常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

正義が勝つ理由

2007年01月30日 | ヒーロー&アニメ

子供番組は単純明快です。例えば、ヒーローものの番組。正義と悪がいて、苦しみもがきながらも、必ず最後に正義が勝つ。そんなストーリーばかりだから、大人は子供番組を「ワンパターンでつまらないもの」と馬鹿にしてしまう傾向があります。でも、私はヒーロー番組が大好きです。それは、そこに物事の本質が含まれていると思えてならないからです。

日曜日の朝に放送されているのは、ヒーロー戦隊ものの「轟轟戦隊ボウケンジャー」。これをみながら、つくづく思うことは、やっぱり、必ず正義が勝つようにできているということです。

ボウケンジャーの敵陣営は、ひとつではありません。影忍者一団の「ダークシャドウ」、かつての高度文明人「ゴードム」、恐竜のDNAを取り込んだ「ジャリュウ一族」など。これらを総称して、ボウケンジャーの敵キャラは「ネガティブ」と呼ばれています。 このネガティブは、お互いが連携し合うということはほとんどありませんが、一応それぞれの目的のために戦っています。ネガティブのひとつである「ジャリュウ一族」の長は、「リュウオーン」というキャラクターです。悪陣営のボスキャラなので、いかにもといった風貌だし、根っからの悪い奴だと思い勝ちになりますが、実はこの悪の親玉「リュウオーン」は、もともと人間だったのです。

それも普通の人間ではありません。本当は人間のことが大好きで、人間の可能性に対して、人一倍大きな期待を寄せていた優しい人間でした。「今の人類は愚かだけれども、変わることができるんだ」と真剣に信じており、むしろ一般の無関心の人間よりもずっとまともだったのです。ところが、人間は殺し合い、憎しみ合うという愚かな行動をやめません。そこでリュウオーンは、大好きな人間に対して、すっかり失望してしまいました。期待が大きかっただけに、大きな失望をしてしまうのです。そして、心に誓います。「こんな人類なんて滅びればいい」。こうして彼は、その醜い姿へと変貌を遂げ、ジャリュウ一族の長、リュウオーンとなったのです。

一方、ボウケンジャーは、当たり前のことながら、人類の可能性を信じて、正義のために戦っています。リュウオーンは、ボウケンジャーと戦いますが、人類の可能性を信じて、正義のために戦うボウケンジャーの姿は、まさに「昔の自分」の姿。ボウケンジャーに対して、「人間を信じるなんて、お前らは馬鹿だ」と思いながら、けっして彼らを殺すことはできないのです。何故なら、それは過去の自分の美しい姿だから・・・。 だからこそ、「悪」のリュウオーンは、どんなに強くてもけっしてボウケンジャーには勝つことができません。「悪」なんてそんなものだと思うのです。誰も「悪」になんてなりたくてなっているわけではないし、強い「悪」であればあるほど、強く信じたものがあって、それに裏切られ、失望の結果「悪」になってしまっているだけなのです。むしろ「悪」は、最後に「正義」に倒されることを望みながら存在していると言ってもいいでしょう。ちなみに1月28日の放映で、リュウオーンはボウケンレッドとの一騎打ちに敗れ、やはり人間に戻ってしまいました。

強い「悪」は心の奥底で、さらに強い「正義」があることを信じたいと思っているものです。「こんな人類は滅べばいい!こんな世の中なんていらない!」と思いながらも、それは本望ではないことも同時に知っているのです。だから、自分よりも強い「正義」の存在を期待しながら、戦わざるをえないのです。したがって、どんなに強い「悪」も、最後に自分よりも強い「正義」に倒されることを願っています。それはそんな正義こそが、もともと自分が信じようとしていたものであり、本当は最後まで信じたかったものだからです。

だから、正義は必ず最後は勝っていくのだと思えるのです。そして、だからこそ、人は真に正義と信じたものを、けっして曲げてはいけないと思うのです。

そこで自分たちの生き方に立ち返りましょう。

正義とは何でしょうか。大義とは何でしょうか。何のために生きるべきなのでしょうか。曲げてはいけないものとは何なのでしょうか。

これは人には教えてもらえません。常に自問自答をしていきながら、自らの力で答えを探し出していかなければならないものなのです。このことは、非常に辛いことで、自分の心で悩み続けるしかありません。宗教は、それらしい答えを簡単に教えてくれますが、そこには落とし穴があります(「宗教が説く真理」参照)。頼るべきは自分の力であり、自問自答し続ける忍耐力が必要となるのです(「困難から逃げないこと」参照)。そして、世界はヒントに溢れています。

悪に迎合してはなりません(「妥協が許されない理由」参照)。最後の最後まで、正義を貫き、そして己に勝たなければならないのです。悪魔に魂を売ることなく、自分が人間として、本来するべきこととは何かを究極的に突き詰めていくことで、その人の人生と人類の未来は大きく変わっていくと思います。

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遅過ぎるということはない

2007年01月29日 | 人生

子供向けの番組から、物事の本質を学びとれることは多くあります。日曜日の朝は、時間的にも合わせやすいため、いくつかの子供向け番組で勉強させてもらっています。

「ふたりはプリキュア」という番組が、1月28日の放映日を最後に終わりました。プリキュアとは、悪と戦う二人の女の子で、物語上、伝説の戦士ということになっており、滅びの力をもつアクダイカーンやゴーヤーンといった悪者キャラと戦っていく女の子のアニメです。このなかで、私なりに注目したいのは、主人公でも悪玉でもなく、この二つの勢力の狭間でさまよった、「ミチル」と「カオル」という、別の二人の少女たちです。

