平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

共に今を生きる

2017-05-01 15:45:22 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年4月30日 主日礼拝 杉野省治牧師
「共に今を生きる」 ガラテラ人への手紙2:11~21

 アンティオキアの教会は実に様々な人々の集まりであった。異なる文化と風俗、習慣や生活経験。異なる々が、違いや壁を越えて一つにされていた。「皆、キリスト・イエスにおいて一つ」(ガラテヤ3:28)であった。そのしるしが一緒の食卓につくことであった。それは皆にとって至福の時であった。

 ところが、その中に特定の人種主義や民族主義を持ち込み、優位性を持って主張する者たちが現れた。お互いの「差異」は「差別」と変わり、共同の食卓そのものが破壊された。パウロが指摘したアンティオキア教会の問題性はそれであった。だから、すぐれて現代の問題でもある。ケファ(ペテロ)の変節はパウロにとって「苦い失望」であった。しかし、パウロはそれをも越えて進んだ。私たちもまた、同じ苦さに耐えつつ、繰り返し、あの「一緒」に帰っていく努力が求められている。

 ケファの変節もわからないわけではないが、しかし教会(共同体)から見ればかえってマイナスである。いざとなると心変わりする。臆病になる。周囲を見回し始める。人の顔色や声を気にする……。要するに神を見ないで人を見る。ことが福音の分かれ目、教会の存立に関わるような場合、ケファのようであっては困る。そこをパウロは問題とした。人をかばうに急で、福音が曲げられ、教会が病んでゆくのを見過ごしてはいけない。キリストの福音が立てられていかなければならない。キリストのみを見上げていくことが肝要であることを教えられる。

 「私は神に対して生きるために、律法に対しては律法に死んだ」(19節)とパウロが言っているのと同じく、私たちもバプテスマを受けた時に、ひとたび死んだ。十字架は、神無しの人生を当然としてきた古い自分の死である。罪人の私が十字架につけられたことは、だから特定の時の一点であるには違いない。だが、その事実と恵みとは、時の流れとともにとうてい過去とはなり得ないものがある。だからパウロは続けて「(岩波訳)十字架につけられてしまっている(現在完了形)」(19節)と言う。あの日あの時だけといった過去のことではない。今も十字架につけられている。

 だから、その十字架抜きで今日を考えることができない。十字架を遠い昔へ追いやって、それとは縁のない現在を生きるというのでもない。今ここで、十字架を負う。忘れもしなければ避けもしない。逃げもしなければ離れもしない。かけがいのない過去は、かけがいのない今として生きている。それ故に、「私はキリストと共に十字架につけられています」という表明が、パウロのみならず私における今現在の最高の信仰告白となるのである。そして、その信仰に生き、そういう今を生きる。

聖霊降臨祭(ペンテコステ)

2017-05-01 14:55:00 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年4月30日 聖霊降臨祭(ペンテコステ)

 今年の聖霊降臨日(ペンテコステ)は少し先ですが6月4日です。「ペンテコステ」はギリシア語で「50日目」という意味。旧約聖書ではユダヤ教三大祭りの一つである過越しの祭りから数えて50日目。だから「五旬節」とも言います。この日、モーセがシナイ山で十戒を中心にした律法を与えられたので五旬節をユダヤ教の誕生日としています。

 新約聖書では、イエス・キリストの復活から数えて50日目。主イエスが十字架にかかられた時、弟子たちは逃げ去りましたが、復活した主イエスの姿に接して、喜びのうちに再び集まります。そして50日目、彼らの喜びをさらに決定的にする出来事が起こりました。彼らはそれを「聖霊に満たされた」と表現しました。弟子たちにとって聖霊に圧倒される体験だったからです。

 その日から弟子たちはエルサレムで公然と宣教を始めます。神の国を告げ知らせたために処刑されたばかりの主イエスを証し始めたのです。神が自分たちと共にいて守り導いてくださると確信しなければとうていできないことです。神の霊が人を立ち上がらせたのです。教会ではこの日を記念して聖霊降臨祭として祝います。

 また、聖霊の働きによって弟子たちがイエスの復活の証人として立ちあがり、キリスト教会が誕生することになるきっかけになったので「教会成立の記念日」として4世紀末ごろから守られてきました。

 聖書では、聖霊を「助け主」とか「弁護者」とも言いますが、目に見えない神の愛の力のことです。もしあなたが御言葉を聞いて「イエスは救い主である」と信仰告白に至るならば、あなたはすでに聖霊(力、助け)をいただいています。愛、喜び、平和といった良い実を結ばせるのも聖霊です(ガラテヤ5:22-23)。

 ただ、聖霊の働きには、人には予測不可能な自由さがあります。風(聖霊)は思いのままに吹きます。そのことは、宣教の働きが神ご自身であり、私たちでないことを明らかに示しています。