けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

Kyrie Eleison IX / 「聖と俗」雑感(2)

2009年10月19日 | Weblog


元のURL:http://www.youtube.com/watch?v=MygpgMeIRas

Kyrie eleison.
キリエ エレイソン。
主よ、あわれみ給え。
Christe eleison.
クリステ エレイソン。
キリスト あわれみ給え。
Kyrie eleison.
キリエ エレイソン。
主よ、あわれみ給え。

8月18日参照
10月18日参照

「聖(sacer,sacra, sacrum; sanctus,a,us)と俗(saecularis,lis,e)」雑感(2)

 聖と俗の混乱は現代カトリック教会にも起こっているように思われる。聖の俗化、あるいは聖なる世界への俗の侵入とでも言えばよかろうか。聖なる世界に専念すべき聖職者が政治的な問題に深入りし、日本国憲法第九条を天主の掟であるかのごとく、絶対視して、憲法改正の議論を封殺したり、軍備を持つことに反対することなどはその一つの例である。もちろん、聖と俗は切り離されているとか、対立・敵対するものではない。聖は俗に対して天主の掟に反する事柄を指摘し天主の掟に従うように説得する義務がある。例えば、中絶の合法化を立法府が行おうとするとき、カトリック教会はその立法府に対して、天主の第五戒「汝、人を殺すなかれ」を突きつけ、そのことを黙認する国民を啓蒙しなければならない。聖の世界は民主主義、自由主義の世界ではない、国民が民主主義原理である多数決で決めようとも、それが天主の掟に反するならば悪である、と宣言しなければならない。聖の世界はそういう意味で孤高を守らなければならない場合がある。天主の掟に反する俗に迎合、妥協したり、それを黙認したりすることは、聖に関わるカトリック教会の堕落ではなかろうか。「汝等往きて万民に教えよ」(マテオ 28:19)という天主の命令を受けているカトリック教会の教職を放棄するならば、教会はその使命を果たしているとは言えないのではないだろうか。

 しかし、国家が自衛のために軍隊を持つこと、自衛のために戦争が起こることは天主の掟に反しない。平和は大切なものであるが、国家がその存亡の危機に立たされるとき、平和を絶対視すれば、隷属や亡国につながる。俗の世界が多であることは天主が嘉し給うたことである。民族、国家、文化、言語は多であり、力づくでそれを滅ぼすこと、あるいは一にしてしまうことは許されないし、そういうことが起これば、国家は戦争によってそれに対抗することができる。

 俗がいつも、必ず天主に反する、敵対するなどということはない。聖を聖として堅持して天主の第一戒から第三戒を守り、天主の第四戒から第十戒までを厳格に守る俗が人間の理想である。現実はそう生やさしいものではない。アダムとエヴァが禁断の木の実を食することによって天主に背き、そのアダムとエヴァの子、カインが弟のアベルを殺して天主の第五戒に背いていることから見ても、すでに人間の歴史の始めに世界に悪が入って来たことがうかがえる。


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