ミチルもカオルも、プリキュアと同じく二人の女の子ですが、悪の化身アクダイカーンの滅びの力で生まれた存在で、アクダイカーンに忠誠を誓って、プリキュアを倒すことを使命として負っています。その意味で、ミチルとカオルは悪者キャラです。そして、ミチルとカオルは、友達を装って、しばらくの間プリキュアの傍でプリキュアの弱点を探っていきます。そのなかで、プリキュアがお互いがお互いを必要としたり、他人がいないとエネルギーが出ないというプリキュアの弱点を掴んでいきます。しかしそれと同時に、人間の温かみや素晴らしさ、自然の美しさなどについて、プリキュアから教えられ、それに気付かされてしまうのです。「ミイラ取りがミイラになる」といったところでしょうか。

そして、滅びの世界に戻ったミチルとカオルは、アクダイカーンに直訴します。「人間は暖かく、世界は美しく素晴らしい。壊すことなどしないでほしい」と必死に訴えるのです。当然のことながら、アクダイカーンは怒りまくり、ミチルとカオルを許しません。

行き場をなくしたミチルとカオルは、結局自分たちの信念を貫き、プリキュアとともにアクダイカーンやゴーヤーンと戦う道を選びます。しかし、ミチルとカオルは、アクダイカーンの滅びの力で生まれた存在であり、アクダイカーンは、いわばミチルとカオルにとって、親のような存在です。ミチルとカオルにとって、アクダイカーンと戦うというのは苦渋の選択であり、できることなら避けたい行動です。けれども、最終回では、ミチルとカオルが、まさにプリキュアと同じように、アクダイカーンたちと戦いました。

そして、いよいよクライマックス。プリキュアと共に戦ったミチルとカオルは、ついに勝利を手にします。しかし、このことによって滅びに力が消滅します。ミチルとカオルは、滅びの力で生かされていた存在であり、滅びの力がなくなることは、ミチルとカオルにとっての死を意味するのです。ミチルとカオルはプリキュアに別れを告げ、そして死んでいくのです・・・。

が、最後の最後。不思議な力が働いて、ミチルとカオルは甦ります。「な~んだ、そうやって生き返っちゃうのかよ・・・」と、言いたくなる気持ちも分からないでもありません。しかし私は、信念を貫き通し、そのために命がけで戦っていく者は、死にかけても必ず救われていくし、そうあるべきだと思うのです。

話は変わりますが、イエス・キリストという人は、信念を貫き通しましたが、最終的には十字架にかけられ、救われることがありませんでした。しかし、これからの世の中は変わっていなければなりません。地球環境が破壊されつつあるなか、人類の悲劇の歴史が、ふたたび繰り返されて許されるほどの時間的余裕はないのです。これからの世界では、イエスのような人が救われなければならないし、イエスの過ちを二度と繰り返してはならないと思うのです(「イエスから学ぶもの」参照)。ミチルとカオルの甦りは、まさにその象徴だと考えます。

またイエスは、言うまでもなくキリスト教の元となった人ですが、彼の人生のうち、30歳頃まではほとんど明らかにされていないといいます。明らかになっているのは、30歳頃から以降、十字架に磔にされるまでの3~4年でしかないのです。イエスは、その3~4年という短い間に、キリスト教の元となる言動を起こしているのです。

ここでひとつの仮説があります。それは、実は彼は30歳頃まで、とくに聖人たる行いもなく、平々凡々とした暮らしをしていたのではないかという、以下の視点によるものです。

ヒントは、例えば「原罪」とは何かに隠されていると思います(「原罪とは・・・」参照)。原罪の解釈には、キリスト教のなかにも諸説あるらしく、一概には言えませんが、いわゆる普通の人間が生まれながらにして背負っている罪と解釈しておけばよいでしょう。 30歳を迎える頃、イエスは互いに憎しみ合い、殺しあう人間のエゴに気付いたのです。そして、それを認めてしまい、闇を抱える社会の問題を知ったのでしょう。しかし、人間はそうした人間や社会の問題を直視しようとせず、それに甘んじて生きており、彼はそうした人間に罪があると思ったのかもしれません。けれども、そんな自分も人間です。いかに問題があるとはいえ、自分自身が人間から生まれ、社会に育ててもらった以上、自分がそれらをすべて否定することはできません。

ポイントは、それに気付いた自分は聖人でも何でもない。本当に普通の人間だったということです。自分自身が、普通の人間であり、単なる社会の一構成員なのです。だからこそ、それらの罪は、すべてみんなの罪であると同時に、自分の罪でもあると考えるほかないのです。そして自分を含め、この世界に生きる全ての人間は、生まれながらにして罪をもつと考えることができるわけです。

30歳を迎えた頃、イエスはそれに気付き、人間や社会、そして自分自身の罪深さを知ったのかもしれません。そして、その原罪を命がけで償おうという決意を固め、十字架にかけられたと考えることができるのです。

大切なことは、人間は生まれてすぐに、その罪(原罪)について気付くのではなく、普通に生きているうちに、どこかでそれを知るのだろうということです。

「ふたりはプリキュア」のミチルとカオルは、滅びの力によって生まれました。いわば、原罪をもって生まれてきた存在です。しかし、原罪があるからといって、生きてはならないということではありません。原罪を命がけで償おうとした者は、きちんとその罪が償われ、新たな命を与えられなければならないと思います。そうでなければ、我々はまたイエスと同じ過ちを繰り返すことになります。原罪を抱えている人間は、その罪を償うことで、きちんと生きながらえることができる世界にしていくべきです。それが、我々人類がイエスから学んだことではないかと思うのです。

遅過ぎるということはありません。イエスは30歳を過ぎてから、その罪に気付き、行動を始めたのかもしれません。ミチルもカオルも、プリキュアから人の優しさや自然の美しさを教えてもらい、それを知ってから、自分たちの信じるものに向かって、戦いを始めたのです。誰も最初から正しい方向など向いていないし、気付いてもいないのです。

