平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

神の救いの再確認

2012-10-29 16:01:52 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2012年10月28日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「神の救いの再確認」 出エジプト記 23章1-9節

 今朝の聖書個所は、モーセがイスラエルの民たちに読んで聞かせたといわれる「契約の書」と呼ばれているところである。内容的には、十戒に示された根本的な戒めを、より具体的に記しているものといえる。契約の書には様々な戒めが記されているが、その根底には「寄留者であった者が救われたのだから」(23:9)という恵みの事実が横たわっている。

 この箇所には「してはいけないこと」が列挙されている。「うわさ、悪への加担、不法、多数決で判決を曲げること、相手の困窮を見過ごすこと、偽りの発言、無実の人を殺すこと、悪人を正しいとすること、賄賂をとること、寄留者を虐げること」など。しかし、こういった規則が大切なのではない。律法は神の愛の表現なのだから、私たちを支配し、抑制し、否定するものではなく、むしろ、私たちを罪や危機、悲しみと絶望から守ってくれるものなのである。

 では、命令的で断定的で裁くような律法主義に陥らないで、私たちはどのように律法に従えばいいのだろうか。それは「神の義に生きる」ことである。その神の義に生きるには3つのポイントがある。

 第一は、「弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない」(23:3)。弱い人をかばうのは当然のように思うが、人の抱く同情はすぐに反転する。同情心が憎しみに変ったり、傲慢や自己追求、支配関係など条件によって変わる。だから同情を基準にすると神の義を曲げてしまうことになる。

 第二のポイントは「相手の条件を問わない」こと。私たちは相手を見て対応するが神の義は相手の条件を問わず、誰であれ助けるべき場合には助け、訴えるべき場合には訴え、「真実を曲げてはならない」と何度も繰り返されている。神の愛はすべての人に向けられているからである。

 第三のポイントは、敵や憎しみという個人的な感情に左右されないこと。「敵の牛が迷っている」場合や、「憎い人のろばが荷台の下に挟まっている」場合があげられている。感情で判断せずに神の義から判断しなさいというのである。

 このように考える原点は、「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持ちを知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである」(23:9)である。これは十戒が与えられた時でも同じ(20:2)。これは自分に与えられた神の救い、導きの再確認を促すものである。そうして、自分の命は神の導きのうちにあるのだという自覚を持って生きることである。これが神の義の基準となる。そうすると、自分の感情や思いだけにとらわれることがなくなる。苦しみの記憶、困難な経験を想起することは、他者を苦しめ、同じつらい思いをさせることではなく、助け支える方向へと私たちを押し出していく。

 私たち信仰者の生きる基準は「聖書」、御言葉である。いつも、神の思いを聖書から尋ね聞きながら、それに従っていくことである。私たちの生の全領域において主に聞き、主を証しする生活を確立していくことである。

神と二人の時と場

2012-10-29 12:10:23 | 牧師室だより

牧師室だより 2012年10月28日 神と二人の時と場

 家庭は自分の家を持ち、自分の部屋の鍵を持っているのでなければ、真の意味における家庭とはいえない。なぜなら、時々ひとりだけでいることが必要だからである。これは英国のある神学者の言葉である。

 つい最近までプライバシーなどないような造りの家に住んでいた日本ではピンとこないところもあるが、「時々ひとりだけでいることの必要」を感じる者は多いだろう。現代人は孤独の術を失ってしまっているかのようだ。これは現代生活の持つ問題の一つである。

 友情もいいし、なにかをみんなでやることも楽しい。仕事で忙しいのは結構なことである。しかし、そのために、一人だけではいられない、一人でいると落ち着かない、という状態に陥る危険性がある。その結果、精神の不安定を起こし、不満だらけの人生を送ることになる。常に自分の手帳のカレンダーが予定で埋まってないと不安で満足しない人などがそうであろう。

