奇跡による救済の話:感動モノと宗教

2006-01-15 12:28:26 | レビュー系
安易な「奇跡」による救いで終わる話は、宗教における聖者奇蹟譚と大同小異である。前者は話を強引にハッピーエンドへもっていくための荒業であり、後者は信仰の篤さに対する報いや神の力の偉大さを示し、もって信者たちの信仰心を高めるという狙いのもとに作られている、という違いはあるけれども。

私が問題に思うのは、疑いを持つことなく前者に感動できる神経である。救いという現象のみに目をとられて、話の構造には注意が向けられない。そこからは、容易に奇跡譚を信じるような無邪気さと無批判さが醸成されることだろう。仮にも宗教社会学に興味を持っている立場としてあまり安易な話はしたくないが、これでは宗教の宣伝に「騙される」(宗教への帰属においてこれほど慎重に扱われるべきタームも少ない)者達が多く出てくるのも不思議ではない、と思う。

◎例えばKanonなどは、あれに神という言葉を(たとえ数箇所でも)挿入すればそのまま宗教の奇跡譚になる。「信じるものは救われる」というわけである。いやむしろ、奇跡譚をベースにして神という言葉・概念だけを抜いたのではないか?そう思わせるほどにKanonの話は宗教的である。多くのプレイヤーは、なぜKanonの宗教性に気付かないのだろうか?神という言葉・概念だけを抜き、感動モノとして売り出されたKanonを無邪気に感動している人間が多いところに、強い欺瞞が存在していると私は思う。これついて、同じく「救い」が扱われる「灰羽連盟」などは、概念規定は曖昧ながらも(この場合は曖昧なことに意味があるのだが)神という存在に言及がなされている点で好対照をなしている。

※この記事では日本人の「無宗教」という現象を考慮に入れながら書いている。興味がある方はカテゴリー「宗教」の過去ログを参照してほしい。あるいは本で読みたい、という人は井上順孝『若者と現代宗教』、阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』(ともにちくま新書)がとっつきやすくお勧め。
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