大切なことは、正しい方向に気付いたときです。今の人間や社会の問題を直視し、それから逃げずに、自分が何をするべきかに気付いたときから、原罪の償いを始めていけばいいのです。そして、その命がけの行為の先には、きっと新たな生命が与えられるし、新しい世界が広がっていると思うのでした。

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風林火山と「武」のあり方

2007年01月28日 | 武術

「風林火山」の極意。それはデジタル思考ではないかと思います。つまり「やる」、「やらない」のメリハリをつけ、曖昧な行動や思考を徹底して排除することが、「風林火山」のポイントではないかと考えるのです。

去年の秋。私は、娘の幼稚園の運動会に参加しました。そのなかの種目である騎馬戦、私は娘を負ぶって馬になりました。帽子をかぶった娘が、敵チームの負ぶられた子の帽子をとるというのが基本ルールなのですが、とにかく私は強かったです。

「よーい、スタート!」

一斉に50組近いパパ騎馬がフィールドに入り、敵味方入り乱れて帽子を奪い合います。もうスタートしてから、あちこちで帽子を取ったり、取られたリが始まります。しかし、私は絶対にこれに加わりません。

要は風林火山です。

【山】
フィールドの隅でラインを背にして、絶対に誰も後ろに回れない位置でじっと待つ。 近づいてくる他のパパ騎馬があっても、適当にラインを背にフラフラして、絶対にしかけることはしない。

【風】
たまに前から攻撃をしかけてきそうなパパ騎馬があると、反対側のラインに向かって、全速力で走りぬく。全速力で走るから、誰も我々の帽子を取ることはできない。そして反対側に着いたら、またラインを背にしてじっと待つ。

【林】 しばらく待っていると、我々の存在に気付かずに、私に背を向けてウロウロしている他のパパ騎馬が現れる。このときがチャンス!!そっと、そして素早く近づく。

【火】
背後から、サッと帽子を奪い取る。

【山】
奪い取ったら、また全速力でラインに向かって走り、ラインを背にして待ち続ける。 これを繰り返していると、私にはまったく危ないシーンがないまま、帽子を奪い続けることができるのである。

「やるべきときは徹底的にやる。やらないときは徹底的にやらない」

絶対に中途半端なことはしない0か1かの世界。このデジタル的な行動及び思考パターンが、まさしく「風林火山」の考え方の根底にあるのではないかと思うのです。これは、私の「妥協は許さない」という考え方にも通じます(「妥協が許されない理由」参照)。

ところで、こうした0か1かのデジタル的な考え方は、他のところにもみてとれます。

たとえば古武術。古武術は、いわゆる人を殺傷するための術であり、これを発動するときは、人を殺すことになることを想定しなければなりません。つまり、一度その術を使用するときには、徹底的にやるのです。それこそ、人の命を奪うつもりでやらなければなりません。だから、できることなら戦わないほうがよいのです。戦いは極力避け、極力耐えるのです。しかし、どうしてもというときには、やらなければいけません。真の武術家が戦うときというのは、こうしたギリギリの葛藤のなかで、大きな覚悟を決めて戦うのだろうと思います。そして一度戦うと決めたときは、死を賭して行動に移さねばならず、それこそ生き残るためには相手を殺すつもりで戦わなければならないのです。だからこそ、真の武術家であればあるほど戦わないのであると思います。

「武」の字は、「矛を止める」と書くといいます。つまり、真の「武」とは、それをもって殺しあうことではなく、互いの矛を止めることにその真髄があるというのです。「戦うときは、徹底的に殺すつもりで戦う」、「戦わないときは、何があっても絶対に手を出さない」。

「弱い犬ほどよく吠える」とは、よく言ったものです。弱い犬は、噛んだところで大した傷は残さないし、そのことを知っているから、むやみに吠え、むやみに噛もうとするのです。しかし強い犬は、自分が動いたときの怖さを知っています。だから吠えもしない、噛もうともしません。しかし、一度吠え、そして噛もうとしたら、とんでもない力を発揮するのです。強い者であればあるほど、まさに0か1かのデジタル思考を実践し、また強い者こそ人には優しく接することができるものなのでしょう。

蛇足ですが、古武術で歩く動作は、単に右足を前に出し、次に左足を前に出す、というものではありません。四股立ちで両足が開いている状態から、両足を揃える。揃えた状態から反対側の四股立ちとなる。この繰り返しが、古武術でいう歩く動作なのです。つまり「開」、「閉」、「開」・・・で前に進むのであり、「開」と「閉」の中間という考え方はありません。「1」、「0」、「1」・・・のデジタルの繰り返しのなかで、歩く動作が生まれるのです。この繰り返しの結果として、いわゆる「摺り足」のようなかたちで歩く動作になるというのが、古武術の歩き方です。これも、まさにデジタルです。

いずれにせよ、真の「武」とは、その強さゆえに、使わざるところに真髄があると考えるべきでしょう。「風林火山」で言えば、武を発動するときは、徹底的に「火」の如くであり、これは限りなき滅びへの道となるのです。「風林火山」の真意を知り抜いていれば、「武」は本来の意味のように、矛を止めるために、互いに動かず徹底的に「山」の如く、であるべきであることを理解できるようになるでしょう。

そして、だからこそ「武」は、競争をすることなく、平和を保つための有効な道具になるということができるといえるのだと思います。

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心に響く叱り方

2007年01月27日 | 教育

今日、ちょっと街に繰り出して、買い物をしていました。

食べ物屋さんの前で並んでいると、すぐそばに親子連れが一組。子供が小石を拾い上げて、建物に傷を付けようとしていました。すかさず、お母さんが注意しました。

「ほら、ダメよ。すぐそこに、おまわりさんもいるでしょう!」

そうそう。その建物の隣は交番。おまわりさんにみられたら大変です。子供はびっくりして、小石を地面に戻しました。お母さんは、子供が建物に傷をつけるという行為を止めることに成功したのです。

ところで、これは本当に正しい叱り方なのだろうか・・・?疑問が沸いてきます。

おまわりさんがいるからいけないのか?
建物に傷を付けることがいけないのか?