 「忙中閑有り」。これが人生の達人の生き方である。そして、私たちの模範は主イエスである。カペナウムで、自分を投げ出して人々のために一日中忙しく働いたのち、主イエスは朝早く起きて、寂しいところへ出て行かれた(マルコ1:35)。また、人々を教えたり、五千人を養ったりしたのち、群衆を立ち去らせ、弟子たちにも先に湖を渡るように命じておいて、主イエスはただ一人山へ退かれた(マルコ6:46)。

 このように時々、一人になって神と交わることが必要である。この孤独はそれ自体が目的なのではない。主イエスは孤独そのものを求めて孤独になろうとしたのではない。神に会うため、またそれによって力と平安を受け、再び人々のところに戻るために、一人になることを願ったのである。私たちも神と二人だけになるための時間と場があれば、私たちはもっと平静さと力と落着きとを与えられて、どんな環境、状況をも十分に対処しうるであろう。

世に打ち勝つ信仰

2012-10-25 17:06:39 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2012年10月21日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「世に打ち勝つ信仰」 ヨハネの手紙一 5章1-5節

 私たちの毎日の生活には、ときに思わぬ苦労が生じ、大きな重荷が長時間のしかかる時がある。今の自分の境遇はどう考えても肯定できないと思う場合もあるだろう。今朝の聖書が一言で「世」と表現している現実に私たちはさらされ、苦難を経験する。「世」には重荷があり、不合理があり、不自由なことがある。

 しかし、そうした「世」に対して、それに打ち勝つ「信仰」があると聖書は語る。4節に「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」とある。ここで言われている「私たちの信仰」とはどういう信仰か?何でもいいから信じていれば、世に打ち勝つというのではない。それは「イワシの頭も信心から」ということわざにあるような、何でもないイワシの頭でも、信心すればありがたいものになる、といった類いの迷信である。聖書はそうではなく、その信仰内容を簡潔に記している。それは「イエスがメシアであると信じる」(1節)こと。また「イエスが神の子であると信じる」(5節)ことである。それが「私たちの信仰」、世に打ち勝つ信仰である。
 
 この信仰がなぜ世に打ち勝つのか?それは、御子なる神、イエス・キリストを信じる信仰によって、神との交わりに入れられ、父なる神、そして生けるキリストが共にいてくださり、それによってキリストが既に世に打ち勝たれたその勝利に与かることができるからである。私たち自身が世に打ち勝つわけではない。そうではなくて、世に打ち勝たれたのはキリストであり、神の子であるイエスである。主イエス・キリストはそのご生涯の中で、特に父なる神への信頼と従順を貫いたその十字架の死によって世の罪と悪に勝利された。復活の主は神なき死にも勝利された。キリストは十字架にかかり、復活させられたことで、世に打ち勝たれたのである。その神の御子、主イエス・キリストを信じる信仰の中で、私たちは世に打ち勝つ者とされていく。

 では、「世に勝つ」とはいったいどういうことか。この世は暗い。この世が明るいと思っているのは錯覚にすぎない。ではなぜ暗いのか。それはみんな自分本位に生きているからである。闇は光を吸い取っていく。吸収していくところに闇がある。人間はみんな自己中心的であって、自分の益のあることはするが、自分に益のないことはしない。それがこの世である。だから人の益になる間は、人は私たちを愛してくれたり、親切にしてくれるが、人の役に立たなくなると疎んぜられるようになる。それはしょうがない。美しい花が今まで自分をどんなに慰めてくれていても、枯れてくるとゴミ箱の中に放り込むようなものである。これが世の常である。私たちがそういう世界の中だけに住んでいれば、失望落胆するほかない。しかし、イエス・キリストは何の価値もないこの私を愛してくださったということが分かると、失望落胆しなくてすむ。これが世に勝つということである。私たちはただこのイエス・キリストの中に包まれることによって、その慰めと励ましを受けて、この世知辛い世、冷たい暗い世の中に勝っていくことができるのである。

