平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

問われるほどに愛されて

2017-08-01 13:03:20 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年7月30日 主日礼拝 杉野省治牧師
「問われるほどに愛されて」フィリピの信徒への手紙1章4~11節
       
 この世の中で、人々から無視されたり、関心を持たれないことほど、つらく悲しいことはない。だれかに怒られてがっかりして落ち込んでいる人に「怒られているうちがハナだ」と言って、慰め励ますことがある。家庭において、親子や夫婦の間でも、今日はどんなことがあったのと問い合い、互いに関心を持ち合うことによって、自分は愛されているのだという喜びを持つことができる。ある哲学者の言葉。「愛とはたえざる問いのことだ。人生で、誰も、何も聞いてくれない苦痛」。

 フィリピの信徒たちはパウロから、手紙を受け取った。だれにとっても手紙をもらうということは、嬉しいもの。手紙というのは、私はあなたを覚えている、あなたに深い関心を持っているということの証明でもある。しかもパウロはこの手紙の中で、フィリピの教会の一同に対して、いかに心にかけているかということを繰り返し強調している。7節では「あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めている」と述べている。  
 このような愛の心から、祈りが生まれる。まず9節以下で「あなたがたの愛がますます豊かになり……」とある。ここでの愛は、彼らの人間的な愛ではなく、神からの恵みとしていただいている愛である。神の愛(ギリシア語で「アガペー」)は、人間が生まれながらに持っているものでも、努力すれば身についてくるものでもない。ただ上から垂直的に、神からの恵みとして与えられるもの。私たちが通常、愛と言っているものは(ギリシア語で「エロース」「フィリオ」)、美しいものや価値あるもの、大きく強いものに心が引き付けられていくことである。これに対して神の愛は、価値なきものを愛し、無なるものの中に価値を生み出す創造の愛なのである。

 イギリスの小説家、『ナルニア国物語』で有名なC・S・ルイスの『四つの愛』の中に、次のような意味のことが書かれている。「愛というものにはいろいろの愛がある。愛情、友情、恋愛など人間の愛は美しいものであるが、バラの花のようにトゲがある。愛の美しさの中に落とし穴があり、滅びに至る危険がある。エゴイスティックな醜いものがある。だからそのような愛が、聖なる愛、神のアガペーの愛によって支えられ、清められ、変えられていく時に、輝く愛になるのだ」と。

 マザー・テレサがある町で、生きているかもわからないような、誰からも知られていない一人のお年寄りを訪ねた時、部屋はひどい状態で、ほこりまみれになっているランプがあった。「なぜランプをつけないのか」と尋ねると、「だれのために。誰も来やしません」と言った。それで「シスターたちがあなたに会いに来たら、ランプをつけてくださいますか」と聞くと、「いいとも」と答えたのである。やがてテレサに伝言があった。「あなたが私の生活にともしてくれた光は今も燃えている」と。

 私たちの人生も、誰からも顧みられないほどに小さく、やがて忘れられていくものに過ぎない。ぱっと消えていく泡沫のよう。しかし10節で「キリストの日に備えて……」と語られている。人生にも総決算の時があって、最後の日、究極の日に、私たちの愛が神から問われるというのである。

 最初の人・アダムとエバに対して、主なる神は「あなたはどこにいるのか」と問いかけられた(創世記3:9)。神は絶えず問いかけられるのである。私たちはいかに生きたのか、どのような人生であったのか、神は大問題にされるというのである。人間はたえざる神の問いの前に、立たされている。

 しかしこのような問いの背後には、人間に対する神の燃えるような愛がある。問われるほどに、愛されているのである。神は私たち一人ひとりに、深い関心をもっておられるのである。なにがあったの、どうしたの?

 長い歴史や大きな社会から見れば、私たちは無に等しい存在。実際、人から無視されることもある。しかし神だけは心にかけてくださる。そして愛においてどれだけ豊かであるか、と問われるのである。たとえ小さな生涯であっても、心のランプに神の愛の大きな光をともし、ますます輝かせるように求めておられるのである。

愛を退けないで

2017-08-01 10:45:55 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年7月23日 主日礼拝 杉野省治牧師
「愛を退けないで」マルコによる福音書10章17~22節
       
 人はどんなに素晴らしい人に出会い、またどんなに愛のまなざしを向けられても、その期待に応えるとは限らない。悲しいことだが、人間の心にはそういう現実がある。人は愛されることを選ぶことも、それを拒むこともできる。イエスに出会った人たちにも、信じてついていった人たち、去っていった人たちがいた。

 今朝の聖書箇所に登場する「富める青年」と呼ばれる彼は今でいえば、高級エリート官僚といったところか。彼は当時、誰もが持っている宗教的関心事であった「永遠のいのち」を得るためには「何をしたらよいでしょうか」とイエスに問うてきた。今の我々でいうならば、「死んだらどうなるのか」という素朴で、かつ深刻な問いに当たるだろうか。彼のその求道の姿勢は「走り寄って、御前にひざまずいて」とあるから、とても熱心かつ敬虔なものだった。

 これに対して、イエスはモーセの「十戒」の「偽証をたててはならない。……父と母を敬え」など、対人間に関する戒めを六つ挙げられたが、彼はいとも簡単に「私はそのようなことをみな、小さい時から守っております」と答える。これは人から後ろ指を差されるような生活はしていない、ということである。確かに外面的には宗教的、また道徳的な人物であっただろう。また本人自身、強い自負心があることが伺える。そのような人物がどうして、真剣にイエスに問いかけたのか。何か本人しかわからない悩みや深刻な心配事があったのだろうか。たくさんの財産のゆくえが心配だったのだろうか。死んでも、その莫大な財産を持ってけるのか。そして天国で、今と同じように裕福に幸せに生きられるのだろうかと心配したのだろうか。何も書いてないので分からない。

 しかし、イエスは彼の抱えている問題の本質を見抜いておられた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすればあなたは天に宝を積むことになります」と核心に迫られた。この言葉の真意は、永遠のいのち(救い)を受けるためには無一物にならなくてはならないという単純な意味ではなく、自分の価値観やものの考え方を変えないで、得るものだけは得たいという態度ではいけないということである。

 イエスのもとを顔を曇らせ、悲しみながら去って行く青年に対して、イエスは愛をもって接しておられた。「その人を慈しんで言われた」というのは、「愛情を込めて言われた」と言い換えてもよい。ここに人間の悲しさがある。また神の悲しみもある。どんなに愛を注がれても、その愛を退けて自分の道を選択していく人間の悲しさが、この物語には漂っている。

 イエスは青年に愛をもって語られた。しかし、彼はその愛を受け取る選択をしなかった。青年の悲劇は、愛を受け取ることができたのに富から離れることができなかったということである。それにしても不思議なチャレンジを感じる物語である。読めば読むほど、イエスの愛を信じて受け取るように、という呼びかけが悲しい調べの中に聞こえてくる。