マーワラーアンナフル

2010-01-18 18:23:04 | ぶらり旅
今からおよそ二カ月ほど前のこと。


その日はどうしても元町中華街に行きたかった。前日にキャプ翼3を深夜までやり込んで異常に眠い上に曇りでもあったが、衝動はいかんともしがたく、勢いで東横線に乗り込んで終点までガン寝することにした…


目が覚めるとそこは綱島(神奈川)。んじゃこのまま揺られていればもう少しで着くかしらねと思ってたところに「渋谷行き」のアナウンス。え~、どうやら折り返しの車内のようですなwかつて所沢時代には徹マン明けで寝過ごして飯能まで行ったことはあるが、それを上回るレベルだぜwまあそんなわけでしばらく無沙汰の等々力に予定変更。ただ、さすがに同じルートはつまらんので途中の多摩川駅で降りて川沿いに歩いてみることにする。


駅前の地図を見たら、多摩川を渡ると神奈川県とのこと。これは行くしかなくね?とあっさり予定変更して川の向こうを目指す。ところでいつも思うのだけど、それなりに大きな川(ex.隅田川や荒川)を越える時って国境というか何かの境界線を越えたような気になり、テンションが高まりません?渡ってみると別に大きな変化はなく(当たり前だ)、標識を見たら「野川 6km」とあったのでとりあえずそこを目指して歩くことにした。


そうそう境界線と言えば、「さよならを教えて」の記事は内省(正確には「内面への遡行・固着」)を批判しているとも取れるような内容だが、そのような行為を俺自身がし、かつ奨励もしているのに矛盾している、と感じた人がいるかもしれない。この説明は簡単で、俺はあくまでも「内面化された規範を相対化する」ために内省という「手段」が必要だと言っているのであって、内省を「目的」にすることを奨励してなどいないからだ。内省とは、読んで字のごとく「内(=自分)を省みる」ことだが、「省みる」ためには基準(嗜好や偏見を含めた枠組み)がなくてはならない(でなければ単なる回顧)。んでその基準をもって良い悪いを判断していくのだが、そもそも基準の由来や妥当性が自明でないこともしばしばだ。


そこで、内省の過程で(無意識化された)基準を読み取り、その基準そのものを秤にかけるというわけ。それにより、今まで自明・自然だと思ってきたものが単なる願望・擬制にすぎなかったと気付くこともあるだろうし、あるいは逆に単なる因習のように思ってきたものになにがしかの合理性や必然性を見出すこともあるだろう(例えば前者なら近代と「母性」や「子ども」のカテゴリー、後者は「神の罰」などが該当する)。しかし、そのような上位構造への眼差しがなければ、再帰的思考という名の閉塞に陥るだけだ(だからこそ、「宗教と思索」の中で「そもそも『告解』という表現には罪の意識が伴っているのであり、俺なら『なぜそれに罪悪感を覚えるのか』とむしろ逆に問いかけるだろう」と書いたのだ)。にもかかわらず、内省自体が良きものだと見なされ、しまいには目的化してしまうことも少なくない。すると、「ああこんなに考えている俺ってエライ」といった類の勘違いにハマることになる(まあ俺もそうなる瞬間があるので気をつけねばならんのだが…)。ゆえに、繰り返すが内省そのものは「手段」にすぎず、そこから何をなすのか、考えるのかが重要だと言えるだろう。


…とまあこんな具合に表現すれば、「さよならを教えて」の主人公の描き方に対する「内面への遡行・固着がいかに独りよがり(オナニスティック)なものであるかを示す」という評価と容易に共存できることが理解してもらえるだろうか。でもこれだけだとわかり辛いな。じゃあここは一つ俺の滅びの希求が崩壊して相対主義になった話でも…


とここで雫のOPテーマが流れ始めた。プレイヤーをアルバムリピートの設定にしつつ歩みを進めることにした。(続く)
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