この前「もやしもん~自由になることを~」という記事を書いたが、そこではテーマが時代遅れだということに関してごく簡単な説明しかしていなかった。そこでその草稿を掲載し、多少なりとも理解の一助となればと思う。ところで以下で述べている話は、例えば「どんな生にも意味がある」とか「いつか必ずあなたを真に理解してくれる人が表れる」といった人間に勇気を与えそうな言葉や考え方が、むしろ他人への非現実的な期待としてむしろ世界への不適応と絶望を促す・・・といったこととも関係している。また、人間は様々な制約から免れえないのであって、自分は感覚に従っているから自由だなどと考えるのはナイーブを通り越して白痴的ですらある、というかつての発言とも連動していますよと。まあだから「マーワラーアンナフル」という記事で「内面化された規範を相対化せよ」と書いたわけだが。そのような両義性を押えておかないと、善意で首を絞めることになるので要注意。では、前置きはこのくらいにしてさっそく本文に入っていきたい。
この前「もやしもん ゴスロリ女とエロい尻」を書いたが、そのついでに見たamazonの10巻レビューからすると、評価は二つに分かれているようだ。この原因は物語重視とキャラ重視という評価基準の違いにあるとは思うが、もう少し本質的な問題が絡んでいる。
かつて私は、吹き出しの使い方などを取り上げつつ、もやしもんの魅力は多様な楽しみ方(とそれに対する配慮)だと言った。今のもやしもんにおいては、それが-に作用しているように思う。詳しく説明しよう。
今回アメリカ編においては、家を継ぐといった話に絡んで「何があろうと私は私だ」ということが強調されている。その直継の言葉は、直保はもちろんマリーや川浜の兄弟にも感銘を与えている。
このような発言をどれほどの人が必然的なものと思ったか、あるいは逆に唐突だと思ったか、私にはわからない。ただ一つ言えることは、
このような自由の希求は、実のところフランス編にもある。わかりやすいのは「籠の鳥」長谷川だが、マリーのオヤジも家業と自分の特性の違いに苦悩していて、それによるわだかまりが解けた。
日吉のじーさんのセリフ、オクフェスのテーマと武藤の変化。先に述べた吹き出しの使い方も含めて、様々な形で表れるモチーフ。その意味では、一貫しているとは言うことができるだろう。
しかしながら、私はこれをほとんど評価に値しないものだと思う。その理由は、読者に容易に届いたとしても、決して響かないであろうと思うからだ。少し抽象的な話になるが、今回取り上げられているのは、家督といったもの「からの自由」である。なるほど縛り(社会的抑圧)の多かった、あるいはそれを共有できた学園闘争くらいまでなら、それも十分な意味を持っただろう。しかし今日では、むしろ「私が私である」というまさにそのことが問題となっている。
作者は、作中で「選択の幅」という表現を用いているが、これは再帰性と深い関係がある。「するも自由、せざるも自由」・・・つまり全ては自由選択であり、ゆえに全ては自己責任だと捉えられる。
現実はそうなっていないが、そのように通念される社会だ、ということ。
そんな中で、むしろ私たちは自由の息苦しさ(過剰のアノミー)にこそ悶えている。別言すれば、何でも選ぶことができるからこそ立ち尽し、選べばそれが自己責任として常に自分へと帰属処理をされる状況に納得しながら、それに怯える(自由からの逃走)。実際には(1)全知全能はありえない(2)環境要因が絡む(3)多くの偶然性と無識、といった現実があるにもかかわらず、だ。
「何があろうと私は私」を前提にして、むしろそれにもかかわらず社会にある交換可能性への悲鳴や承認の希求(典型的なのは秋葉原事件で話題となった派遣社員問題)という形で、むしろ問題が顕わになってきているのである。
要するに、もやしもんの描く「からの自由」は全くのところ時代遅れであって、理解はされても深い納得を呼ぶ起こすことはできないのである。あるいは最初から範囲(文脈)を限定してしまって「もやし屋」や酒蔵の跡取りたちの苦悩にスポットライトを当てることもできるだろうが、沢木の設定を生かすこともできていないし、「もやし屋」の今日的あり方といったところも突っ込まれていない。
それじゃあ響かんでしょ。ちょいアレなタームを使うと、「大きな物語」を偽装することも、「小さな物語」の形式を整えることもできていない。中途半端なクリシェとして垂れ流されるだけ。
「農大こそが舞台だ」などと決めつけた発言はドラゴンボールのナメック星編に対して「地球こそが舞台だろ」と言う程度にはナンセンスだが、ここからの展開力次第で単なるキャラ漫画に終わるのか否かが決まるだろう。
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