(先週の説教要旨) 2012年10月28日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「神の救いの再確認」 出エジプト記 23章1-9節
今朝の聖書個所は、モーセがイスラエルの民たちに読んで聞かせたといわれる「契約の書」と呼ばれているところである。内容的には、十戒に示された根本的な戒めを、より具体的に記しているものといえる。契約の書には様々な戒めが記されているが、その根底には「寄留者であった者が救われたのだから」(23:9)という恵みの事実が横たわっている。
この箇所には「してはいけないこと」が列挙されている。「うわさ、悪への加担、不法、多数決で判決を曲げること、相手の困窮を見過ごすこと、偽りの発言、無実の人を殺すこと、悪人を正しいとすること、賄賂をとること、寄留者を虐げること」など。しかし、こういった規則が大切なのではない。律法は神の愛の表現なのだから、私たちを支配し、抑制し、否定するものではなく、むしろ、私たちを罪や危機、悲しみと絶望から守ってくれるものなのである。
では、命令的で断定的で裁くような律法主義に陥らないで、私たちはどのように律法に従えばいいのだろうか。それは「神の義に生きる」ことである。その神の義に生きるには3つのポイントがある。
第一は、「弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない」(23:3)。弱い人をかばうのは当然のように思うが、人の抱く同情はすぐに反転する。同情心が憎しみに変ったり、傲慢や自己追求、支配関係など条件によって変わる。だから同情を基準にすると神の義を曲げてしまうことになる。
第二のポイントは「相手の条件を問わない」こと。私たちは相手を見て対応するが神の義は相手の条件を問わず、誰であれ助けるべき場合には助け、訴えるべき場合には訴え、「真実を曲げてはならない」と何度も繰り返されている。神の愛はすべての人に向けられているからである。
第三のポイントは、敵や憎しみという個人的な感情に左右されないこと。「敵の牛が迷っている」場合や、「憎い人のろばが荷台の下に挟まっている」場合があげられている。感情で判断せずに神の義から判断しなさいというのである。
このように考える原点は、「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持ちを知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである」(23:9)である。これは十戒が与えられた時でも同じ(20:2)。これは自分に与えられた神の救い、導きの再確認を促すものである。そうして、自分の命は神の導きのうちにあるのだという自覚を持って生きることである。これが神の義の基準となる。そうすると、自分の感情や思いだけにとらわれることがなくなる。苦しみの記憶、困難な経験を想起することは、他者を苦しめ、同じつらい思いをさせることではなく、助け支える方向へと私たちを押し出していく。
私たち信仰者の生きる基準は「聖書」、御言葉である。いつも、神の思いを聖書から尋ね聞きながら、それに従っていくことである。私たちの生の全領域において主に聞き、主を証しする生活を確立していくことである。