子供にはよく分からなかったのではないでしょうか。本来、子供に対して、建物に傷を付けることが悪いことであるということをきちんと理解させるべきでしょうが、お母さんにしてみれば、「おまわりさん」を引き合いに出したほうが説明しやすかったし、子供の行為を制止するのに近道だったのでしょう。けれども、「おまわりさん」を引き合いに出してしまったことによって、子供には何がいけないことなのか、結果としてうまく伝わらなかったのではないかと思います。実際、注意を受けた子供は、「おまわりさん」の言葉に敏感に反応し、びっくりした様子で石を地面に戻していました。これでは、「おまわりさん」にみつからなければ、建物に傷をつけても大丈夫なのではないか、という誤解を与えてしまいかねません。

以前、私の娘がアリを踏みつけたときのこと。

私は、「こらっ、アリがかわいそうじゃないか!」といった具合で娘を叱りませんでした。代わりに、踏みつけられて、もがき苦しむアリのところに娘を呼んでこう言いました。

「ほら、みてごらん。今、○○ちゃんが踏みつけちゃったアリさん、苦しそうだね。○○ちゃんが踏みつけたからだよ、かわいそうだね」

娘は5秒も一緒に見ていられません。辛そうな表情で私に訴えました。

「パパ、もう言うの止めて」

それからというもの、娘はけっしてアリを殺さなくなりました。そして、同じように虫をいじめる弟には、「ほら、みてごらん。虫がかわいそうでしょう」と言って、弟を諭すようにもなりました。

人間は、善悪の判断ができる動物であると思います。そして、その善悪の判断基準は、教え込まれる以前に、人間が生まれながらにして、純粋な心のなかに持ち合わせているのではないかと、私は思うのです。

しかし、大人は善悪の判断結果を子供に教え込み勝ちとなります。

ぬいぐるみを乱暴に殴りまくる息子に対して、どう接するべきでしょうか。たとえ、ぬいぐるみとはいえ、やはりモノを乱暴に扱ってはいけないし、ましてやぬいぐるみのようなものを殴る、蹴るというのは、けっしていいことではありません。

しかし、だからといって「こらっ、やめなさい!」と叱ったところで、子供にとっては何がいけないのかよく分からないのです。たとえそれで殴ることを止めたとしても、それはひとまず、親が怒っていて、怖いから止めるだけです。それでは、親がいないところで、同じことを繰り返してしまいます。

子供は表現力が未熟であり、社会的に弱者でもあるため、子供の言うことを無視しようと思えばいくらでも無視できるし、無視したらかといって、当面大きな不都合が起こるということはほとんどないでしょう。だから、大人は子供の表現力の未熟さや、社会的地位の弱さにつけこんで、頭ごなしに言うことを聞かせようとするのです。そして実際に、子供はそれで言うことを聞くものです。いくら言うことを聞かない子供でも、(どこまでやるかの問題はあるが)究極的に力でやり込めれば、結果的に子供は言うことを聞かざるを得ません。この力関係を利用すれば、子供にはいくらでも言うことを聞かすことができるし、このことは大人にとって非常に楽だし、都合がいいでしょう。しかし、それはその場限りであることを忘れてはなりません。

そこで、「痛い、痛い。ぬいぐるみがかわいそう・・・」と言ってみます。

子供は素直だし、想像力があります。表現力が未熟な子供でも、ひとつの人格を立派にもっており、その感受性や想像力は実に見事です。その言葉を聞いて、子供は「あれ、そうかな?かわいそうなのかな」と思うのです。なかには、照れくさがって、その場ですぐに殴ることをやめない子供もいるでしょうが、心の中では「かわいそうかもしれない、悪いことかもしれないな」という思いを抱くようになるのです。すると、いずれ子供はぬいぐるみを殴らなくなります。

ある事柄について、善か悪かを教えることは簡単なことであり、その結果だけを大人と子供の力関係を利用して教え込むことは、本当の教育ではありません。そのように善悪を押し付けられた子供は、本当にそれが良いことなのか、あるいは悪いことなのか、いつまでも心をもって感じ、判断することができないままになってしまいます。

本当に子供のことを思って、叱るのであれば、子供自身に善悪の判断をさせ、それを言動につなげられるように、心に響くような叱り方をしていくべきではないかと思うのです。

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欲するものへの心持ち

2007年01月25日 | 人生

本当に欲しいと思っているものがあるなら、それに執着してはなりません。本当に手にしたいと思うならば、それを捨てる覚悟でいるといいでしょう。そうすると結果的に、それを手に入れることができるのです。

地位が欲しいと思うならば、地位を捨てよ。
金が欲しいと思うなら、金を捨てよ。
愛が欲しいと思うなら、愛を捨てよ。
命が欲しいと思うなら、命を捨てよ。

本当に捨てる覚悟があるものに対しては、必ずそれを拾ってくれる人が出てきます。そして、結果的に大きなそれを手にすることができるようになります。しかし、少しでもそれに執着したり、もったいぶったりすると、その人物にそれがあることについて、周りの人々が疑念を持つようになり、最終的に失っていく結果となります。

例えば、リーダーの地位に固執する人は、自ずとその心が態度として出てしまい、リーダーを支えるべき人たちの不信感を買います。結果として、その人はリーダーの地位に就き続けることはできなくなるでしょう。真のリーダーは、人間の本質的な部分で、リーダーたる資質を磨き、備えている人物であり、そのリーダーの地位は、自ずと周囲の人々から与えられるのです(「全員が真のリーダーたれ」参照)。