私のアルバイト遍歴

2012-10-22 17:27:47 | 牧師室だより

牧師室だより 2012年10月21日 私のアルバイト遍歴

 高校卒業まで一度もアルバイトなどしたことがなかった私が、大学を卒業するまでの6年間(浪人1年、留年1年含む)、数えきれないほどの職種のアルバイトをした。20は超えるだろう。一番長いのでまる1年間、フルタイムでビールの特約店(酒屋問屋)で働いた。皆勤して月給2万7千円。毎日毎日、重いビールをトラックに積んで酒屋さんに卸して回った。短いので3日間。水道設備工事の助手。

 お金を稼ぐためにバイトをするのだが、それ以上にお金では買えない多くのことを学んだ。まず何と言っても、バイトをしなければ一生垣間見ることも経験することもないような世界(仕事やそこで働く人々)を知ったこと。次に、バイトを通して自分を見つめることができたこと。いろいろな仕事をすると自分の性格、能力、将来のことなど、否応なく考えさせられる。さらに、仕事を通して世間(現実と言ってもいいか)というものがどのようなものであるか肌で感じ取ることができた。そのように私にとってバイトの経験はなつかしい思い出と共に人格形成にとても役に立ったと思っている。

 さて、私が一番最初にしたバイトは何だと思いますか?それは、東京で住込みの牛乳配達でした。これは辛かった。何がと言うと、朝の弱い私が4時に起きなければならないこと。起こしてくれる人はいない。この精神的プレッシャーは私にとって重かった。仕事そのものはどうってことはなかったのだが4カ月で挫折して、山口の実家へ戻った。それと当時予備校生の私は、配達時に通学する大学生を見ると、その境遇の差の現実を見せつけられたような気がして気がめいった。ならば奮起して予備校で猛勉強すればいいのになぜかその気にならなかった。

 もう紙面がない。バイト遍歴だから、職種だけ思い出すままに書き出してみる。本屋、庭師の助手、スーパー、喫茶店、測量技師の助手、蕎麦屋、運送会社の助手、遊園地、子どもの国、製缶工場、水産会社の加工作業などなど。若い時の苦労は買ってでもせよ。けだし名言なり。

特別賛美礼拝のご案内

2012-10-18 16:19:56 | 教会行事
日時:11月11日(日)午前11時~12時
場所:平塚バプテスト教会礼拝堂
出演者:小松澤恵
桐朋学園大学音楽学部演奏学科声楽専攻卒業。東京バプテスト神学校教会音楽科マスターコース卒業。卒業後3ヶ月間アメリカで教会音楽の研修を積む。日本バプテスト連盟新生讃美歌出版にも関わる。また自身作詞作曲によるオリジナル賛美曲も作り、日本のみならず、アジアや米国でも賛美者として用いられている。その他いくつかのCD製作に参加。2008年9月に初のソロ賛美CD「GRACE」をリリース。深い祈りが込められた心温まるCDとなっている。東京バプテスト神学校教会音楽科教師、ユーオーディアアカデミー講師、グレイス音楽教室主宰。聖学院小学校非常勤講師・聖歌隊指導、女子聖学院中高コーラス部指導、その他、各地で賛美歌指導特別講師としても招かれている。大久保バプテスト教会音楽主事。ユーオーディア会員。




ここに愛がある

2012-10-18 16:12:50 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2012年10月14日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「ここに愛がある」 ヨハネの手紙一 4章1-10節

 ヨハネの手紙が書かれた背景には、ギリシャ哲学によって影響を受けたキリスト教グノーシス派との神学論争があった。このグノーシス派は後に異端として退けられたが、当時は大変な影響をキリスト教世界に与えていた。

 グノーシス派は、神の子キリストは肉体を持ってこの世に生まれたのではないという考えで、キリストの受肉を否定する。なぜなら、聖なる神の子が、いやしい肉体をもっているはずがないというわけである。ではイエスは何なのかいえば、あれは神の子が一時的に宿っていた人間であるというのである。だから人間イエスは神の子キリストとは区別される。これを仮現論という。一方、正統的な聖書の立場は、イエスは肉を持っていたが罪を犯さなかったというものである。イエスは神の子にして人の子である、という立場。そういう中で、神の子キリストが肉を持ってこの世に生まれたことを否定するのは、キリスト教信仰を根本的な面で大きな危険にさらすものであった。だから「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい」(1節)と勧告する。

