篠田英朗がまとまった発言をしている動画を紹介していなかったので、この機会に転載しておく。発言はかなり明晰なので補足の必要はないと考えるが(「絶対的な真理」ということではなく、視点が明瞭に示されているという意味)、 自分なりにコメントすると次のようになる。
今ある社会システムを自明なものとして捉えてしまう日本のあり方を「作為の契機の不在」と評したのは丸山真男であったが、これは「手段が容易に目的化する環境」と言い換えることもできる。つまりは何らかの目的のため戦略的に採用したシステムや規範が遵守すべきものにすり替わってしまうようなエートスのことである。
これは抽象論のように思われるかもしれない。しかし、戦前の日本が大日本帝国憲法・近代天皇制などによって急速に近代化を遂げた後、それを戦略的なものとして考えていた世代(つまりは元老など)が死んでいった結果、そこに書いてあるもの、言われていることが徐々にリテラルに捉えられはじめ、その結果として権力の空白という致命的な欠陥を抱えたまま第二次世界大戦という総力戦に突入して国家的破滅にいたったことを思えば、本来このような傾向にこそ棹差し続けねばならないものであるはずだ。
そう考えた時、1867年からおよそ80年、1889年からはおよそ60年で第二次大戦になだれ込んでいった歴史的事実からすると、1945年からおよそ70年経った今、改めて今の日本を規定している日本国憲法というものがどのようにして成立したのかを歴史的に検討するのは十分意味のあることであろう(老婆心ながら言っておけば、それは平和憲法として手放しに賞賛することでも、押し付け憲法として蛇蝎のように嫌うことでも全くない)。
今ある表面的な言説の妥当性を吟味するのではなく、それが成立した歴史的背景を知り、もって私たちがいかなる擬制の中に生きているかを相対化・客体化することにより、ただの「敵ー味方」、「好きー嫌い」的不毛な二元論からある程度距離を置くことができるのではないか(ここで微妙な言い方をしているのは、誰かが、あるいは自分が客観的な神の視点に立てるという考え自体が傲慢かつ危険なもので、あらゆるものは誤謬を内包しうるからである。またそうであるがゆえに、絶え間なき検証とアップデートが必要なのである)。
なお、この動画を浅羽×細谷の韓国に関する対談の次に持ってきたのは理由がある。そこでは日韓基本条約の背景が言及されているが、このような「背景」は、たとえば竹島や尖閣諸島に関して、かつては「棚上げ」という処理がなされていたのであった。どのような擬制、あるいは歴史的背景があって現状があるのかを知ることは、戦略的にも重要であろうと思う次第である(ただ、念のため昨日の記事の内容を繰り返しておけば、「善きことを行えば善き結果が得られる」と無邪気に信じるのは、政治的には素人同然である)。
日本国憲法や集団的自衛権の成立や捉えられ方の変遷とその背景を知ろうという姿勢は、様々な擬制(あるいは歴史的営為をふまえた緊張関係をはらむ今)を立体的に理解するエートスへと開かれていると述べ、この稿を終えたい
【余談】
ところで、私はいつも思うのだが、「保守」と呼ばれたりそれを自任する人たちは、本当に歴史に興味があるのだろうか?というのも保守とは、人間理性に懐疑的で、かつ構築されてきた歴史的経緯を尊重するからこそ、急激な変化に対して慎重な姿勢のことを言うはずで、逆に言えば歴史的営為について誰よりも理解が深くなければならないはずだ。しかし、少なくとも管見の限り、「保守」と呼ばれる人たちが過去の日本の難点を明晰に説明しているのを見たことがないし、またなぜあるものを「保守」する必要があるのか、その妥当性は何かということを明解に論じているのを見たこともない(他国を例に挙げるならば、オランダという国を理解する時に、その思想的寛容性やスペインからの独立の歴史、勤勉性といったものにしか注目しないのは明らかな偏りで、かの国がたとえばインドネシアに対してどのように苛烈な統治を行ったのかといったことにも目を向けるのは当然のことである。これを日本に関して言うと、「美しい日本」をその価値とし、それを景観的なものとして規定したとしよう。それを里山や山村とした場合、たとえば江戸時代に大規模な土木工事を行って人工的に流れが変えられた川とそれによって支えられる共同体を「自然」と呼べるのかも議論の余地があると思うが、そのような発想は二・二六事件や戦前右翼の柱となった農本主義を理解しての規定なのだろうか?と疑問に思う。ちなみに、この問題に真剣に取り組み煩悶した一人が三島由紀夫である)。もし私の見方がある程度正しいのならば、今言われている「保守」の多くはただの現状肯定であり、また例えば国家と自己の境界線を曖昧にして国家の欠点を見る目を持たず、あるいは国家への批判を自己否定のように感情的反発をしたりするのであれば、それは簑田胸喜的な他者への思考停止の強制にしかならないだろう。それが国益に叶うのかどうか、私には極めて疑問である。
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