本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

不自然な療養の仕方

2015-11-23 08:00:00 | 終焉の真実
「羅須地人協会時代」―終焉の真実―
鈴木 守
 不自然な療養の仕方
 さて、先に私は仮説
 昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていたすさまじい「アカ狩り」に対処するためであり、当局から命じられてその演習が終わるまで実家に戻って謹慎していた。……①
を定立したわけだが、今のところこの反例は見つかっていないし、次のような証言もあるのでこの仮説をさらに傍証することができる。

 まずその一つが、菊池武雄の追想「賢治さんを思ひ出す」の中の述べてある次のような証言である。
 私どもは雜草の庭からそこばくのトマト畑の存在を見出して、玄關先の小板に「トマトを食べました」と斷はつて歸つたことでしたが、もうその頃は餘程健康を害してゐたので、二三日前豊澤町の生家の方に引き上げて床について居られた時だったことを後で聞いてすぐ見舞に行つたが、あまりよくないので面會は出來ませんでした。
              <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)325pより>
つまり、賢治が実家に戻ったと言われている8月10日直後に菊池と藤原嘉藤治の二人は羅須地人協会を訪れたのだが賢治は留守だった。そこで菊池は賢治を見舞うためにその後わざわざ賢治の実家を訪れたのだが、賢治の病状があまりよくなくて面会が叶わなかったという証言である。
 そしてもう一つ、佐藤隆房が自身の著書『宮澤賢治』において次のようなことを述べているのだが、
 昭和三年の八月、食事の不規律や、粗食や、また甚だしい過労などがたたって病気となり、たいした発熱があるというわけではありませんでしたが、両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。その時の主治医花巻(共立)病院内科医長佐藤長松博士でありましたが…
              <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和26年3月1日発行版)269p~より)>
という証言である。

 これを知って驚くことは、賢治の実質的な主治医とも言われる佐藤隆房が、実家に戻った賢治にはそれほど熱があったわけではなかったと証言していることである。しかも、その佐藤が、
    両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。
という表現をしていることはいささか奇妙なことだ。どうしてこの部分を素直に
    両側の肺浸潤で病臥する身となりました。
と表現せずに、なぜわざわざ「という診断」という文言を付したのだろうか。このような言い回しでは逆に、賢治はたいした熱があった訳ではないが、佐藤長松医師に頼んで「肺浸潤」であるという病名を付けてもらって重症であるということにした、という虞が生じてくる。
 実際、佐藤隆房は『宮澤賢治』(昭和17年9月8日発行版)の中の「八七 發病」では、  
 賢治さんは…(投稿者略)…昭和三年の夏の或る日、腹の空いてゐるところへひどい夕立に降り込められ、へとへとになつてやつと孤家に歸り着いたことがあります。これが賢治さんから健康を奪ひ去つた直接の原因となりました。
 不加減になつた賢治さんは、その八月父母の家に歸つて、療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしました。今まで家人のいふことを聴かないでそれがもとで、病氣になつて歸つて來たといふので、いくらか遠慮に思つてゐたらしいのです。
              <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年9月8日発行)195p~より>
ということを述べている。なんと賢治は、「傍菊造りなどをして秋を過ごし」ていたというのだ。

 ところがその一方で、「賢治年譜」の多くは昭和3年の項において、
 八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母の元に病臥す。
と述べているから、この佐藤が伝えるところの賢治の療養の仕方はとても奇妙である。なぜならば、昭和3年の8月に実家に戻った賢治のことを医者である佐藤が前掲書の前者では
    たいした発熱があるというわけではありませんでしたが
と、そして同後者では
    八月父母の家に歸つて、療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしました
と証言していることになるから、
    どう考えても、昭和3年の8月に実家に戻った頃の賢治が重篤だったとは思えない。
ということになり、これではとても「病臥す」とは言えないからだ。

 そこでこれらのことから浮かび上がってくることは、前述したように菊池武雄が実家に戻ったという賢治を折角見舞った際に面会を謝絶されたということだが、それはもし菊池が直に賢治に会ってしまえば病臥するほどの症状か否かをすぐ読み取られるかもしれないということを恐れたからだという可能性である。あるいは、賢治の妹のクニが刈屋主計と9月5日に養子縁組をしたがその際の宴にも賢治は出席していない(『新校本年譜』より)ということが知られているが、どうして「療養の傍菊造りなどをして秋を過ごし」ていた賢治がそのようは妹の祝いの席に参列しなかったのかという理由を推理してみれば、そのような公的な席に賢治は出られなかったということが考えられるということである。
 となれば、先に触れたように、あの浅沼稲次郎が特高に命じられて三宅島の実家に戻って謹慎したのと同様に、
 賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻って謹慎をしているように命じられ、それに従って実家で謹慎していた。
とすれば、全てのことが皆すんなりと説明がつく。

 それは、もしこの時期に賢治が病気になって下根子桜から撤退して実家に戻って重篤故に病臥していたというのであれば、多くの人々がとても心配して賢治を見舞っただろうが、あの関登久也や藤原嘉藤治そして森荘已池までもがこの療養中に賢治を見舞ったということを一切公には書き残していないはずだから十分に頷けるけることである。また、いくら丁寧に調べてみても、賢治が昭和3年8月に実家に戻ってから少なくとも陸軍大演習が終わる頃までの間に、家族や担当医以外の者で直に賢治に会えた人物がいたということの公の証言も記録も『新校本年譜』等を始めとして一切見つからない。だから、このときの賢治の療養の仕方は極めて奇妙で不自然であった。
 それではこのような不自然な自宅での過ごし方を普通世間一般では何と言うかと、それこそまさに「自宅謹慎」というのではなかろうか。言い換えれば、上掲の菊池武雄や佐藤隆房の証言もこの仮説〝①〟の妥当性を傍証していると言えるのである。

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