学生の頃、師のひとりがよくこういった。外国語でかかれたものを読むときは、翻訳は一切読むな、言語をひとつ介在させると、意味が伝わらなくなる、と。
先週の日曜日、それを確認する出来事があった(今まで書く時間がとれなかった)。
お題は、「釈尊は苦しみを取り除くために解脱することを提案した」である。
この意見にこれまで異論を唱えようとは思わなかったが、違和感は感じていた。釈尊ともあろうひとが、何かこう「下世話な・・・」と思っていた。
というのも仏教での最高の認識の仕方に、「不二」があるが、この「不二」が直接釈尊の教えと呼応しないようにみえていた。釈尊が悟りをえてから最初に語ったといわれる因縁の法にしても、出家する最初の動機、「苦しみ」からの「解脱」にしても、「不二」がかすりもしないようにみえた。
結局よくいわれるように大乗仏教を経て、思索が重ねられた結果、仏教の論理はひとり歩きを始めていたのかもしれない、と思いかけた。
そうしたら「苦しみ」という語は、本来は、Duhkaで、「思いの到っていない、ふたつに分割された状態」というではないかっ。
かの宮坂宥勝氏は、こう解説していた。「悟りとは、二元論を超えることである」と。胸の支えがとれたような気がした。
二元論とは、ものの捉え方で、東西洋を問わず、ものの見方として登場する。世の中の出来事を把捉するのは難しいので、人間は指標を決めて、例えば、頭がいいとか悪いとか、二分法で判断する。しかしそれは、物事のほんの一部に対する考察であり、結局全体がみえていない。苦しみとは、そういう無明、二分法に浸かっている状態を指す。
なるほど、それなら「不二」とも繋がってくる。きっとあの師匠も草葉の影から・・・
って、まだ生きてますからぁ~っ(たまにこれやりたくなる)
先週の日曜日、それを確認する出来事があった(今まで書く時間がとれなかった)。
お題は、「釈尊は苦しみを取り除くために解脱することを提案した」である。
この意見にこれまで異論を唱えようとは思わなかったが、違和感は感じていた。釈尊ともあろうひとが、何かこう「下世話な・・・」と思っていた。
というのも仏教での最高の認識の仕方に、「不二」があるが、この「不二」が直接釈尊の教えと呼応しないようにみえていた。釈尊が悟りをえてから最初に語ったといわれる因縁の法にしても、出家する最初の動機、「苦しみ」からの「解脱」にしても、「不二」がかすりもしないようにみえた。
結局よくいわれるように大乗仏教を経て、思索が重ねられた結果、仏教の論理はひとり歩きを始めていたのかもしれない、と思いかけた。
そうしたら「苦しみ」という語は、本来は、Duhkaで、「思いの到っていない、ふたつに分割された状態」というではないかっ。
かの宮坂宥勝氏は、こう解説していた。「悟りとは、二元論を超えることである」と。胸の支えがとれたような気がした。
二元論とは、ものの捉え方で、東西洋を問わず、ものの見方として登場する。世の中の出来事を把捉するのは難しいので、人間は指標を決めて、例えば、頭がいいとか悪いとか、二分法で判断する。しかしそれは、物事のほんの一部に対する考察であり、結局全体がみえていない。苦しみとは、そういう無明、二分法に浸かっている状態を指す。
なるほど、それなら「不二」とも繋がってくる。きっとあの師匠も草葉の影から・・・
って、まだ生きてますからぁ~っ(たまにこれやりたくなる)