 イエスがエリコの町へ行かれた時、徴税人ザアカイと出会われて友となられた(ルカ19章)。人々はイエスが罪人の家に入ってその客となったといって失望落胆し、非難した。しかし、イエスは、そのザアカイを救うためには、彼の家に入らなければならなかった。そのようにイエスは肉をもってこの世に生まれ、この世の私たちと同じ生活を共にし、私たちを救い出すために生涯を送られた。だからイエスの受肉は私たちの救いにとって大切なことである。しかし神にとってこれほどの苦しみはない。ザアカイと友になったということは、その人と共に重荷を負うことであり、その人の受けるものを自分が受けるということである。人が成功するとその人と一緒になりたい人が多くなってくる。その人の栄光を一緒に受けたいと。しかし悪くなってくると薄情なもので寄りつかなくなったりする。これは人間が誰でも持っている弱さだと思う。しかし、イエスはその反対であった。ザアカイと友になったのである。4章2節の「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表わす霊は、すべて神から出たものです」と書かれてあるのは、こういう背景があったのである。ここに出てくる「反キリスト」「偽預言者」との論争である。
 
 さて、後半は「神の愛」について書かれている。私たちの常識は、信仰とは私たちが神を愛することから始まると考える。しかし、聖書は、信仰とは神が私たちを愛してくださったことから始まるとする。しかも、私たちが愛されたとは、私たちの罪を贖ういけにえとして御子が遣わされたことだとヨハネの手紙は言う(10節)。神の愛の後ろには、私たちの罪のために死んでくださるお方がおいでになるということは、決して尋常なことではない。ここで言われる罪とは、神への背信を意味するのだから、不信仰なる者のために御子であるお方の命が捧げられたということになる。それが神の私たちへの愛の形であるとすれば、これをもって尋常な愛の形と言えるだろうか。私たちはこれをお願いして、そうしてくださいと言ったわけではない。それどころか、そんなことが私たちのためになされたということすら知らない。それが私たちへの神の愛し方であると言われている。しかしこれが聖書の常識。この常識を我がものとする、受け入れて信じる、それがキリスト信仰である。

夏の思い出

2012-10-15 13:51:30 | 風景
今年の夏は猛暑でした。思い出したくない人もおられることでしょう。
十数年ぶりにこの夏に(当日も35度を超す暑さでした)京都へ行きました。
私の好きな京都のスポットの一つ。嵯峨嵐山の渡月橋周辺。桂川のほとりに座り、嵐山を眺めていると
ほっとします。やはり川の流れに癒されるのでしょうか。水はのどの渇きをいやすだけではないようです。

聖書から読まれる「私」

2012-10-15 06:45:08 | 牧師室だより

牧師室だより 2012年10月14日 聖書から読まれる「私」

 自分を絶対化する人は、常に自分が中心でないと満足することができない。そのような自分が主役であり続けることを、世間は許してくれないから、外の世界と摩擦が生じ、対立関係が生まれる。対立関係に病み神経症になると、周囲を支配し、さらには敵をつくるといわれている。

 一方、信仰を持つ人は、自己を相対化させることができる。自分を高いところから、そっくり見てくださる存在を持つことになるからである。それこそ隠そうにも隠し切れないお方を持つことだから、ありのままの自分で生きるほかない。

 自分を丸ごと見ておられる方の前では、「私」が主役であることができない。そのお方が「私」にとって主役である。そのお方が「私」が何者であるか、なにをすべきか、教えてくださる。その時、「私」はどのような人間で、なにをしているのか、なにをすべきかが鏡に映し出されるように分かるだろう。これこそ信仰者の生きざまと言うべきだろう。

 ある高名な牧師は「聖書は読まないでください」と言うことがあると、ある本で書かれている。なぜなら、聖書を読む「私」は、聖書に対して主役であろうとするからだと言われる。たしかに、そうなると聖書を自分にとって都合のいいように読むかもしれない。都合の悪いところは飛ばして読むかもしれない。それでは聖書を「私」が支配することになる。