人間の本質とは器であり、生き方の軸にあります。それは、その人物が何を信じ、何のために生きようとしているかで決まります。そして、その人物の器が大きく、中心軸が真っ直ぐ通っていれば地位も、金も、名誉も、命もそれに見合った分だけ、自ずと与えられるものであると考えるべきです。

その人間が地位をもっているか、金を手にしているか、愛に恵まれているか、命を永らえていられるかは、可視化できない人間の本質の部分が、結果として表面化されているだけであり、それそのものの裏側にあって、それを支えているものを見失ってはなりません。

だから、本当に必要なものに対しては、けっして固執してはならないと思うのです。むしろ人間の本質的な部分を磨いていくことが、本当に必要なものを手にする結果を生むでしょう。

ただし、実はこれと同時に全く逆のことを言うことができます。

つまり、「究極的に固執せよ」ということです。この意味は、究極的に固執するからこそ、捨てても最終的にそれを拾うことができるということです。このことは、手に入れられるという結果を期待しながら、捨てろということとも違います。期待をすることそのものが、それを欲することであり、その見返りを求める気持ちが、心に隙を生じさせ、迷いとなり、捨て去ることを不可能にするからです。見返りを期待するわけではない、かといって自暴自棄となり、粗末に捨て去るでもない、という意味です。

「固執せずに捨てきれ」
「究極的に固執せよ」

このふたつは明らかに矛盾します。しかし、この相矛盾するふたつの概念を理解し、両方を同時に実践できたとき、本当に大切なものを手に入れることができるのです。

人間社会は、矛盾に満ちています。けれども、いつまでもその矛盾を解けないといって諦めていては人類に明日はありません。矛盾の解き方は、どちらか一方を認め、一方を否定することではありません。両方を同時に認めること、それが矛盾を解くカギであると思います。

人間には両手があります。最強の矛と最強の盾。これをぶつけ合い、どちらが最強かを明らかにする必要はないのです。それぞれが最強であることを認め、最強の矛と最強の盾を両手にもつことで、最強の人になれるのです。それだけでいいのです。

イエス・キリストは、愛に固執せずにそれを捨て去りました。しかし、それだけでした。同時に「究極的に固執する」ことができず、結果として、自ら死んでいくという失敗を犯してしまったと思います。そして、人類はイエスが説こうとしていた本当の愛を理解することができずに今日を迎えてしまい、人類と地球の未来に暗雲を呼び寄せてしまっていると考えるのです。しかし、新しい時代を迎え、二度とイエスの失敗を繰り返してはなりません(「イエスから学ぶこと」参照)。

矛盾は必ず解決できます。表と裏、陰と陽、男と女・・・、相反するふたつの概念。

そう。人間には、男と女がいます。イエスはひとりの男として、業を成し遂げようとしました。そこに過ちがあったのではないかと思うのです。

「固執せずに捨てきれ」
「究極的に固執せよ」

この相矛盾する考え方について、男は男の役割を、女は女の役割をきちんと果たすことで、その両方が共存できるようになるでしょう。それこそが、矛盾の解決なのです。大切なのは、中途半端にならないことです。「固執せずに捨てきる」か、「究極的に固執する」か、どちらかを突き詰めていく。それが一人の人間にできることだと思います。

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全員が真のリーダーたれ

2007年01月24日 | 人生

人類を育んでくれている地球。人類だけでなく、地球上にはあらゆる生物が「生」を営んでいます。その地球が、人類の所業のために悲鳴をあげはじめ、もはや待ったなしの状況になりつつあるなか、この局面を打開するには、我々人類ひとりひとりが大きく変わらなければならないと思います。世に起こっているあらゆる問題について、他人任せにせず、全てを自らの責任として受け止め、それらをすべて変えていこうとする意思と実行力をもたなければならないのです。

人のせいにしない、他人任せにしない。これは、いわゆる「リーダー」としての本質でもあります。そして、まさしくこれからの時代を生き抜く人類は、ひとりひとりがそういうリーダーにならなければならないということなのです。

ところで、真のリーダーとは何でしょうか。本来、リーダーとは人の上に立つ存在であり、会社であれば社長だし、軍隊であれば将軍だし、国家であれば首相や大統領といった最も高い地位に就く人、端的にいえばそういう人がリーダーです。

ところで、地位や名誉が、人々の欲の対象となる社会においては、リーダーになることそのものに価値があるものと評価されます。だから何をなすべきかではなく、リーダーになること自体が社会的な地位として価値があると認識され、目的化してしまっているケースが多々あるのです。しかし、このことは大変危険なことであり(「道具の目的化の危険性」参照)、実際にそういうことでは、真のリーダーの地位は、その人に定着しません。

そもそもリーダーとなる人が、その地位に就きたいと願い、しきりにそのことをアピールしても、中身が伴っていなければ、周りにいる人々がその人をリーダーにはしません。むしろ「あの人があの地位に就いたら、何をされるか分からない」といった不安を与え、人々を警戒させてしまいます。これでは、リーダーになりたくても、そのアピール自体がまったくの逆効果として働いてしまいます。

リーダーという存在のイメージは、的確に判断をし、部下にテキパキと指示を出し、組織を引っ張っていく(リードしていく)人であるから、当然そういう威風を備え、「だから、私の言うことを聞きなさい」という雰囲気を漂わせているように思われるかもしれません。しかし、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉のとおり、真のリーダーは、けっしてそのような威圧的な雰囲気を漂わせはしないのです。むしろ周りの人々に、「どうか、私のことを助けてください」と思わせる人こそが、真のリーダーの姿なのであり、人々が自然とその人のために命を投げ出したくなるようにさせるのが、真のリーダーの成せる業なのだと考えるべきでしょう。

