれる力である。この神の渾身のメッセージを伝えるために、神は「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」と言うのである。十字架の言葉も愚かだが、それを伝えるためにも愚かな手段を選ばれた。世に救いをもたらす業をご自身の圧倒的な威力で進めようとはされなかった。人間を用いて進めようとされる。

 五千人の給食の話が福音書にある。夕暮れ時、大勢の飢え渇く群衆が追ってきたとき、弟子たちはうろたえた。群衆の激しい飢え渇きを受け止めきれないと思ったのである。群衆を解散させてくださいと主イエスに求めた。しかし、主は言われた。「あなたがたの手で食べ物をやりなさい」。弟子たちが持てる物は「五つのパンと二匹の魚」。

 主イエスはその弟子たちの持てる物を用いて、ご自身の御業を進めることを望まれた。救い主は、この弱い、限界のある、肉の罪ある人間を用いて、神の国の業を進めることを望まれた。それは、弱い、もろい、限界のある罪の人間に近づくイエス・キリストの謙遜の方法である。弱い者に弱い者を通して語りかけるのである。罪赦された人間が罪人の隣に身を置いて語りかける、それが神が選ばれた宣教の仕方である。「宣教という愚かな手段」である。「あなたがたの手で食物をやりなさい」。あなたがたにその実力があるからという意味ではない。あなたがたを私が用いるから、という意味である。あなたがたを用いて、私が神の国の働きを進めるという意味である。神の国の働きは他の仕方では行われない。この働きは神とともにあってなされる。この働きは神の御計画であり、主が進められる。今年も神とともに、主を信頼して宣教の働きに励もう。





発想の転換

2019-01-09 16:48:31 | 牧師室だより

牧師室だより 2019年1月6日 発想の転換

 孫引き で恐縮だが、「なぜ教会の発信は信者以外に刺さらないのか」(松谷信司@キリスト新聞)を紹介して、ともに考えたい。

 松谷氏は「キリスト教メディアという特殊な業界に身を置きながら常々感じているのは、教会側が発信している(伝えたい)情報と、教会の外側にいる人々が欲している(知りたい)情報との大きなズレです」と問題提起されている。

 具体的な例として、「教会のホームページや案内文にありがちな『Q&A』では、教派的特徴や聖書の用語、教義の内容に踏み込んだ解説をよく見かけますが、実際に教会を探している人々が答えてほしいと願っているのは、『駐車場はあるのか』『子連れで行っても平気か』『服装、持ち物は?』『牧師はどんな人か』といった素朴な疑問だったりするのです」と言われる。思わず、教会のホームページや案内パンフレット、チラシを思い浮かべる。改良の余地はないか…。

 そこで松谷氏は「たとえ何らかの契機でキリスト教に興味関心を持ったとしても、実際に教会の敷居をまたぐまでには相当の物理的・心理的ハードルがあります。それを和らげるためには、教会の側に相応の工夫が求められるはずです」と教会側の努力と変革を求めている。確かに教会の敷居は高いだろうと我々も思ってはいるが、ではどうすれば?…。

 そこで「まずは、外部(第三者)からどう見られているのか、何が求められ、期待されているのか――そうした自己像の検証や客観的評価、対外的な説明が必要です。教会内の人にとって『そんな些末なことは本質的ではない』と思われるかもしれませんが、外側の人にとってはそうした発信が、どれだけ『開かれているか』をはかる重要な指標になります』と言われる。「自己像の検証」「客観的評価」、これがなかなか難しい。どうやって検証するか…。第三者に聞くしかないのか…。聞く勇気があるか…。聞ける人が身近にいるか。

 まずは「こひつじ館」がどれだけ地域に用いられるか、試金石となるだろう。

新しい歌を主に向かって歌え

2019-01-03 06:31:49 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2019年1月1日 元旦礼拝 杉野省治牧師
「新しい歌を主に向かって歌え」詩篇98編1-9節

 人間の時(ギリシア語でクロノス)は2種類あるという。一つは直線的な時。過去、現在、未来という流れの中の時間。もう一つは循環する時。朝、昼、夜と巡り、また新しい朝が来る。今日はそういった意味で巡る暦の上で新しい年の始まり。新しい時を迎えたとき、今年こそはと心に思い定めるよい機会である。

 しかし、私たちはもう一つの時を生きている。それは神の時(ギリシア語でカイロス)。神の時とは、永遠、決定的なかけがえにないその時、という概念を含んでいる。聖書でいう「永遠の命」、あるいはキリストが十字架にかけられた時は決定的なその時である。一回だけのその時。その両方とも神の時、神の御計画の中にある時。時間、歴史をも支配しておられる神の時。私たちもその神の時に生かされている。

 今日の説教題の「新しい歌を主に向かって歌え」という「新しい」は神の時による新しい時の新しい歌のことである。聖書によれば、キリスト者はキリストによって新しく造り変えられた者である。パウロは、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(第二コリント5:17)と書いている。人間の文化は成長や進歩向上を遂げつつ新しさを形成するが、信仰の新しさは神の恵みによる新しさである。恵みによる新しさは、予想することもなく、計画によってでもなく、瞬時に与えられたというべき変革である。神の介入による新しい時。

 キリスト者はこの神の恵みによる変革によって、わが身をすっかり新しくされていることを驚きと感謝のうちに受け取るのである。この詩篇の作者は、「今」というこの時に神の恵みによって変革した自分自身を発見して、「新しい歌を主に向かって歌え」と言っている。

 ルカ福音書1章のマリヤの賛歌と、この詩篇とが共通しているところから、これは旧約のマリヤの賛歌と呼ばれている。「主は驚くべき御業を成し遂げられた」とあるのは、イスラエルの人々のバビロン捕囚生活からの解放のことである。それは政治的にはペルシャのキュロス王の台頭によってもたらされたものであったが、イスラエルの人々は歴史を支配しておられる神の業と見たのである。遠い異国バビロンでの捕囚生活は、彼らにとって非常な苦しみであったが、それにも増して彼らを苦しめたのは、ひたすら寄り頼んできた神への信頼のゆらぎであった。本当に神は私たちのことを覚えていられるのだろうか、本当に神はあるのだろうか、本当に神は契約(約束)されたのだろうか、そういう思いが次々と起こってきて彼らを悩ました。それだけに神は覚えていてくださった、3節にあるように「慈しみとまことを御心に留められた」という喜びは限りなく大きかったに違いない。そこから、この「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた」という喜びにあふれた賛歌が生まれてきたのである。

 マリヤの賛歌で、マリヤがあのように高らかに神をほめたたえたのはなぜか。それはこの卑しい女をさえも心にかけてくださったということを知ったからであり、その神の愛に気づいたとき、彼女はもう自分の全存在をかけて神をほめたたえずにはおれなかったのだ。この、そうせずにはおられない福音信仰が、恩寵宗教いわゆるキリスト教の根幹なのである。

 神の救いのみ業は神の勝利(口語訳)である。全地が歌うべき、すべての人に関わる勝利である。礼拝は、どんなに小さいものであっても、この勝利(神の救いのみ業)を歌い、いつも新しい歌によって作られていくのである。神の救いのみ業は日々なされているのである。神の時から考えれば、私たちは日々新しくされて、生かされているのである。神の恵みは日々私たちに与えられているのである。だから、日々新しい歌をもって神をほめたたえよう。この新しい一年も一日一日、「驚くべき御業」「くすしきみわざ」を覚え、感謝を持って歩んでいこう。