開窓・回想・階層

2012-12-03 18:31:10 | 日記

「砦」でエネルギー補給も完了したところで、山手通り北上を開始。
するとまもなく、「駒場東大前」バス停に着く。この名前もよく聞くが、実際来たのは初めてなので、裏道に入って少し辺りを探索。ここいらは「神山町」と言うらしいが、えらいでかい家が多くてビックリした。東大関係者の家なのかしらん(後日デオドラントスプレーに聞いたところによると、山手線の環内に家を立てたことが自慢のネタになるくらいだから、それはないだろうとのこと)?ついでにモンゴル大使館の前で一枚。

 

 

キリル文字なんて久々に見たぞなもし。 インドネシア大使館とかもあるみたいだし、ここは昼間に来てもっとディープに散策してみたいもんだね。で、もう少し行くと

 

 

こんな感じの階段がわしを誘っておる。どうして乗らないことがあろうか、いやない(`・ω・´)とばかりに南下。うーむ、ホラーゲームとかだと早死するタイプやねわし(´∀`)あ、ちなみに心臓弱い人はリンク先見んといてくださいねw

 

でまあえらい遠回りをした後結局山手通りに戻ってきましたよと。そのまましばらく歩くと、前回来た山手通りと井の頭通りの結節点に到着。なるほど、これを西進すれば中野通りとぶつかるわけだ。でまあ「繋ぎ」ぐらいの気持ちで歩いていると、向かい側に

 

 

なんじゃあこりゃあ!?暗くてよう見えんが・・・城か何かか?それにしてもなぜにそんなもんが?可能性としては一風変わった結婚式場とかだが(笑)、果たして・・・恐る恐る近づいてみると、どうやらモスクのようですな。まあ意味がわからんのは同じことだけどwで、横断歩道渡ってみると、

 

 

あーね。じゃあこれも昼に行くリストに入れておこう。そこで「ペルセポリス」に関する雑感が再び頭に溢れ出す。

アニメ版と漫画版(原作)の比較で言うと、ナショナリスティックな発言の有無もまた、寓話性と強烈な個という差異を生み出す要素になっている。ただそれに関しては、原作の1巻の冒頭にある「事の始まり」という題名を持つダヴィッド・Bなる人物の書いたイラン史の概要はちょっといただけないね。具体的に言うと、アリーの殺害はウマイヤ朝ではなくアリーの支持者から離脱したハワーリジュ派によるものだ(ちなみに彼らはムアーウィヤ及びそれと妥協したアリーを共に堕落した存在とみなして両方を暗殺しようとしたのだが、アリーの方だけが成功した次第)。ここで私が問題視したいのは、単なる描写の正確性よりもむしろ、それが被害者意識及びそれに基づいたナショナリズムと結びつけて語られている点にある。

端的に言うと、「抑圧されたイラン=シーア派(=アリー・フサイン)」↔「抑圧するアラブ=スンナ派(=ウマイヤ朝)」という二項対立的図式で描いているわけだが、そもそもイランにおいてシーア派が支配的になったのはサファヴィー朝以降のことだ(十二イマーム派を国教化した)。それまでは、たとえばセルジューク朝に仕えたニザーム・アルムルク、神学者のガサーリー、医学者のイブン・シーナーなど諸々の著名人もことごとくスンナ派なのである。ニザームにいたっては、(前代のブワイフ朝への対抗策もあって)ニザーミーヤ学院を建てるなどスンナ派の普及に尽力した結果、過激シーア派のニザール派に暗殺されてさえいるほどだしね。だから、「事の始まり」の冒頭にあるように、「ペルシア人は国教であったゾロアスター教からアラブのイスラーム教に改宗することになったが、それは敗者のイスラーム教であり、秘教的・革命的な地下活動であった。すなわちシーア派である」といった説明はそもそも成り立たないのである。

このような偏向は、ともすればイラン=イラク戦争に絡む「1400年の間に2度の侵略!頭に血がのぼった!責め続けるアラブ人たちから我が国を守る決心をした。私も戦いたかった!!」といった「子供心にも義憤にかられた」的発言も、不必要に色眼鏡で見られるように思うのだが(まあ100%中立な客観なんつーものは存在しないのではありますが)。

以上のような理由で、著者自身のものではないとはいえ、冒頭に不適切な歴史記述が置かれているのは、少なからず問題だと思うわけである。これは単に知識の問題ではない。たとえばイェルサレムが様々な信徒の混在する地域だったことを知らなければ、またかつての十字軍の蛮行を知らなければ、ブッシュの「十字軍」発言のマヌケさ・ヤバさに気づかない、といった話なのだ。ここにはもちろん、このブログでも度々取り上げている境界線の曖昧さ(→「沙耶の唄」)や多様性、そしてノイズ排除の問題が関係してくる・・・・・

 

そんなことを考えてるうちに中野通りまでたどり着きましたよと。つーかこの景色、前に自転車で来たから覚えてるわ。並木とか弁当屋って今もそもままなのね。懐かしいわ~(´∀`*)思い出にふけりつつふにゃふにゃ歩いていると、

 

 

え゛?まだ渋谷っすか!?首都高とぶつかる所も過ぎたし、結構近づいたと思ったんやけどな~。わしちょっと萎えたわorzそれにしても創価学会か~、既存の共同体への浸透よりもむしろ、都市に出稼ぎに来たような人たちを取り込んでいったんだよね。うーむ都市型保守の登場・・・不安の構造、「伝統」が求められる構造・・・さっきはイラン(人)の話だったけど、そういう事例っていくらでもあるよね。たとえば「ウズベキスタン」って言うけど、シャイバーニー朝を建てたウズベク族とは何も関係なくて、色々な民族が集まる会議で20世紀初めにマーロフっつーソ連の研究者に「お前たちは由緒あるウズベク族の名前を使うといい」と言われ、系図でアイデンティティーを確立しようとする個人のごとく、「伝統」を利用したわけだし。そういや、昔ししょーがモンゴルと戦ったジャラールッディーンまでウズベキスタンでは英雄として扱われているって話を書いてたな。こっちは、人種とか歴史をすっ飛ばして、地理的区分内で統合のシンボルに使えるものは何でも利用するって発想やね。地理的区分と言えば、大学一年の時にサークルの発表で3年の先輩がミャンマー、俺がタイの仏像様式(やサイヤサート信仰)について発表したことがあったけど、クメールの支配下にあった地域は大乗仏教の様式が流行してましたとか話している時、現代の国境線で分けて考える必然性が一体どこにあるのかと疑問に思ったんだっけ。あと大学三年の時は19・20世紀における中央アジアの独立運動とかを発表して、統合の基盤がイスラームから民族主義へと変化しただとか、現代ウイグル(≠古代ウイグル)と絡めて中国の民族籍とその影響(機械的カテゴライズの弊害)について言及したなあ。新免先生の論文を中心に読んだ記憶があるけど、今じゃあチョカン=ワリハーノフとかヤークーブベクぐらいしか覚えてないわw2005年に『中央ユーラシアを知る事典』って本が出たけど、あれが発表当時にあったら楽だったのにねえw

 

そんな回想をしていると、中野通り沿いにブックオフを発見。そこで『病が語る日本史』を購入し、帰宅した。

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2 コメント

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Unknown (熊本より愛を込めてw)
2012-12-16 21:51:47
最後の写真ワロたwww
そして本日日本終了のお知らせw
不正選挙により完全に日本おわたwww12.12.16
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どなたかは存じませんが・・・ (校長)
2012-12-20 00:15:24
まあ近代国家という観点ではそもそも始まってすらいない、という噂もありますがw

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