「統一的な自己」への疑いの始まり:性善説・性悪説との出会い

2006-12-11 23:27:23 | 抽象的話題
以前自己の統一性の欺瞞について述べたが、この「自己の統一性」なるものに対する疑いは、人間の「本質」に関する諸々の見解への疑いから始まった。


その発端は、高校一年の倫理の授業に遡る。中国思想のところで孟子の性善説と荀子の性悪説は、それぞれが人間の本質が善である理由と悪である理由を挙げていた。性善説の理由は「井戸に落ちようとする子供を助けようとする行為」であった。あいにくと性悪説の方は覚えていないが、私は両者を見てそれぞれがもっともな理由であると思った。


だが、もし両者の理由が妥当であるとするなら、今度は逆にそれぞれを否定する根拠がなくなる。つまり、善なる部分こそを本質として悪の部分を非本質的なもとして否定したり、あるいはその逆の主張をすることができなくなる。そうすると、次に思いつくのは、それぞれが自分の都合の良いところをピックアップして人間の本質を論じ、一方で都合の悪いところには目をつぶっているのではないかということだった。では、なぜそのような論じ方をする必要があるのだろうか。そう考えると、「人間には統一性があるに違いないという思い込みがある」という結論にたどり着いた。つまり、「人間の本質は善であるか悪であるかのどちらかでしかなく、その共存はない」という証明されざる見解をもとにして、性善説も性悪説も自分の望む姿に適合する例をピックアップしたに過ぎない。それでは、人間の一面について自分の願望を述べているだけではないか(※)。


これが、性善説・性悪説に出会って私が思ったことだった。そしてここから、人間の本質だとかを論ずる哲学嫌いが始まった。哲学と言うものが、つまるところ自分の願望の投影に過ぎないと考えるようになったからである(それが一視点だと考えれるようになったのは8年後のことである)。とはいえ、性善・性悪説には感謝している。これによって、人間には統一性があるという意識的・無意識的に横行している見解を疑えるようになったからである(※2)。その意味で、両説は私の世界観に大きな影響を与えたと言えるだろう。



ただ、公平を期すために言っておけば、あくまで私の疑いは倫理の教科書で述べられた範囲の内容に対してである。性善説・性悪説の広さ・深さを否定するつもりもないし、著作を読み通したわけでもない今の私にはその資格もないことを断っておく。

※2
例えば、人間が殺しあう姿を見て「人間の本性を知った」というような話があったりするが、なぜそれが本性と言えるのだろうか?普段見ている姿は虚構・仮のものだと言える根拠は何だろうか?そこには、ある側面を見て全てを語ろうとする誤りが含まれているのであり、その誤りは「人間には統一性がある」という見解・願望なのである。
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3 コメント

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荀子 (バイシ)
2006-12-13 01:26:42
そうですね、孟子みたいないいたとえ話はちょっと思い浮かびませんが、たしか荀子は「人間にはフィジカルな欲望があるから、それを好き放題にさせたら大変なことになる。だからそれを抑制する礼が必要なのだ。善なるものは人間の作為によってやっと達成される。」というような考えだったと思います。「性」は宋以降の中国哲学で再び問題にされ、それは人間には共通の「性」があるという前提に立っています。ですがギーガさんのおっしゃる統一性の観点にたたない思想家もいたかもしれません。ちょっと調べてみますね。
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Unknown (ギーガ)
2006-12-15 01:01:07
なるほど。今になってみれば、そういう「性」の概念も興味深い問題ですね。私自身も今度調べてみることにします。では。
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Unknown (バイシ)
2006-12-21 04:19:29
性の善悪に一定性がないということは、戦国時代に告子という人が言っているようです。

そもそも哲学に違和感をもつというのは分かります。文学とか歴史とかはだいたいどこの民族にもあるのでしょうが、哲学は大雑把に言って、ギリシャ、インド、中国にしかないものですから。世界や人間の本質に迫ろうとするのはどの民族もがしている訳ではないですね。ところでイスラム哲学というのはあるんですか?
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