ローマ進撃に際し、国境を流れるルビコン川を目前にしたジュリアス・シーザーは、「ここを渡れば世界の地獄、渡らねばわが身の破滅」と言って、その川を渡ったといいます。「渡らなければ、わが身の破滅。だから渡ろう、私のために渡ってくれ」。これこそ究極の「どうか、私のことを助けてください」かもしれません。

リーダーは、その人物が狙ってその地位に就くというよりは、むしろ周りの人々が「その人のために、命を投げうって尽くしたい」と思う結果として、自ずとその地位に就くものです。リーダーは、多くの人に「私のことを助けてください」と言うことができ、その行動や言葉を聞き取った多くの人々の心が動かされることで、「あの人物をリーダーにしよう」という全体の力が働き、リーダーの地位を獲得することになるのです。

私は、本ブログのなかで、「人は大義をもって生きるべきであり、自らの個に執着してはならない」と書きました(「頼るべきは「自分」」、「妥協が許されない理由」、「正義がひとつになる時代」など参照)。真のリーダーが、「個人としての私を助けてください」ということはおかしい、矛盾しているのではないか、という指摘があるかもしれません。

否、矛盾しません。真のリーダーは、自分が大義のために生きなければならないことを重々承知しており、そのために生きる自分であるからこそ、自分という個を大事にするのです。真のリーダーが「私のことを助けろ」と言うのは、「大義のために力を貸してくれ」と言うことと同義なのです。したがって、真のリーダーにとって必要なことは、地位を求める欲望ではなく、そもそも自分の人生の目的とする大義をもつことであり、それを実現するための実行力、忍耐力であり、周りに対しては多くの人々の協力を得られるように、素直に人の意見を聞き入れる柔軟性や謙虚さといったところなのです。

リーダーたる人物に威厳や風格が備わっているのは、そのように立ち振る舞おうとしているというよりは、その人物が、「自分は大義のために存在している」という確固たる自信から自ずと発するものであると考えるべきでしょう。つまり、真のリーダーがまとう威厳や風格なるものは、その人物がもつプライドや自信が、その人の謙虚さによって隠れるように存在しつつ、まさに溢れるようにして表面化して漂うものとなるのです。

これからの人類ひとりひとりは、こうした人物になっていかなければなりません。とても難しいことのようですが、本質は極めてシンプルです。まずはきちんとした大義をもつことです。せっかく、この世に「生」を受けたのだから、いかにしてその命を使っていくべきか、その大義をきちんともっていれば、自ずと眼は開き、道は開かれていくはずです。

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「彼ら」の物語

2007年01月22日 | 社会

あなたは、世界権力の存在を否定しきれますか。

国家権力の闇、国際資本ユダヤの存在、戦争の裏側で暗躍する人々・・・。こんな、おどろおどろしい話を書き始めると、オカルトだといって眉をひそめられるのがオチです。しかし、こうした類の話について、オカルトと決めつけて、頭から否定するのは危険だと思います(「オカルトを作る仕組み」参照)。

いや、むしろもっと真剣に考える必要があるのではないかと考えます。謎やミステリーのようなオカルトの類には、さまざまなタブーも含まれます。しかし、あまり大きなタブーに触れようとすると、命すら狙われるということが、実際にあり得るともいいます。例えば、ケネディ大統領の暗殺。世界の覇権国であるアメリカの大統領が暗殺されたという世界的な大事件の真相が、未だに大きな闇に包まれているという現実が、いかに恐ろしいことか分かるでしょうか。一般人には関係ない話などと、けっして思うべきではないでしょう。それだけの大事件が謎に包まれているということは、それだけ大きなインパクトをもつ秘密が存在する、一般の人々の生活を大きく揺るがす事実が隠さされている可能性があるということでもあるのです(「タブーの検証でみえること」参照)。

だからこそ、ここでひとつ、巨大な世界権力が存在するとした仮説のような物語を考えてみます。

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強大な世界権力は存在する。その中心にいる「彼ら」にとって、国家や資本主義経済などは、単なる道具に過ぎない。「彼ら」は、神秘主義を堅持し、ひた隠しにしている真実の裏で、国家や資本主義といった世界の仕組みを作り、利用しながら、それを遥かに越える壮大な計画を進めているのである。

実は、それには人類の歴史が大きく関わっている。

唐突だが、本来の人類は、宇宙からやってきた地球外生命体だった。地球上で、サルから進化したというのは、まったくのデタラメである(「「進化論」の不自然」参照)。古代文明が突如として表れたり、UFOの存在について語られたりということは、実は本当の話だった(「古代文明の不思議」参照)。真実が暴かれるのを恐れた「彼ら」は、それらを眉唾話にするために、メディアを使って、人々がまともに考えないように仕組んだだけなのだ(「オカルトを作る仕組み」参照)。

宇宙から地球にきた頃の人類は、とても平和的で、地球や地球上の生物とうまく共存できる能力をもった、非常に優れた生物だった。そして、文明も高度に発達していた。ところが、ある大事件をきっかけに、人類の脳の力は著しく弱まり、理性を失い、(今でいう)超能力を失ってしまった。結果として、人類は物質的な欲望を満たすための行動をとるようになり、利己主義がはびこり、互いが争うようになり、遂には殺し合いをするまでに至る。

「彼ら」は、その歴史を知っていた。あるいはさまざまな伝説などから、それらを感じとり、そうした歴史を信じていた。そして「彼ら」は、そんな人類が、このままでは永続できないということも知っていた。そして「彼ら」は、人類がこれからどうすべきかも分かっていた。人類が永らえるためには、かつてもっていた能力を回復し、超人的な存在として生まれ変わることが必要であることを知っていたのだ(「脳力の可能性」参照)。

ヒトラーは、2039年までに今の人類は滅び、代わって「神の人間」と「家畜の人間」に分かれると預言している。預言に確証を得た「彼ら」は、2039年には世界のありようが大きく変わっていることを知り、ケネディ暗殺の真相を明らかにする時期を2039年とした。