 そこで、その牧師は、神の前でのありのままの生きざまを我がものにするには、聖書から「私」を読んでもらうことだと言われる。聖書から読まれる「私」は、いわば聖書によって解剖されるようなものだとも書かれている。なるほどうまい言い方だなと思った。今後は意識して、「聖書から読まれる」読み方を心がけてみようと思った。たぶん、そうなると都合のよいところも、隠しておきたい不都合な部分も、白日のもとにさらされるだろう。でも、その時こそ、自己の相対化をじっくり体験することができるだろう。そうして本当の自立が確立していくのだろう。

神との愛の交わり

2012-10-11 17:43:45 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2012年10月7日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「神との愛の交わり」 ヨハネの手紙一 4章13-21節

 聖書は「愛には恐れがない」(18節)と言う。さらに、「完全な愛は恐れを締め出します」(18節)とも書いてある。この「愛」とはどういう愛なのか。16節に「神は愛です」とあるように、この「愛」は神の愛である。そしてそれは「私たちに対する神の愛」なのである。だからここで語られている「愛」は、私たち自身が自分で抱く愛ではない。キリスト教信仰のメッセージを一言で表現するのは無謀だが、あえてそれをするならば、この一言、「神は愛なり」であろう。

 神の愛の本質は二つある。その一つは、「神が私たちのためにいてくださる」ということ。「神我らと共にいます」(インマヌエル)である。これはクリスマスのメッセージでもある(マタイ1:23)。神が私たちのためにいてくださる。そこに人生と世界の救いの根拠があり、希望の根拠がある。

 「愛には恐れがない」という「愛」は、文脈からすると、私たちが愛する、その愛に恐れがないということだが、その愛はどこからくるのだろうか。19節に「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」とある。14節にはこう記されている。「私たちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています」。神がまず私たちを愛してくださったことは、主イエス・キリスト、つまり御子を世の救い主として遣わされたことで分かるというのである。神が私たちと共にいてくださるからである。言いかえれば、神の愛の中に入れられることである。神の愛の支配の中に置かれることである。神の国、神が王であり支配者であり、主権者である愛の満ち満ちた神の国の住人にされることである。その中に私たちも入れられている。だから、「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます」(16-17節)と証しすることができるのである。神との愛の交わりに生かされて、私たちは「愛する者」へと変えられていくということである。
 
 この愛は「裁きの日に確信を持つことができる」。裁きの日に確信を持つことができれば、終わりの裁きの日だけでなく、今日、明日の生活にも確信が与えられるだろう。終わりの日の裁きに確信を持てることは、今日を生きる確かさになる。平静に、そして神への信頼を持って今日を、そして明日を生きることができる。神との愛の交わりに生きることは、裁きの日に確信を持ち、今日もまた確信と信頼を持って生きることである。

 もう一つの神の愛の本質は、徹底して相手の存在を肯定すること。神が私たちを愛してくださったとは、まさしくそのことを意味する。存在を肯定するとは、あることをすれば、よしとされ、違うことをすれば、ダメだとされるのとも違う。どのようなあり方があろうと、そこに「いる」ことがよしとされる、それが存在を肯定されることである。神の愛とはそういう愛。99匹の羊を野に残して、1匹を捜す羊飼いの姿に、この愛を見るだろう。どこまで行っても「いる」ことが愛されている、これが神から愛されていることだと信じる信仰は、どのようなあり方をしていようと、安心感を持つ。たとえ心配で眠れない夜を過ごすようなことがあっても、「いる」ことが肯定されれば、心配をしなくなるというより、心配する自分を受け入れることができるだろう。さらに言えば、そのような事態になれば、心配をしないならば事が解決しないのだから、むしろ心配をするのが当然であるという心境に至ることができる。それこそ、「完全な愛は恐れを締め出す」のである。
 
 この神との愛の交わりこそが私たちの信仰の原動力である。