雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

JAZZ

2006-11-09 07:28:59 | 音楽
僕らははかない命を線香花火のように散らせている。

そんな僕らの Mortality を超越しているのが GOD。

GOD は、僕らのように時間の制約を受けない。

しかし人間がそんな普遍を求めて作り憧れるものがある。

ARTである。

時に、GODと同じ普遍性を持つものとしてギリシャやローマの芸術作品(彫刻や絵画、建築など)がある。

こいつらは、人間1人の生を軽く超えるタイムスパンで存在する。

そして僕らはそうした自分の生を超えるARTを作りたいという願いをどこかに宿らせていないだろうか?

となるとひとによって適性が問題になる。

言葉をうまく操れれば、文学作品で普遍を求めるし、絵や彫刻でもできる。

しかしスポーツとか将棋とかは難しい。

羽生は今は強いが、ゆくゆくは中原のように「突撃~」などというのだろうか(絶対いってほしくない)?

ただ将棋の場合普遍とは言いがたいが戦法が残ったりする(藤井システムとか、棒銀とか)。

いずれにしろまず洗練させなくてはならない。

抽出した洗練の極みこそが、普遍への近道のはずだからだ。

が、音楽はそうした道を辿らなかった。

音楽は、19世紀くらいからシートミュージックとして普遍性を持たせられるようになった。

もちろん前提が必要で、パレストリーナが、本来空気中を漂うものであったはずの音を人間のコントロール下に置き、ピアノによって平均律が保たれ、ウィーン古典派によって曲が洗練された。

そうした洗練を背景に音楽がARTに格上げされた。

が、エジソンが蓄音機を作ると、洗練されていない音楽まで記録(普遍化)されるようになった。

と同時に、洗練とは各文化圏で指標が異なるものだということが認識されるようになった20世紀に突入する(ということは20世紀とは究極の洗練がないことをあらかじめつきつけられた時代といえようか)。

と同時に、ヨーロッパで洗練の極みだと思われていた音楽はClassic という一分野に格下げ(?)された。

そして洗練とはある種の理論付けであり、そうした理論付けをすりぬけるNOISEに人間の生命力の源のような、一時的ではあって短いけれども、そんな一瞬の生を光り輝かせる力があることが見出された(したがってClassicは理論上可能な音楽に向かって前衛がつくられた)。

更に、その根源的なデュオニソス的な力を、最低限のアポロ的な力で制御するJazz ができあがった(したがってJazzは絶えずForm を脱皮しつづける)。

Jazz は楽譜を失い、和音を失い、Technology の進歩とともに、NOISEという推進力重視になった。

この部分性というか地方性というか刹那に普遍性を求める仕方は、まさに現代を表している気がする(Faulkner もそう)。

追伸:なんか詩的に書いてみたくなりました。


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