それまでに、「彼ら」が「神の人間」となって、支配種として進化できるように準備を進めておかなければならない。地球は、到底今の人類を支え続けるだけのキャパシティを有しておらず、早急にプロジェクトを進める必要がある。「神の人間」への進化には、遺伝子レベルでの人為的な操作が必要であり、これを彼らの特権として守るためには、遺伝子操作が「彼ら」だけに許されるものとされなければならない。そのために、秘密は厳しく統制していくし、それに触れてはならないというルールを作るし、触れようとするものは消していく。

超能力、心霊現象、UFO、占い、予言、オーパーツ、怪奇現象、古代文明、神秘主義・・・、こうしたテーマは、真実ではあるが、これが一般化してしまうと、「彼ら」だけが「神の人間」になるという壮大な計画が露と消えてしまう。だから、これらの秘密については、ひた隠しにしていく。「彼ら」は科学、宗教、国家、経済、メディア、音楽・・・ありとあらゆるものを使って、人々の目を真実からそらしていく。また隠しとおせない部分については、「ウソ」と思い込ませる工作を織り交ぜ、人々を巧みに真理から遠ざける。それは、「彼ら」が自分たちだけの特権を掴むには、どうしても必要な行為なのである。

そして最終的には、富を集中化させ、世界権力を一元化させる。かたちとしては、世界統一国家、統一宗教を創設するのである。アメリカの1ドル札の裏側に記されているという「新世界秩序」という言葉が意味するのは、まさにそうした世界統一体の形成のことである。そして、その支配者層は新しい種である「神の人間」であり、被支配者層が「家畜の人間」となる。そこには種としての分類という、人類の究極的な階層化が伴うのである。

これが現在、世界が向かっている道である。何も知らない無知の一般大衆は、実は今、知らされないまま「家畜の人間」になるべく、生かされているだけなのである。

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さて・・・、これはひとつの物語です。大いに笑い飛ばして、読み物として楽しめばよいでしょう。ただ、もしかしたら真実が含まれているかもしれません。読み手が、こうしたストーリを作り話として、一蹴するのは一向に構いません。

ところで、そう言いたい方々は、これらを完全にウソだと言い切れる材料を持っているのでしょうか。思考停止を起こさずに、全ての事柄について、真剣に検証を重ねていくことは、時にバカバカしく、また勇気がいることでもあります。

私自身、現実がこのように進まないことを心から願うばかりです。

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正義がひとつになる時代

2007年01月19日 | 人生

何が正しいか分からない。正義はいくつも存在する、と言うことがあります。これは事実でしょう。しかし、だからこそ人類の歴史は、戦争の歴史だったといえます。国家や宗教間で異なる正義が生まれ、憎しみ合い、殺し合う歴史を繰り返してきました。

けれども、これからは、今までのようにいくつもの正義が許される時代は続きません。複数の正義が存在することで個人、国家、宗教にそれぞれ異なるエゴが成立してしまい、結果としてそれらのぶつかり合いが争いを呼び、直接的には戦争というかたちで人間同士が殺し合い、間接的には地球環境を破壊することで人類が自滅の道を辿るという、大変危険な状況を生み出しているからです。

正義のなかの正義。これを突き詰めていくと、正義はひとつに収束されていきます。このことは、それぞれの正義が、何のための正義であるかを検証していくことで、明らかになっていきます。つまり、どこまでを対象とした正義なのか、その大きさによって、どちらが正しいかを判断することができるのです。個人にとって正しいことと、集団にとって正しいこと。本来は、両者がイコールでなければなりませんが、必ずしもそれが一致するわけではありません。そこにズレが生じるということは、どちらかが大義であり、どちらかが小義であるということであり、その場合には、より大きなものを対象にしている正義が勝っていきます。

例えば、ひとりの会社員にとってみれば、個人の都合もあるでしょうが、身勝手な言い訳は許されません。即ち、会社員である自分が会社の構成員のひとりである以上、自分よりも会社の目標や正義のために働かなければならないということです。このことは、けっして自分の否定ではなく、そのことで、会社はその個人の存在意義を必然的に認めることとなり、また個人にとってもそのことが生きがいとなって、結果としてその人に幸福感をもたらしてくれるようになるのです。つまり、個人はこうしたことを通じて、自らの確固たる存在意義を感じることができるため、個人は喜んでそのこと(会社の正義)のために存在しようとすることができるようになるわけです。

このことを突き詰めていくと、究極の大義とは何かがはっきりします。

会社員個人よりも会社の正義が勝り、会社よりも業界の正義が勝り、業界よりも国家の正義が勝り、国家よりも人間世界の正義が勝り、人間世界よりも地球の正義が勝り、地球よりも宇宙の正義が勝る。

「あなたは、何のために生きていますか」という問いに対して、「私は会社のために働いています」という人よりも、「私は国のために働いています」という人の方が、責任感や発言にずっと重みがあるし、迫力があります。

つまり、大義は小義に勝るのです。

そして、我々人間、ひとりひとりが、こうしたことを突き詰めて、究極の大義をもって、それに忠実に生きていこうとすれば、国家間や宗教間での争いなど起こるはずもなく、人類が地球でいかに共存できるかを真剣に考えるようになるはずなのです。

先日、核戦争による人類滅亡までの残り時間を示す「終末時計」なるものが、「残り7分」から、「残り5分」になったといいます。針が進められた理由として、北朝鮮とイランの核開発や核拡散への懸念のほか、地球温暖化の進行など、地球環境の変化が挙げられていました。こうしたことは、人類が新しい時代を迎えるにあたり、今後も地球に住み続けられるためには、何かしら変わっていかなければならないことを示唆しているといえます。

