《『斎藤宗次郎と宮澤賢治の交友について』(照井謹二郎編)》
1. 大正13年12月24日(ボーナス日)賢治は上京?
宮澤賢治の下根子桜時代のことを知りたいと思って『斎藤宗次郎と宮澤賢治の交友について』という冊子を見ていた。これは斎藤宗次郎の自叙伝(『二荊自叙伝』)の中から賢治に関係ある部分を抜き出したものだという。
するとその中に次のようなことが述べられていた。
(大正15年の)5/15 . . . 本文を読む
《『宮沢賢治という現象』(鈴木健司著、蒼丘書林)表紙》
伊藤整や岡本弥太が伝える面会謝絶
そもそも、千葉恭なる人物に私が興味を持ち出したのは例の大正15年7月25日の断りの使者が千葉恭だったということを知ってからである。
この断りの使者の件に関しては、千葉恭本人は盛岡に出向いて白鳥省吾等が講演のために来ていた仏教会館に行って断ったと語っているわけだが、白鳥省吾は花巻の下根子桜に賢治を訪ねたが玄 . . . 本文を読む
目次(1頁) 宮澤賢治の里より
1 「経埋ムベキ山」について
(1) 概論1
(2) 概論2
(3) 概論3
(4) 概論4
2 「経埋ムベキ山」のリスト
(1) 旧天山(120m)
(2) 胡四王山(176.6m)
(3) 観音山(260.7m)
円万寺観音山
『観音山』はたして観音山?
(4) 飯豊森(131.6m)
(5) 物見 . . . 本文を読む
目次(2頁) 宮澤賢治の里より
25 スノードンの峯とは早池峰山のことだった
26 みみずく森と六角山
27 『さいかち淵』と「みみずく森」
28 西根山
(1) 『十月の末』の中の「西根山」
(2) 宮沢清六のいう「西根山」
29 シャーマン山について
(1) 西根山の南部分
(2) 西根山の北部分
(3) 北上山地の北部分
(4) 北上山地の南部分
( . . . 本文を読む
目次(3頁) 宮澤賢治の里より
「ヒドリ」と「ヒデリ」
(1)賢治だって間違うこともある
(2)玄侑宗久氏のヒドリ
(3)一日に玄米四合
(4)「雨ニモマケズ」に関する細やかな仮説
(5)戦中戦後の「雨ニモマケズ」の扱われ方
(6)細やかな仮説の検証
(7)『イーハトヴの家』
(8)高村光太郎の名誉のために
(9)赤い文字「行ッテ」
(10)「雨ニモマケズ」は「 . . . 本文を読む
目次(4頁) 宮澤賢治の里より
下根子桜時代の宮澤賢治
(1)年譜大正15年の宮澤賢治
(2)宮澤賢治の年譜(昭和2年~3年)
(3)下根子桜への転居
(4)下根子桜の自活開始
(5)宮澤家別荘のことなど
(6)下根子桜の大正15年5~6月のこと
(7)下根子桜の大正15年6月末~夏
(8)下根子桜の大正15年7月と8月
(9)下根 . . . 本文を読む
目次(5頁) 宮沢賢治の里より
賢治と一緒に暮らした男
§1. 千葉恭Who?
§2. 『ふるさとケセン』の語る千葉恭
§3. 『イーハトーヴォ』復刊2号より
§4. 『イーハトーヴォ』復刊5号より
§5. 「宮澤先生を追ひて」より
§6. 「宮澤先生を追つて(三)」より
§7. 「宮澤先生を追つて(二)」より
§8. 「賢治抄録」より
§9. 「宮澤先生を追つて(四)」より
§ . . . 本文を読む
《↑『宮澤賢治覺え書』(小田邦雄著、弘學社)表紙》
小田邦雄の『宮澤賢治覺え書』を読み終えて奥付きを見たならば次のようにそれはなっていた。
《『宮澤賢治覺え書奥付』(小田邦雄著、弘學社)》
私は初めてああ当時はこんな風だったのか、と思ったのが著者小田邦雄の肩書き部分であった。そこには
詩人
日本文學報國會々員
大政翼賛會北海道支部主事
. . . 本文を読む
以前〝リアカーを牽いているのは賢治〟において私は
近いうちに平來作の生家を訪ねてみなければなるまい。
と宣言してしまった。そこでこの10月15日平來作の生家を訪ねてみた、例のことを訊くために。
生家をお訪ねすると来作の長男國友氏が居られたので早速訊いてみた。例の2葉の写真を見てもらいながら
『これはお父さんが所有していたという『宮沢賢治の五十二箇月』に載っている写真
「リヤカーを引く賢治 . . . 本文を読む
以前〝佐藤勝治と宮澤賢治〟というタイトルの投稿の中で『宮沢賢治入門』を話題にしたことがあった。この『宮沢賢治入門』は、昭和23年に著した『宮澤賢治の肖像』と昭和27年に著した『宮沢賢治批判』という旧二著を昭和49年に一冊にまとめて出版したものだという。
1.『宮沢賢治入門』と『宮澤賢治の肖像』
その『宮沢賢治入門』のあとがきで佐藤勝治は次のようなことも言っていた。
「宮澤賢治の肖像」を出した . . . 本文を読む
千葉恭の著した「宮澤賢治先生を追つて(四)」に載っている次の様式が突然気になり出してしまった。
《1 「水稲肥料設計」》
《『四次元 9号』(宮沢賢治友の会)より》
これに関して千葉恭はそこで次のように説明している。
羅須地人協会はその意味の開設であり、肥料設計は具体化された方法であつたのでした。土壌改良により一ヵ年以内に今迄反当二石の収穫のものが、目に見えて三石位穫れる . . . 本文を読む
かつて〝賢治のリヤカーの牽き方〟を投稿したことがある。
それは『宮沢賢治の五十二箇月』に載っている次の写真
《2 「リヤカーを引く賢治 羅須地人協会の頃(平来作蔵)」》
と、『拡がりゆく賢治宇宙』に載っていている次の写真
《3 「この時代の農村風景」》
が同じ写真と思えるのに、前者は
リヤカーを引く賢治
と写真の人物を賢治であると特定しているのに . . . 本文を読む
以上が現時点で私が綴れる千葉恭の全てである。なかなか入り口が見つからない千葉恭であったが、ある程度は納得できる地点まではたどり着けたと思う。もうこれだけ時代が下ってしまうと当時の検証は極めて難しいことなのだと思い知らされてしまったが、逆に言えば今がそれをできる最後のチャンスの時代なのかも知れないとも思うのでこれからも引き続いて調べて行きたい。必ずや、知られていない千葉恭に関する資料が少なからず眠 . . . 本文を読む
なぜなのだろうかと思っていたことの一つにその期間の長さの違いがある。もちろんそれは千葉恭が賢治と一緒に暮らした期間についてのである。
1. 期間の長さの違い
千葉恭自身は『イーハトーヴォ』復刊5号(宮沢賢治の会)において
賢治は当時菜食について研究しておられ、まことに粗食であつた。私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだった . . . 本文を読む
今回は大正15年の初夏の頃についての証言を取り挙げたい。
それは伊藤克巳「先生と私達―羅須地人協会時代―」の中にある次のようなものである。
苗代は蛙の聲で一杯で、農家は忙しい夏の初めの頃だつたと思ふ、今晩東京の有名なヴァイオリンを彈く人が來るからと云うので私達は胸を躍らせながら先生の家へ集まつた。
暗い夜だつた。町の人達も二、三人來て居たので挨拶したりいろいろ雑談の後思ひ思ひ椅子に腰を下ろ . . . 本文を読む