「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」

2010-10-08 18:07:14 | 生活
『共感』の問題点」と「再帰的思考の生まれえぬ場所」において、再帰的思考が育たない環境で「共感」を重要だと人々が認識するようなことになれば、ノイズ(異物)の排除が促進され、それがノイズ耐性の低下をもたらし、さらにノイズの排除が促進される・・・という構造を指摘した。


ところで、このような意見から「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」という言葉を連想し、「要はバランス感覚が大事ってことだろ」と考えた人がいるかもしれない。なるほどバランス感覚が重要だというのはおそらく正しいと思われるが、それにもかかわらずその認識は何の解決にもならない。なぜなら今日的な問題は、どこからが「過ぎたる」なのかについての合意可能と思われる(ある程度)統一的な基準の範囲がますます狭まってきている(あるいはそう認識されている)からだ。


周知のように、誰もが信じれる「大きな物語」、つまり「単一の真理」が消滅し価値観が多様化したのが今日の社会である。そのような状況においては、「適切な水準」というものについて合意に到るのは難しい。すると例えば次のような反応が生じる。一つ目は、完全に自分の基準を押し通すというもの(独善性に走る)。二つ目は判断を「超越者」へと棚上げする行為(いわゆる「自由からの逃走」)。三つ目は、たとえ狭くとも合意可能な範囲でとりあえず「良い」とみんなが思えそうなものを選び・積み重ねていくというもの。具体的には、「暗い―明るい」で比較して後者を選び、「キレイ―汚い」で比較して後者を選ぶ、という具合に二元論的な思考(選択)を組み合わせていくわけだ(ノイズの排除されたニュータウンとはそのようにして生まれたのではなかったか)。


とりあえず三つの反応を取り上げてみたが、前二者については書いてある通りなので説明の必要はないだろう(あえて補足するなら、一つ目は「マーワラーアンナフル」、二つ目は「人間という名のエミュレーター」の記事になるだろうか)。ここにおける最大の問題は三番目である。というのもこのパターンにおいては、何とか合意できる範囲で、善意をもって、合理的に考えた結果として、ノイズの排除された無菌培養室が出来上がっているからだ(これは「空気」を連想させる)。別の言い方をすればこれは、より良きものを求めたor不快なものを消していった結果、最悪のものが生まれ得ることを示している。ここにおいて改めて、「よい」という基準の難しさが認識されるとともに、いわゆる「いい人」がいい事をなしうるわけではないといった逆説やら両義性の問題が浮上するわけである(「明日、君がいない」の最後で話した内容もこれと関係するが、より詳しくはまた別の機会に)。


以上のような構造(必然性)に目を向けなければ、私たちは問題の入口にすら立っていないと言える。それに気付かせてくれるという点で、「過ぎたるは~」という言葉を連想することには意味があると言えるだろう。
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