人類が変わらなければならないことのひとつには、正義のあり方があります。いくつもの正義が存在し、そのぶつかり合いによる競争や戦争が起こる世界は存続しえないし、存続するとすれば、それは人類の滅亡を意味するほど、事態は切迫した状況にあるのです。今後の人類に未来の可能性を残していくためには、争いごとのない世界を実現していく必要があるし、各自が究極の大義をもたなければなりません。そうしていずれ、正義はひとつに集約されていくだろうと思うのです。

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道具の目的化の危険性

2007年01月17日 | 人生

目的がある人は、それに必要な道具を欲するものです。

-ゴルフでいいスコアをとりたいと思うのであれば、いいクラブセットが欲しくなる。
-異性にモテたいと考えているのなら、おしゃれな服が欲しくなる。
-聴衆の心を揺さぶるような音楽を奏でたいと願えば、自ずといい楽器が欲しくなる。

それぞれの目的には、それに見合った道具を欲するようになります。しかし、大事なことは、道具はあくまでも道具であり、目的を達成させるために存在するだけであり、道具に対する欲求は本質ではないということです。

-いいクラブセットを揃えても、技術が未熟ではいいスコアはとれない。
-おしゃれな服を着ていても、服を着る人間に魅力がなければ異性を惹きつけることはできない。
-どんなに楽器が立派でも、音楽で感動させるだけの技量と心がなければ、聴衆は感動しない。

あくまでも大事なのは目的であり、道具は道具にしか過ぎない。道具を軽んじてよいということではありません。道具は道具であることをよく認識して、それに振り回されず「うまく使え」ということです。道具を揃えたことで慢心をしてしまうことがよくあります。道具を揃えたことで、目的を達成できるような気になってしまう。あるいは、そのことだけで満足感に浸ってしまい、本来の目的を忘れてしまうということがあるということです。つまり、道具の目的化です。

実は、この道具の目的化は、非常に危険な要素を含んでいます。よく言われる「悪魔の囁き」とか「悪魔の誘惑」というのは、まさにこうした道具の目的化をしてしまう人間の弱さをついた心理のことを指していると思われます。

目的を達成させるということは、当たり前のことですが大変難しいことです。いいゴルフでスコアを出すためには技術を磨かなければいけないし、モテるためには自分自身の魅力を高めていかなければいけないし、聴衆を感動させるにはそういう技量のある奏者にならなければなりません。目的となる事柄というのは、それだけ難しく、積み重ねが必要となるため、強い忍耐力が求められます。しかし、人間は弱い存在です。目的を達成させるまでの長い道のりに耐え切れず、何かにすがって助けを求めたくなったりします。道具は、本来の目的そのものではありませんが、目的達成のために必要であることはたしかです。そして、道具は目的よりも簡単に手に入ります。だから、ひとまず道具を目的として考えることで楽になり、その安楽な場所で満足することで、目的を達成したかのような錯覚に陥るのです。これが、道具の目的化であり、道具に心を奪われると結果的に本来の目的を達成できなくなってしまいます。このときの、「道具に心を奪われる」状態こそが、「悪魔の囁き」や「悪魔の誘惑」に負けたときであり、よく言われる「悪魔に魂を売る」ということであると考えるのです。

最高のクラブセットを授けよう。最高におしゃれな服をくれてやろう。最高級の楽器を与えよう。こうした道具の誘惑に負けて、心を奪われると、目的を忘れて道具のために生きるようになってしまいます。「道具があるから、目的は達成できる」と思い込もうとするわけです。そうすると、その人間は道具を使う人間ではなく、道具に使われる人間として生きていくことになってしまいます。

これが悪魔の本質でしょう。悪魔とは人間の弱みにつけこむものです。悪魔は目的を達成できずに苦しむ人間に対して、それに必要な道具を授けます。そして、それを目的だと思わせることで、人間をコントロールしていくのです。悪魔から道具を授かり、弱さを克服できない人間は「道具のおかげで、目的が達成できる」と思い込んでしまい、道具に振り回されながら生きていくことになるわけです。

いまひとつ、別の例を示します。
-人生を幸せに暮らしたいと思うから、人間誰しもお金が欲しくなる。

人生を幸せに暮らすために、お金や名誉が道具として必要な場合があります。そもそもの目的は幸せになることですが、道具であるお金そのものを目的化してしまっている人々が極めて多いのが、今の社会です。他の例と同様、道具であるお金を軽んじてよいということではありません。お金は大事です。幸せに暮らすための道具としては、けっして軽んじることはできません。しかし、それはあくまでも道具として、うまく使いさえすればよいのであって、けっしてお金を目的として生きていては、幸せな暮らしを送ることはできないということです。

幸せな暮らしとは何でしょうか。そもそも、それを考えることから苦痛が始まります。そして、それを知ってから、実践をしようとすると、求める幸せの分だけ、さらに大きな辛苦を伴った人生を歩んでいくことになってしまいます。(「生きがいと幸せ」参照)

だから、ひとまずお金を目的として楽になってしまおうという考え方が、物質社会に生きる我々人類の価値観に大きな影を落としてしまっているのです。

そもそもお金のためだけに生きていくということを割り切れるならば、誰でも大金持ちになることはできると思います。しかし、なかなかそうは割り切れないのが人間です。道具である「お金」を目的とせず、悪魔に魂を売ることなく生きていくのが、人間本来のあるべき姿であろうと思います。

悪魔の誘惑に負けずに強く生きる。

そのためには、ひとりひとりが確固たる人生の目的、大いなる目標をもたなければなりません。そして、その達成のために必要な道具に対しては、あくまでも道具であることを認識しつづけながら、うまく使いこなす強さをもっていかなければならないのです。この問題こそが、今の我々人類ひとりひとりに課せられた最重要テーマのひとつであると思います。

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